「歌舞伎座五月公演/團菊祭」夜の部〜「吃又」の又平は、「吃りゆえ」に苦しんでいたのだろうか?

■「傾城反魂香」/将監閑居の場
浮世又平 :三津五郎
又平女房おとく :時 蔵
土佐将監 :彦三郎
■上「保名」/下「藤娘」
保名 :菊之助
藤の精 :海老蔵
■「黒手組曲輪達引」
番頭権九郎/花川戸助六(二役):菊五郎
紀伊国屋文左衛門 :梅 玉
鳥居新左衛門 :左團次
新造白玉 :菊之助
三浦屋揚巻 :雀右衛門



一階一桁列センター左端で観劇。

「傾城反魂香」/将監閑居の場

「「傾城反魂香」/将監閑居の場」は、自分が歌舞伎をそれなりの頻度で観に行くきっかけになった、思い出深い演目(2004年6月の海老蔵襲名披露公演。吉右衛門の又平、雀右衛門の女房おとく)。
だが、この日の三津五郎の「吃又」については、例によって渡辺保先生の劇評にあまりに素晴らしく描かれているので、そこに書かれている部分に関してはもう、ひたすら感心するだけで、特に書くことがない。
http://homepage1.nifty.com/tamotu/review/2006.5-2.htm

ただ、今月の歌舞伎ということを離れて、「吃又」という狂言についての解釈を考えると、これはその評にいう、

「その青年が自分の責任でもない吃りのために差別されなければならない」

話なのだろうか、と疑問に思われる。
今月の三津五郎の又平ならば、確かにそうなるだろう。しかし、二年前、吉右衛門の又平を観て自分が頭の中に描いたのは、まったく別の物語だった。


即ち、又平の抱える真の問題は吃りではなく、《全ては己の吃りのせい》と逃げてしまう心が、本来の彼の画才を圧し込め、その開花を妨げていたのではないだろうか。
そもそも、《土佐》の名前や立身出世が、又平という人間の本当の望みだったのだろうか? 違うだろう。もしも心底、彼がそんな絵師だったのであれば、いかに気迫を込めたとしても、画が奇瑞を示すわけもない。
いわば《師にも余人にも認められないのは、全て吃りのため》というのが第一の嘘ならば、土佐の名や出世への執着は、又平がその真の望み------画業をもって余人の及ばぬ名人となる------を偽るために意識せずして塗り重ねた第二の嘘ではなかったか。


そして、師である土佐将監は終始一貫して、又平に正道を説き続けていたのではないだろうか?

思えば、又平を差し置いて先に土佐の名を許された修理之介は、口の上手さや画業と関係のない武功や血筋でそれを得ていただろうか?
もしも、将監が吃りゆえに又平を差別し蔑んでいたというのなら、なぜ、この師は弟子の体にぴったり合う晴れの衣服と大小とを整えていたのか?


そもそも、将監自身、まさに絵師としての譲れぬこだわりを貫き通したことで不興を買い、都を逐われたという人物なのだという。
その師にとって、弟子の画の道の正道を外れた惑乱は、断じて許すわけにはいかないものだったのは当たり前だ。
それが「将監もとより気みじかく」と謡われる抑えきれぬ憤懣となる一方で、彼には同時に、《愛する弟子をあるべき道に戻すには、ここは冷たく突き放すほかない》というハラもある。その両面が、この人物の大きさを示す。
ただ、この将監の人物像は二つの「吃又」においていずれも変わらない。


そんな中、手水鉢に描かれた画が奇跡を起こし、全ては大団円へと繋がっていく。
ここにおいて、二つの「吃又」は全く別の物語となっていく。この技芸神に入る画業が成った理由が、三津五郎吉右衛門では大きく異なって来ているように思われるからだ。


三津五郎の又平の画は、差別に対する悔しさ、弟弟子に対する意地、女房の想い、不甲斐ない自分に対する悔しさ-------そういった諸々の想念が凝縮し、突き詰められた結果、平凡な才しか持たぬ男がただ一時の奇跡を起こしたものだ。
一方、吉右衛門はその全く逆を行く。この時において又平は初めて、今までその身を捉えて来た諸々の雑念を全て断ち切り、ただ一心に画の道と向きあった。そのことにより、浮世又平が本来その身に秘めていた、弟弟子・修理之介にも勝る無類の才が遂に目覚めたのだと思える。


三津五郎の又平も、吉右衛門の又平も、共に大きな喜びを得た------しかし、前者は果たして、この後も《土佐光起》の名の重さに耐えうるだろうか?
彼に再び画の道の極みを表現することが出来るかどうかは、甚だ疑問だと思う。あの一時は彼の中に二度と戻らないだろう。たとえその名は変わろうと、彼の中に棲まう画師は、今も変わらぬ浮世又平------。そう考えてしまうと、彼の身も世もない喜びようは、いささか哀れにも思えて来てしまう。


一方、吉右衛門の又平は、やがて時が経つにつれ、あの時自分が真に得たものが《土佐》の名字よりも、それに相応しい内実であったことを自覚していくことだろう。いまや、彼はまさしく土佐光起、後に土佐三筆の一に数えられる、師をも凌ぐ偉大な画師たる自分を見出したのだから。
これこそ真の大団円であり、そうしてこの物語を受け止めたからこそ、「「傾城反魂香」/将監閑居の場」というのは自分にとって好きにならずにはいられない、この上なく気持ちの良い狂言となった。
ちなみに、こうした仮説だと又平の女房・おとくの役回りが随分と損なものになってしまうが、結局は夫婦のかねてからの望みが叶ったのだから、それで良いではないかと思う。


そして------言わずもがなのことだが------以上のように物語を捉えていくと、この狂言で描かれているのは、別に《画の道》や、《吃り》といったことに限定される物語では決してないと思えてくる。
自ら歩むと決めた道でありながら、そこにある真の問題から逃げ、他の障害に原因を求めてしまうこと。
それは時代も場所も問わず存在する、普遍的な問題だ。


勿論、物語の構造をこうして捉えていくのならば、「逃げて逃げて追い詰められた末の開き直りで、そう都合よく奇跡が起きてたまるものか!」という考え方も出てくる。
更に詳しく、かつ、激しい言葉にするならば------
「ずっと安易な《逃げ》を続けてきた人間が一時思い詰めたからといって、どんな《道》だろうと、すぐに何かが成し遂げられてたまるものか!地団駄を踏みたいような思いを抱え、それでも逃げずに正道を歩み続け、研鑽の年月を重ねる。そうしてこそ、真に輝くような何ものかを掴み、真に偉大な《何者か》になることが出来る。違うか!?」
とでもなるだろう。


私は、そうした求道的な思いを抱き------それを闇雲な行動ではなく、真摯に物事を《認識》することをベースにしつつ-----自ら実践する人に憧れ、尊敬せずにはいられない。
ただ、一方で、ただ夢のような夢に留まらず、現実に繋がる希望としても、《そういうことがあってもいいじゃないか》と思わずにもいられない。
勿論、《ろくな努力の積み重ねもなく、ただ一時の気合と決心で何事かが為されてしまう》ということではない。又平のように、時に自らを偽り、迷いよろめきつつ歩む者が、何かのきっかけによって純化された《時》を得、何事かを成し遂げ、何者かになる。そんなことがあってもいいと思う。
だからこそ、私は私の仮説として描いた「「傾城反魂香」/将監閑居の場」という物語が、たまらなく好きだ。


ちなみに、蛇足になるが、求道の姿勢について《認識》云々の条件がつけているのは、私は「1しか考えずに10行動した末に、当然の結果として大失敗に終わる。そして、そこでようやく2だか3だか考えたことを、まるで100も1000も考えた末に辿り着いた、絶対の真理であるかのように振りかざす」という類の人間が、嫌いで嫌いでたまらないから。
特に、《行動力と妙なカリスマ性だけはあり、しかも、自分が《善意の塊である》と無反省に信じ込んでいるような人間》というのは、古今東西、世の中で一番迷惑な存在であり続けてきていると思う。

保名

幕開けの舞台の効果も美しく、憂いと哀しみに満ちた舞踊-------なのだけれど、この演目、踊りにも清元の音色にも、強烈な催眠効果がある……。昨年三月に仁左衛門が踊った時もそうだったけど、清元の味わいや、所作事の動きの一つ一つの美や象徴される意味を十分感じ取れるだけの素養がない身には、正直言って意識を保ち続けるのが辛い。


で、そのくせに分かったようないい加減なことを書くと、仁左衛門は花道の出から、「この様子ならば、心がいかようにも体から離れて迷いだしそうな……」という放心を表現していたのに対して、今回の菊之介は、常に意識的な苦悩がその顔と体の表情から伺われたという印象。
ただ、「二、三度、観ているこっちが演技でもなんでもない素で《放心》していたくせに、何ごちゃごちゃ書いてるんだろうな?」と自分でも思ってしまう……。

藤娘

海老蔵という人は、よっぽど化粧と衣装に向いた顔と体をしているのか……。
市川宗家、未来の団十郎が「藤娘」。それで冗談にも馬鹿らしくもならず、むしろ------正面からみれば------立ち姿も踊りも実に綺麗、というのは一体なんなんだろう。「この人、こんなことも出来たんだ……」というのが偽りのない正直な感想。
ただ、うなじから背中のあたりが力強さに溢れ、そこに関してはまったくもって《女》に見えなかったり、袖からのぞく手がどうにも大きく見えてしまうのはご愛嬌。

黒手組曲輪達引

(以下、一応ネタバレのため白文字)。
「ツァウストラかく語りき」をBGMに、巨大な矢ガモの着ぐるみに入った菊五郎不忍池から這い上がり、(仲間由紀恵の)「恋のダウンロード」を歌ったのには、音羽ぁ・・・・屋?」といった感じ。
海老蔵の牛若伝次は、観ていて思わずムカついてくるくらいの二枚目ぶり。そこまでの流れにのって、頭に天井から金ダライでも落としてやりたいくらい。台詞は少なくただ黙って立っている時間が長い役だったが、それが呆れるほど絵になる。わずかな台詞も、異様な勢いで鋭く口に出され、場の空気が一気に塗り替えられてしまう。
菊之助の白玉もツンと澄まして、時折舌打ちせんばかりにして菊五郎の権九郎を心で見やる様子がいい見もの。


左團次の鳥居新左衛門は、演じている側も気持ちよさそう。左團次が楽しそうだと、観ているこちらも楽しい。渡辺保先生の劇評だと昼の部の「権三と助十」の家主・六郎兵衛役の評価は手酷いものだけれど、月も半ばの13日に観た時には、夜のこの役以上に調子のよさで、好演に思えた小間物屋彦三郎の松也ともども、気楽なおかしさの中心になっていたと思う。
雀右衛門の豪華な衣装をまとった妖怪じみた揚巻や、最後の菊五郎助六の大立ち回りなど、華やかで陽気に楽しめた狂言