冲方丁『ばいばい、アース』/《ライトノベル》ジャンルの進化

ばいばい、アース〈4〉今ここに在る者 (角川文庫)

ばいばい、アース〈4〉今ここに在る者 (角川文庫)

あー、マズイ。これ、すっごくマズイです。
面白すぎて。あまりに面白過ぎて。これまでの三冊は前振りですか。アレが。あの出来が。
無茶苦茶ですねぇ。といいますか-------そんなのアリかよ!!


大森望の巻末解説から作者の言葉を引けば、


「<かつて読んだトマス・モアの『ユートピア』や、スイフトの『ガリヴァー旅行記』をなど、架空の島や世界、そこで謳われる理想について読み返し、そして数ヶ月後には全ての情報を頭の中から破棄し、一から解体していった》と言う。その一方、実存哲学と現象学を読み漁り、ハイデッガーの『存在と時間』に衝撃を受けて、それが隆慶一郎と結びつく。
<「これでチャンバラをやろう」と決心した。なぜハイデッガーでチャンバラなのか分からないが、「これしかない」と思った>」
とのこと。
……いや、ちょっと待て。なにがどう、「これしかない」なんだ。。
なんだ、その発想。頭おかしいんじゃないか、この人。
これまでの作品や昔のウェブページなんかを観ても、ひょっとしたらそうじゃないかと思ってましたけど。
本当に紙一重の人ですねぇ。。。でも、明らかに紙一重で《天才》だと思えますが(それとまぁ、本ッッッッッッ当に《アリス》好きですよねぇ、この人)。だって、本当に「これしかない」作品になってますし……。


まぁ、このジャンルだと他にも、秋山瑞人猫の地球儀』なんて、あの話、あの設定で《大審問官》やりやがったんじゃないかと疑ってますが。あの『カラマーゾフの兄弟』の。
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いつでも鬼畜な結末を用意しやがる(『イリヤの空、UFOの夏』!)かの極悪作家なら、それくらいやりかねない、と。


……しかしまぁ、そういうハチャメチャ振りも含めて。
ライトノベルって、随分遠いところまで歩んで来てしまったんですねぇ。
文章のレベルとしても、描かれるテーマの思索のレベルとしても……。



思い返せばあの古典的名作、水野良ロードス島戦記』の一巻なんて、文章も思索もはっきりいってしまえば、《素人レベル》のシロモノでした。


いや、当時も大ファンで、今でもあの作品こそは、日本のライトノベル/ファンタジー界隈で素晴らしい歴史的意義を持った作品だったと思いますけど。
自分でも何年も前に、シリーズ全体について結構面倒な文章書いちゃってるくらいですし。
ただ、そういう思い入れはさておき、今『ロードス島戦記』の一巻を読み返せば、あれが色んな要素において《素人同然》の作品だと言うのは、認めざるを得ない客観的事実です(まぁ、《今の》水野良はまた大きく違った意味で、実にもう、どーしよーもない作家さんに成り下がっていると思いますが、それはまた別の話です)。



えーと、あと、田中芳樹銀河英雄伝説』ですか?
《昔のライトノベル》について触れるなら、あれは避けて通るのは忸怩たる思いになりますが、アレについてはもう《可愛さ余って憎さ百倍》とかなんとか、実に複雑に捻じ曲がった感情を抱いている作品なので、ちょっと簡単には書けません。
ちなみに、あの人の作品なら『マヴァール年代記』は素直に傑作です。
それと、『アルスラーン戦記』は微妙。
で、『創竜伝』はクソ作品。-------いえ、現代日本版の《武侠小説》をやろうという意図は分かるんですが。
実際あの人、中国系の小説なんかの解説書かせると本当に素晴らしいです。武田泰淳『十三妹』とかね……。
あるいは、連城三紀彦作品でも解説してくれてればいいんです。スゴイですから。
しかし、話を『創竜伝』に戻しますと-------あまりに下品過ぎますし、その意図ならではの安易愚劣な社会批判をバカ正直に受け入れそうなアホ読者が出てくることに、作者として責任なしとは言わせません。はい、はっきりいってダメです、アレは。


それと、深沢美潮フォーチュン・クエスト』ですとか、藤川桂介宇宙皇子』ですとか、竹河聖風の大陸』だとか。
あとなんだかんだいって無視できない作品として、神坂一スレイヤーズ』とか、まぁ、色々ありますが……。



……なにはともあれ、時代は随分変わりました。
いまや、そのジャンルも、この冲方丁(『ばいばい、アース』のみならず、あの『マルドゥック・スクランブル』の。『マルドゥック・ヴェロシティ』の。『オイレンシュピーゲル』&『スプライトシュピーゲル』の!)だの、『夏と花火と私の死体』で彗星のように現れた、衰えない神童・乙一だの、『猫の地球儀秋山瑞人だの、『十二国記』の小野不由美だの……なんですか、もう、百鬼夜行じゃないですか!!


星界の紋章』もアレは『夢の樹が接げたなら』が書けちゃう人が書いているシリーズですし、同業者からさえ、《ああ、あの原作を書いた》と言われてしまうらしい『涼宮ハルヒの憂鬱』の作家さんもなんだかんだいって優れた方だと思えますし……。



ある程度の《業界》が成立して。
ある程度のお金が流れ込んで。
世間の注目も多少は集まって。
それで《書き手》も《読み手》も共に成熟して。



そうなると、一つのジャンルって、こうまで劇的に変わるものなんですねぇ……。
私は実のところ、あまりマニアックなライトノベルの読み手などではないんですが、それでもここまで一つのジャンルが変貌してしまうとなると、さすがに感慨深いものがあります。


で、なんか凄まじく脱線してしまって、《肝心の『ばいばい、アース』の感想はどうした?》という話なのですが------。
簡単に書けるかよ、あんなん。そんな生易しい作品じゃないですよ、アレ。。。
そういうわけで、とりあえず逃げます。戦略的撤退。すいません、正直ちょっと付き合ってられません。今、そっち方面にあんまり深くのめり込みたくない状況なので。ちょっと他にやりたいこと、やるべきことが多すぎて……。



ただ、それだけだと寂しいので、《ごめんなさい》ついでに、また、かつてのライトノベルファンとして、昔書いた『ロードス島』の感想でもアップしておきます。
……何年前だろう?これ書いたの。ショボイ。呆れるほどショボイ……。
まぁ、いいです。資源は再利用しないと。エコですよ、エコ。
あと、《あのジャンルも昔は酷かった》なんて言うなら、《昔の自分も酷かったです。すみません》と言うのも、ある種の誠意かとも思いました。まぁ、自己満足ですけどね。


それとまぁ、一つだけ言い分けさせてもらうなら。
こういう感想を書いたヤツが、あの『ばいばい、アース』を読んだとき。
色々と感慨に耽らざるを得なかったというのも、なんとなく分かって頂けるのではないかと思います。
だって、『ばいばい、アース』って正にここで書いたような話を、もっともっと、比べものにならないほど深く厳しく突き詰めていった話なわけですからねぇ……。




……以下、多分10年くらい前に書いた文章の再掲です……


水野良ロードス島戦記』シリーズについて。「人と立場」という視点から。


「「おまえの言葉は正論だよ、フレイムの若い騎士よ。だが、世の中にはいろいろな人間がいて、いろいろな考えがある。人々の考えはあるいは矛盾し、あるいは対立している。そして、すべての者が他人を理解しようとは思わぬものだ。それゆえ、自らの考えを推し進めてゆくためには、他人に強制するしかない。そして、そのためには権力がいる。」


スパークは、首を横に振って、黒の導師の言葉を否定しようとした。


「わたしの言葉を否定したとて、何の意味もないぞ、若者。真実とは言葉で語られるものではなく、目の前にあり、五感によって感じられるものだからな」」
水野良ロードス島戦記7・ロードスの聖騎士(下)』より)


「しかし、あいつが本当に立派なのは、物事の真理を見抜いたうえで、表面に見えることだけを大切に生きていくってことだとオレは思う。レイリアの心の傷を理解したうえで、それがどうしました、と澄まし顔で言うような奴なんだ」(中略)「可笑しいことがあれば笑えばいい。怒りたければ、怒ればいい。ひとつの物事にこだわると、その他の物事が曇って見える。しかし、たとえ物事の真理が見えたとしても、それにこだわるあまり物事の表面に見えるものを見失うのは愚かなことだ。・・・・・・ようするに、美人で性格の悪い娘がいたとして、いかに性格が悪くて腹が立っても、その娘が美人だってことだけは認めろってことかな。」
水野良ロードス島戦記3・火竜山の魔竜(上)』、p221より)

「「昨晩のような失敗は二度と繰り返しません。己がなすべき任務を忘れ放棄するような真似は、絶対に・・・・・」
スパークの言葉はパーンに対してではなく、自身に向けられているようだった。まるで生涯の誓いを立てているような趣だった。
汗を拭っていたパーンの手の動きがぴたりと止まった。
「それも、困るな」
「困る・・・・・。なぜでしょうか?」
スパークはパーンの意味するところが理解できず、そう尋ねかえした。
「自分を捨てるなということさ。与えられた任務をただ果たすだけの男にはなるなよ」」
(『ロードス島戦記6 ロードスの聖騎士(上)』、p129より

水野良の作品は、いわゆる「ファンタジー」に分類されます。そう、いわゆる「剣と魔法の世界」というやつです。中には、そう聞いただけで、「もういいや、パス」という人もいるかもしれません。くだらない、子供が読むものだ、と。そう思う人には、一度水野良の『ロードス島戦記』全七巻を通して読んで欲しいと思います(この作品は、通して読んでこそ意味のある作品ですから)。


……さて、妙な前置きを置いてしまいましたが、本題に入りたいと思います。
 


TRPG。テーブルトークロールプレイングゲーム。日本語に無理に訳せば、「机を囲んで、それぞれが選んだ人物の役割を演じる遊び」(何とセンスのない)とでもなるでしょう。数人(4〜6人ぐらいが普通か)で集まり、一人がゲームマスターと呼ばれる、《「司会」兼「審判」兼「神」》(おかしな表現ですが、そうとしかあらわしようがないです)を務めます。そして、後の者は、それぞれ自分が選んだキャラクターを演じます(プレイヤー)。まあ、「戦士」とか「魔法使い」とかです。そして、プレイヤーは、その選んだキャラクターに成りきって、ゲームを行います。たとえば○○神を信じる「神官」のキャラを選んだら、ちゃんと○○神の教義にしたがった行動をとらなければなりません。別に男のプレイヤーが女のキャラクターを選んだっていい(個人的には逆は許すが、それは出来ればやめて欲しいです…)。ただ、その場合にはちゃんと「女」として、考え、行動しなければなりません。たとえば装備にも、実用性を重視するだけではなくて、外観にも気を使う-------顔まで覆う鉄兜をかぶるのは避けるとか--------などにも配慮しなくてはいけません。まさにロール(役割、立場)をプレイする(演じる)のです。


水野良は、そのTRPGを日本に広めることを目的とした、「グループSNE」の中心メンバーであり、その一環として、それをもとに小説を書きました。それが『ロードス島戦記』です。つまり、この小説は、その背景として、「架空の世界を共有した、複数の人間の経験」を持っていることになります。これは特筆すべきことであると思います。それは、「架空の世界」と「人間の経験」、その相互に融合し難い二つの要素、それが鮮やかな結合しているということですから。


ロードス島戦記』は、戦乱に荒れる島、ロードス島を舞台に展開される、「剣と魔法の世界」のお話です。それがどういう世界かを説明するのは難しいですが、次の文から、大体その雰囲気を感じとってもらえるかもしれません。



「ロードスと呼ばれる島がある。


アレクラスト大陸の南に位置する大きな島だ。大陸からこの島まで、船に乗れば二十日あまりの旅になる。その距離のためか、大陸とロードス島の行き来は少ない。ロードス島北西部にある自由都市ライデンの商人たちが、ガレー船によって行う貿易だけが、その少ない行き来のすべてといってよかった。


大陸の住人の中にはロードスのことを「呪われた島」と呼ぶ者もいるという。確かにロードスには呪われたとしか思えないような場所がいくつかあった。「帰らずの森」「風と炎の砂漠」、そして、「暗黒の島」マーモ。忌まわしい怪物どものうごめく地下迷宮も各地にあり、暗黒神ファラリスの教えも根強く信奉されている。


三十年ほど前には、「最も深き迷宮」と呼ばれた魔宮から、強大な力を持った魔神どもが、その封印を解かれロードス中を恐怖のどん底にたたき落としたという事件があった。


魔神との戦いは三年間続いたが、最後には人間や、エルフ、ドワーフ亜人たちの手によって魔神は再び封じ込まれた。今では、その戦いの傷痕も癒え、元の退屈ではあるが平和な日々に戻っている。だが、その事件は大陸にも伝えられ、呪われた島としての風評を確かなものにした。しかし、ロードスに住む人々にとっては、自分たちが住む島がどう呼ばれていようが、それはささいな問題だった、島の人々は自分たちが日々を暮らしてゆくことだけで、結構忙しかったし、もっと深刻な問題をいくつも抱えているからだ。」
水野良ロードス島戦記1 灰色の魔女』より)

その世界で、どういう話が展開されるのか―――そのあらすじを話すことが必要かとも思うのですが、長くなりそうなので省略させて頂きます(すいません)。それで、煎じ詰めれば、どういうテーマでその話しが貫かれているのか、を考えたいと思います(いかにも強引ですみませんが。)


水野良のテーマは、《立場と人》です。一言でいってしまえば、人には《立場》が必要だが、《立場》だけの人間になってはならない、それがこの作品のメッセージです。


水野良の作品には、さまざまな《立場》がでてきます。王、王族、騎士、魔術師、神官、亜人(エルフ、ドワーフといった、人間に似ているが違う種族)、傭兵、部族の長、盗賊、商人・・・・・。それぞれの立場に、それぞれの義務があり、信じるものがあり、誇りがあり、思考の限界があります。


水野良の作品の人物は、皆その《立場》との葛藤の中を生きています。だから、リアルであり、感動的であり、偉大であれるのだと思います。人は完全に「個人」として社会に孤立して生きてはいないし、生きることはできないと思います。「立場を越えた発想」といえば聞こえはいいです。しかし、人は、「個人」としては何程のこともできない人は、《立場》を必要とします。そして必要であるものには、それを保つための義務があります。その義務を果たしてこそ、人はその《立場》を利用して、何事かを為すことができます。「立場を越えた発想」というものはあり得ません。行われるべきなのは、「新たな立場の創造」でなければなりません。


主人公「パーン」。彼は、やがて「自由騎士」と呼ばれるようになります。あらゆる既存の《立場》から自由であり続けた者であるがゆえに、です。逆説的にいえば、パーンは、「自由」という最も難しい《立場》を生きたわけです。確かに人は「個人」として単独では何程のこともできません。しかし、パーンは、様々な《立場》の「穴」を埋めることで、それらの《立場》に捕らわれざるを得なかった人々に、その《立場》としての義務を果たしながら、その限界を超えさせることを可能にしました。


パーンは常にジョーカーでした、あるいは、触媒といった方がより正確かもしれません。彼一人では、大したことでは出来ません。彼はよくあるファンタジーの主人公のような、一人で数百人を打ち倒すような、人間を越えた化物ではありません。それどころか、一人の戦士として卓絶した存在ですらなく、物語中、彼以上の戦士、つまり、純粋な「個人」としての力なら彼を凌駕する人物は何人もあらわれます。彼は戦士として、どうしても勝ちたいと念じていたライバルに、結局勝てないままで終りさえします。しかし、それにも関わらず、『ロードス島戦記』において、パーンというキャラクターの果たす役割は比類のないものであり、物語は彼と、そしてもう一人の人物を最大の原動力として展開します。


彼は常に、様々な動きの「主役」ではありませんでした。いつもパーンが関わる様々な動きの「主役」は、「主役」となるべき《立場》を有する人物達でした。


まず、第一巻で語られる「英雄戦争」。パーンは、魔女カーラによって仕組まれた、二人の「英雄王」、ファーンとベルドの対決と双方の死と王国の崩壊、混乱の時代の継続という劇の筋書きを、多少変更はしても忠実になぞったに過ぎません。第一巻によって語られる「英雄戦争」の主役は、パーンではなく、カーラでもなく、カーラによって踊らされた二人の「英雄王」です。


第二巻で語られる、砂漠に住む対立する二つの部族の抗争と和解、それに関してもパーンはやはり主役ではありません。主役はあくまで対立する二つの部族の長、「傭兵王」カシューとナルディアです。両部族の和解は、カシュー王の意志と、ナルディアの決断によって成りました。パーンが行ったのは、その下ごしらえです。


第三巻より語られる、アラニアの村々の自治独立運動、そして第三巻、四巻を通して語られる、「黒衣の将軍」アシュラムの野望と、フレイム王国の興隆。それらについても、やはりパーンは主役ではありません。前者は、独立を指導する「北の賢者」スレインが主役であり、後者の主役は、対立する二つの国の指導者、「傭兵王」カシューであり、「黒衣の将軍」アシュラムです。パーンは、それらの主役への協力者に過ぎません。


第五巻によって語られる三つの王国の物語。「王たちの聖戦」という副題が示すように、この巻でおこる、三国の復興は、その王たち、「神官王」エト、「竜公子」レドリック、「帰還王」レオナーです。パーンはいずれの場合にも、やはり彼らの協力者にとどまります。


そして、第六巻、七巻によって語られ、この物語のひとまずの幕引きとなる「邪神戦争」。これにいたっては、パーンはほとんど舞台に登場さえしません。ここでの主役は、各国の王たちです。


しかし、それにも関わらず読者は、この物語を動かしていたものが、パーンとカーラという、二人の「個人」であることを感じるはずです。カーラが、事態を動かす《立場》を持つ者、「〜〜王」とか「〜〜将軍」といった者を「駒」として操り、天秤の均衡を保とうとします。それに対し、前者がその「駒」を、「駒」でなくする。その《立場》の限界を超えさせます。


いうならば、『ロードス島戦記』で行われたのは、「《立場》と《人》」の関係についての、異なる思想の間の綱引でした。カーラは、人は《立場》に勝てないと考えます。ある《立場》におかれれば、人はかならずその状況にひきずられた行動をとる、人は《立場》の呪縛から逃れられない―――カーラの行動は、人の《立場》に対する絶対的な弱さを前提にしています。一方、パーンはその反対です。人は《立場》に従いながらも、その限界を超えることができると考えます。人々が持つ《立場》、人々の「今」を完全に否定せず、そこから新しい《立場》を生み出せる、新しい《立場》につなげていけると考えます。


話しが少し、外れますが、水野良のテーマは《立場と人》であると私は書きました。そのテーマは、違う言葉でいえば、《自由の意義》ともいえます。「《立場》にとらわれない生き方」などというものを描いても、《自由》は描けません。《立場》というものを、拘束を描いてこそ、《自由》を描くことができる、そう思います。


話しを戻して、そのパーンとカーラに代表される、二つの思想の戦いはどうなったのか、という問題に帰ります。その問題について考えるには、もう一人の人物について見なければなりません。それはスパークという人物です。彼は『ロードス島戦記』の最後の方であらわれ、パーンに変わり、主人公的位置を占めるようになります。


はじめて『ロードス島戦記』を読んだ時、この「スパーク」というキャラクターが、もどかしくていらいらして、嫌いでした。「なんで水野良はこんな奴をだして新しい話をはじめるんだ」、正直、そんな風に思いました。しかし、今ならわかると思います。スパークを書いて、はじめてパーンが書ききれたのだ、と。また、スパークのような人間が出てきて、はじめてパーンの、パーンの仲間達のやってきたことが意味を持つのだ、と。即ち、彼こそ新しい《立場》を創る者なのです。『ロードス島戦記』の最後に、カーラは滅びました。これは、カーラの思想の敗北でもあります。しかし、それはパーンの思想の勝利をすぐに意味するものではありません。(ちょうど、共産主義の崩壊が資本主義の勝利を意味するものではないように。)なぜなら、自由とは、それだけでは何物でもないからです。その上に何を築けるか。それを託されたのがスパークであり、そのスパークの物語が『新ロードス島戦記』です。このスパークの物語如何によって、パーンとカーラが代表する考えの対立は、この物語の中で、一つの決着を見ると思います。そういう意味でも、現在書かれている『新ロードス島戦記』の展開は、注目です。


追記(註:この「追記」も十年ほど前に書いたものです):


水野良の本は、そのデビュー当初から読んできました。水野良の本の一つの面白さは、作家自身が巻が進むにつれ、急激に成長していったことです。今読み返すと、それがはっきりとわかる気がします