夏目房之介『手塚治虫の冒険―戦後マンガの神々』/伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』

手塚治虫の冒険―戦後マンガの神々 (小学館文庫)

手塚治虫の冒険―戦後マンガの神々 (小学館文庫)

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

なぜ唐突にマンガ批評の本二冊に手を出したかというと、森下文化センターでの連続講義「編集者が語るマンガの世界」なるものを聴いてみることなったので。
http://www.ringolab.com/note/natsume2/archives/004424.html
それにもともと、夏目房之介の本は『学問』なんかが大好きでもあったことだし。


で、それぞれ本の感想について。
夏目房之介の一冊は、《どうみてもこのジャンルにおける古典化確定》という代物。
マンガ批評の現在なるものについてはほぼ全く知らないけれど、多分、現時点ですでにそうなっているのでは?
それこそ、手塚治虫の影響がその後のマンガ創作全体に及んだように、その後のマンガ批評なるものに無茶苦茶影響を与えているし、これからも与えていくに違いないんだろう、これは。
作者自身が節目節目で自分の意図と姿勢と、避けたい誤解をはっきりと示しているので、《内容のまとめ》的な感想も不要だし、ただ圧倒されてしまって、それなりに成り立つ《批判的な観方》というのも困難なので、これ以上の感想は特に書かない。というか、書けない。


そして、伊藤剛テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』は------第五章で明言されている通り------そうした夏目房之介の業績を元にした上で、《その先》を目指した本。
夏目房之介以前のマンガに関する言説の貧困さや、今も残るその残滓に対する批判が最終章である第五章までの間に描かれる。その部分では、《マンガを他の分野における批評の単なる応用ではなく、一つの独立したジャンルとして分析していく》という基本姿勢が示される。
別の言い方をすれば、マンガ独自の手法をあるいは図式化し、あるいは要素化してまとめてみせ、評価の軸を提示した上での細部の批評の実例が提示されるということ。
また、映画をはじめとする別ジャンルの表現の影響を語るのみで満足するという《他ジャンルの批評の周縁部》としての扱いに対しては特に詳細な反論を提示し、それが《マンガの表現として》どう変容して取り込まれていったか、それによっていかに《マンガならではの表現》が生まれて来たか、ということを論じていく。


つまるところの第四章までの内容は、ただ単に《私の感性ではこう受け止められるのです》というだけの感想文や、別ジャンルの表現を語る言葉を安易に応用しての安易な《わかったつもり》批評からの明確な脱却を目指す、ロードマップの一例なのだといえるだろう。
そしてその上で、五章では《手塚治虫》に収斂しきらない、「手塚治虫という円環」の外に出ていると思われる《今》のマンガについて、独自の視点から分析を重ねていく。この本ではこの第五章が圧倒的にスリリングだ。というか、《そこを書きたいがために、第四章までの記述があった》といっていいだろう。
帯に寄せられた夏目房之介の推薦文、

「この本で、ようやくマンガ表現論は"現在"に追いついた」

というのも、そういう意味のことを言っているのだと思う。


……ただ、そういうわけで、《本格的なマンガ批評》という産声を上げて間もないジャンルにおける歴史的な意義の大きさというのはよく伝わってくるし、分析の視点の設定やまとめ方の手際の良さにも感嘆させられるのだけれど……《別にこの本を読んだからといって、そこで触れられているマンガにこれまで以上に興味を惹かれるようになるわけではまるでない》というのは一体全体、どういうことなんだろう。