米澤穂信過去作品感想をまとめて再掲

最新刊『満願』レビューをまとめるついでに、読書メーターに散らばって過去作品の感想も整理してみることにしました。
特に感想を書いていない作品もあり、それらは除いています。


以下、対象作品のリストと、各感想へのリンクです。
なお、どれもネタバレ有りですので、未読の方はご注意下さい。

《「古典部」シリーズ》
■『氷菓』
■『愚者のエンドロール』
■『クドリャフカの順番』
■『遠まわりする雛』


《「小市民」シリーズ》
■『秋期限定栗きんとん事件 下』
■コミカライズ版『春期限定いちごタルト事件』(画:饅頭屋餡子)


■『さよなら妖精』
■『犬はどこだ』
■『ボトルネック』
■『インシテミル』
■『儚い羊たちの祝宴』
■『折れた竜骨』


■『ユリイカ2007年4月号 特集=米澤穂信 ポスト・セカイ系のささやかな冒険』
■『野性時代 第56号 特集:ぼくたちの米澤穂信』


古典部シリーズ》


氷菓

氷菓 (角川文庫)

氷菓 (角川文庫)

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/1409449


関谷純の事件と、それを見据え「十年後、この毎日のことを惜しまない」と書いた、手紙の形でしか作中に姿を現さない、主人公の姉・折木供恵の旅を思う。


千反田えるの叔父、関谷実の1967年の事件。その失踪から七年。
折木供恵がまず向かった街は、インドの葬式と解脱の町ベナレス。続いて、彼女は人が様々な形でその生き死にを、そして生き死に以上のものを賭けた闘争の地を次々に巡る。


折木供恵は『さよなら妖精』の<円>の外縁のギリギリ内側、あるいは外縁に張り付いて 外にいる存在だと思います。
奉太郎たちが入り組んだ平面の中で迷い歩く絡み合う物事の流れが、俯瞰で見えるという立場に設定された人間というか、人間というよりももう、そういった視点そのもの。
その姉の旅は「裏付け」ではなく一つの高校を巡る<歴史>に対し、遥かに大きな「歴史の物差し」を示すものと思えます。


あえて言ってしまえば「飛び火」でしかなかった1967年前後(特に1968年にピークを迎えた)学園闘争。
その更にド僻地での非暴力の「優しい英雄」云々とその事件とは、「ニューデリー」から連想される、歴史に巨大な足跡を残したガンジーの非暴力闘争と比べた時、どんな程度のものとして映ってくるのか。


一方、この流れにおいて「ベイルート」からはおそらくは日本を逃れ、そこに蠢き、1972年にはテルアビブ事件という、無理無理に脇から「当事者」を買って出た事件を起こすに至った日本赤軍が連想されるべきかとも。
当時の歴史を動かす力学における辺境での騒動が、いかに当事者資格を欠き、だからこそ焦って凄惨かつ無為に過激化したりもした馬鹿騒ぎであったかを示唆します。


非暴力にせよ暴力にせよ、こんなにも馬鹿馬鹿しかった場違いな辺境の闘争の、そのまた隅っこの隅っこの小競り合いだった。
そんなものに<犠牲>にされて、「下らない駄洒落」でしか悲鳴すら上げられなかったという無念。
人一人の人生とは、時にそんなものだという認識。
その認識の上でなお、「十年後、この毎日のことを惜しまない」と言える存在。だからこそ出来る俯瞰。


でも、こんなに残酷で厳しい認識を示しつつ、米澤穂信は『クドリャフカの順番』において、その無念を、「確かにそんな人物がいたのだ」ということを、悼みを込めて、彼が望まずとも結果として守った<場>-----まさにそれが伝えられるに最も相応しい祝祭の場において、200人の今を生きる人々に伝えさせます。
古典部」シリーズで描かれていったのはそういう物語なのでは、と僕は思います。


読書メーターで「のいマゲ」さんから頂いたコメント)
「『クドリャフカの順番』のコメントも拝見しました。ていねいなお返事、ありがとうございます。「人間というよりももう、そういった視点そのもの」という点、同感しつつ、でも『氷菓』ではその折木・姉の役割が、あまりにも小説内装置っぽいところも気になっていて。『クドリャフカの順番』では姉の役割を分散させることで、そのへんが巧く昇華されていたように思います。『さよなら妖精』は未読につき、これから読んでみますね。あと米澤作品で読みたいのは『ボトルネック』かな」
 ↓


クドリャフカの順番』では姉の役割を分散させることで


そうなんですよね。奉太郎を通じての神の手介入はするんですが、それも、浅いも深いもひっくるめて、多くの人の<期待>とその波紋が織り成す祝祭の<一部>という位置づけで。
階層を成す構図を冷静に厳しくみつつ、しかし、より高みから見れば所詮……で終わりになってしまうニヒリズムにはならない。それがいいと思います。
ボトルネック』もニヒリズムでは決してなく、突きつめることで、ニヒリズムというか、万能感と裏表の妄想からの脱却を指向したものと思われる、興味深い作品です


愚者のエンドロール

愚者のエンドロール (角川文庫)

愚者のエンドロール (角川文庫)

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/1409680


「ほ、ほ、蛍来い」ならぬ、「ほ、ほ、ほうたる(奉太郎)来い」。甘い誘い水は、苦味成分多量混入。
「誰がアクロイドを殺そうが」に匹敵する名文句、道化・沢木口の宣う「別にいいじゃない、鍵ぐらい」に抗して、奉太郎が名づけて「万人の死角」(おお、アクロイド!)を提出したように。
誰かのこだわる何かに<どうでもいい>を投げつけ、投げつけられては返し合う構造が延々描かれる中で、千反田えるの「わたし、気になります」はそれらの<どうでもいい>にしなやかに抗する言葉なんだなぁ、と思う。


クドリャフカの順番

クドリャフカの順番 (角川文庫)

クドリャフカの順番 (角川文庫)

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/1409818
及び、再読。
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/1519933

前作『愚者のエンドロール』で<どうでもいい>の投げつけあいがさんざっぱらぶちまけられた後で描かれるのは、そんな彼らそれぞれにとって<どうでもよくない>ものを地団駄を踏みたいような思いで追い、それでも伸ばした手は届かず、だからこその切実さで抱く<期待>を巡る物語。


そして、いかに望んでもしばしば手は届かないように、幾ら<期待>が切実であったとしても------。
しかし、それでも逃げ切れず、また、失望として捨てられないものこそ本物の<期待>であるからには、そうであったとしても<それでも>と抱えていく他はない。



(※以下、再読時の追加感想)
切実な意図を込めた<期待>を巡る残酷な上にも残酷な話は、実は本当のメインではなくて(そのことは作者もあとがきではっきりと「本書の主役は、とりもなおさず文化祭そのものです」と語っていて)。
本筋は、30年以上の時間を超えて、届くはずもなかったものが届く、とても「いい話」なのではと思う。


その<期待>も巡る騒動も、「氷菓」の大量誤発注をはじめとする多くの意図せぬ過ちも、その場その場の成り行きでの<わらしべプロトコル>やなんやかんやも、そういうの全部をひっくるめて、<カンヤ祭>という祝祭がまるで意志を持つ生き物のように不思議な<もの>の配送を繰り返した結果、30年以上の時間を超えて、届くはずもなかったものが届く。
届くはずもなかったものが他のどこよりもこの<カンヤ祭>をあるべき舞台として、浅いも深いもひっくるめた<期待>たちの熱気が作る雲に運ばれるようにして、それぞれ<期待>を抱いて動いている人々に、200部も届く。
本人さえも、時間的にも場所的にもどうしようもなく狭い範囲にしか届かず、そして送り手にとっても受け手にとっても「下らない駄洒落」という形でしか届けられないまま、虚しく消えて忘れ去られると思っていただろうし、実際、そうなる筈だったのに。


個々の<期待>に関して作者はこんなにも残酷で厳しいのだけれど。
その<期待>の集積は「届かないはずだったメッセージ」を、意図を超え時間も超えて、届くべき場所で、届くべき形で、届かせる。これは、そんな物語でもあって。
となればやはり、「古典部」シリーズにおける悪意や残酷さや厳しさというのはいわば、それらを認識し、受け入れた上での<それでも>というのを描くためのもので、それ自体を目的とするものではないのではと思う。


遠まわりする雛

遠まわりする雛 (角川文庫)

遠まわりする雛 (角川文庫)

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第一〜三作の間を内に含む、一年という時間の中のエピソードを短冊のように差した短篇集。
見せ場は表題作「遠まわりする雛」の千反田えるの「腕を下ろし、ついでに目を伏せて」の呟きかと思う。
「<<紫のひともとゆゑに>>」(北村薫『秋の花』創元推理文庫版p220-221)という一篇。


「手作りチョコレート事件」の二人も含め、散々に遠回りし、せずにはいられなくとも、確かに彼らは「雛」なんだなぁ、と。


《「小市民」シリーズ》

秋期限定栗きんとん事件 下』

秋期限定栗きんとん事件 下 (創元推理文庫 M よ 1-6)

秋期限定栗きんとん事件 下 (創元推理文庫 M よ 1-6)

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/1285244
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/1319631


はっきり作中で言わせていることですが(p211)、当然に予想されるけれど具体的にはまだ見えない壁を前にした無力感の中、諦めようと思いつつ諦めきれない苛立ちを抱えた狼さんと狐さんは、(彼らにしてみれば)当然持つべき苛立ちをあまりに安易に解消しようとする羊さんたちが少し面白く、実のところ少々以上に羨ましくもあり。
だからこそ、羊がその苛立ちに気付きすらせずにそれを試すような真似をしたり、もっと悪いことに分かったと称して彼らの誇りでもある所のそれに土足で踏み込んでしまうと、果てしなく残酷に。
これはそんな話であると思います。


ただ、同じくやはりp211で自覚が強調されている通り、狼、狐、羊という役回りは相対的なものなのであり(それでこその苛立ち、だからこそ脳内狼な羊への激しい軽侮)、特に、この狼さんが狼さんでいられなくなるか、狼の立場を激しく脅かされる物語を読んでみたいとも思います。
次作の冬期限定が楽しみです。
小市民諦めたなら、話の流れ的にそっちに向かわざるを得ないとも思いますし。


なお、「日常の謎」という括り方は個人的に全く好きになれないのですが(あと脱線ですが「円紫さんシリーズ」という呼び方も)、例えば北村薫『街の灯』の桐原道子を見て、振り返ってこのシリーズの小佐内さんを見る時、「米澤穂信は確かに北村薫の系譜に連なる作家なんだろうなぁ」と思えたりします。
更に言えば、このシリーズの<小市民>志向というのは、「織部の霊」(『空飛ぶ馬』収録)の何者かになりたいという「地団駄を踏みたいような思い」と表裏一体のものだとも思えます。



コミカライズ版『春期限定いちごタルト事件』(画:饅頭屋餡子

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/1326383
前・後二巻通じて主役二人の描写がいいコミカライズ。


ただし、勝部飛鳥の描写はいろいろと疑問満載。
「For your eyes only」は「なぜ解けるか」ではなく、「勝部飛鳥にとってなぜ解けないか」こそが焦点。
彼女にとって彼女だからこそ解けるべきである筈の謎が、彼女だからこそ解けないというのが残酷さの核心です。


「穏やかな目鼻立ちの丸顔」(原作)という筈の顔立ちや、内向外向の性格の差異もそうですが、例えば違和感が強いのは絵の題名を口にする場面。
「確か『三つの君に六つの謎を』」ではなく、「こうよ・・・『三つの君に六つの謎を』(原作)の筈。
そして、撮影中ではなく、「そそくさと引き揚げようとしたところ」(原作)に、今思い出したのではなく「今思い出したというような調子で」(原作)口にされるもの。
題だろうとなんだろうと、この画に関することが彼女にくっきり刻まれていないわけがありませんから。
もう時間がなく、謎は解きたい。しかし、自分以外の人間に出来れば《画を託された》自分だけが持つべき情報は出来るだけ渡したくないということなのだと思います。


あと、「はっきりいって邪魔なの」前後も色々違います。
彼女にとってあくまで彼女自身に託されるべきだったのであって、「美術部代々受け継いで」など論外。
だから、「はっきりとかぶりを振った」(原作)ということだと思えます。
それと、漫画オリジナルの回想台詞、「そうだ 勝部さん 一つ頼みを聞いてくれないかな」も気になります。
ここでこの人間は、「勝部さん」と彼女の名前を呼んだのかな?


余談というか蛇足ですが、いわば「For your eyes only」は、米澤穂信版「砂糖合戦」(北村薫『空飛ぶ馬』収録)なんだろうな、と。
あの作品の小説的な焦点は「誰の心にも潜んでいる、ちょっとした悪意」(文庫版解説・安藤昌彦)であるよりも、人が世界に向かって胸を張る、その誇りが理解どころか認識すらされず、土足で踏み荒らされる哀しみですから。
マクベス』の主人公は、魔女たちではなく、あくまでマクベスです。まず、彼の視点から読まれるべきものと思います。


さよなら妖精

さよなら妖精 (創元推理文庫)

さよなら妖精 (創元推理文庫)

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/1411552

他の米澤作品、特に『氷菓』と併せて読むべき本。


語り手守屋路行の、

「お前は、芸術家になりたいのか」
「行きたい」
「……ここでない場所に、ユーゴスラヴィアに連れていってくれ」

と、マーヤの

「……わたしは、政治家になるのです」
「帰ります」
「いつかは、わたしたちユーゴスラヴィア人が、七つ目を造り出すのです」

の明らかな対比の厳しさが肝。
p208で「言葉になる前のイメージ」として描かれる「この円の中にいるそれだけで実は生きてはいける」<円>と、<小市民><古典部>両シリーズの主人公たちの自己認識世界認識の繋がりが興味深い。


そして、翌年書かれた『クドリャフカの順番』を読み、作中人物を通じて作者における「期待」というものの意味合いを語られた後では。
p283「わたし、期待します」の「期待」という言葉の重みは当然にずっしりとしたものとなる。


『犬はどこだ』

犬はどこだ (創元推理文庫)

犬はどこだ (創元推理文庫)

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/1415183

村上貴史の解説、特に『氷菓』『さよなら妖精』を例に挙げ本作にも踏み込む、「外部への意識」を取り上げた下りに頷くことしきり。
あと、解説にもある通り国内外の多くのミステリを意識した作品という中で、犯人の造形と結末、そして英題『THE CITADEL OF THE WEAK』に、北村薫『盤上の敵』、宮部みゆき火車』への一つの返歌を見ます。
そして、正直、三者の中で、実は一番共感あるいは納得出来るものだとも思えます。
<許されるも何もあるか>ということであるし、<自分を捨てる>こともするものか、と。


ボトルネック

ボトルネック (新潮文庫)

ボトルネック (新潮文庫)

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/1424525

目に映り思い考える限りの事象全てのボトルネックになるというのは裏返しの<万能>であって。
表同様裏も青春の渦中であるがゆえに抱くある種の妄執で、折り合いをつけていくべきもの。
更に実際に特定の場合で事実としてボトルネックだったとして、<ボトルネック>の象徴であるイチョウが「切られたせいで交通量が増して、特に朝夕はひどくひやひやする道に」(p230)なって、ノゾミを絶つ道具として捻れた悪意に使われようとしたりもする。
自己愛の投影であれなんであれ、望みを守ろうと思えば想像と意志と行動が常にとはいわないまでも概ね必要となる。


それでもって、そちらへ舵を切るきっかけは、怒るという「自己主張の方法のひとつ」(p14)からでもいいし、もっといえば怒りは演技であってもいい。きっかけとできるならば、それでもいい。
中学一年の時出来ず、サキが中学二年の時にやってのけたことを、遅まきながらやってみることから始めるのもいい。
時期遅れだけに結果は当然ずっと芳しからぬものにはなろうとも、何かの始まりにはなる。


そして、「メールの発信者は誰か」という問題がある。


メールは良い子な「ぼく」こと「リョウ」に状況に逆らって自分で決めたと思わせるための巧みな誘導で、それまで同様、また見事に救ってみせたのではないかとも思う。
「生きろ」といわれて受け入れたというのでは、あんまり状況が変わらないし。ノゾミのかすれた声(p123の「かすれた声が平板にいった」声のリフレイン)に誘われて逝くことには惹かれても、「兄の後追いなんてまっぴらだ」(p7)くらいは思うのだから、「二度と-----」と言われて、はい、そうですか、とはいかないくらいの感情と意志はあるだろうし。


以上のような視点からは『ボトルネック』という作品が指し示すのは「明るい」「前向きな」ものなのではないかと思う。


ただ、もしこの小説に「黒さ」を見出すとするなら。
それは例えば折木奉太郎が姉の掌の上でいいように操られたり(『氷菓』においても、『愚者のエンドロール』では入須冬実を直接の操り手としつつ、その裏ではやはり折木供恵がいた)したように。
あるいは、それ以上に。
「『ボトルネック』のリョウは最後の最後も"自分の意思で他人の押しつけに反して決断した!"と信じさせられつつ。
その心の動きまでも含めて、そこに至ってもいいように操られていたのでは、ということかと思う。



インシテミル

インシテミル (文春文庫)

インシテミル (文春文庫)

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/1432700

mixi日記に書いたものを転載。


なんだかいろいろ面倒な構造していると思えたので、とりあえずざっと思いつくままにメモします。


さよなら妖精』で示された、

「この円の中にいるそれだけで実は生きてはいける」
(『さよなら妖精』p208)

<円>の外に舞台を設定、日常、常識の方を思いっきり<従>と出来る環境とした上で、<俺にはわかるこの構図の認識が出来ていない連中はどうでもいい。>&<ヤツは構図は認識出来ている同類だが、俺より下だ>の組み合わせのぶつけ合いを好き放題、正に「淫してみる」という具合にぶちまけまくっているゲーム小説。
クローズド・サークルの条件の中で、常識的な<当然の目的>、目的のための<当然の条件と行動>、状況に関する<当然の認識>が余りにも異なるように配置された十二人。
それらの目的、条件、認識をざっと箇条書きしてみると、構造が分かりやすいかと思えます。


まず、目的3つ。


「1.生き残る」
「2.ゲームの報酬」
「3.ゲームとして成立させない」。


その目的のための、条件と行動3つ。


「4.可能な限り助け合うべき」
「5.疑惑は論理的に読み解かれ、解決されるべき」
「6.各人の不安や恐怖をお互い斟酌して行動すべき」。


それらの目的、条件・行動の前提となる認識8つ。


「7.生命は尊重され悼まれるべきもの」
「8.何をせずとも報酬は十分以上」
「9.現実に人をゲームの手駒とするなど許し難い」
「10.ゲームとして成立させる必要性はどこにもない」
「11.主催者は我々を高みから見下ろしている」
「12.出来るものなら主催者の意図をぶち壊してやりたい」
「13.ルールに則り派手に成功すれば、このゲーム以外では到底届き得ない巨額の報酬が得られる」
「14.主催者の説明は実に不十分で、なにもかもさっぱり分からない」


各人物は各項目について、常識から外れることでそれを俯瞰できる認識を持てていると思うと、常識に囚われている面々への優越感と、同種の認識を持つ人間への近親憎悪(<しかしヤツより俺の方が上だぜ。そうである筈だ>といった感覚)を抱きます。
そして、各項目の常識を十分持ち合わせないと、持ち合わせている人間の反発や軽蔑を買うという構造です。


そして、某キャラクターの特権性は、全項目の<常識>をわざわざ足蹴にするまでもなく、踏み敷いてしまっているところにあります。


なお、最初の犠牲者と用意された<名犯人>の背景がろくに描かれないことからも明らかなように、人物は構造の木偶人形で、<深い人間性>なんてものは潔く剥ぎ取られています。
ある意味、爽やかにミステリしていて良いと思えます。


例えば、<名探偵>の優越感は、[5]と[14]に関する自負に基づいて[2],[12]に意気込むところに、その根拠を置いています。
一方で、[6],[7]についてはその欠落を「空気を読めないミステリ読み」として自嘲するところもあり、[1][4][6]にこだわり、そこらへんに関するリーダーシップ(大迫)や、雰囲気作り(渕)に優れた面々からは冷たい眼差しを向けられもします。


ただ、[2],[12]を建前として押し出しつつ、その癖、嗜好として<主人>とかなり共有するだろう[5]の前に必要性なく[2]、[12]を損なうところなどは、<名犯人>から見た時、強烈な軽侮の対象になりもします。
つまり、切実な必要性から一貫してひたすらに[13]に邁進し、[4],[5],[6]もそのための手段と割り切ろうとする<名犯人>から見れば、それが本当に[12]を目指す上での行動だというならば、それは[1]だけを目指しつつ[5],[6]に反する行動をとってしまうような面々と愚かさの程度において変わりなくも思えるでしょうから。
そもそも<名探偵>志願の実態について、[13]に限らず、切実なものなんてないからそんなくだらないものにしがみつくようにこだわるんだろう>と見透かされてしまっています。
そこらへんに関しては、<名犯人>の方も相当にミステリな人ということで、そうしたいやらしさはよく認識されるだろうところでもあるかと思えますし。


そして、繰り返しになりますが、某キャラクターの特権性は、全項目の<常識>をわざわざ足蹴にするまでもなく、踏み敷いてしまっているところにあります。
そのキャラクターの視点からは、例えば<名探偵>が前提にする[11]もその欠け具合を自嘲する[7]も、<名犯人>が前提にする[13]も目的と絡んで苦しむ[7]も、嘲う必要すらない程度のものとされるわけで。
その下す総評によれば、<名探偵>も<名犯人>も<作者>もどうでもよい平凡さだと腐され、<あえて言えば舞台装置の一つだけはまぁ、少しは見るべきところがあったかな>と結論付けられてしまう。


最後に。
この呆れるばかりの特権性というのは、「作品に対する読者の傲慢さへの皮肉」でもあるんじゃないかと、ちょっと勘ぐりたくなったりもします。
だとすると、なるほど確かに「ミステリ好きにはたまらない」小説というか、「たまらないミステリ好き」になんかしら滴り落ちてくる小説というか……。


儚い羊たちの祝宴

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

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「山荘秘聞」が楽しくて好み。
問題は最初の「身内に不幸がありまして」の手記。

「……お嬢様は、自分の書架にエラリイ・クイーン『十日間の不思議』があることを、知られるわけにはいかなかったのでしょう」(p17)

これはたまたまの同期なのか、それともこの手記がそのままの「告白」で無いことを示唆(動機をおそらく誤解した上での"ハワード"志願?)しているギリギリのメッセージであるのか、悩ましい。
仮に後者だとするとあんまりにもあんまりだなぁ、と。


また、『十日間の不思議』はとても米澤穂信作品に似合うものだけれど、より似合うのは、国名シリーズで挫折もしながらグングン伸びて、これでペシャンコに潰れに潰れた、更にその次に待つ再生と受け入れの物語、『九尾の猫』だろう。
そこまでを必ずといっていいほど射程に入れる作風だと思う。
実際、『野生時代』の特集「米澤穂信をつくった「100冊の物語」の中でもクイーンからは『九尾の猫』だったりもして、「ああ、そうだろうなぁ」と思う。


折れた竜骨

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/8670202

「理性と論理は魔術をも打ち破る。必ず。そう信じることだ」(p100)。

魔術が跳梁跋扈する12世紀末欧州での殺人事件を、同じく魔術の心得がある騎士が推理する>という舞台で描かれたのは、魔術を踏み台とした論理と理性の賛歌。
魔術が絡んだ「何でもあり」に見える謎が急所を突いた簡潔な論理で見事に解かれ、その時読者の脳裏に浮かび上がる画が魅力的なのも素晴らしいのだけれど、解かれることで各人の謎が各人の人間性や背景、信念や意地を鮮やかに語るのは更にいい。


好きな場面は数多いが、中でも病院兄弟団の騎士と暗殺騎士、各々の弟子との関係のそれぞれの結末を巡る描写の対比は特にいい。
暗殺騎士の弟子の描写は極端に少ないが、鏡像の関係にある少年の描写を見ていけば、その師に向ける思いの重みは十分に察せられるところ。
しかし、一方は師から教えられ続けた理性と論理を以って師の最後の願いを察して応え、悲痛を越えて明日に繋がる信用を守ったのに対して、他方は、師ならば必ず止めただろう無謀な復讐に出て命を失った。
見事な対比だと思う。


理性と論理を「掲げる」ということは、単に理屈に頼ることや事態を解説するということではなく、自らがそういう存在であろうとする、また、世界がより理性的、論理的であるべきだとする意志を持つということ。
<不条理と矛盾に満ちた世界の中で、理性と論理が大きな「力」を持って立ち向かえる>というのは、(勿論全てではないけれど)少なくないミステリが共通して持つ志向であり、魅力だと思う。


ただ、理性と論理が「力」になる以上、そしてそれを振るうのが一人の人間である以上、それをどう用いるべきか、用いて良いのかは大きな問題になる。
この問題に対し過去の米澤作品、特に「古典部」シリーズの省エネ主義の折木奉太郎や「小市民」シリーズの二人などは、複雑な現代社会の中で、学生という保護された狭い世界に生きる立場と自覚から大変消極的な態度が特徴だった。
一方、『折れた竜骨』ではそもそも存在自体が連鎖する矛盾の中にある騎士とその弟子も、領主の子であり女であることで責務を負いつつ将来を厳しく縛られた語り手も、理性と論理を意志をもって「力」とすることと、その責任に対し大変意欲的。


そんなわけで、この『折れた竜骨』は過去の米澤作品と比べてただ舞台設定だけでなく、その積極的な意志のあり方、描き方から見ても新境地であり、過去作品を踏まえるとなお面白く読めもする傑作だと思う。
勿論、初米澤作品として勧めるにも十分過ぎるほど面白い作品でもあるけれど。





ユリイカ2007年4月号 特集=米澤穂信 ポスト・セカイ系のささやかな冒険

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/1565625

「特集 米澤穂信 ポスト・セカイ系のささやかな冒険」を読む。
笠井潔との対談での本人発言「自分の全能感をトライアルしないといけない。そのトライアルを経て自分のスキルの限界を見極める過程をミステリでやりたかったんですね」とその前後で、相当部分カバーされてしまっている印象。
例えば、斎藤環佐藤俊樹、巽正章、松浦正人、古谷利裕の論考の締めくくりはどれも結局、そういうことじゃないかと。


斎藤環の「とりわけ「日本語は理解するが英語は一語たりとも理解できない」という設定は秀逸の一語に尽きる。
「英語」の不在は、「媒介の不可能性」の決定的証拠なのだ」という指摘は鮮やか。


巽昌章の取り上げている「届かないメッセージ」という観点はもっと詰めるときっと面白いのかも……。
当事者適格というか、送り手・受け手適格というものと、メッセージに込められる<期待>と。


円堂都司昭の「六〇年代と〇〇年代、二種類の青春を対比」という観点も、更に追うと面白そう。
例えば「世界同時革命」なんてのは、まさに万能感幻想と言えそうだから。
暴論だけど、『さよなら妖精』でマーヤが守屋路行を突き放す「観光」という言葉は、色々と『氷菓』絡みで、テルアビブ空港事件でアラブの「英雄」となった岡本公三の逮捕時のやりとりが出典なんでは、とか変なことを思う。

※「銃口は死を超えて―岡本公三裁判全記録 テルアビブ空港襲撃事件の全貌」感想

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/1575359

米澤穂信氷菓』『さよなら妖精』関連で色々と。
「私も日本人である以上は、日本に帰って革命戦争を起こすべきだと考えていた」と本人の政治的主張の中ですら認めざるを得なかった、あさま山荘事件等での同志への、社会への失望を<外>に押し付けた構図と、その論拠・背景だった世界同時革命という万能感幻想について考えさせられる。
元警官のイスラエル航空運航係が証言した、取り押さえた際のやりとり「「Are you a passenger?」と聞くと、彼は「イエス」と答えました」は質問者の意図を超えて、象徴的なものと思えたりする。
所詮、その地に本当に生きる人々でなかった、言葉の成り立ちどおりに「通り過ぎるもの」でしかなかった、そうにすぎなかったのに。


岡本公三はこの1972年の事件でアラブの「英雄」とも言われる一方、終身刑を受け、1985年捕虜交換で釈放。1997年に潜伏先レバノンで検挙、禁固三年、2000年に出所。2000年の重信房子逮捕、2001年の獄中からの日本赤軍解散宣言などと絡んで、事件から30年近く経った頃に色々と話題に。
そのあたりと2001年刊行の『氷菓』での「優しい英雄」云々や折木供恵の行き先の一つにベイルートが含まれているのを結びつけてみようか?なんてのは、牽強付会を極めた感もあるけれど、少しは面白いかもしれない。
<真面目な論考>だなどと称するにはひっじょーーーにアレ過ぎるものも、一読者の遊びとしてグダグダやってみる分には、面白くないこともないんじゃないかと思う。


仲俣暁生の『犬はどこだ』で「仕事」に着目する視点は面白い。
「当事者適格」という観点から、「仕事」や「家」や「帰る(=私の場所)」という話は大変重要だと思う。
例えば『愚者のエンドロール』の入須冬実が大病院の長の家の人間であること、『遠まわりする雛』で示される千反田えるという人物の在り方、『夏期限定〜』で小鳩常悟朗が電話で捜査官に「一瞬で気おされてしまった」こと、そして、『さよなら妖精』の話。
でも、それでなぜ、論考の結論がああなるのかちょっとわからない。ヘンな論者だ。


滝本竜彦との対談「HTML派宣言! ネットが僕らの揺籃だった」は別方向でも面白い。


ところで、各論考に「小山内」さんが多数出現、果ては「小左内」なる謎人物まで登場。校正ってされないんだろうか……。
あと、「ポスト・セカイ系」という振りはどうなんだろ。
そりゃあセカイ系でないのはいいとして、そもそもセカイ系を経由して出てきたというものでもないだろうから、ポストでもなんでもないんじゃないかな。


あと、再度円堂都司昭の論考に触れると、世代論として三浦雅士『青春の終焉』を持ってきていて、その"終焉"後、「青春以前小説ではなく"青春"以後小説だともいえる」とやるのはすごく面白くて。
その流れで行けば、例えば同じく三浦雅士『出生の秘密』と、『ボトルネック』を絡めて見ていってみるのも興味深いのかもしれないなぁ、とぼんやり思ったりする



■『野性時代 第56号 特集:ぼくたちの米澤穂信

野性時代 第56号  62331-57  KADOKAWA文芸MOOK (KADOKAWA文芸MOOK 57)

野性時代 第56号 62331-57 KADOKAWA文芸MOOK (KADOKAWA文芸MOOK 57)

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/1564884


特集「ぼくたちの米澤穂信」掲載号。古典部の単行本未収録作「連峰は晴れているか」、そして物凄く興味深い「米澤穂信を作った「100冊の物語」」が目玉。
たとえば『さよなら妖精』のマーヤの某発言の出典が『君主論』だとわかったりするけど、更にもっと面白いことがいろいろと多い。
この100冊とは少し長い付き合いになりそう。既に読んだことのあるのは39冊。


※上記は2009年4月14日での感想。
その後「米澤穂信を作った「100冊の物語」」の未読だった作品について数十冊読んで、その(しばしば米澤作品にも絡めつつ書いた)感想が読書メーターに散らばっているので、そちらもいつかまとめてみたいと思います。


たとえば、2009年5月には「100冊の物語」未読分から……


蓬莱学園の犯罪!』『送り雛は瑠璃色の』『食前絶後』『パイド・パイパー』『雨月荘殺人事件―公判調書ファイル・ミステリー』『見えない都市』『人魚變生―耽美派イマージュ浪漫珠玉集』『夜歩く』『ペドロ・パラモ』『夏の口紅』『昔、火星のあった場所』『七回死んだ男』『天使の殺人[完全版]』『最上階の殺人』


と14作品まとめ読みして多くは軽く感想も書いていたりする(リンク先の日記にまとめて載っています)ので、そんな感じで。

2009-06-03 読書メーター五月分まとめ
http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20090603