横浜にぎわい座「第十二回志らく百席」〜いかにも立川流らしい批評的な視点、現代的な映像感覚の強調に注目。

志ら乃『反対俥』
志らく時そば
志らく『小言幸兵衛』
(仲入り)
ダメじゃん小出(コメディー・ジャグリング)
志らく『お藤松五郎』

左の桟敷席から観劇(にぎわい座の桟敷は段差があって足を下ろせるので、楽でいいと思う。例えば、コクーン歌舞伎の平場席は狭い上に姿勢も辛くなって苦しい……)。
志らく師匠を聴くのはこれが初めて(私が主に行っているのはさん喬、小三治などの会や寄席定席ということで、立川一門とはやや縁遠い)。
全体的にとても満足。勢いのよさと、いかにも立川流らしい批評的な視点、現代的な映像感覚の強調が興味深いと思う。
以下、個別の感想。

------なお、批評的な《理屈》をベースにしている噺家は、聴くほうも色々な仮説や視点を持ちやすい。
あんまり書きやすいのでつい色々と考えてみてしまったけれど、本当はもっと多くの高座を聴いてから感想をまとめてみた方が良かったかもしれない。

志ら乃『反対俥』


『反対俥』は演者によって大きくギャグの味付けが変わり、派手な身振りも伴うダイナミックな噺で、現役の噺家では橘家圓蔵師匠が十八番にしている。笑いを撒き散らしながら疾走する語りの中に、他の噺のパロディが織り交ぜられたりする、自在の芸。
また、一度観た限りだけれど、大汗をかいて跳ね回る喬太郎師匠の『反対俥』も印象深い。
つまるところ、自分の望みどおりに客席を乗せていけ、激しい身振りも交えた視覚的な演出も得意とする、個性的な爆笑系の噺家御用達の演目という印象がある。


で。志ら乃さんの『反対俥』もそうした前例に倣い、賑やかで)この人の個性をぐぐっと前面に押し出して(おそらく------というか、この人も初見なので)ぶつけるような演出だと思えた。
とりあえず、その概略をいい加減な記憶からまとめてみると------


柳の下から暗ーい顔で(乗ってくださぁーーーい……)と手招きするお化けもどき、客が乗るのも待たずに駆け出し始めただただ「速いということに命賭けてますんで」という暴走野郎という二人の対照的な俥屋が登場。


暗い奴は重病人で、「でも、もう治ったんだろう?」と訊けば、「金が足りなくなって追い出されました。仕方ないんで、こうして俥で稼いで、その金もって又戻ります」という頼りなさ。哀れっぽい仕草の中にナンセンスギャグ(例えば、客が乗ると掻き棒ごと浮き上がってしまい「地に足がつきません」)を取り混ぜてみせ、親しみと笑いを誘って来る。


明るい走り屋馬鹿の方は、勢いあるナンセンスで勝負。客の呼びかけも何のその、乗るのも待たずに走り出す。何とか引きとめ飛び乗るともう、速い速い。走れるところなら、道を選ばず飛び跳ね周る。
どこまでも飛ばすスピード感にご満悦の客だが、ふと気づくと、周りはどこかで見た景色。「おぃ、どこに走ってんだ?」「ぐるぐる回ってるんですよ。そっちの方が走りやすいんで」「馬鹿!上野へ行ってくれ!」。


疾走する俥屋、芸者を跳ね飛ばして池に落としたのにも気づかない。慌てた客に「助けに戻れ」と言われた江戸の走り屋、「じゃあ、突っ込みますから、うまく助け上げて下さいよ」と言葉を返す。「?」と客がよく事情がわからない間に、俥は水中へと一目散!
こうなったら勢いで客もがんばる。ぶくぶく空気を吐き出しながら、池の中から被害者の救出に見事成功。そして抱きかかえた芸者の顔をしげしげと覗き込み-------「うわ。水で化粧が落ちたらしなびたばあさんだ。助けなくても良かった」と放り出してしまう。客は客で、なかなかひどい奴のようだ。


そんなこんなで、あれよあれよという間に俥は目的地へ。
「いやー、速かったなぁ。これはご祝儀も弾まなくちゃ」と客が金を取り出し眼を上げると------もう姿がない。「金も受け取らずに走っていくたぁ、大したもんだ」と妙な感心しつつ、客は列車で青森へ。
やがて客が遠く青森駅のホームに降りると、ちょうどそこに威勢のよい、どこかで聴いた掛け声が-------。

といった流れ。
噺全体の勢いに加え、どこか落語家というより、TVの若手お笑い芸人風の愛嬌。そして、芸者の水中救出劇のような漫画的もしくはコメディ映画的な映像的なイメージは、後に出てきた師匠・志らくに通じるところが多いという印象。似合いの愉快な師弟だと思う。

「反対俥」と、二十八年前の落語界のとある大勝負


感想ついでに、『反対俥』という噺にまつわる話題をもう一つ。
およそ三十年近くも前のことだという、二人の若手落語家の対決の話。


時は昭和五十三年十一月。当時の若手落語家の登竜門------今の若手コンビ芸人におけるM-1グランプリのような位置づけだろうか?-----「NHK新人落語コンクール」がその年も賑やかに開催されていた。そこで売り出し中の二つ目・柳家さん光が勝負を賭けた噺がこの「反対俥」。
さん光は見るからに自信満々、TVの画面からでもその覇気が溢れ出してくるような風情。「どうだ、俺が一番面白いだろう」といわんばかりの熱演は客席を沸きかえらせたという。


しかし、その年の栄冠は彼の頭上に輝かなかった。「唖然呆然とし、ついで憮然とし、露骨な大不満を漲らせたさん光の顔は、今でも忘れられない見ものだったな」と聞かされた。
その時彼を破ったのが、「稽古屋」を演じた落語界の若き天才・春風亭小朝。観客のみならず審査員達をもただ絶賛する他なかった年齢に似合わぬ音曲噺の名演は、今でも語り草になっているという。これがそれから怒涛のように続いた小朝の華々しい受賞歴の大きな大一歩となり、その後の彼の歩みは周知の通り。
以上が父に聞いた、丁度私が生まれた年にあったという、今以上に落語が人気を得ていた「演芸ブーム」の中での一エピソード。


ちなみに、私がこの会の後、その足で鈴本の夜席に行くことになったのは、以上の話が思い出されたから。
なぜなら、丁度その時には、その《さん光》がトリを務めていたので。


二十八年前、耐え難い屈辱に臍を噛み、その後の精進を心に誓ったに違いない柳家さん光。
後の柳家権太楼だ。


志らく時そば

工夫を凝らしたくすぐりに満ちた、サービス精神溢れる愉しい高座。
ただ、それぞれ違った意味で、興味深かった箇所が二つ。


一つ目は、代金をごまかした客の手際に感心しての、そそっかしい男の独白。

「あれ、一文が惜しくてやってるんじゃねぇよ。ああやって遊んでいやがるんだ」

いかにも《談志の弟子》と言えそうな、噺の明快な解釈が面白い。
ただ、この演出、「はっきり口に出さずに示せればもっといいのに」と思わされた。


現行の演出で既に強調されている、《最初の客が度々「「俺一流の洒落だ」とおどける、巧みなくすぐりともなっている工夫》に加え、例えば勘定を数え上げる場面の描写で、《スリルをスリルであるがために愉しむ風情を色濃く匂わせる》といった諸々の調整を加えていく。それで、無粋に解釈を解釈として示さなくても、自然に客に悟らせることが出来るのでは。
それが出来なければ演者の負け。あるいは、十分に演者が工夫を凝らして成功しているのに、それが分からなければそれは客の感覚が鈍いということ。それでいいのではないかと思う。
あの口振りでは、「江戸の町人が感心して口をついた言葉」というよりも、「落研所属の大学生がそこまでの噺を聞き、つい連れの友人に話してしまったささやき」といったイメージになってしまう。談志は確かに天才だけれど、何も弟子がその悪いところまで受け継ぐことはないだろう。


批評精神は噺を磨き上げもするけれど、それを粋に噺に溶け込ませずそのまま突き出してしまうと、噺が小さくなってしまうと思う。
談志流の批評的な視点を売りにするというのは、それにあまりについてこれない客を切り捨てることとセットにならざるを得ないのでは。現代的な論理と解釈の切れ味も欲しい、広く浅い一般ウケも欲しい、というのは、突き詰めれば両立し得ない願望ではないだろうか。
例えば、生の高座でも幾度か眼にし、録音でも少しばかり聴いてみた志の輔師匠などは、後者を重視するあまり、《現代的な視点からの鋭い解釈》というより、《現代的感覚への迎合・追従》という罠にはまりこんでしまっているように思える噺も少なくなかった。
個人的には、そういう方向性は勘弁願いたいので、違う方向性を目指していって貰えると有難いと思う。


二つ目は、蕎麦の食べ方。
「食べ方は下手だけど、蕎麦は旨いね」とおどけてみせるくすぐりもあったが、例えば柳家一門が得意とする《写実》の芸とは、およそ描写のコンセプトが違うのが面白い。
一言で言えば、TVの食品コマーシャルのイメージ。例えば、インスタント麺のCMほど「フゥ、フゥ」とやかましくラーメンを食べる人は普通いない。TVのロジックに基づいた誇張表現だ。丁度、それの落語版という感じ。
ちなみに、奔放大胆な高座で知られる喬太郎師匠は、「俺も、こういうところは柳家なんだよなぁ」といつもの口調で(お馴染みの「ごめんね、古典じゃなくて」と同じ口調)こぼしながら、蕎麦やうどんは写実的な仕草で食べてみせる。
ここらへんも、流派の違いということなんだろうか。


志らく『小言幸兵衛』


大師匠・小さんが小言好きだったという話から始まり、まくらで談志のエピソードを大いに語る。
弟子によって描かれる、自分の趣味嗜好や噺家としての高いプライドに常に躊躇無く従っていく談志の姿が爽快。


ただ、映画の製作関係者を集めてのトークショーでひたすら作品を罵倒し続けたという逸話などは、当事者の心情を思うと流石に幾らなんでも可哀想だ。それに、『フェイク』ってそんなにヒドイ映画だったかなぁ……?
更に談志師匠、ただ自ら罵詈雑言の限りを尽くしたのみならず、関係者の懇願を受けて「でも、最後まで見るとこれがなかなか楽しめるんですよ?アル・パチーノの演技が-----」とフォローに入った志らく師匠に、「お前、それ、本気で言っているのか?」と逃げ場無く踏絵を迫ったのだとか。落語家のマクラは面白おかしく脚色して話すものなので、100%そのままに受け取るわけにはいかないのは勿論だが、《あの談志なら》という強烈なリアリティがあるところが凄い。……というか、下手すると、本当に誇張なしの実話だったんじゃないか、これ。
言うまでもない前提だけれど、落語だけでなく、《《談志》として何かを語る以上、対象が何であれ、《表現者》としてこだわっていこう》という姿勢は基本的に尊敬に値するものだ。ただ、このエピソードなんかでは少なからず、ポーズとして露悪的にしているところもあるよなぁ、多分。


さて、前置きが長くなったけれど、『小言幸兵衛』。
これも噺のそこら中にこれでもか、というくらいに詰められたくすぐりの数々がたまらなくおかしい。
「色々考える人だなあ」と、呆れまじりの感心をしてしまわずにはいられない。


特に、最後の客(といっても今日の演出では二人しか出てこなかったけど)の話がその一人息子の話題に入っての一撃はちょっと凄い。

「よぅぅぅぅし!ついに小言の糸口を掴んだぞ。苦労させやがって。」


 (TVの昔ながらの戦隊もののようなポーズを取って)

「 小 言 幸 兵 衛 、 参 上 ! ! 」


……なんだかもう、無茶苦茶やりやがるなぁ。こういうの大好きだよ、チクショウ。
なお、同時にこれが《幸兵衛自身も自分が小言好きなのを完全に自覚していて、わざわざ手間暇かけて粗探しをしてまで小言を言っているのだ》という、これまた明快な噺の解釈に繋がっているのも興味深い。
こうした形で爆笑の嵐の中に解釈を混ぜ込み------観客の方でそうと意識しなくとも------《これはこういう噺なんだ》と伝え切ってしまう手法には大賛成。


また、序盤で二度、「何をそう、黙ってにっこり微笑んでいやがるんだよ!」と幸兵衛の台詞だけで示される、その女房の佇まいがとても嬉しい。口を開けば小言ばかりの幸兵衛にもおそらく色々と愛すべきところはあり、長年連れ添った相方には、今もそれが好きでたまらないのだろう。
ただ、その人物描写がとても好ましいだけに、一人目の客を追い返した後の独白では、「(あぁ、つい調子に乗って、すこーしひどいことをいっちまったなぁ)」という思い入れが色濃く欲しいと------これは完全に自分の趣味で------思えた。そうでないと、あの《小言》だけはあまりに酷い。いかにコミカルに演じられても、不愉快なしこりが残ってしまう。
そこを何とかしてくれてこそ、噺を聴く自分の中でも、幸兵衛を愛すべき人物として感じ取れるのだけれど。

ダメじゃん小出(コメディー・ジャグリング)


芸のキレよりキャラクターで魅せるタイプの愉しい芸人さん。
「次々に繰り出す技の合間合間に自虐的な呟きを吐く」というのが、芸名からも伺われるキャラ立ての大きな要素。
なかでも、二度のジャグリングの失敗(どこらへんまで故意だろう?)の後、「えぇ、ボール投げてるより、拾ってる時間の方が長いですから」とこぼしたのには、ちょっとツボに入ってしまった。
あと、実際に見た人にしか通じない話だが、終盤の「品川!」には、これはちょっとどころでなく大ウケ。いい呼吸だったなぁ、あれ。

志らく『お藤松五郎』


初めて聴いた、すれ違いの悲劇の噺。
旦那持ちの茶屋の看板娘お藤と、幼馴染の元は侍という芸人・松五郎。互いに憎からず思っていた二人が遂に所帯を持つ決心をするが、そこにお藤のパトロンである道具屋・万屋清三郎が現れ、松五郎を激しくいびり抜く。屈辱に震えつつ、その場を立ち去っていく松五郎。
その後、すれ違いの末、《金に惹かれて、昨晩あれだけ言い交わした俺を振りやがった》と激昂した松五郎は自棄酒の勢いで刀を引っ掴み飛び出す。万屋が浮かれ騒ぐ座敷に乗り込み襲い掛かると、押しとどめようとした幇間を二人斬り、清三郎を斬り、入れ違いで自宅へ帰っていたお藤とその母を斬り-------血風吹きすさぶ狂憤の中、サゲらしいサゲもなくそのまま終わってしまう、そんな演目。


圓生の演出では最後に満身の怒りに震える松五郎が家を後にする場面でサゲとなっていたところを、志らく師匠が新たに補足して仕上げてみた噺であるらしい。
最初の遭遇で松五郎をいびる万屋清三郎の陰気な迫力、歌舞伎の「伊勢音頭恋寝刀」(松五郎は男っぷりのいい芸人という設定なので、「籠釣瓶花街酔醒」のイメージではなさそう)を思わせるラストの凄惨さは、それまでの高座とはまた違った魅力で愉しめた。
また、ベースにしたという圓生の高座も、近いうちに「圓生百席」で聴いておいておこうと思う。