ホムマドマミアンサヤエントロピー!!(挨拶。カバー裏参照)
魔法少女まどか☆マギカ (3) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)
- 作者: ハノカゲ,Magica Quartet
- 出版社/メーカー: 芳文社
- 発売日: 2011/05/30
- メディア: コミック
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漫画版=ハノカゲ版『魔法少女まどか☆マギカ』もこの三巻で完結。
カバー、カバー裏、折り返し等々含めて思いのこもった良い一冊。
見るべき点は多岐にわたりますが、ここでは主に美樹さやか、佐倉杏子に関しての描写について、アニメ版との差異と意図に着目しつつ書いていきたいと思う。
杏子&さやかの結末にアニメは否定している(公式魔女図鑑の魔女説明「回る運命は思い出だけを乗せてもう未来へは転がらない。もう何も届かない。もう何も知ることなどない」参照)と思えることにあえて抗する独自の1ページを入れたのは、ここまで見事にコミカライズした人(ハノカゲ)によるせめてもの抗議であり、その人だからこそ許される褒章にも見えて楽しい。
ワル夜さんの使い魔の独自アレンジも鮮やかな演出。
なお、さやか関係では「魔女を取り巻くコンサートがバイオリンのみの歪つな楽団(アニメ版)ではなくちゃんとした編成を持つオーケストラのようであるところ」、「魔女自身に杏子に一撃を入れさせるところ(これもまた「断絶」でない一つのコミュニケーション)」にも「さやか贔屓」が感じられ、さやか好きとしては(やや複雑ながら)嬉しいところ。
また、コミック版は概念となった鹿目まどかとさやかの最後の対話でも、独自の演出を行っている。
コミック版はその対話をまどか様の「こんな結果しか残せなくて、ごめんね」という言葉で始めさせる。そこまでされてみて、ああ、そうか、(これはアニメ版でも)その「結果は残した」のだな、と今更気付かされた。そうか、そうなのか。
念のため一応書くと、アニメ版の魔女オクタヴィアは、杏子やまどかは勿論、自身の手が切り落とされたことすら意に介さない。ただただ使い魔の演奏に耳を傾け、末期に縋った幻想の中でさえ背を向けたままの、演奏を終えた彼女の中の上条の影に向かって拍手する。
そこにあるのは最早どうにもならない断絶だけ。杏子の最期の思いも当然に全く届かない。それが先述の魔女図鑑での説明にも明示された作品の条理であり、その歪んだ徹底ぶりが本来の魅力。それは本来動かないし、動かせないものだと思う。
なので、漫画版の例の1ページでの杏子・さやかの救済は魔法少女でもないのに条理をねじまげてしまった、作品への反逆ではある。本来、許されるべきではない。でも「そりゃあそうしたくなるよね」というのは勿論分かる。
あれだけ力のこもったコミカライズにおいて、ハノカゲという作家さんが分かった上であえて行ったことならば、それはもう、別作品、別の創作としてそれで良いのだと思う(先述の「その人だからこそ許される褒章」とはそういう意図で書いた)。それもまた、素晴らしく魅力的なことだから。
更に踏み込めば、ただ忠実なだけのコミカライズでは、さして面白い作品とは言えない。
魔女化の際の魔女文字による凝った演出、三巻の著者(ハノカゲ)の1ページコラムでも触れられていたキュウべえの擬似的・便宜的な表情(感情)描写などの素晴らしさはあっても、それだけでは焼き直しの感は免れない。
基本線として多大な熱意をもって原作(アニメ及びその脚本)をなぞりつつ、敢えて一歩、本来元作品が許さない領域にまで踏み出して(思えば、二巻のさやかのホスト殺しあたりからその兆候はあった)、新たな創作とする。
むしろそこにこそ、この漫画版=ハノカゲ版『魔法少女まどか☆マギカ』の大きな魅力があるのだと思う。
アニメ版『魔法少女まどか☆マギカ』(及びスピンオフ漫画『魔法少女おりこ☆マギカ』)の個人的感想まとめはこちら。
http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20110522
○『魔法少女まどか☆マギカ』関連複数含むtogetterまとめなど。
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