米澤穂信『栞と嘘の季節』はそれ一冊では読み終えられない本であるという話。

米澤穂信『栞と嘘の季節』、とりあえず一度読み終えた。

非常に面白く、かつ、米澤作品らしくいろいろと込み入っていて、今後時間をかけてゆっくり読み返し考えていきたい作品と思える。

 

ただ、現時点で一つ言えることとして、これは「この一冊で読み終えられない本」だという話がある。

幾人もの人物の造形の核心(と思えるもの)や作中の状況や描かれるテーマが、本や映画に託され提示されているのは明らかと思えるから。

 

以下、そのことに絞ってまずは少し書いていきたい。
なお、作中の展開にも諸々触れていくことになるので、ここ以降の文章は『栞と嘘の季節』を一通り読み終えた人にのみお勧めしたい。

 

■言及していく作品のリスト


1:(小説及び)映画『薔薇の名前』。
2:ミシェル・フーコー『監獄の誕生』
3:ウイリアムアイリッシュ『幻の女』

※『神曲』『社会契約論』『ホット・ゾーン』『ソフィーの世界
※『沈黙の春』『中世の秋』『春と修羅

4:スティーヴン・ミルハウザー「夜の姉妹団」(『ナイフ投げ師』収録)

ウォルト・ホイットマン『草の葉』↓)
5:N・H・クラインバウム『いまを生きる』(『DEAD POETS SOCIETY』)及びその映画版

 

 

まずは、

1:(小説及び)映画『薔薇の名前』。

について。

「著者はウンベルト・エーコで、たしか上中下の三冊ではなく、上下巻の二冊構成のはずだ。僕はこの本を読んでいないけれど、映画は見たことがある。人が感情を持つことにさえ理由と正統性が必要とされる世界を描いた、おそろしい映画だった。僕は何となくその本に触れることをためらい、棚に戻すのは後にしようと考えた」
(p7)

特に、

「人が感情を持つことにさえ理由と正統性が必要とされる世界を描いた、おそろしい映画だった」

が見事な一文だし、この堀川次郎が抱いた感想の"影"が作品全体に落ちているんだろうな、とはこのくだりを読んだ時点で思わされることではある。
ただ、それで済まさず、自分で改めて(それぞれだいぶ以前に読んだ&観たことはあるけど)観て/読んでおきたいと思わされる。
それが作中の登場人物たちがみせた流儀でもあれば、読者としてそう振る舞いたい流儀でもあると思えもするから。

※この項は映画(&小説)を再視聴(&再読)した後、差し替えるなり書き加えるなりしていく予定。

 

■11/8、追記。

 

ということで映画『薔薇の名前』を久しぶりに観てみた。

それはもう、その栞を密やかに挟むべき本として、これだけ相応しいものもなかなかないだろうと思わされる(と言い切るには小説版もまた読んでいかなくてはいけないけど。そちらはそちらで後日)。

 

以下、一部の文字を映画『薔薇の名前』の内容に触れるため白文字で書いていく(反転させれば読める)。

スマートフォンからの閲覧などで反転表示等ができない場合、こちらのリンク先に同内容を書いておいたのでそちらでどうぞ。

 

なぜなら、『薔薇の名前』は重層的な意味で「毒」の本だから。

1:まず、作中において本そのものが直接的に死に至らしめる毒の罠であり。

2:更に、本の内容があるべき信仰を害する魂の毒である(と犯人は固く信じた)。

3:犯人が考えたその本の毒は「笑い」であり、「好奇心」であり「探求」だった。

だから、さらっと書いてある「僕は何となくその本に触れることをためらい」というくだりにも"それはそうだろう"と思わず笑ってしまいそうにもなるけど、実はその恐れはきっと、重層的に正しい。

なぜなら、

1:確かにその本には危険な毒が隠されてもいたのだし。

2:毒は「好奇心」や「探求」への戒め……どころでなく踏み入ることを断じて許さない絶対の否定のため用いられたのだから。

どんな本を手に取り読むか、どう読むか、どう本を扱うかが時に「人の心そのものを映し出」す以上、そして『薔薇の名前』なんてものはそれはもう多くを映す器にもなっているだろうからには、そこに「好奇心」から不用意に不躾に触れてしまうのをためらったのは、きっと正しいことだった。

 

それにしても、観た上で改めて振り返ると堀川次郎がこの映画について、

「人が感情を持つことにさえ理由と正統性が必要とされる世界を描いた、おそろしい映画だった」

の一言をもって感想としているのがやはり、なんともたまらなく面白い。

作品への感想というのも、たいへん興味深く"その人を語る"ものなのだという鮮やかな実例がまずここにある。

そして映画を観た上で二点、そこに感想を加えるなら。

 

1:映画の結末に明らかなように『薔薇の名前』の語り手は湧き上がる強い感情を自覚しながら、それを抱きそのために走り生きるまでの「理由と正統性」を見い出せず。

後に振り返り「後悔はしていない」などと語りつつもそんな言葉はあまりにも虚しい、大きな悔いを、互いに知ることも告げることもなかった「名前」に象徴される空白を人生に抱え続けた男だった。

一方でこの映画/小説に接した堀川次郎は、東谷図書委員長の人生はどうなっていくのだろう。そんなことも思わされる。

 

2:『薔薇の名前』の犯人が特に忌み嫌い、全てをなげうってでも否定しようと躍起になった感情はなにより「笑い」、とりわけ神の権威の否定としての「笑い」だった。

となると『栞と嘘の季節』において「笑い」、中でも特になんらかの権威や抑圧やある種のパターナリズムといったものを否定するように働く「笑い」はどのように描かれていたか。人が持つ感情とその表現の中でも、特にそこに改めて注目してみたいとも思わされる。

それは冒頭に『薔薇の名前』がこうした形で提示されることで、作品全体に及ぶ形で読者に投げかけられた影なのではないかとも思える。

 

それと作中で映画『薔薇の名前』を観たことがあるのは堀川次郎だけではない。

「『薔薇の名前』か。すごいのを借りたやつがいるんだな」
「読んだのか」
「映画は見た」
 友よ。
 松倉は僕の手から『薔薇の名前』下巻を取って、ぱらぱらとページをめくり始める。無遠慮なめくり方に、思わず警告する。
「ミステリだから、あんまり先を読むなよ」
 松倉は生返事を返す。
「わかってる」
 そうしてさらに、本をめくっていく。その松倉の指の動きが不意に止まり、人差し指と中指が、何かを挟む。松倉は、少し笑った。
「調べてよかった。今日だけで三件だ」
 その指の間に挟まれているのは、栞だった。きれいな花を使った栞だ。僕は言った。
「今日いちばん、本に挟まっているのにふさわしい忘れ物だな」
 松倉が栞を、カウンターに置く。

(p18)

松倉詩門は映画『薔薇の名前』にどんな感想を抱いたのか。「すごいのを借りたやつがいるんだな」より踏み込んだ言葉を聞いてみたいものだとも思う。

ただ、作品への感想という形でなくても対照的に示されているものがはっきりある。

例えばここで堀川次郎は「僕は何となくその本に触れることをためらい」と接したものに「無遠慮なめくり方」で臨むのが松倉詩門なのだ、という。

なお、映画『薔薇の名前』で「無遠慮なめくり方」で問題の本に接した登場人物たちはどうなったっけ、と思いを巡らすのもなかなかに趣き深いものがある。

もしも、だいぶ性質の異なる相棒が今後も人生において肝心な時にその側にいてくれる、というありがたい助けを欠いてしまうようなことがあるならば。
きっと松倉詩門に待つのもそのような運命であるのかもしれない。

 

 

2:ミシェル・フーコー『監獄の誕生』

「僕が最初に手にしたのは、『監獄の誕生』という本だった。ぱらぱらめくっていくと、あるページが勝手に開かれた。「一つの身体は、人々が配置し動かし他の身体に連結しうる一つの要素となる」という、わかるようなわからないような文章が書かれている」
(p.17-)

読んだことはないけれど社会学方面の古典ということで、フーコーの権力論と絡んでどういう本であるかという評判程度は一応知っている。

横着してwikipedia記事を参照先として示してしまうけど。
おそらく『監獄の誕生』で論じられている話は『栞と嘘の季節』において、「切り札」が配られた上で事件が起きた後の、学校内の空気の解説になっているのだと思う。

こちらもいずれ、ざっとでも『監獄の誕生』にあたって確認してもいきたい。

 

■11/26 追記。

 

『監獄の誕生』をとりあえずざっとでも読んでみて。
『栞と嘘の季節』の学校を覆う空気は勿論、後に言及する「夜の姉妹団」の解釈にも当然関わってくる内容と思えた。

 

例えば「櫛塚奈々美は『きれいで好き』と言ったそうだ」という感想は、おそらく主に15ある章の14番目「姉妹団の秘密」の以下のくだりを意識したものではと思えた。

 少女たちが夜集うのは、何か陳腐で俗っぽい儀式に酔うためでも、容易に暴露されうる隠れた行為にふけるためでもなく、ただひとえに、引きこもり、沈黙するためであると私は考える。姉妹団の団員たちは大人たちの届かないところにいたいのだ、私たちの凝視を逃れ探索を避けて引きこもりたいとねがっているのだ。そして何よりもまず、知られたくないと望んでいるのだ。理解に色濃く染まり、説明と洞察と愛情が鬱陶しくみなぎる世界にあって、物言わぬ姉妹団の団員たちは、定義を逃れることを欲し、神秘的で不可解なままでありたいと願っている。話しておくれ! と私たちは愛ゆえに声を張り上げる。何もかも話しておくれ! そうすれば私たちはお前を許そう、と。だが少女たちは私たちに何もかも話すことなど望んでいない。一言だって聞いてもらうことを望んでいない。要するに彼女たちは、見えないままでありたいのだ。まさにこの理由によって、少女たちは、彼女たちの本性を明かすようないかなる行為に携わることもできない。ゆえに彼女たちは沈黙するのである。ゆえに夜の静寂を愛するのであり、闇を祝う儀式を執り行うのである。黒い煙のなかに入っていくかのように、彼女たちは秘密のなかに入っていく------消えてしまうために。
(『ナイフ投げ師』白水uブックス版p73-74)

その上で、

「だけど櫛塚さんの『きれい』って感想は、ちょっと怖いな。確かにきれいな話とも言えそうだけど、それは、きれいな部分以外のすべてを意識から排除したときに出てくる感想だって気がする。……わかるかな」
(p215)

という堀川次郎の述懐があるように、たとえばその「沈黙」や「夜の静寂」は何によって守られ保たれているか、ということに思いを向けずにはいられない。

 

それはきっと"誰か「沈黙」の掟を破る者はいないか"という相互監視であるし。
彼女たちの固い結束と「沈黙」の価値はおそらく、そんな中で出てくる背信者の存在と、背信者への峻厳な処罰……共同体からの排除を欠くべからざる要素として必要としているようにも見える。

例えば以下に引用する『監獄の誕生』第二章「良き調育の手段」の「監視」とその「権力」についての記述がいろいろと連想されるところでもある。

ただ櫛塚奈々美はおそらく賢くて「夜の姉妹団」の孕む危うさにもきっと、概ね気づいていて。

だからこそ彼女は「姉妹団」を自分と親友のたった二人以外に広げようとはしなかったのだと思う。

広げることで避けようもなく必然的に生まれる背信者とその排除を、それによって購われる「沈黙」や「夜の静寂」を、櫛塚奈々美は望まなかったのではと思う。

 

しかし、ならば必要とする「沈黙」や「夜の静寂」は別のもので購われなければならず。それが彼女曰く「切り札」……トリカブトの毒だったのだろう。

そうした上でも櫛塚奈々美はやはり賢いから、きっと「切り札」が「切り札」足り得るのは"決して使わない"ことが絶対条件だと分かっていたのだと思う。

それが守られるためにも、無闇に「姉妹団」を拡大するなど決してあってはいけない、ということもきっと、よくよく分かっていた。

 

一方、和泉乃々花は彼女と比べるべくもなく愚かだったのだろう。

その存在はあくまで秘匿されるべきであり、「解放」などと隙だらけに、むしろ分かるなら分かってしまえと傲然と晒されるべきでは決してない。

またあまり節操もなかっただろう拡散を選んだ以上、誰かが禁を破るのは(「夜の姉妹団」が必ず背信者を出すのと同様に)必然のことだったろう。

 

そして「切り札」は、一度切られてしまえばどうなるか。

作中で描かれた通りだろう。

誰にも侵されたくない自分の大事なものを、いざとなれば侵そうとするものを殺してでも守ることができる、だから自分は大丈夫なのだ……そういう「お守り」として機能する筈の「切り札」は。

誰かが他者にはなかなかに伺い知れない、その誰かの独特の価値観に基づき許し難い「侵害」があったと判断した時、容赦なく、防ぎ難く突然に斬りつけてくるだろう刃となってしまう。

「夜の姉妹団」の、先に引用した箇所から一部を再度引くと。

そして何よりもまず、知られたくないと望んでいるのだ。理解に色濃く染まり、説明と洞察と愛情が鬱陶しくみなぎる世界にあって、物言わぬ姉妹団の団員たちは、定義を逃れることを欲し、神秘的で不可解なままでありたいと願っている。話しておくれ! と私たちは愛ゆえに声を張り上げる。何もかも話しておくれ! そうすれば私たちはお前を許そう、と。だが少女たちは私たちに何もかも話すことなど望んでいない。一言だって聞いてもらうことを望んでいない。要するに彼女たちは、見えないままでありたいのだ。まさにこの理由によって、少女たちは、彼女たちの本性を明かすようないかなる行為に携わることもできない。ゆえに彼女たちは沈黙するのである。

ゆえに"彼女たちの間においてすら"その中の誰がどのようなことを、断じて侵されることを許せない何かと捉えているかは「神秘的で不可解」であり。

ゆえにいつ何時、意図せずとも誰かのそれを侵してしまっているかわかったものではなく。

ゆえにいつ何時、誰から突然の恐るべき攻撃を受けるか、知れたものではないということになる。

『栞と嘘の季節』であの事件の後、学校を覆った空気の意味はそういうことだと思う。

 

 

ところでやや話が離れてしまうのだけど。
ミステリには一つ、"アンファン・テリブル恐るべき子供たち)もの"とでもいうべき系譜が在るかと思う。

例えば、

小峰元『アルキメデスは手を汚さない』1973年
栗本薫『ぼくらの時代』1978年
東野圭吾『放課後』1985年

といった作品。

相沢沙呼『マツリカ・マジョルカ』2017年

あたりも加えても良いかもしれない。

 

それらは大人たちからみれば理解し難い、子どもたち自身は大人たちになど理解できないと絶望と傲慢を共に抱えそう捉えているある種のプライド、倫理観、羞恥、怒りゆえに……他者あるいは自身の命を迷いなく奪う物語。
そして秘密裏に行ったその行為を解き明かされ、問い詰められても昂然と"当然のことをしただけ。何が悪いのか。そして私たちの思いは(大人である)お前たちには決してわからない"とうそぶく物語。

 

小峰元『アルキメデスは手を汚さない』栗本薫『ぼくらの時代』がそういう子どもたちの潔癖で偏狭な思いに非常に同情的だったり共感を寄せているように見える一方で。
東野圭吾(『アルキメデスは手を汚さない』への傾倒をしばしば語ってもいる)『放課後』はやや突き放した距離を置くのも非常に興味深いところであったり。

もう一つ作品名を挙げると、

 

武田綾乃『その日、朱音は空を飛んだ』(2018)

などは、
"ねえ、自分の命を捨てるとか(誰かを殺すとか)って、それだけで当然の価値があるんだとか、それを元に誰かを脅したり自ら捨てることで誰かに重い傷を遺せるに違いない……だなんて、嗤うべき傲慢な思い込みなんじゃない?"
とでも言うかのような、そうした系譜の中に位置づけてみるのもとても面白い作品なのではと思えていたりもする。

 

で、話を『栞と嘘の季節』に戻すと。
この作品は"アンファン・テリブル"などとある種過剰に持ち上げるとともに、理解の外の存在として放り出してしまうような態度を共に否定して。
彼らの苦しみ悩み、その中での闘いや希望願望に寄り添いつつ。
かといってその偏狭さ傲慢さはしっかりと見据えて距離を取る。
そんな、いかにも米澤穂信らしい(と自分には映る)作品なのではと思えている。

 

3:ウイリアムアイリッシュ『幻の女』

「一人の女子が、立ったままで本を読んでいた。カーテンを透かす冬の日に、横顔が照らされている。少し憂いのある目が向けられている本は文庫本で、ウイリアムアイリッシュの『幻の女』だった。当番の一年生が「すっごくきれい」と言った時点で、おおよそ見当はついていた。そこにいたのは、瀬野さんだった。 物音は立てなかったと思うけれど、瀬野さんはすぐ、僕たちに気づいた。たちまち、その瞳に意志の力がみなぎる。瀬野さんは本を読んでいたことを恥じるように『幻の女』を閉じ、しかし丁寧に、それを書架に戻す。その声は涼やかだった」
(p.80)

『幻の女』という小説は瀬野麗というキャラクターの在り方全体、あるいは彼女が与える第一印象(の鮮烈さ)を象徴しているのだろうと思う。

それと『栞と嘘の季節』だけでなく『幻の女』内容に触れることになるので詳しくは書けないのだけど、前者の犯人についての(『幻の女』を読んだことがある読者向けの)ミスリードにもなっているのかなとも少し思えた(考えすぎかもしれない)。

「夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」
(ハヤカワ・ミステリ文庫/稲葉明雄訳)

という冒頭のくだりが非常に有名。
というか『雪国』同様、古典として作品全体の評価が非常に高くもある一方、冒頭のこのくだりを知っている聞いたことがある人が100人いたとしたら、小説として本編を実際読んで読み終えた人は10人とはいわずとも20人いればいい方かな?と思えたりもする。

なお、2015年に黒原敏行訳の新訳版も刊行されているようなので、今から読む/再読するにはそちらがいいのかもしれない。

 


※『神曲』『社会契約論』『ホット・ゾーン』『ソフィーの世界

「実際には、僕と松倉で、これから数日で誰かが読むとは思えない本を選んだ。これが案外難しい作業で、どの本も明日には誰かが借りていきそうに思えて仕方がなかった。最初は『神曲』に挟み、次に『社会契約論』に挟み、『ホット・ゾーン』はどうかとか、『ソフィーの世界』はどうかとか考えて、結局選んだのが『北八王子市通史』だったのだ」
(p.84)

一応作品名を、メモとして。

 

※『沈黙の春』『中世の秋』『春と修羅

「書名で遊ぼうぜ。季節の入った書名を挙げていく。まずは春から、順番だ」
「受けて立とう。『沈黙の春』」
 松倉は間髪を容れずに続ける。
「『多弁な夏』」
 僕は少し考える。
「『中世の秋』」
「『近世の冬』」
「『春と修羅』」
「『夏のデーモン』」
 おい。
「適当に言ってるだろ」
「心外だな堀川、俺がそんなことをする人間に見えるか」
「見えないけど、やりかねないと知ってる。試しに著者名も言ってみろ」
「人を試してはいけないと聖書にも書いてある」
「そうなのか?」
「いや、神だったかな、試しちゃ駄目なのは」
(p107)

同様に一応メモとして(松倉の答えてる書名は、いずれも実在しない本であるような)。

あまりに漠然とした物言いでアレなのだけど、少しだけ書くと。
作中の主要人物や「姉妹団」に属した者たちの"世界の捉え方/受け止め方"という話に絡んで『神曲』『社会契約論』『ホット・ゾーン』『ソフィーの世界』『沈黙の春』『中世の秋』『春と修羅』あたりをちょっとだけ参照先にしてみても面白いのかもしれないとぼんやり思いはした。

 

4:スティーヴン・ミルハウザー「夜の姉妹団」(『ナイフ投げ師』収録)

「友達はミルハウザーって作家が好きだった。『夜の姉妹団』って短篇が特に好きで、何度も何度も読んでた。知ってる?」
 スティーヴン・ミルハウザーはこの図書室でも所蔵しているけれど、僕は読んでいない。松倉もまた、小さくかぶりを振っている。瀬野さんは小さく頷いた。
「お話のない、描写しかないような小説でね。あの子はきれいで好きだって言ってたけど、わたしはちょっと怖かった。それで、花の栞をお互い一枚ずつ持ったとき、友達が、これは姉妹団の証だって言ってね。夜の姉妹団じゃないのって言ったら友達は照れて、それはさすがに恥ずかしいから、ただの姉妹団って言ってた。中学生らしいでしょ?」
 瀬野さんは笑うけれど、僕たちは笑わなかった」
(p182-)

ミルハウザー『ナイフ投げ師』。読んでるのか」
「いちおうチェックしておこうと思って」
 この本には、短篇「夜の姉妹団」が収録されている。「櫛塚奈々美」が読んでいたという話だ。松倉が訊いてくる。
「参考になりそうか」
「どうかな。小説だよ。配り手のヒントなんか書かれていない」
(p196-)

「中央線が間近を通っていく。松本へと向かう、下りの列車だ。轟音に遮られ、僕たちの会話は途切れる。僕は、岡地さんが写真につけようとしていた題名がアルファベット一文字だったことを松倉に話すべきか、迷った。考えて、それは伝えないことにする。手がかりというには、あまりに形のなさ過ぎる話だ。すべてを追っては迷路に迷い込む。関係が薄いと判断した情報を考慮から外すのも、考慮のあり方の一つだろう。
 列車が行ってしまうと、松倉は話を変えた。
「『夜の姉妹団』は、どうだった」
 僕は、息が詰まったような気がした。
「……答えにくい」
「櫛塚奈々美は『きれいで好き』と言ったそうだ。瀬野は、『ちょっと怖い』と言っていた。お前の意見は?」
 難しい質問だ。僕は、思ったことをそのまま言うしかない。
「腹が立った」
「何に?」
「わからない。無理解に、というのが近いような気がする。でも、それじゃ言い尽くせてない。腹が立ったけど、怒りでこぶしを突き上げるというより……」
 僕は言葉を探す。そして、いつものように、次善の言葉しか見つからない。
「一人になりたくなった」
「どんな小説なんだ」
「何も起きない」
「何も起きないのに小説になるのか」
 僕は頷く。
「何も起きない。でも、小説になるんだ」
 いつか松倉がこの小説を読む日が来るかもしれないので、僕はそれ以上なにも言わなかった。松倉もまた、そんな僕の心づもりをわかってくれたと思う。松倉はただ、
「小説の中身は、敢えて聞かない。櫛塚奈々美と瀬野の感想が妥当かどうかを、聞いておきたい」
 と訊いてきた。
「瀬野さんの『怖い』という感想は、わかる。だけど櫛塚さんの『きれい』って感想は、ちょっと怖いな。確かにきれいな話とも言えそうだけど、それは、きれいな部分以外のすべてを意識から排除したときに出てくる感想だって気がする。……わかるかな」
「わからん。が、何となくわかった」
 また列車が近づいてくる。今度は都心へと向かう上り列車だ。再び会話が途切れる」
(p215-)


引用が長くなってしまったけど、仕方がないかとも思う。
p215-の引用は線路、列車及びそれに乗る二人といった描かれる情景を含めて「夜の姉妹団」の感想と捉えたいと思えるから。

 

櫛塚奈々美は『栞と嘘の季節』において存命の重要人物でありながら、遂に"直接は"物語に姿を表さない。
彼女がどんな人間であるか、それに瀬野麗の眼に、堀川次郎の眼にどう映ったか/どう捉えられたかはこの「夜の姉妹団」を巡る描写に託されている。
そして櫛塚奈々美がどのような人間であり、何を思い何を考えていたかはこの作品の在り方を考える時、なかなかに欠くべからざる要素だと思える。
それについて思いを巡らすには読者もまず自分で「夜の姉妹団」を読んでみるのが良いだろう。いっそうもう、作品がそれを求めているのだ、とすら言ってもいいかもしれない。
米澤穂信『栞と嘘の季節』とは、そういう作品だろうと思う。

※この項も「夜の姉妹団」(及び『ナイフ投げ師』収録作品)を再読した後、差し替えるなり書き加えるなりしていく予定。

 

■11/7追記

「夜の姉妹団」はごく短い、例えば柴田元幸・訳で白水社から出ている単行本版ではp51-p70の20ページ(白水Uブックス版ではp55-76の22ページ)の短篇で15の章で構成されている。
この小説を、例えば特に14つ目の章「姉妹団の秘密」を読んだ後、この小説に対する、また、この作品を踏まえた『栞と嘘の季節』に対する解釈、あるいはこれを(『ちょっと怖い』と語った少女についても、そして)「特に好きで、何度も何度も読んでた」上で『きれいで好き』と言った人物について、なにやらわかったように理解なり説明なり洞察なりを書くというのはなかなかに蛮勇を要することかと思う。

その沈黙の戒めは「夜の姉妹団」についてのみならず、『栞と嘘の季節』という作品、登場する人物たち、そこで触れられる諸々の小説や映画に対する、やはり理解なり説明なり洞察なりについても及ぶものだろうとも思える(それでもなお、引き続きなにやらわかったようなことをなにやらわかったように書くというのも、それを書く者が自分はそういう人間なのだとよくよく自覚した上でするというのも、それはそれでそういうものだと思えてもいる)。


だから言及はこの程度に留めつつ、しかし、先にも書いたことを概ね繰り返すことになる。

 

櫛塚奈々美は『栞と嘘の季節』において存命の重要人物でありながら、遂に"直接は"物語に姿を表さない。
彼女がどんな人間であるか、それに瀬野麗の眼に、堀川次郎の眼にどう映ったか/どう捉えられたかはこの「夜の姉妹団」を巡る描写に託されている。

また、櫛塚奈々美及び瀬野麗だけでなく、例えば生徒指導部の教師・横瀬という人物の在り方とその扱いについても「夜の姉妹団」を読んだ上で少し考えてみることは、なかなかに興味深いことだろう。
そして櫛塚奈々美がどのような人間であり、何を思い何を考えていたかはこの作品の在り方を考える時、欠くべからざる要素だと思える。
それについて思いを巡らすには読者もまず自分で「夜の姉妹団」を読んでみるのが良いだろう。作品がそれを求めているのだ、とすら言っていい。

 

ウォルト・ホイットマン『草の葉』↓)
5:N・H・クラインバウム『いまを生きる』(『DEAD POETS SOCIETY』)及びその映画版

「「あと憶えてるのは……栞が挟んであった本ぐらいかな」
 書名がわかっても、あまり役に立つ情報とは思えない。世界に数冊しかない本ならともかく……。僕はそう思ったのだけれど、瀬野さんは些細な情報にも敏感に反応する。
「なんて本ですか」
「『草の葉』」
 瀬野さんが言葉に詰まり、八木岡さんが諳んじる。
「おお船長、我が船長、我らがおそろしき旅は終わりました……ってやつ。知らない?」
 僕と瀬野さんは、揃って首を横に振る。八木岡さんはあきれた様子も見せずに言う。
ウォルト・ホイットマン。勉強しな、未成年。それで思い出したけど、あれ学校の本だね。ラベルが貼ってあった」」
(p287)

「「八木岡さんは話の終わりに、メリーさんが借りて、八木岡さんに見せた本が何だったか教えてくれた。ホイットニー・ヒューストンの『草の葉』だった」
 初めて、瀬野さんが僕の発言を正す。
ウォルト・ホイットマン
 ホイットしか合っていなかった。松倉が首をかしげる
「『草の葉』? 聞いたことがある気がするな」
「おお船長、我が船長ってやつ。勉強しな、未成年」
「と八木岡は言ったんだな。それで?」」
(p300)

「僕がそう言うと、松倉は突然立ち止まった。何かと思ったら、道端の自動販売機を見ている。松倉は、張りのあるいい声で、宣言した。
「寒い」
「やっぱり寒いのか。何か着ろよ」
「意地ってもんがある」
「誰の何による何のための意地だよ」
「of the people,by the people,for the people」
「発音が流暢だなあ、おい」」
(p63)

ここでなぜ『草の葉』だけでなく『いまを生きる』かを挙げているかというと、多分、むしろ回りくどい形で『草の葉』を通じて『いまを生きる』を提示していると思えたから。

 

結論から言うと、作中の「死せる詩人の会」及びそのモットー、

 

「カルペ・ディエム」

 

と「姉妹団」の在り方及びその「切り札」に託している思いなどを対比させているのだと思う。

 

「「聡明な若き精神の所有者諸君!」
 やおらそう叫ぶと、キーティングは教室をぐるりと見まわして、ものさしをふりまわした。それから、芝居がかかったしぐさで机のうえに飛び乗ると、生徒たちに向きなおった。
「おお船長よ! わが船長よ!」
 熱のこもった口調で詩を暗唱すると、キーティングはまた教室を見まわした。
「いまのがなにからの引用だか、わかるものは? だれかいないかね? いない?」
 彼は刺すような視線で、黙りこくった生徒たちを見すえた。だれひとり、手を上げようとあしない。
「いいかね、若き学者諸君」
 キーティングは根気よくつづけた。
「いまのは、ウォルター・ホイットマンという詩人が、エイブラハム・リンカーンをたたえて書いた詩の一節だ。この授業ではわたしのことを、キーティング先生とも、"おお船長よ!わが船長よ!"と呼んでもいい」
(『いまを生きる』p37-38/新潮文庫版/白石朗・訳)

ロビン・ウィリアムズ主演、ピーター・ウィアー監督の有名な映画でも極めて印象的に描かれている場面。


序盤で松倉がリンカーンゲティスバーグ演説の有名な一節、

「of the people,by the people,for the people(人民の人民による人民のための)」

を「政治」と「意地」をかけつつ(いやなんかしょうもないギャグの野暮過ぎる解説みたいになってすごくアレなんだけど……)唐突に口にしたこととも連動してるんだろうと思う。

即ち瀬野麗と櫛塚奈々美の、犯人の、東谷図書委員長をはじめとする後に「姉妹団」に属した者たち、それぞれにとってあの栞は"私たちの私たちによる私たちのための"「切り札」だ、私たちの「意地」なんだ……ということなのだと思う。

「「教室よ。授業が始まる」
 そのまま、東谷さんは廊下を去っていく。時々、壁に手をつきながら。その背に、手助けも哀れみもいらないという意地を漂わせて」
(p242)

そしてその在り方は、

「「じゃあ、『R』の本当の意味は?」
 こちらは、瀬野さんにためらいは見られなかった。その意味を再確認するように、瀬野さんはゆっくり、力強く言う。
「『Resist』。『Refuse』。……『Rebel』」
 抵抗、拒絶、そして反逆」
(p190)

「「栞には〝R〟があしらわれていた」
 それがどうしたと言わんばかりに、松倉が続ける。
「憶えてるさ」
 栞にあしらわれた〝R〟について、瀬野さんはこう言っていた。――〈Resist〉、〈Refuse〉、〈Rebel〉。
「この写真は、〈解放〉だ」
 松倉の表情が引きつる。 解放は、〈Release〉――〝R〟」
(p328)

という形をとっていて。
先掲の「カルペ・ディエム」……「一日の花を摘め」。「今この瞬間を楽しめ」「今という時を大切に使え」といった態度と対照的なものとして提示されているのだろうと思えている。

 

そして、
薔薇の名前』に東谷図書委員長(おそらく今回の作中でその「名前」は描かれていない)の思いとその在り方が。
『幻の女』に瀬野麗の在り方や周囲に与える印象といったものが。
「夜の姉妹団」を『きれいで好き』と評して「何度も何度も読んでた」ことに櫛塚奈々美の人物像が託されているように。
『草の葉』、そしてそれから繋がる『いまを生きる』という作品を通じてメリーさん=北林洋子が受けたのだろう不条理な抑圧とその苦しみ、それでも追い詰められ、従順な羊として抑圧に殺されるくらいなら、と「意地」をみせ「切り札」を切ってみせた思いを僅かばかりには察することができるのかもしれないと思える。

 

これらもまた、色々と考えすぎかもしれないけど。

 

だが、しかし。

『栞と嘘の季節』は二人の図書委員を探偵役とし、栞をキーアイテムとし、関わる主要人物たちは皆"本を読む人"であり、その彼らが織りなす物語だ。

そんな作品の中で主要人物たちの心の極めて大事な在り方はあえて直接的な文章で語られずに、作中で挙げられた本や映画に託され秘されて在るのではないかと思える。

 

誰がどんな本を、いつどこでどのように読むか/読んだか……それはただ単に本の感想を言葉として口にしたり書くといったことだけではなく、例えばこの作品の書き出し、

 その人は本を丁寧に扱った。

 こわれものを置くようにそって、放課後の図書室に本を返していった。

(p7)

といったものも含め、時にその人について非常に多くを語る/語ってしまう。

だからこそ司書は(図書委員も)貸出履歴の秘密を厳に守る。また、そうあるべきとされている。

 

ただ、それでも普通の作品ならば、こうもその作品単体で完結せず、作中で触れた多くの作品に読者が手を伸ばしていくことを前提とした作りを取ることはあまり無いだろう。

でも、世の中には普通でない作品というものがある。

例えば……以下は北村薫『ミステリ十二か月』中公文庫版解説に書かせて頂いたことの自己引用となるのだけど。

「『空飛ぶ馬』から始まる一連の《私》の物語においては、シリーズを通じての名犯人こそ《私》であり、読者こそは彼女を理解する名探偵であるのだと信じます。

 個々の物語の謎とその解決と分かち難いものとして、描かれる風景や時の流れをもって、そして何より《私》が触れる数多くの本、落語、舞台、音楽、映画といった作品たちによって、《私》は"《私》とは何者であるか"という謎を語る。伏せられているのは、彼女の名前だけではない。

 更に独善を承知の上で言い切ってしまうならば、その謎を追うことこそ、北村ミステリとしての《私》の物語の醍醐味なのだと信じます」

米澤穂信『栞と嘘の季節』もまた、そうした系譜に属する作品なのだと思う。

 

だからこそ、物語の幕開け近くにおいてこうはっきり描かれてもいるのだろう。

 図書室の貸出履歴はコンピュータで管理されていて、誰がいつどの本を借り、延滞しているのか、すべてデータで保存されている。ただし、そのデータは誰も見ることができない。誰がどんな本を必要としたのかは人の心そのものを映し出し、それを覗き見る権利は誰にもないからだ。

p8

「誰がどんな本を必要としたのかは人の心そのものを映し出し」

そういうことなのだと思う。

 

なお、余談ながら、こうして作品の冒頭において"この作品はどういうものであるか"をある種ぬけぬけと、最後まで読み終えて振り返るなら実に直截に書き記すというのは例えば『黒牢城』においても同じ手法が取られているかと思う。

というか『黒牢城』は序章を丸々使いまさにそのことを書いているのだと思っている。

 

■以下、11/6追記。

そもそも作者である米澤穂信が作家としての自己を、本の話をもって語る人だ。

『米澤屋書店』はまず「ご挨拶より本の話をしませんか」という序章から、本の話を通じて米澤穂信という作家の在りようを語る一冊。

また『野性時代』2008年07月号、米澤穂信特集に収録された自ら挙げた

米澤穂信を作った「100冊の物語」

※リストのみならこちらで↓

米澤穂信を作った「100冊の物語」(野性時代) | バベルの会

の書名と並び、それぞれに寄せられたコメント、そしてそれを踏まえて一冊一冊、未読ならば読み、既読でも読み直していってみることくらい、(米澤作品そのものを読むことに次いで)米澤穂信という作家を面白く読んでいくために相応しい試みは、他にそうは無い。

米澤穂信という「作家を読む」上でもそうであるし。

例えばその代表作である古典部シリーズの部員四人の「キャラクターを読む」上でも(彼らの物語を綴った米澤作品そのものに次いで)最も面白いのは、ムック本『米澤穂信古典部』に収録された各々の本棚について見ていくことだろう。

例えば「千反田えるの本棚」は、これはもう、書籍リストの形をした叫びであり悲鳴だ。
この本棚の持ち主が「いまさら翼といわれても」と言ったわけだ。

たまらないものがある。

 

■前作『本と鍵の季節』関連