小川一水小論(?)〜主に『復活の地』などを想定しながら。

復活の地 1 (ハヤカワ文庫 JA) 復活の地 2 (ハヤカワ文庫 JA) 復活の地〈3〉 (ハヤカワ文庫JA)

以下、Mixiに載せた『復活の地(3)』レビューの転載。
そういう事情で、語尾がですます調に……。まあ、いいか。

以下は、『復活の地』という一つの作品について、というより、小川一水という作家についての感想のようなものです。


まず、大前提として、この人の基本的な志向は《箱庭シミュレーション》とでもいうべきものだと思えます。
その目指すところは「条件を単純化し、ある程度理想化した上で、《それでも発生する問題》を検討することで、本質的な課題とそれに向かう上でのあるべき姿勢を考え、描き出す」ことなのではないでしょうか。


故に、その作品全般において、登場人物のほぼ全ては、軍人・技術者・科学者・政治家・ボランティア・官僚といった類型にきっちりと収まるように《あえて》描かれています。
そして、彼らはしばしば------その類型の範囲内で求められる限りにおいて------(一般的な現実の姿よりも)非常に望ましい人物として存在します。
一方で、それぞれの立場や身分、背景にある文化等の設定------その人物を形作る《枠組み》------を超越してしまう大英雄は登場しません。
小川作品に登場する、社会が育成する基本的な類型に縛られる人物たち。その中の何者かが、その既成の枠を越えた存在として描かれるというならば、それは個人としてその鋳型を超えるというのではなく、人々が嵌め込まれるべき新しい鋳型の創出を意味しなければなりません。
そうでなければ、作品の意図そのものが損なわれてしまうからです。


それは何故かというと、その登場人物=望ましい《類型》という存在は、人々が努力によって達成できる、汎用的に想定可能な《目標》だからです。
《それを前提条件としてクリアさせた上で、《それでも》発生せずにはいられない問題を見つめよう。そうしてこそ、人類がその歴史を通じて抱え続けている、より本質的な問題とそれに向き合う姿勢を考えることが出来るだろう》------あえて短い言葉にまとめてしまえば、以上の発想が、小川一水が生み出す作品に共通する基本姿勢だと思えます。


また、描かれる物語の詳細のかなりの部分が、イメージの元となる資料の引き写しのような印象を与えるのも、ある意味当然だと思います。
極論すれば、あくまでディティールはシミュレーションの細かな条件設定に過ぎないので------特にこだわりがあるのであろう、《飛ぶ》ということに関する事柄を除いては。その要素が絡んだ部分は、明らかに描写の躍動感が違うので-------むしろ過剰に文学的な描写などはマイナスに働きかねません。
従って、どの作品でもほぼ変わらない作者の手法は、実に正しいものだと思えます。


……まあ、ようするに、私はこの作家が大好きです。
もう、一つ一つの作品の出来がどうこう以前に、その作品に共通する基本的な姿勢が好きで好きでたまりません。
SFマガジン2006年4月号巻頭の「小川一水氏の心の一冊『日本沈没小松左京」なんて、まさにもう、この人の作家としての在り方をぎゅっと固めて結晶化したような文章だと思えました。
「そうそう、この評とこの人の創作姿勢って、ほぼ完璧に同期してるよね」と思わず頷きながら読みました。


そして、この『復活の地』という作品は、そうした作者の姿勢の結晶とも言える-------『導きの星』や、これらとはまたタイプの違う、小川作品の中で最も正統的なSFらしい作品である『老ヴォールの惑星』と並ぶ-------今までのところの最高傑作の一つだと思います。