SFマガジン7月号「伊藤計劃以後」特集が素晴らしい。

伊藤計劃以後」と題した今月号の『SFマガジン』(7月号)が諸々、物凄く面白いんです!!
飛浩隆「零號琴」連載が素晴らしいのはいつもながら当然として、他の特集も異様に魅力的。

S-Fマガジン 2011年 07月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2011年 07月号 [雑誌]

例えば、

○「3.11後のSF的想像力」の冲方丁小川一水長谷敏司の三者三様寄稿。
○先日のSFセミナーでの「上田早夕里インタビュウ」抄録。
藤津亮太『「アニメの想像力』の使い方(特集:伊藤計劃以後/小説外の想像力[アニメ])。
泉信行「野蛮なSF---『進撃の巨人』が「進」むのは、どちらか」(特集:伊藤計劃以後/小説外の想像力[コミック])。

以下、それぞれ軽く感想及び紹介を書いていってみたいと思います。



○「3.11後のSF的想像力」


「3.11後のSF的想像力」と題した、冲方丁(1977年生まれ)、小川一水(1975年生まれ)、長谷敏司(1974年生まれ)といういずれもSF界きっての人気・実力を兼ね備えた物語の綴り手であり、同年代に属する若手作家の三者三様の寄稿が素晴らしく興味深い。


被災した(福島在住だった)冲方丁は「10年後のSF」と題し、自らの経験と怒りをいつもながらの圧倒的な「熱」を込めて語り、この事態を迎えて自分にとっての「SF」が持つべき意義の再確認を行い、その決意と確信を告げる-----この人を見よ。


愛知に住む小川一水は「「「「3.11後」はどこにあるのか」」と題し、まず「継続している事態」に対しての認識の重要性を説く。


長谷敏司は、センセーショナルかつ象徴的な事態に際し「原発事故後の想像力の被災について」と題し、「"頑張って"新しくわかりやすいイメージ」が立てられることを憂い、再建の前に先立つべき「片付け」の必要性を説く。
そして、SFが持ちうる意義に対しての姿勢はやや悲観的で、わかりやすくもなく手間のかかる正しい「技術」への「理解というステップを踏む」必要性を訴える。


正にそれぞれの作風を反映した熱のこもった論で、三作家全員のファンとしてはどれにも惹かれてしまうところです。
ただ、個人的な感想としては、長谷敏司原発事故後の想像力の被災について」は三者の論考の中でも断然完成度の高いものと思えます。
その分、以下、引用を以ての各論紹介に際しては、全文引用でなければ損なわれるものが非常に多いとも思われます。
これでもやや抑えた引用としますが、(勿論、他に論についてもですが!)是非とも原文を読んで下さい。是非。


また、それぞれの作家が、


"僕にとっての「SF」とは「怒り」とは"(冲方
「だいたい「3.11後」ってなんだ?」(小川)
"(SFが語るべき)「想像力」とは何か?"(長谷)


と論の中心に据えた定義や概念について強く意識し説明を重ねた上で論を進める姿に、現代の優れた作家が揃って備えている高い批評性の一端が見て取れるようにも思います。


そして、これはごく個人的な感想ですが、長谷敏司さんの論を読み「自分もやや関心を持って調べてはいた原子力発電や放射性物質について、より理解を深めるべく努力しなければ」と素直に思えました。
以前から反原発を主張していたという論者の中で、数少ない「熱狂や義務感ではなく理性の仕事」が出来る人物であることで高名だったという故・高木仁三郎の著作あたりから読み進めていければと思います。
下記の自伝的エッセイを初めとりあえず三冊(『原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)』『核の世紀末―来るべき世界への構想力 (人間選書)』)読んでましたが、下手な現在のネット上の情報などより、得るものは遥かに大きいと思えました。

※2011-04-16 高木仁三郎『市民科学者として生きる』感想
http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20110416

冲方丁「10年後のSF」

「もちろん怒りは反抗のためにある。そして反抗というのは、つまるところ、自分がそのときたまたま持ち合わせた何かを、別のものと交換してゆくということだ」」

「SFは、僕にとって何より、第四人称の物語のことだ。私、あなた、彼・彼女から、「人類」という人称に至る物語である。それは今や、科学技術によってもたらされた様々な現実の投影であり、未来へ前進する上で不可欠の理解をもたらす光明である」

「ある現実に属する人々にとって、別の現実が存在することそのものが、得体の知れない違和感や、悲哀や、怒りの源となるだろう。
 そして、そうした複数の現実を内包し、ときに一つへと導く物語は、SFにおいて最も力強く生まれるであろうことを僕は今、確信している」


小川一水「「「3.11後」はどこにあるのか」

「だいたい「3・11後」ってなんだ? と旅に出る前から思っていた。東京の人間はそういう言い方をするが、自分の住む愛知県では震災の前も後もない。製造業や流通に影響は出ているが、余震もなければ放射性物質も飛んでこず、人々の顔色や街の風景が変わったわけでもない。日本の西半分は「3・11後」になどないのだ」

と疑問を抱えつつ、

「二〇一一年五月八日の晴れた昼、福島県から宮城県へと、海沿いの被災地をオートバイで走った」

のが、作家・小川一水
いかにも科学的、技術的、実証主義的な作品を描いて来たこの人らしい言動。

「旅を終えて西へ戻った自分が、ただちに「3.11後」のSFを書くかといえば、そうでもない。この代物は山のように大きすぎて、もっと離れなければ全体が見えない。下山できるとも限らない。その場合、自分の書くものはいずれ必ず「3.11後のSF」になるが、そのこと自体を論評できるかどうかはまた別の問題だ」


長谷敏司原発事故後の想像力の被災について」

「未来とは言うまでもなく曖昧なものだ。
 曖昧なものだから、さまざまなかたちで想像力が入る余地を残している。
 だからこそ、SFで架空の未来を楽しむことが出来る」

福島第一原子力発電所の事故より前、原発は未来のモニュメントとして機能していた。
 こうしたモニュメントが用意されていると、一見しただけで特徴的なイメージが読み手の中に浮かぶ(中略)物語のイメージがわかりやすくなるのだ。
 わかりやすさは、だが信頼とも理解とも異なる」

「なぜ不安であり解消を望んでいる人々が、結論ありきで情報を取得するのか(中略)人々が原発原子力利用について考えるとき、頭に浮かぶイメージが、建家が壊れた原子力発電所になっているのではないかということだ。かつて未来のエネルギーのモニュメントとして機能していた原発が(中略)破綻をあらわすわかりやすい"一枚絵"として機能するようになった」

「今、我々はモニュメントを通してイメージを信頼することの危うさに立ち会っている。未来はあやふやなものであり、だからわかりやすさに集まりたくなる。だが、理解を伴わない信頼は、自分の生命にかかわることで誰に説得されるかを選んでいるという、本末転倒な状況を起こしかねない。自分語りを重ねても、技術への信頼を自力で再建することは不可能なのだ。自分の内心のモニュメントに自分で始末をつけるには、今度こそイメージではなく技術を理解する必要がある。
 このモニュメント被災の時代に、新しく作られていくフィクションは人を集め続けるのだろう。イメージの利用から、もう一歩先、現実の技術に理解を広げる作品が存在感を増すようになるのかもしれない。けれど、やはりSFは、わかりやすい楽しさを求めてパノラマを広げ続けるだろう。技術への理解を広めることへの貢献も、読者の興味をかき立てることに留まる場合がほとんどだろう」

「今回の原子力発電所の事故で、未来のモニュメントは、多くの人にとって一度は壊れた(中略)その隣に、"頑張って"新しくわかりやすいイメージを立てるとすれば、いびつな一枚絵をつくることになる。再建の前には、壊れたものを片付ける必要がある。そして、この片付けは、熱狂や義務感ではなく理性の仕事である。起こったできごとを理解し、自分なりの知見を養うことで、モニュメントは初めて片付く。傷跡が残っても、ようやく残骸は片付く。
 未来とはそれでもわかりやすさを求めたくなるほど曖昧なものだ。だからこそ、未来への想像力の被災から、本当に回復するには、どこかの段階では、個々人の原子力発電や放射性物質への理解というステップを踏むよりないのである」


○「上田早夕里インタビュー」抄録


先日のSFセミナーの「上田早夕里インタビュー」抄録。
これは以前、自分でもまとめたけれどhttp://p.tl/R3tc 正式なこちらの出現で役割を終えたと思います。本日夕方に削除しました。


抄録は「当初からの海洋SF志向&プロデビューに至る経緯」及び終わり近くの「青澄を「N」とした意図」が削られているなど個人的に残念な点もありますが、諸々、紙媒体に残る形での抄録として、配慮の行き届いた非常に優れたものと思えます。
個人的にまとめを機にした、十分以上に報われた話もありました。満足です。



なお、『華竜の宮』については本インタビューとは別に、青澄に関してのLocusOnlineの「rebegade」だという評と、

※LocusOnline該当記事「An Overview of International Science Fiction and Fantasy, 2010」
http://www.locusmag.com/Reviews/2011/04/an-overview-of-international-science-fiction-and-fantasy-2010/
の中の「The Ocean Chronicles (Karyu no Miya), by Sayuri UEDA」

それに関連して以前twitterで聞かせて頂いた上田早夕里さんご自身の

「背教者、反逆者、という意味ですね。定められた枠組みや価値観の中で苦悩しつつ、より人間的な道を模索し続け、従えないものに対しては「NO」と言い切る――人間としての弱さや非力を痛感しながらも、強さも忘れない者のイメージです」

というご説明も読者として感慨深いものです。

※関連tweet
http://twitter.com/#!/Ued_S/status/58688873039011840
http://twitter.com/#!/Ued_S/status/58689029121638400
http://twitter.com/#!/sagara1/status/58710990929395713
http://twitter.com/#!/Ued_S/status/58721282556043264
http://twitter.com/#!/Ued_S/status/58721388806152192

このインタビューでされた言及に加え、より多面的な青澄というキャラクター像の理解引いては『華竜の宮』をより能く読むための材料として、掲載しておきたいと思えました。


○「特集:伊藤計劃以後/小説外の想像力


藤津亮太『「アニメの想像力』の使い方(特集:伊藤計劃以後/小説外の想像力[アニメ])


本文冒頭にある通り

「「SF小説外の想像力」というテーマで、アニメについて語ってほしいと編集部から依頼があった。非リアリズム系のガジェットを持つ作品の現在と今後の発展について、近作の『魔法少女まどか☆マギカ』などを取り上げて書いて欲しいという」

ことからの文章。


私見ですが、この論で面白いのは『魔法少女まどか☆マギカ』という作品自体についての論考ではありません。
ゲーム的リアリズム」の文脈からループ設定に着目した読み解きと、「魔法少女と魔女の構造に注目」した成長や大人になることで喪われる「純粋な願い(理想)」に注目した読み解きは、いずれも着実ではあっても特に新鮮味もこれといった深みや凄みが感じられるものでもありません。


特に、ツッコミどころとしては、

「ストーリイ上の重要なポイントは、第十話「もう誰にも頼らない」で明かされた「ループ」構造にある」

ゲーム的リアリズムで鍵になるのは、「ループ」される物語構造と、そのループをループと認識しているゲームプレイヤーの視点も併せ持つ(つまりメタ物語的な)キャラクターの存在だ」

「脚本を全話担当した虚淵玄は、美少女ゲームメーカー・ニトロプラスシナリオライターで、その点からも、「ゲーム的リアリズム」の観点から『まどか☆マギカ』を読むのは正統な読みといえよう」

と一連の「読み」の文脈が提示されているわけですが「その文脈を具体的に『魔法少女まどか☆マギカ』に適用してしまうことについて、随分無頓着なのでは?」という疑問が出てしまうわけです。
それは確かにループ構造を軸に読み解くのならその通りの手法でいいのでしょうけれども?


虚淵玄は確かに主として美少女ゲーム業界のシナリオライターであったわけですが、その業界には珍しく「ループもの」をメインプロットとして扱わない代表作の数々で知られている人であったわけです。
『Phantom -PHANTOM OF INFERNO-』『吸血殲鬼ヴェドゴニア』『鬼哭街』『沙耶の唄』、なんならシリーズ構成や一部脚本に関わったアニメ『ブラスレイター』や、小説『Fate/Zero』なども含めていいですが、それらって「ループ」がどれくらい絡んでますか?


そもそも、一視聴者として『魔法少女まどか☆マギカ』のストーリーを観た時、ループものをあまり重要視する視点は正直大変な違和感を覚えます。
あれは「願いには必ず相応の対価が伴う」作品世界の法則を強調する(←ループでも逃げられないぜ!)ことと、「オトナアニメVol.20」での虚淵玄インタビューから

「この作品の人間としての主人公はほむらになると思うんです。まどかの足取りは、成長とはまた違いますからね」

という視点を引いてくれば”少女のまま経験を重ねさせ「成長」を描こうとした時、ループ設定はとっても便利”というための道具立に過ぎないように視えるわけです。
また、その『オトナアニメ』の特集インタビューでは、虚淵玄はループに関してさらっと言及しているわけで、当然、藤津氏がそれを知らないわけもないのですが。
「そこらへんの解釈は一体どうなっているのだろう?」と疑問に思ったりもしてしまうわけです。


しかし、(これだけ書きたい放題書いておいてなんですが)それらの疑問や批判はさておいて。
この論の妙味は(といっても終始、本文がそう訴え続けているんですが)藤津さんが「アニメの想像力」ということについて、「アニメならではの想像力ってなんだ?」と誠実にそもそもの定義について語り抜いていることにあると思えます。
その具材として『魔法少女まどか☆マギカ』が扱われているだけで、そもそも重点はそこにない(もし依頼の内容が「徹底した作品論」であったならば、この人ならば遥かにずっと踏み込んだ論を展開されたことと確信します)。


藤津さんの論考は「アニメの想像力」というお題目がやれ「ゼロ年代」だの「セカイ系」だのと、定義が実に曖昧にされたまま実にいい加減なご都合主義で使われて使われて使われ抜いて来たことへの優れた反論としても読めると思います。
これはこれで、自分がそういった連中が嫌いで嫌いで仕方がない事から来る、偏った見方かもしれませんが。


これも大変良くまとまった完成度の高い論であるだけに、中途半端な引用は紹介者として忍びがたいものがあります。
結論部分だけを自戒を込めつつ引くことで勘弁して下さい。

「制作年や、題材の新しさだけが、そのアニメが現代的かどうかの基準ではない。むしろ旧作であろうと新作であろうと、「新しさ」は"読み"によって積極的に発見されるべきで、それこそが「アニメの想像力」の果たすべき役割だと思う」


なお、藤津亮太さんには『魔法少女まどか☆マギカ』関連で以前にも朝日新聞での紹介記事について、twitterでいろいろと不躾に伺ってしまったことがありました。

○【魔法少女まどか☆マギカ朝日新聞5/7夕刊掲載のまどマギ評(藤津亮太)の関連tweet
http://togetter.com/li/133271

その際の決して適切とは言えなかった態度を重ねてお詫びさせて頂くと共に、いつか、文脈論メインでない「『魔法少女まどか☆マギカ』という作品自体に関する踏み込んだ論考」をどこかで読むことが出来たら、と願ってやみません。


泉信行「野蛮なSF---『進撃の巨人』が「進」むのは、どちらか」(特集:伊藤計劃以後/小説外の想像力[コミック])


これ、(先程の藤津亮太氏の論考も含め)『SFマガジン』という媒体における「特集:伊藤計劃以後/小説外の想像力」という依頼の上での原稿なわけですね。
その要望にあわせ、導入や各所でSF論・SF史との接続を図りつつも、"「〜以後」という文脈ならば『進撃の巨人』の場合「伊藤計劃以後」より「旧エヴァ以後」としたいですね"と言外に、露骨でないスマートな自己主張を序盤で打ち出してくる手際の良さ。
縦(時間軸)にも横(ジャンル横断)にも広がった多彩な視点と、文章として単純に目を引く切れ味(特に題の巧さと本文との連動)をみせながら「娯楽作品」や「物語」全般に関わる普遍的な話に繋げ、題材に選んだ『進撃の巨人』の魅力の紹介という原点にしっかり着地する、嫌味なほどの隙のなさ。
"進行中の作品"を論じる上で重要な、(まだ)"分からない"ことに対する予防線の張り方。
突然、作者の趣味嗜好を基点に「総合格闘技」における「ガチっぽさ」という意外な視点を導入して来るショーマンシップと、それがきっちり論考に大いに幅を与えるバランス感覚。


「ああ、プロの仕事だな」と思わせてくれる論考です。


○各論本文等から推測される、主にSFの領域外にいると見られている論者に対する執筆依頼についての疑問


この今月号の『SFマガジン』の企画は内容といい執筆者の選択といい、ここしばらくの既刊中図抜けた素晴らしさと思えるのですが、ただ一点、疑問というか抗議したい点があります。
「特集:伊藤計劃以後/小説外の想像力」における各依頼ではせっかくバランス感覚と自らの役割の自覚に優れた論者を選んだのですから、もう少し論者への縛りは緩くしてもいいのでは、と強く思えました。


はっきりいえば、藤津亮太さんにせよ泉信行さんにせよ、かなり依頼の内容と書きたい内容とを、意図的にズラして書いているように見える(書かざるを得なかったように見える)わけです。
その工夫もまた興味深いプロとしての技術と識見を示すものではあるのですが、率直に言って、期待して見たいのはそういう技術ではありませんよ。


付け加えるなら、やはり「特集:伊藤計劃以後/小説外の想像力[演劇]」ということで依頼を受けた佐々木敦さんもこんなtweetをされてますよ……。

SFマガジンが届いてた。特集「伊藤計劃以後」。超気合い入ってる。だがこれはちょっと一言断っておかねば、なんか要らぬ誤解を受けそうな気がしてきたのですが、僕が「演劇」について書いてるのは編集部からの依頼によるもので、特集にかこつけて勝手なことを書いたわけではありません、念のため。」
http://twitter.com/#!/sasakiatsushi/statuses/73009909167431680

一読者として、これだけ執筆者に窮屈に書かせてしまうのは(確かに伊藤計劃作品の革新性および「その後」に与えている影響は大きく素晴らしいものであり、『SFマガジン』こそはそれを強調する責務があるという発想は大いに理解できるとはいえ)「そりゃあ、編集部(の依頼)にかなり問題があるだろ」と思わざるを得ないわけです。
特に「主にSF外が活動領域(と界隈でみなされている)論者」への配慮に、悪意なく欠けるところがあるのではないでしょうか。
それは(むしろ悪意がないならその分更に余計に)良くない傾向に思えるのですが、僕の考え過ぎなのでしょうか。