森見登美彦『ペンギン・ハイウェイ』

ペンギン・ハイウェイ

ペンギン・ハイウェイ

細かい内容云々より何より、自分の子供にも「ぼく」のように育ち、周りに恵まれ、そして出会うべき魅力的な「謎」=あるべき通過儀礼に健やかに向き合い、歩んでいって欲しいと思えた。


また、SFとしてもいい(いや、第31回(2010年)日本SF大賞受賞作だから、当たり前なんだけども)。
以下、そちらの説明。


メメント・モリ"の声を聞いてしまった「ぼく」にとっても読者たる私にとっても愛すべき内気な相棒。
厳格なルールの中で駆け引きし合うチェスを愛する勝気な女の子。

「なにより大切なのは「まず、問題は何か」ということをよく知らないといけない」(p88)

と教える父。
プール水着事件の後、息子の説明を穏やかに聞いた後で

「私は何も思いつかないわねえ。こういうことはあなたの方が得意でしょう」(p159)

と言ってあげられる母。


そんな彼らに囲まれ、支えられ刺激された、知識欲と幼い自尊心の塊の「科学の子」だからこそ出会えた限りなく魅力的な謎。

「「私というのも謎でしょう」お姉さんは言った。「この謎を解いてごらん。どうだ。君にはできるか」」(p43)。

この謎のどうにも分かり得ない部分は、当然に分かり得なくていい。


それは謎にこうも深く向き合える「ぼく」にぴったり丁度合う"ぼくのための謎"であり、それが全てだから。
一方で、その"ぼくのための謎"はとことん作中世界を巻き込むわけだけど、それは「episode4ペンギン・ハイウエイ」でウチダ君が語る、観測者としての人間・自己を概念の中心に据えた、人間原理を押し進めたかのような"自分が死ねば世界は終わる"的な観念の帰結。独我論にとても近い。


つまり、『ペンギン・ハイウェイ』という物語自体が「ぼく」を観測者として中心に据えた、徹頭徹尾「ぼく」の物語であるから。
ペンギンやお姉さんを街の外や海に連れ出すことが出来ないのも、そこは"ぼく"がまだ知らない世界だから。


酷く雑でいろいろ説明すっ飛ばした話で申し訳ないのだけど、正直、これ以上の説明は野暮でかつ、面倒くさい。
SFとしての仕掛けはそういう話なんだと思う。