(実写版)映画『氷菓』ネタバレ感想

映画(実写版)『氷菓』。

一点を除き関谷純を演じた本郷奏多さんの姿と演技が非常に良かったかと思います。

その一点も決して俳優のせいではありません。
残念ながら他は、あまりにも問題だらけかと思えます。

原作者が丁寧な称賛を送っていようが関係なく、一読者として不満は尽きません。

 
批判したいことは無数にありますが、何よりまず第一に。 
"あんな形でしか叫べなかった"というのが動かし難い、動かしてはいけないことでしょう
実際に画面で叫ばせることなど断じてあってはなりません。

目を、耳を疑うしか無い場面でした

全体として原作に比しても「関谷純の物語」という側面をとても強調したいのだという意図は伝わってくるように思えました。

その上でこれ、というのがどうにも理解し難く思えてなりません。

 

また、高校生・関谷純の生きた時代の空気やその様子は作品の限られた言及に加えて。原作や映画の読者・観客がもし望むならばいろいろ調べもして、それも含めて脳裏に描き想像を深めていくべきものでしょう。

作中においてそこまで鮮明なイメージは描けていなかったでしょうし、描き得なかっただろう古典部の四人のキャラクターの脳裏にも映画のようにあたかも当時の学校の模様が描かれてしまっていたかのような表現は、その点でもおかしかったと強く思わずにはいられません。

 制作側が観客にそこを強くイメージして欲しいから……という理由で(なのかどうかは定かではありませんが、一つの憶測として)作中人物が脳裏に描き得ないイメージを映像として彼らが思い浮かべ感じているかのように描いてしまうのは、端的に誤った手法かと思えます。

 

次にキャラクターを幾人も変質……あえていえば愚かであったり軽薄にしていたのは極めて不快でした。

 

福部里志のキャラ造形があまりにも解釈違いで耐え難く感じられました。
(自分の中では)彼がいつも浮かべているのは「微笑み」であって、にやけ笑いではありません。
「似非粋人」(角川文庫版p24)であって軽薄の権化のような風情ではありません。

 

映画版の糸魚川養子も、『氷菓』という題名の意味に気づいていたと受け取ることも出来るのかもしれません。ただ、そう断定するのは難しいというか、むしろ「気づいていなかったのでは」とも思える描写でした。 
しかし、あれはあまりにも当然に"勿論分かっていた"と読み手/観客には知らされなければなりません(ちなみに "なぜ糸魚川養子が分かっていながら、高校生である彼らにあえて語ろうとしないのか"が原作において奉太郎が訝しみつつ分からないのはまた別の問題であり、それは彼の人生経験の不足からのものです)。
そうでなければ原作で奉太郎が怒り、声を上げたように関谷純が浮かばれません! 
新たに火災の被害者と救出のエピソードまで加えるなどしつつ、あれは一体なんだったのでしょうか。自分にはうまく理解できません。 

 

また、事件の際、学校側にも相応の識見と意図と覚悟があったことが原作ではやはり糸魚川教諭によって示唆もされています(p197-198)。 
映画版からそれは伺い得たでしょうか?

 

千反田えるのキャラクター改変も(これは個人的趣味も大きいかと思えますが)到底納得できません。 
あるいは記憶違いかも知れませんが。

「わたしは、折木さん。過去を吹聴して回る趣味はありません」(p81)

前後のやりとりはあったでしょうか? 

「やれるだけのことはやったつもりです。当時の環境を再現できればと思って倉にも潜りましたし、疎遠になっている関谷家にもできる範囲で接触しました」(p79)

あたりは? 
そこらへんがなければよくわからない異常な引力?を勝手に感じて、奉太郎に話を不躾に無遠慮に持ち込むだけの人物に見えてしまいそうになるかと思えます 
率直に言って映画版の彼女は、個人的にはそう観えてしまいました。

 

原作の千反田えるなら題名に込められた意味が解き明かされれば

「……よかった、これでちゃんと伯父を送れます」(p206)

と言えたわけです。 
映画版ではベナレス云々を奉太郎から言われてようやくそれが出来ていました。 
ある意味で納得かもしれません。 
映画版の千反田えるは、そこにおいてもそういう人物なのかもしれませんね。

 

映画版では 千反田邸での謎解きを終えた帰り道、灰色薔薇色談義で奉太郎が伊原摩耶花から見透かされたように割と気軽に「本当は薔薇色も羨ましかったんじゃない?」云々と声を掛けられたりしていました。 
福部里志は終始口数も多く、不快なにやけ笑いを浮かべてもいました。 
……実に無遠慮で、荒っぽすぎる踏み込みだと感じられました。 

 

ここは、原作ではどうであったか。 

「里志は話し出せば立て板に水だが、なにも言わないこともできる男で、俺もやつのそういうところは気に入っている。だが、いまはなにか言って欲しかった。気まぐれに後づけで理由をつけただけで、黙られたくはなかった。 
「なにか言えよ」 
 笑ってそう促すと、それでも里志は微笑みを見せずにそういった。 
「ホータローは……」 
「ん?」 
「ホータローは、薔薇色が羨ましかったのかい?」 
俺はなにも考えずに答えていた。 
「かもな」」(p179) 

……あくまで一原作ファンとしての意見・感想ではありますが。 
映画版の福部里志千反田える伊原摩耶花もあまりに人の思い、人のあり様に踏み込むことに、粗雑に過ぎました。
そんな彼らもそれを良しとしてしまう折木奉太郎も、自分の知っている彼らとはあまりにも違いすぎます。
そして、それが全くもって好ましくありません。納得もできません。

 

 

また、ビジュアル的にも演技的にも。 

 

20代前半の主演たちが高校生……古典部員四人をやっているのはなんというかコスプレ感が酷く感じられてしまいました
そして、それをそう感じさせない演技力なりなんなりも持っていなかったのでは?と。 
ただ一人、主演クラスでは関谷純を演じた本郷奏多さんにはそれがあったと思えます。 
例えば歌舞伎の名優なら還暦を迎えた男性が十代の娘を演じることも叶います。叶ってしまいます。そこまでは勿論求めるわけもありませんが、ちょっと酷すぎはしなかったかとごく個人的には思えてなりません。

 

台詞を始め演技もきつく感じられてしまいました。 
例えば奉太郎役の山崎賢人さん、酷いことを言ってしまうと「クソ姉貴!」と吐き捨てた一言あたりを除けば、作中の人物が作中人物としてしっかり語っているようには聴こえませんでした。 


演出も奉太郎が推理に入るときの画面回転ぐーるぐるや、妙に仰々しい音楽なんかも「なにこれ?」と思えてしまって。 
エンディングの主題歌?も歌そのものはともかく、この作品に似合っている曲なのでしょうか??? 
率直に言って、諸々、あまりにもダサかったかと思えてなりません。

 

 

なお、映画版についての肯定的な意見として、これで関谷純の無念やそれを受けての千反田える折木奉太郎の思い、折木供恵からの手紙、折木供恵への手紙の意味が分かった、伝わった、感じられた云々というのが目につきもしますが 

これを言うと嫌われてしまうかもしれませんが……。 
あえて言えば原作の時点からその辺りは極めて……というか核心的に重要なところだったと思えます。
原作時点で感じ取ってもいいところだと思えます。 
「ここまでやられないと伝わらないものなのか」とも思ってしまいもします。 

ごく個人的な感覚では、映画版のようにしつこくそこら辺を描かれてしまうのは非常にダサい。野暮にも程があると思えてしまいます。 
それは解説や感想ならば時にむしろそうすべき仕事ではあっても、翻案のするべき仕事ではないでしょう。 
題名の謎解きの<これはこういう意味なんだ>の念押しもくどいどころではありませんでした。 

 

とりあえず、観てきて間もない感想はこんなところです。 
多分、以降あまり言及することもないかとは思いますけれども。