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1巻時点で好感を抱きつつ、「しかし、これだけ綺麗にまとまった1巻で終わらず、続くのか。どうなるんだろう」と思ってしまっていました。
そのために手を出すのが遅れ、ようやく昨晩2巻を読むことになったんです。
そして冒頭の「其の五」、御歌会始(おうたかいはじめ)の挿話を一読して……思わず「ごめんなさい!」と心で叫びました。
驚きでした。
1巻の間に積み上げていたものを一つの挿話の中でこうも活かして見せるのか。
感じていた美点はこんなにもさらに躍進してしまうのか、と。
傑作、と思います。
1巻時点の感想は、こんな感じでした。
全体に綺麗で丁寧。
周囲を描くことで最も描きたい一人を描き出すことに長けているのが好き。
中心となる今上帝・彰子というキャラクターが大好き。
自分という人間とその立場を知り、求められることに応じて振舞うことを受け入れつつ自我も通す。
彼女は「知る」ことに熱心だが、「自分が何を知らないか」に(「自分がまだ、とりわけ年齢的になんでしかないか」にも)真摯。
彼女の側近くに仕える語り手・御園公頼も十分以上に魅力的ですし、「ずっと後の彼が当時を振り返る」という物語の形式とモノローグもいい。
そして、『パレス・メイヂ』2巻で「其の五」を読み。
45ページの挿話の中にそんな1巻で感じていた魅力が凝縮された上、更に抵抗しがたいレベルまで高まっていたのを目にすることになったわけです。
新キャラ二人(歌人・柳原歌子(後述しますが実在した人物「柳原愛子」を連想するとすごい意味も持ちそうな名前!)、公頼を慕う新しい女中のお律)も加えて。
周囲の登場人物たちの言動が、配置が、そのありかたが今上帝・彰子というキャラクターを引き立て、その心情をたまらなく見事に描き出しています。
まず、お律について。
いうまでもなく、公頼/お律という関係性は、彰子/公頼と対比あるいは相似として描かれています。
たとえば、新しい近侍見習いだった公頼、新しい女中のお律。
お律が感じる届き難い思慕は、より立場的に遥かに不可能であるもう一つの関係性を、その思慕を強調します。
彼女が極度の近眼である、という設定も優れています。
挿話の終わりに、、こぼされた思いを拾い上げつつ、伝えられず胸に収める(かつての)公頼ともあるいは重なる律の姿も。
素直に真情を描きつつ没にされてしまった歌を諳んじ、その晴れの場で決して自ら歌い上げることはできないその作者に代わり、彰子にとってもっとも読むに相応しい人物として詠んだ公頼の姿と対比をなしてもいます。
予定外の歌と公頼との出番代わりに、「もっと帝らしく」と朱を入れそれを潰そうとしてしまっていた歌人柳原歌子が、専門とする晴れの場で栄誉を奪われるのも素晴らしい演出。
二人目として、この柳原歌子というキャラクターについて取り上げます。
まず、外見の由来は画としては、たとえば与謝野晶子のこの肖像 http://www.bungakukan.or.jp/cat-exhibition/cat-exh_rend/630/ なども思わせつつ。
しかし、それ以上に面白いのが「柳原歌子」という名前はやはり実在の人物である、柳原愛子も連想させることです。
柳原愛子(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%8E%9F%E6%84%9B%E5%AD%90
「明治天皇の典侍。大正天皇の生母」。
「大正天皇が暗愚であったという風説は大正時代からあり、そのためその遺伝的な根拠を柳原愛子に求め、非難する傾向があった」。
「実の孫である昭和天皇」。
そういう方です。
そして、wikipediaには記載がありませんが、柳原愛子は月岡芳年「美立七曜星 灯台の火」 http://ja.ukiyo-e.org/image/metro/198-C001-003 で描かれた人物でもあります。
この生々しい画の意味はぜひ、北村薫の傑作『玻璃の天』収録「幻の橋」でご確認ください。
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ともあれ、そんな事情で。
この『パレス・メイヂ』と題された物語の中で、少女でもある今上帝・彰子が愛おしむ側仕えの少年に向けた真情を悪意なく熱心に阻み糾そうとする人物として。
柳原歌子は、「柳原愛子」という連想を置くことでより一層面白くも相応しいキャラクターとして浮かび上がってくると思えるわけです。
いわば「史実から抜け出てきた妨害者」なんて言ってみると、すこし愉しいですね。
続いて三人目。
公頼の前から仕えていた今上帝・彰子の「お気に入り」だった東辻実親というキャラクターとその位置づけ、果たした役割について。
1巻第1話において新しい侍従見習いとして来た公頼をけっこう意地悪に迎えた実親は、この6話冒頭に現れ、挿話の中心である御歌会始へと今上帝・彰子とその侍従見習い公頼を導きます。
彼はその後、公頼の家の新しい女中・お律が物語への登場してくる場面にも立ち会っています。
身分の差や、状況に応じ求められる厳粛さにまるで頓着しない実親はそれゆえ彼女に少しばかり愛されたましたし、側近くを辞した今も、それなりには愛されています。
しかし、過去話でも、そしてなによりこの6話で描かれるとおり、彼はただ無頓着なのであり、自分がちやほやされることが何より好きなだけ。
そんな彼の姿と向けられた愛情とは、今上帝・彰子が公頼に向ける、真実、本当に愛おしいという思い、まさに彼女が歌に込めようとしていたものを引き立てるためのものといっていいでしょう。
四人目として注目したいのは、御年四歳の異母弟である東宮。
どこまでも無邪気で性愛の色もないまっすぐな愛おしさを込めた歌、「わかいのか としよりなのか わからない 私のおひざでねむる ねこ」がその流れを後押しするのも。
当人が読み上げるのを聞かされていた公頼だけが、他に誰も解読できなかったこの歌を詠みあげられた、というのもとても含蓄があり、素晴らしく、そして愛おしいと思えます。
そして、以上のような関係を踏まえた上で。
自ら恃みともし、宮中でも広く知られた実親の美声と、東宮の歌を詠み「あら なかなか…」「いい声…」といわれた公頼が、続いて彰子が捨ててしまった歌を自らの脳裏から拾い上げて詠み上げてみせたそれとは見事な対比をみせています。
ただ整い、技に優れ、ナルシスティックに陶酔して周囲の賛美を求めて流れた実親の声と。
ただ真情を込め、思いとしてはたった一人のために詠みあげられた、公頼の声と。
晴るる日もふる日も立てる 御園生の
若木の姿 我をなぐさむ
これを聞いたときには、その事情を何も知らぬ周りにしても「あら なかなか…」「いい声…」どころではなく、強く心を打ったろうと思います。
なお、実親は柳原歌子が手を入れ別物となった歌を詠んでしまうことで、この事態を引き起こしたわけですが。
歌うべきではない時に誤って詠み上げられたというそのことも。
詠われるべき歌を押しのけようとしてしまっていたその歌に対する運命の神による意趣返しとして、痛快といえる扱いでもあります。
更にいえば。
そ序盤で実親が「昔の帝は素直に恋の歌をおよみにならはったけど」と挙げた鳥羽院、
いかばかりうれしからまし もろともに
恋ひらるる身も苦しかりせば
は、その率直さと魅力故に後世にも残っているという史実の重みをもって、柳原歌子の訂正に抗議し元の歌を、そして彰子の真情を讃えているわけです。
そして、昔ならばいざしらず。
今上帝・彰子が生きる今この時代のこの立場にあっては、鳥羽院のように歌を作り詠むことは彼女に許されません。
まさにこの『パレス・メイヂ』「其の五」で描かれたようにしか、想いを込め、伝えられないのです。
だからこその、この作品です。
しかし、困難であるからこそ、伝達不可能と当人も諦めていた想いがあまりにも望ましい形で通じ、詠い上げられたことの(ある意味文字通りの)有り難さ、喜びが輝きます。
そして、肝心の想い人がそこまで拾うべきものを拾うべき形で拾いながら自ら「誤解」に留まろうとする、たまらないもどかしさすらも。
挿話の魅力すべてはこの一コマに凝縮されるといってもいい、今上帝・彰子のこの顔とこの言葉とを彩り讃えるものとなるのです。
美しく複雑に織り込まれ、編み上げられたこの物語は、こうしてその美点すべてが一コマに集中し静かに、しかし掛け替えなく強烈な輝きを見せています。
本挿話はこの一点においても、手放しで讃えられるべきかと思えます。