『魔法少女まどか☆マギカ』において、美樹さやかが担った役割は重い

ネタバレ考察です。全編を観終わっていない方は、視聴後に読まれることを強くお勧めします。
以下、数十行開けた後、本文です。


























何よりも"希望や願いが必然的に破滅に繋がる"構造を許せず、それを許さないためにこそ超越的な概念そのものと化した鹿目まどか
その神の如き力を得た存在、全てを救えるはずのデウス・エクス・マキナですら

「さやかちゃんを救うには、何もかもなかったことにするしか」

ないという"必然"を語らざるを得なかった意味は大きい。
それは、美樹さやかとその象徴するものに与えられた、逆説的な極めて高い評価であると私は考えます。
この日記は、それだけの評価が美樹さやかに与えられた意味を探る論考です。



鹿目まどかの願いは、キュウべえことインキュベーターの築き上げた”魔法少女〜魔女エネルギー生成システム”の全面破棄でなく、自らが生ける特異点(シンギュラリティ)と化しての、デメリット部分を移行してのシステム再構築でした。


その眼目は、希望や思いが"必然の"破滅をすることを前提にすることの拒絶。
単に希望や思いの代償を"世界なり社会なり全体の被害"で考えるなら、おそらく新たなシステムの"魔獣"による被害は"魔女"によるものとさして変わらないというか、等価なのでしょう。
鋼の錬金術師』の等価交換の原則によく似た、"代償の伴わない願いは存在せす、その代償は願いに比例する"というルールが世界設定としてあるのだと思われます。
ただ、感情を持つ人間であり、自らも希望と願いを胸に魔法少女になった鹿目まどかには、その代償を"希望や願いを抱いた人間が必然として払う"システムが許せなかった。
魔法少女まどか☆マギカ』における鹿目まどかの物語とは、そういうものであったと思います。


暁見ほむらや他の魔法少女の願いや戦いは、まどかの願いの下、"無駄"にならず幾つもの夢や希望を叶え、救ったと思われますが、その代償の憎しみや恨みも当然に残り積もったのでしょう。それが論理であり、システムです。
繰り返しになりますが、まどかは既存のシステムを新たなシステムに置き換えたのであって、システムを否定したのではありません。
個人の努力や耐乏、情熱で体系となった論理やそれに基づくシステムは覆せない。
一つのシステムを拒むならば、別のシステムを築きあげる他無く、そちらにも新たな固有のリスクや代償が伴うのは必然です。


キュウべえことインキュベーターは、どんなシステム・法則の下にあっても必ず存在する、"論理"の体現者。
なので、選ばれたシステムによってはそれなりに良きパートナーになるわけですね(……ただ、はっきりいって全編通して、感情なく論理を体現してるようには全く見えませんけどね。悪意あるでしょう、どうみても。お前、あからさまかつ立派に感情あるよ!! 例えば『惑星ソラリス』みたいな理解不能さなんて体現できてませんよ。まぁ、そのツッコミはあえて措き、話を進めます)


※ここで、これは3.11以降の日本のエネルギー問題を考える上でも……などと野暮なことも言おうと思えば言えますが、僕はそんなのつまらないので、やりたい他の人がやればいいと思います。

"魔法"を物理法則や運命を超える力といいながら、それは局所的なものであり、全体的には願いと代償は必然的に釣り合う、というのがこの物語の在り方で、その法則は極めて冷徹に貫かれています。


魔女は希望が反転した憎しみと恨みの具現化。ワルプルギスの夜はその極点。
この魔女は三体の笑う魔女を使い魔として繰り出しますが、これはシェイクスピアの戯曲『マクベス』で語られる運命を支配し、「Fair is foul, and foul is fair.(様々な訳がなされそれぞれ趣深いのですが、最も有名な訳は「きれいはきたない、きたないはきれい」)」と歌う三人の魔女からでしょう。正に、反転した希望や願いを象徴するこの魔女に相応しいですから。


そして、魔法と魔法で繰り返された時間と因果の重みと共に、現代文明の一つの結晶である銃火器タンクローリーなどを駆使しして挑む暁美ほむらは、積み重ねられた歴史と文明、科学。そしてそれに込められた、希望や願いの象徴と言えそうです。
ここで(これは推測ですが)最強の魔女ワルプルギスとは、ほむら(達)が力を積み重ねた分、その反転としてそれに応じた力を得る存在だと思うんですね。その構造の中で、そこに至るまでの状況如何に関わらず、ほむらが象徴する過去から現在に至る積み重ねだけでは退けられない。
まどかが象徴する、"新たな未来への希望や願い"は、ほむらが止めても自ら戦いの運命を受け入れることを決して止めず、そして戦いを選んだ時点で未来は失われるか、やがてそこにあった希望の大きさに見合った巨大な絶望となる必然を得るかの二択となる。
"過去と現在"たる暁美ほむらだけが、変わらず取り残される。


こうして魔法少女は各人何事かを象徴し、全体を律する等価交換のシステムの中で、その役割からは逃れられない。
それが『まどか☆マギカ』の世界の描かれ方だと思えます。


ここでようやく本題に入ります。
では、魔法少女美樹さやかは何を象徴するのか。
私は「希望と願いそれ自身に価値を認めるという概念そのものである鹿目まどかが、そうであるからこそ救えないもの」を象徴し、体現しているのだと思います。
つまり、「叶えられない望み」全ての代表です。


美樹さやかは自分が平凡であることに苦しみ続け、幼い頃に見出した身近な非凡、上條恭介への恋慕に全てを捧げる存在として描かれています。
その平凡さの苦悩は、暁美ほむらや、キュウべえがまどかに見せた過去の歴史の動かした魔法少女達(卑弥呼とかジャンヌ・ダルクとか)が体現した、なにか大きなものを変えようとし、実際に先頭に立って変えていける願いと力、自ら非凡たることを望み、引き受けることの反面です。
ここで、非凡・平凡が相対的なものでしかない以上、人間の大半は美樹さやか的なものでしか有り得ません。
それが、論理です。


また、平凡・非凡を問わずとも、より単純に「全てを捧げた思いが、決して叶えられないこともある」ということを象徴するキャラクターだといってもいい。
もしも"必ず願いや希望が叶う"というのならば、そんなものは"願いや希望"だなどとは言えません。
"叶わないかもしれないものにあえて責任とリスクを引き受けて挑む"ものであるからこそ、鹿目まどかが全てを捨ててその価値を守るだけの意味と意義があります。
そして、"希望や願いそれ自体との肯定"とは、"それが叶わなかった場合も含めて肯定すること"、"それによって引き起こされる問題も引き受けること"、そして"叶わないと知りつつも捨てられないという感情の不条理、非論理性も受け入れること"も含めて、初めて成立し得る。
これも、論理です。


どんな夢や希望に支えられたシステムにおいても、それ固有の論理からは逃れられない。
魔法少女鹿目まどかは"希望や願い"を肯定する概念であるからこそ、その概念そのものの抱え込まざるをえない反面を代表する美樹さやかを、本編で描かれたやり方でしか救えない。
神の如きLiving Singuralityといえども、変異させた後の世界を律する論理を、その世界を保ったまま変えることだけは出来ない。
その誠実さにおいてこそ、また、存在せざるをえない"弱さ"の丁寧かつ親身な描写に措いてこそ、『魔法少女まどか☆マギカ』は極めて優れた作品であると思います。
この作品としての誠実さや弱さの描写の巧みさについては以前、10話までの感想でも書きました。
といいますか、その日記では正にそのことを書きました。

まどか☆マギカ」10話迄のネタバレ感想〜「弱さ」の描写の巧みさ。
http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20110410

ちなみに、佐倉杏子が象徴するのは「希望や願いをただ自分のためだけに持ち続けること」の困難さや、「"弱い"人を"救う"ことの難しさ」なのかな、と思いますね。
凶悪な火力と意志とで、人類なり文明なりの過去・現在を象徴する暁美ほむらさんは、未来と希望と願いの象徴たる鹿目まどかさんを救うことがとにかく最優先で、個々の弱い人達を救うのは二の次に成らざるを得ないし"それはそういうものだ"というのもまた一つの描写の誠意と思えます。
そこからこぼれ落ちたものは、佐倉杏子のような存在が地道に努力して拾っていくものなのでしょうね、きっと。


そんなわけで、『魔法少女まどか☆マギカ』は様々な象徴や論理を誠実かつ丁寧に描いた、優れた構造を持つ作品だと思うわけです。
そして、11話12話を経てより一層の不人気が予想されてしまう美樹さやかの重要性を、強く強く主張したいわけです。


従ってこの日記の結論は


「『魔法少女まどか☆マギカ』の作品構造を考えてみると、あなたも美樹さやかの可愛さとその存在の大切さの虜になる」


ということでした。
以上です。
なお、約一名、本日記中で触れられていない魔法少女がいる気がした人は、是非、その人の役割なり象徴なりについて書いてみてくださいm(_ _)m 
正直、あの人、割合都合よくシナリオに使われちゃっているキャラクターに思えて個人的に微妙なんですよね(ぉぃ。

※4/28追記
巴マミさんについて、コメント欄でいろいろご意見を頂き、大変参考になりました。ありがとうございます。
特に、ernestcroftさんの、

巴マミ考察: 彼女はいかにして『魔法少女』になったか」 http://togetter.com/li/128846

は、読むとマミさんをそれまでよりずっと好きになることが出来る、いい考察だと思えました。なるほど。


これを読んでしまうと、「割合都合よくシナリオに使われちゃっているキャラクター」なんてだけ思ってた人は、巴マミさんにごめんなさいしないといけないよね(´・ω・`)
ごめんなさい。そして、『魔法少女まどか☆マギカ』は、少なくともその分、自分が最終回まで観て思っていたよりも、更に素晴らしい作品だったようです。凄いなぁ。

※その他、いろいろと雑感(これ以降は上と比べても、相当いい加減に思いつき書いてますし、気分次第で内容が増えたり減ったりします)。
○QBはホント酷い。
今更10話のことで申し訳ないけれど、

「私は、鹿目さんとの出会いをやり直したい。彼女に守られる私じゃなくて、彼女を守る私になりたい」

の願いの叶えっぷりは実に素晴らしい。


「出会いをやり直したい」
⇒/人◕ ‿‿ ◕人\「一度と言わず、何度でもやり直すといいよ!おまけで、まどか以外ともね!」


「彼女に守られる私じゃなくて」
⇒/人◕ ‿‿ ◕人\「OK、君を誰も守らないし、君の努力は誰も知らないよ!」


「彼女を守る私になりたい」
⇒/人◕ ‿‿ ◕人\「是非是非。やればやるほど、最後に彼女以外がタイヘンなことになるけど、些細な問題だよね!」



お前はどこの『猿の手』かと。


そして、10話の終わりで「コネクト」に繋げて持ち上げておいて、11話冒頭、

/人◕ ‿‿ ◕人\「お手柄だよ、ほむら。キミがまどかを最強の魔法少女に育ててくれたんだ」

から再び「コネクト」を出して落としに掛かって来た構成の鬼畜っぷりには、いろんな街で鬼でも哭くと思いましたね。さすがの虚淵玄


※以下数行、『鬼哭街』ネタバレ含みにつき文字を背景色と同色に。
そう、”こいつ実は生身だぜ、雑魚だ、ヒャッハー、下克上だ!”と襲いかかってみたら、子供扱いであしらわれた末、「……紫電掌だよ」と一撃で充実のかませ犬っぷりで殺されるような。
暗器遣いを待つ道は辛く厳しい。

ああ、ほむほむは隠し持ってはいるけど、暗器というより銃器だね。余裕で重機まで持ち出してたような気もするけど。


○自分がやった論理展開だと、やっぱり美樹さやかさん、不幸!(「スパーク君、不幸!」どころの話ではない)

平凡で報われないからこそ美樹さやかであって、例えば上條恭介という他者に全て託すのでなく自身で「もっと多くの人に」伝うべき何かを見つけたり、単純に上條君に愛されるさやかだともうそれは彼女の望みではない、"それはもはや美樹さやかではない"という話だとすると、自分で展開しておいてなんですが、凄い論理ですねこれ。


また、さやかが非凡の象徴と見た上條君が、実はより優れた才能の群れの中ではごく平凡…とか展開すると、更なる世界残酷物語になりますね。そして、それは物凄くありふれた話でもあります。
でも、上條恭介はきっと、さやかが望みを捧げるに足る天才なのだし、仮に世間的にそうでなくても彼女にとってはそうであれば、それでいいんですよ。そういうものです。はい。


○改めて描写の巧みさ。

まどかを徹底的に”存在自体がレイヤーが上”とした上で、更にその存在に苦労させる。ただし、であるから湿っぽくしつこく描かなくてもさやかに代表される「望みが叶えられない」苦しみ、平凡の辛さ、giftedへの憧れや希望、その反転した憎しみや嫉妬の重みも失わずにいれる。素晴らしい工夫。


○円環!

そう、そして円環から螺旋へだよ。天元突破だよ。別に円環少女メイゼルちゃんでもいいけど。むしろ、そっちか。
円環少女』も『あなたのための物語』(冒頭と、そして最後の一行の衝撃。伊藤計劃『ハーモニー』が好きな人にはとりわけお勧め……でも、そういう人はもう殆ど読んでるか)も素晴らしい作品!みんな、長谷敏司を読もう!
特に"追い詰められた極限の論理と倫理”を読みたい人は、是非!


※『円環少女』あらすじ。
みんな、インキュベーター再演体系の陰謀だったんや!
主人公がロリコン&シスコン&マザコンの三重苦なのも、ロリな小学生ヒロインが第一巻で世界そのものに嗜虐嗜好を認定されるのも、もう一人のヒロインが作者からすら「きずなさん」と呼ばれる暁美ほむらもドン引きの漢の娘になるのも、全裸が正装の世界及び人気サブキャラクターが活躍するのも、他にも概ねほぼ変態しか出てこないのも、みんなみんな、再演体系の仕業だ!よーし、みんな、再演大系の支配から脱するぞ!


あと、別に連想はラブラック=ベルさんがEREHWONをNOWHEREに変えて、なんかいろいろ止揚アウフヘーベン)して『ばいばいアース』するんでも、陽炎・サビーネ・クルツリンガーさんが「克服あれ」するんでもいいかもね。
冲方丁も言うまでもなく素晴らしいよ!!『マルドゥック・スクランブル』のカジノシーンの凄みは語り尽くされている感があるけれど、『スプライトシュピーゲル4』の「世界統一ゲーム」もそれはそれは良いものだよ。『まどか☆マギカ』とはまた随分違うけど、なんだか壮大な"世界を革命する力"な話だよ。


ちなみに、ここらへんの連想例は、大変粗っぽく話をまとめると。


「救済者」なり「英雄」なり「上位存在」なりが、「彼らが背負うなり世話なりする対象に対して、どこまでの責任を負い、どこまで手を出して管理し、どこまで関わり、あるいは立ち去るべきか」という命題になりますね。
また、裏側から「そんな存在になってしまった孤独」と「孤独にしてしまったかつての仲間たちの自責と恐れ」がクローズアップされることも、頻出するパターン。


そこまで話を広げれば、ムアコックエターナル・チャンピオンシリーズだの、『Fate/staynight』のエミヤさんだの、眉村卓の『司政官』シリーズの皆さんだの、その延長の小川一水導きの星』だの、橙乃ままれまおゆう魔王勇者』のLiving Singuralityのお二人だの、もっとそれらの原型となる神話だの、そこらへんの話は概ね好きに引っ張ってこれるのではないかと。
なので、相当面倒な分類や比較を手間暇掛けてやりたいのでなければ、雑談程度に好きな作品適当に挙げる程度が楽しいんじゃないかなぁ。


天地創造(の『アダムの創造』)

まどか母と担任が飲んでるところに掛かってる画、ミケランジェロの『天地創造』(の『アダムの創造』部分)ですねー。


○ところで。


「最も効率がいいのは、第二次性徴期の少女の希望と絶望の相転移」とやらだったわけだけど、そのプロセスを省いた鹿目まどかエネルギー革命以後は、「魔法少女」に限る必要があるんだろうか。「魔法少年」は出て来ないの?
そこで、『魔法少女まどか☆マギカ』の続編なりスピンオフ漫画として『少年魔法士』というのはいいんじゃないかな。作者?なるしまゆりだよ。あの「黙って秘密作るか笑ってケンカ売るかの二択」しかない人生送ってきたレヴィ猊下が、やっぱりアレな人生送ってきた杏子とかマミさんあたりと組んで第二の人生を頑張る、ハートフルストーリーだよ。
予想される欠点は、いいところまで話が進んだ後、いつ完結するやらさっぱり分からなくなることだけども。『原獣文書』のことも忘れてはいない。他のことはともかく、いいから早くアルビレオを幸せにするんだ。


○まどかエネルギー革命後の世界(という与太話)

「ところで」その2。
最終話の"鹿目まどかエネルギー革命"以降、一番効率的なやり方放棄したんですから、その分、魔女にはならないかもしれませんが、魔法少女の損耗率はきっと激増してますよね。
ノーリスクノーコストで革命出来てしまう程、都合の良い世界観じゃないだろうと思いますので。
"希望や思いそのものに価値を認める"鹿目まどかという概念の影響下にある世界では、魔法少女は"魔女となって過去の希望や思いを汚す運命"から解放され、消え行くことが出来ることが重視され、法則となりました(といいますか、まどかさんが毎度毎度力業でそうしてます)。
ならば、バーターとして"抱いた希望や思いを潰そうとする圧力は代償として跳ね上がっている"というのがおそらく妥当なところで、それを以て「新たなシステムの"魔獣"による被害は"魔女"によるものとさして変わらないというか、等価なのでしょう」と言えそうです。


おそらく、人一倍希望と思いに賭けて犠牲を払う魔法少女の終わり方が保護された分、負担は彼女たちに守られる側に回される形で帳尻が取られるのではないでしょうか。
それでもって、黙ってそれに屈したくないのなら、


/人◕ ‿‿ ◕人\「僕と契約して、魔法少女になってよ!」


"鹿目まどかエネルギー革命"後の世界とは、革命以前の数倍数十倍数百倍の割合で魔法少女が生まれ、死んでいく世界なのかもしれません(例の相転移の効率がどれだけ良いのか分からないので、その度合はわかるわけありませんが)。


数を確保するため、また負担の公正化の為には、QBさんもロリ専からショタもいける両刀へと嗜好を広げ、魔法少年にも手を広げることにでもなるのでしょうか。
これが魔法青年はまだしも、魔法中年や魔法老人までご参加願うことになると、微妙ですねぇ。どんな衣装になることやら。
鹿目まどかが偏在し、希望と願いを賭ける魔法少女達を見守る世界とは、かつて守られるだけだった一般の人々にとっては、なかなかに厳しい世界である可能性が高そうです。



あるいは、他の魔法少女の皆さんの代わりに、膨大な効率劣化の部分は偉大なる概念・鹿目まどかさんがエントロピーをなんとかしてくれるのかな?
「それはそれで無いわー」という気がしてしまいますね。
それでは、ディスティ・ノヴァ教授も怒りのあまり口からプリン吹いちゃいますよ。


○空気を読まない余談


この感想がそれなりに評判良く嬉しい。
ただ、『魔法少女まどか☆マギカ』は勿論傑作だけど、


「ここ数年の個人的ベストは『電脳コイル』で揺るがない」


とか言ったら怒られるのかなぁ。
でも、あれは素晴らし過ぎる。
電脳コイル』の感想は随分前のはてな日記、中程のリンクから。
http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20081231


○空気を読まない余談その2


そもそも思春期に求められるのは「成長して大人になる事」であって、「夢と希望を胸に社会だの世界だのの歪みのために現在も未来も全て賭けて立ち上がる」事ではありません。
まして第二次性徴期の少女が歪みに立ち向かうことを「前提として組み込んだシステム」なんてろくでもないものに決まっていますね。
そのシステムの改変を14歳の一人の少女が全責任を追って成し遂げます、というのもそりゃあとってもアレな話ですよ。


構築した世界観全体が実にろくでもないのはそれこそ「いつもの虚淵玄」で、それが仮に「だって、実際に世界ってろくでもねえじゃん」という見地なり、あるいは「そんな理屈じゃなく、ともかくそういうの、心の底から好きなんだよ」ということならそれはそれでもう、そういうもので。


それを前提に「その中での筋の通し方が面白い」という話ですよね、と。
あと、基本、「設定されたキャラクターが設定のまま行き着くところまで行っちゃう」話を描く人で、「バランスの取れた着実な成長」とか描く人ではないと思います。「成長」ではなく、それは「帰着」ですよね、という。


思春期のキャラを中心に描きつつ、まっとうな「成長」を描けてないわけですから、それは片手落ちではあるわけです。
しかし、その落ちている部分も清々しい徹底ぶりなのがまた良いと思います。下手に取り繕ってなくて。


そこで「それでは、アニメできちんと描かれた思春期の成長物語はないの?」という話になるのでしたら、『電脳コイル』が正にそれです。
ただ、それはまた、別の話ですね。
もっとも、「電脳」を「魔法」に置き換えれば、『電脳コイル』はそれこそ魔法少女(少年)モノの王道中の王道と思えますので、『魔法少女まどか☆マギカ』を含む魔法少女アニメの歴史が語られるとき、名前が挙げられない方がむしろ不思議に思えはします。


なお、極めて誠実かつ丁寧な「思春期の成長物語」としては、著作全般において、本格ミステリのロジックと共に「全能感と裏返しの無能感、これを試練にかけることで自分を客観視することのできる視点を獲得する」ことをテーマにしているミステリ作家、米澤穂信の諸作品を強くお勧めしたいところです。
入り口としてお勧めは、<古典部>シリーズ第一作『氷菓』(ネタバレ感想こちらhttp://book.akahoshitakuya.com/cmt/1409449)、もしくは<小市民>シリーズ第一作『春季限定いちごタルト事件』。


また、「やがて死を迎える自分が平凡な、何者でもない者でしかない」ことの苦しみと、だからこその「何者かになりたい」という地団太を踏みたいような思いを描き続ける作家としては、同じくミステリ作家の北村薫先生がいらっしゃいますね
また、北村作品は「叶わなかった望み」に向ける視線の暖かさと誠実さも、他の追随を許しません。
反面として、論理や必然を見据えることによる厳しさと残酷さも兼ね備えているのも掛け替えのない美点です。


北村薫先生は僕が十年来、他を引き離して最も尊敬する作家でもあります。
過去に『ミステリ十二か月』(中公文庫)、『紙魚家崩壊』(講談社文庫)の文庫版解説を、そうした魅力を出来る限り伝えたいと願いつつ、書かせて頂きもしました。
何を措いてもお勧めしたい作家です。
入り口としてお勧めは、『空飛ぶ馬』もしくは『スキップ』。

あと、『まどか☆マギカ』関連は主にtwitterで呟いていることが多いので、もし関心を持って頂けたなら、twitterアカウントhttp://twitter.com/sagara1をフォローでもして頂けると幸いです。はい。

5/12追記。
魔法少女おりこ☆マギカ』1巻ネタバレ感想書きました。

魔法少女おりこ☆マギカ (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

魔法少女おりこ☆マギカ (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

佐倉杏子と『魔法少女おりこ☆マギカ』新キャラの関係は杏子&さやかの関係の悪意ある反復?
http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20110512

この日記、「『魔法少女まどか☆マギカ』において美樹さやかが担った役割は重い」と対になる佐倉杏子の掘り下げなので「おりこ」既読の方やネタバレ気にしない方は是非どうぞ(宣伝)