『寺山修司&谷川俊太郎ビデオレター』


------すごい。
《言葉》を最大の武器とする大詩人ふたりが、ビデオの映像と声と音によって、《言葉》を、その《意味》を、《存在》のすがたを鋭く問い掛けあっていく。

最初の一往復+谷川俊太郎の二度目のビデオまでは、抽象的で曖昧な呼びかけだったものが、寺山修司の二度目の映像から、俄然緊迫の度を高めてくる。


《意味》を確かな姿かたちに象徴させようと突き進み、《《意味》・《無意味》を突き詰めていかなければ、《意味ありげ》に陥ってしまう》と踏み込む谷川に対し、静かに世界を傾け歪ませて、《自分はむしろ、《意味ありげ》の中にこそ、《自分》を見出す》と切り返す、死を目前にした寺山。
谷川俊太郎の若さ、鋭さ、切迫感と、寺山修司の屈折、懐の深さとユーモア、絶望に逃げず、斜に構えつつも陽性のポーズをあえて取るその意志とが、絶妙の合奏となって響いてくる。
あまりに密度の濃い74分に、観ていて興奮せずにはいられないと共に、苦しくもなってきてしまった。


なお、ビデオの内容と、断片的な記憶とメモから書き起こした北村薫の講演のこれに関連する部分とは、色々と食い違う部分があり、その部分をどうしていくかが悩みどころだ。
自分の記憶違いや聞き間違えだと判断できる部分は直せばいいが、北村先生の話の段階で既に実際の映像と離れた内容が離れていた場合、その変容もまた、ある種の表現だと思える。ちょうど、「空飛ぶ馬」の三人娘の童話談義で、高岡正子が語るアンデルセン雪の女王』が、その結末において原作と大きく異なる当にそのことが、鮮やかに彼女自身の姿を示すのと同じように(ちなみに、アンデルセンの原作は、ある種のハッピーエンドを迎える)。

さて、どうしたものだろうか。