『ifの世界線 改変歴史SFアンソロジー』(石川宗生/宮内悠介/斜線堂有紀/小川一水/伴名練)感想

『ifの世界線 改変歴史SFアンソロジー

収録五編全てが非常に面白い。
中でも特に斜線堂有紀「一一六二年のlovin' life」伴名練「二〇〇〇一周目のジャンヌ」は物凄いなと思えたわけだけど。

まず、各作品そのものについて感想書きたいな、そうあるべきだよなと思えるのに、なにやら読んで自然に浮かんでくる他作品の連想や関連について触れたくなる作品が妙に多くもあった。

 

以下、各収録作についてそれぞれ感想。


1:石川宗生「うたう蜘蛛」

例えば石川宗生「うたう蜘蛛」。
蔓延する死ぬまで踊り続ける奇病に対し、ナポリ総督の要請に応じパラケルススが治療を約束する話なのだけど。

 

「『赤い靴』症候群ですね……」
「『ヒーラー・ガール』始まった」
「『三体』のマスゲーム計算じゃん」
異世界転生現代科学無双ならぬ現代音楽無双かよ」
シェイクスピア『お気に召すまま』の有名な一節(「この世は舞台、人はみな役者」)のかなり最悪なパロディ来た。言うまでもない前提として「ただし、私以外」って加えるな」

 

とかなんとか、脳内でなんか騒ぐ声がしてうるさい。

 

ただ、奇病の病状、そしてそれに無性に惹き込まれていくナポリ総督ペドロ・アルバレス・デ・トレドの姿の描き方がなんとも魅力的な一編でもあった。
パラケルススについては……この野郎は……うん……。

 

2:宮内悠介「パニック -----一九六五年のSNS

 

続いては宮内悠介「パニック -----一九六五年のSNS」について。

1965年にtwitterが普及してる並行世界な日本で開高健が(『ベトナム戦記』、)『輝ける闇』執筆のためベトナム戦争に従軍し取材していた所捕虜となりSNS上で「ジコセキニン!」と世界初の炎上を経験する事件とそれを巡る話なのだけど。

 

非常に面白く、オチは特に気に入ったものの。

「ごく個人的に最近「悪いインターネット」についての話、やや食傷気味なんだ……」ともつい思ってしまった。

 

つい最近『まず牛を球とします。』収録の「令和二年の箱男」を読んだばかりだったし。

『想像見聞録 Voyage』収録、森晶麿「グレーテルの帰還」も先月読んだところだったから。

 

またある意味当然に、米澤穂信ベルーフ〉シリーズ『王とサーカス』『真実の10メートル手前』(及び前日譚ともいえる『さよなら妖精』)のことを思いもした。

なんせ、まさに(「パニック -----一九六五年のSNS」の最後の台詞が突きつける)"その主題"を追究し続けているシリーズと思えるわけだから。

※上記はこちら↓の流れの中での言及。

なお、改変世界の諸々の描写がいちいち面白いのはさすがで。

例えばネトウヨのあまりの浅薄さと醜態を目にしたことで憑き物が落ち長生きした三島由紀夫が2000年代にしみじみ当時を述懐する姿はとても笑えてよかった。

 

■追記

最後に付け加えるとこの「パニック -----一九六五年のSNS」は話の構成というか語りの手つきとして。
終盤までお概ね語り手に作者自身も重ねるような仕草を交えつつ、作家になる前もなった後も危険な土地に赴き「匂い」を感じたいという、開高健の方に立場的にも心情的にも寄った上で。軽薄無恥、無責任な作中及び現代日本SNSの空気に批判的に話を運んでいくわけだけれど。
最後の最後に作中の語り手もそれに重なる作者も背負投げを喰う、自ら喰わされる様を描くという形になっているかと漠然と思える。

 

ただ、ある意味でそうした態度もまた、相当によく見かける類型的なネット仕草、SNS仕草の匂いはするかとも思う。

 

より目立ち蔓延る類型……友/敵の二分法(賢い私たち/愚かなあいつら)で世界を粗雑に語り、敵陣営と定めた相手の最も愚かな相手、あるいは叩きやすい目立つ相手の目立つ行いの過ちを(大した過ちがなければ、それを捏造してでも)あげつらい、自身や友/味方の過ちは決して認めずごまかしたり押し通したりする……そういう連中に心底うんざりした上で。
蔓延する愚劣さ卑劣さに呆れを隠せない中でも、しかし一方で、自分たち、もっと言えば自分にはそういった愚劣さ卑劣さは無縁のものだろうか?そうではないだろう……「やつら」とは別種のものであれ、私たち/私にも私たち/私なりの逃れがたいそれがきっとある筈だ。
それを慎重に執拗に見出そうと試み向き合わあおうとしないようでは、知的だとも誠実だなどとも到底言えたものではない……。

 

なんというか嫌になるほど、それこそ我が事のようによく分かってしまう気がする。
自分の中にも周囲にもあまりに見慣れた在り方、立ち居振舞いだなあ、という。

 

……では、そういうものにもそれはそれで飽き飽きし、諸々屈託を抱えてしまうとして。ならばどうすればいいのか、というのはなかなかに難しい問いかけではあるのだけど。

まあ、もちろん。
「書を捨てよ、町に出よう」ならぬ「SNSを捨てよ、町に出よう」はいつだって相当真剣に検討されて良い答えの一つではあるのかもしれない。

 

3:斜線堂有紀「一一六二年のlovin' life」

 

そして、斜線堂有紀「一一六二年のlovin' life」。
並行世界の平安時代、和歌は「詠語」に訳した上で発表するのが宮廷マナーであり、式子内親王は優れた詩才を秘めつつも英語もとい詠語へ己の詩想を翻訳する力に欠け全く和歌を詠むことができず宮中で軽んじられていた。

そんな式子と図抜けた「詠語」の才を持つ侍女・帥(そち)の出会いが全てを一変させていく。


ちょうど『帝国という名の記憶』読み進めている

ところなので面白かったのと、どこか『雨月物語』の「菊花の約」を思い出させる場面も良かった。

……いや、この作品の凄さはもうなんかそんなものではないのだけど。

ちょっと簡単になど言い表せる気がしない。

とにかくまず、これはぜひ一度読んでみて欲しい。

 

斜線堂有紀作品、まだ『楽園とは探偵の不在なり』及び、SFマガジン掲載の

「回樹」

「骨刻」

「奈辺」

それに

「ドッペルイェーガー」(『狩りの季節 異形コレクションLII』収録)

くらいしか読んだことがなかったのだけど、考えてみればいずれも独特な面白さだった。

近いうちに少しずつ読んでいってみたい。

 

4:小川一水『大江戸石郭突破仕留』

 

4作目は小川一水『大江戸石郭突破仕留(おおえどいしのくるわをつきやぶりしとめる)』。

ちょうど連日『すずめの戸締まり』感想書き綴ってる中で

これ読んだの、ある意味出会い頭の事故という感じもした。

いや、これもとても面白かったのだけど。

 

5:伴名練「二〇〇〇一周目のジャンヌ」

そして大トリを務めるは伴名練「二〇〇〇一周目のジャンヌ」。
これは『何度、時をくりかえしても本能寺が燃えるんじゃが!?』もとい、

 

"何度神のご意思に応えようとあらゆる手立てを尽くしても、世界をどのように塗り替えても、死ぬとそれまでの記憶を抱えつつ火刑当日の朝に戻るのですが神よ、私に何を為せとお望みなのか"

 

という話をベースとして自分で思い当たる範囲だと例えば、

今現在、一部のなんとも非常にアレでうんざりさせられずにはいられない人たちが「歴史戦」(とか「思想戦」)と呼ぶような話や。

「ラギッド・ガール」(『ラギッド・ガール』収録)で語られた

"『コレクター』を読む私がミランダを殺していることに気づく"

といった話(「「私が本を読んで……読みすすめることでミランダは死んだんだ、って」)。

それにケン・リュウ「歴史を終わらせた男──ドキュメンタリー」(『宇宙の春』収録)の(量子力学?でアプローチする)"歴史の真実"という題材

(※詳しくは以下の冬木さんの作品紹介記事を参照)

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

などを組み合わせたのかな……と思える作品であるわけだけど。


その上で読者への情報開示のコントロール、事態の変化を最初は緩やかに、そしてやがてめちゃくちゃなエスカレートをしていく様を自在に描く描写力もまた見事で。

傑作揃いのアンソロジーを締めくくるに相応しい作品と思えた。