「歌舞伎座四月公演/六世中村歌右衛門五年祭」夜の部


本当はもう少し詳しく書いたり、文章を整えたりしたいけれど、最近ともかく時間が無いので、Mixiに書いた雑感を転載(使い分けができてないなぁ……)。
三階最前列中央での観劇(ようするに、無理しなくても花道七三が見える手頃な席)。

『井伊大老

二年ほど前に、幸四郎井伊直弼で観た事があった演目。今回は吉右衛門
大成駒が当たり役にしていたお静の方は魁春

井伊直弼》という《個人》の悲哀を粘っこく描くことが中心となっていたように感じられた高麗屋に比べ、今回の播磨屋は、語られているのは《井伊直弼》という個人の評価云々ではなく、《《今》を必死に生きる、それしかないではないか。後世に知己を求める女々しさを捨てよう。ただ、《今》において己が正しいと信じる、為すべきことを為そう》という普遍的なテーマであることをしっかりと示してくれたように思えた。
流石は播磨屋、と思わされる。

『口上』

背景の書割は、満開の桜に「道成寺」の緑の鐘。

例によって、左團次が愉しい。
勘三郎襲名での放屁ネタに続き(?)、今回の追善&襲名披露の口上では、歌右衛門宅での半裸麻雀の思い出が語られた……。
夏の暑い盛り、麻雀好きの大成駒の家に呼ばれた左團次。健康のため冷房をつけないのが歌右衛門の習慣ということで、もう暑くて暑くて仕方がない。「あなた、それじゃあ、服でも脱いだら」との声に、やれ嬉しや、と早速応じてしまい、上半身裸で打ち続ける左團次。やがて大成駒から一言------「臍、汚いわね」。
……その後、左團次は二度と歌右衛門宅の麻雀に招かれることは無かったという。

また、もはや、そこに座っているだけである種の感動を呼ぶような存在となった又五郎や、秀太郎福助による、深く庇護され、教えを受けた女形二人のそれぞれの口上も聴き応えがあった。初舞台の中村玉太郎(五歳)も可愛らしい。
なお-------ある意味当然でもあるのかもしれないが-------この席に玉三郎はいない。

『時雨西行

西行法師が梅玉、その前に現れる江口の君実は普賢菩薩藤十郎
この夢幻的な存在としての役が、およそ藤十郎という人に似合っているように思えなかった。例えば、以前観た「玉藻の前」で狐の化身を演じても、狐に仮託して《人の情》を演じたのであって、異世界の妖(あやかし)になり切ってみせたのではなかった。そういう芸風の人なんじゃないかと思う。

こういう役なら、それはもう、玉三郎なのではないだろうか。実際、前に上演された平成九年では、江口の君は玉三郎が演じたとのこと。そりゃあそうだろうなぁ。

------なお、念のために書いておくと、私は山城屋、大好き。
勘三郎襲名とはうって変わって、役者の側でも観客席の空気も逆風が吹き荒れているのがありありと感じられた歌舞伎座での藤十郎襲名公演(大名跡中の大名跡の襲名披露なのに、月半ばの日曜で、昼の部を観終わったあとにその日の夜の当日券が楽々買えてしまったくらい、厳しい状況だった)。
そんな中でも、舞台の上で演じられたのは、本当に素晴らしい構成、素晴らしい演技だったと思えた。
曽根崎心中」ではほぼ至近距離(一階最前列の花道内側-----これも定価で手に入った)で観ても時折確かに《若い女性》に見えてしまう恐ろしいばかりの芸に驚かされ、「伽羅先代萩」では、非人間的とも思える《忠義》を強調していくことで、かえってその内に込められた《情》を描き出す優れた演出と芸に惚れこまされた。
なお、《構成の素晴らしさ》というのは、「藤十郎の恋」で偽りの想いを真実と騙り、それを演じ切ることに自ら突き進む役者の姿を描いておいて、「伽羅先代萩」では真の想いを押し隠して《忠義》という観念を演じ切らざるをえない------それまでずっとわが子をそうして育てて来て、わが子はそれを演じ切ったのだから-----役に追い込まれた母を描き、そうして《理》の上での対照を示した後で、更に《理》を越えた超常的な善と悪を体現するそれぞれのヒーローが登場したということ。 見事に《理》を描いた後で、それに留まらない《力》を示してみせたのだと思う。そして、「藤十郎の恋」を藤十郎自ら演じなかった、というのも、《当代の藤十郎が望み、好むのは後者(「伽羅先代萩」)の方向性だ》というメッセージだったのではないかと考えさせられた。

……ともあれ、藤十郎は好きだが、《今回の狂言での藤十郎》は好きではなかった、ということだ。

『伊勢音頭恋寝刃』

仁左衛門がいいのはいつものことだけど------この狂言、万野を演じた福助が久々に------とても久々に------いい出来に思えた。
「さあさあさあさあ------貢さん、暑い時分じゃ」や、「おぉ怖(こわ)、おお怖」というあたりなど、特に愉しかった。この人には、「一本刀土俵入」のお蔦とか、伝法で俗っぽい演技が多い役が似合うように感じる(ただ、お蔦の場合は、《俗》の反面の(茂兵衛にとっての)《聖》も必要で、当時はその面でも良かったと思えたけれど)。
それと、仁左衛門の貢が花道で右頬に血をなすりつけられる場面の凄惨さな美しさが印象的。

……しかし、この話の《よし、刀も折紙も揃った。かたじけない!》という幕切れには、「それだけやりたい放題暴れておいて、それでいいんかい!」などと思わないでもないけれど、そんな細かいこと(?)にこだわってもいいことは一つもなさそうなので、気にせず楽しもうと思った。そういうものなんだろう。


……ちなみに、いつもは渡辺保先生の月評を読んでから観に行っていたのだけれど、今月は珍しくその前に歌舞伎座に行くことになった。それを読む前に自分なりに感想をそれなりにまとめてみるのも初めてとなる。この後、どんな評が出るんだろうなぁ。。。