映画『RRR』、ナートゥのダンス場面とラーマの決断の意味について

映画『RRR』は最高に愉しいインドの大作映画。

観てすぐの感想これで。

この圧倒的な面白さの前には言葉などあまりにも貧相、不要に過ぎるかと思えてもいたのだけれど。

 

非常に残念なことに、これだけただしっかりと作品本編を観て楽しめばいい作品でも、作品に対してとんでもなく失礼かつ勿体ないものだとか思えない観方があるということも目にしてしまい。

上記の流れからtwitterでも書いた話ではあるのだけれど「こういう事実誤認は論外だよね」という話と、そしてそれ以上にナートゥのダンス場面とラーマの決断の意味については、こう考えると面白いのではないかという解釈についてまとめて残しておきたいとも思わされた。

 

以下、先のtweetから続く話。

以上、誠に無粋ながら。

 

ともあれ映画『RRR』を劇場、特にIMAXの大画面で観ること以上に愉しいエンターテイメントの体験はそうは無いと思う。

ありがとう、映画『RRR』。

 

■余談

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『ifの世界線 改変歴史SFアンソロジー』(石川宗生/宮内悠介/斜線堂有紀/小川一水/伴名練)感想

『ifの世界線 改変歴史SFアンソロジー

収録五編全てが非常に面白い。
中でも特に斜線堂有紀「一一六二年のlovin' life」伴名練「二〇〇〇一周目のジャンヌ」は物凄いなと思えたわけだけど。

まず、各作品そのものについて感想書きたいな、そうあるべきだよなと思えるのに、なにやら読んで自然に浮かんでくる他作品の連想や関連について触れたくなる作品が妙に多くもあった。

 

以下、各収録作についてそれぞれ感想。


1:石川宗生「うたう蜘蛛」

例えば石川宗生「うたう蜘蛛」。
蔓延する死ぬまで踊り続ける奇病に対し、ナポリ総督の要請に応じパラケルススが治療を約束する話なのだけど。

 

「『赤い靴』症候群ですね……」
「『ヒーラー・ガール』始まった」
「『三体』のマスゲーム計算じゃん」
異世界転生現代科学無双ならぬ現代音楽無双かよ」
シェイクスピア『お気に召すまま』の有名な一節(「この世は舞台、人はみな役者」)のかなり最悪なパロディ来た。言うまでもない前提として「ただし、私以外」って加えるな」

 

とかなんとか、脳内でなんか騒ぐ声がしてうるさい。

 

ただ、奇病の病状、そしてそれに無性に惹き込まれていくナポリ総督ペドロ・アルバレス・デ・トレドの姿の描き方がなんとも魅力的な一編でもあった。
パラケルススについては……この野郎は……うん……。

 

2:宮内悠介「パニック -----一九六五年のSNS

 

続いては宮内悠介「パニック -----一九六五年のSNS」について。

1965年にtwitterが普及してる並行世界な日本で開高健が(『ベトナム戦記』、)『輝ける闇』執筆のためベトナム戦争に従軍し取材していた所捕虜となりSNS上で「ジコセキニン!」と世界初の炎上を経験する事件とそれを巡る話なのだけど。

 

非常に面白く、オチは特に気に入ったものの。

「ごく個人的に最近「悪いインターネット」についての話、やや食傷気味なんだ……」ともつい思ってしまった。

 

つい最近『まず牛を球とします。』収録の「令和二年の箱男」を読んだばかりだったし。

『想像見聞録 Voyage』収録、森晶麿「グレーテルの帰還」も先月読んだところだったから。

 

またある意味当然に、米澤穂信ベルーフ〉シリーズ『王とサーカス』『真実の10メートル手前』(及び前日譚ともいえる『さよなら妖精』)のことを思いもした。

なんせ、まさに(「パニック -----一九六五年のSNS」の最後の台詞が突きつける)"その主題"を追究し続けているシリーズと思えるわけだから。

※上記はこちら↓の流れの中での言及。

なお、改変世界の諸々の描写がいちいち面白いのはさすがで。

例えばネトウヨのあまりの浅薄さと醜態を目にしたことで憑き物が落ち長生きした三島由紀夫が2000年代にしみじみ当時を述懐する姿はとても笑えてよかった。

 

■追記

最後に付け加えるとこの「パニック -----一九六五年のSNS」は話の構成というか語りの手つきとして。
終盤までお概ね語り手に作者自身も重ねるような仕草を交えつつ、作家になる前もなった後も危険な土地に赴き「匂い」を感じたいという、開高健の方に立場的にも心情的にも寄った上で。軽薄無恥、無責任な作中及び現代日本SNSの空気に批判的に話を運んでいくわけだけれど。
最後の最後に作中の語り手もそれに重なる作者も背負投げを喰う、自ら喰わされる様を描くという形になっているかと漠然と思える。

 

ただ、ある意味でそうした態度もまた、相当によく見かける類型的なネット仕草、SNS仕草の匂いはするかとも思う。

 

より目立ち蔓延る類型……友/敵の二分法(賢い私たち/愚かなあいつら)で世界を粗雑に語り、敵陣営と定めた相手の最も愚かな相手、あるいは叩きやすい目立つ相手の目立つ行いの過ちを(大した過ちがなければ、それを捏造してでも)あげつらい、自身や友/味方の過ちは決して認めずごまかしたり押し通したりする……そういう連中に心底うんざりした上で。
蔓延する愚劣さ卑劣さに呆れを隠せない中でも、しかし一方で、自分たち、もっと言えば自分にはそういった愚劣さ卑劣さは無縁のものだろうか?そうではないだろう……「やつら」とは別種のものであれ、私たち/私にも私たち/私なりの逃れがたいそれがきっとある筈だ。
それを慎重に執拗に見出そうと試み向き合わあおうとしないようでは、知的だとも誠実だなどとも到底言えたものではない……。

 

なんというか嫌になるほど、それこそ我が事のようによく分かってしまう気がする。
自分の中にも周囲にもあまりに見慣れた在り方、立ち居振舞いだなあ、という。

 

……では、そういうものにもそれはそれで飽き飽きし、諸々屈託を抱えてしまうとして。ならばどうすればいいのか、というのはなかなかに難しい問いかけではあるのだけど。

まあ、もちろん。
「書を捨てよ、町に出よう」ならぬ「SNSを捨てよ、町に出よう」はいつだって相当真剣に検討されて良い答えの一つではあるのかもしれない。

 

3:斜線堂有紀「一一六二年のlovin' life」

 

そして、斜線堂有紀「一一六二年のlovin' life」。
並行世界の平安時代、和歌は「詠語」に訳した上で発表するのが宮廷マナーであり、式子内親王は優れた詩才を秘めつつも英語もとい詠語へ己の詩想を翻訳する力に欠け全く和歌を詠むことができず宮中で軽んじられていた。

そんな式子と図抜けた「詠語」の才を持つ侍女・帥(そち)の出会いが全てを一変させていく。


ちょうど『帝国という名の記憶』読み進めている

ところなので面白かったのと、どこか『雨月物語』の「菊花の約」を思い出させる場面も良かった。

……いや、この作品の凄さはもうなんかそんなものではないのだけど。

ちょっと簡単になど言い表せる気がしない。

とにかくまず、これはぜひ一度読んでみて欲しい。

 

斜線堂有紀作品、まだ『楽園とは探偵の不在なり』及び、SFマガジン掲載の

「回樹」

「骨刻」

「奈辺」

それに

「ドッペルイェーガー」(『狩りの季節 異形コレクションLII』収録)

くらいしか読んだことがなかったのだけど、考えてみればいずれも独特な面白さだった。

近いうちに少しずつ読んでいってみたい。

 

4:小川一水『大江戸石郭突破仕留』

 

4作目は小川一水『大江戸石郭突破仕留(おおえどいしのくるわをつきやぶりしとめる)』。

ちょうど連日『すずめの戸締まり』感想書き綴ってる中で

これ読んだの、ある意味出会い頭の事故という感じもした。

いや、これもとても面白かったのだけど。

 

5:伴名練「二〇〇〇一周目のジャンヌ」

そして大トリを務めるは伴名練「二〇〇〇一周目のジャンヌ」。
これは『何度、時をくりかえしても本能寺が燃えるんじゃが!?』もとい、

 

"何度神のご意思に応えようとあらゆる手立てを尽くしても、世界をどのように塗り替えても、死ぬとそれまでの記憶を抱えつつ火刑当日の朝に戻るのですが神よ、私に何を為せとお望みなのか"

 

という話をベースとして自分で思い当たる範囲だと例えば、

今現在、一部のなんとも非常にアレでうんざりさせられずにはいられない人たちが「歴史戦」(とか「思想戦」)と呼ぶような話や。

「ラギッド・ガール」(『ラギッド・ガール』収録)で語られた

"『コレクター』を読む私がミランダを殺していることに気づく"

といった話(「「私が本を読んで……読みすすめることでミランダは死んだんだ、って」)。

それにケン・リュウ「歴史を終わらせた男──ドキュメンタリー」(『宇宙の春』収録)の(量子力学?でアプローチする)"歴史の真実"という題材

(※詳しくは以下の冬木さんの作品紹介記事を参照)

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

などを組み合わせたのかな……と思える作品であるわけだけど。


その上で読者への情報開示のコントロール、事態の変化を最初は緩やかに、そしてやがてめちゃくちゃなエスカレートをしていく様を自在に描く描写力もまた見事で。

傑作揃いのアンソロジーを締めくくるに相応しい作品と思えた。

 

マ・ドンソク主演『犯罪都市』『犯罪都市 THE ROUNDUP』あと関連で『イコライザー』1&2感想メモ

「ドンソクさんが人を殴ることで真実に迫っていく暴力わらしべ長者の理想形」

(by加藤よしき)

と評された『犯罪都市 THE ROUNDUP』及び前作『犯罪都市』関連の感想メモです。

 

犯罪都市(字幕版)

 

 

映画『漁港の肉子ちゃん』感想

 

映画『漁港の肉子ちゃん』。

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劇場で観なかったこと、心底後悔してる。
「普通」に描いていったらあのラストの(幾つもの呪いも解く)祝福、飲み込めないというか。いっそ許せないと思う人すら少なくないかと思う。でも、この作品なら描き、届けることができる。そういう最高の喜劇なのだと思う。

映画『すずめの戸締まり』ネタバレ感想

 

まっすぐで、まっとうで、とても良い映画と思う。
描くものが、描き方が真摯かつ明確。

※以下、映画の内容にいろいろ触れていくので、既に観た方のみに閲覧をお勧めします。

 

 

『すずめの戸締まり』は何を描いているか。

はっきりしている。
"震災の鎮魂"という話だ。
描くのは"場所の鎮魂"……かつて人とその思いで溢れ、今は廃れた場所たちの。

そして"その時"を前にその朝に、

おはよう。
おはよう。
いただきます!
いってきます。
ごちそうさま。
いってらっしゃい。
早く帰ってきてね!
気をつけていっておいで。
いってくるね!
いってきます。
いってらっしゃい。
いってきます。
いってきます。
いってきます!

(小説『すずめの戸締まり』p342-343)

行きて、そして帰ると当然に全く疑いなく思っていた人々、その少なからぬ数が帰れず、また、体が死んだり傷ついたりしなかったとしても、昨日まで、今日も、そして明日からも生きていく場所はもう昨日までの場所ではない、そんな場所の。

 

この映画は鈴芽と草太が九州は宮崎から旅立って日本を縦断し東北は宮城まで至るロードムービーのような色合いも持っている中、行く先々で確かにその土地土地にしっかりと立つ人々の生活が力強く描かれ続けていく。その描写の数々も、そこに繋がっている。

 

そして、その時を経てなお"偶然に"生き延びた人間を救い得るのは、(多くの人に支えられたり思い思われたりは勿論尊くも大切なことでありつつ、それでも)まず他の誰でもなく、その後それでも生きて年月を重ねたその人自身とも描かれる。ある種、とても誠実な姿勢と思う。

「朝が来て、また夜が来て、それを何度も繰り返して、あなたは光の中で大人になっていく。必ずそうなるの。それはちゃんと、決まっていることなの。誰にも邪魔なんて出来ない。この先に何が置きたとしても、誰も、すずめの邪魔なんて出来ないの」
(中略)
「あなたは、光の中で大人になっていく」

(p356)

※11/13追記

「すずめの戸締まり、道中の千果とかルミが別れ際にハグしてくれてたのが印象的だったけど、あれって「今の自分」は、他の人も抱きしめてくれる、ってことなんだな。過去は自分が抱きしめてあげるしかないけども、っていう」

という他の人の感想を見かけた。

きっと、その通りだと思う。

※追記終わり。

 

それに人々の暮らしを無惨に壊した自然の猛威には、別に悪意なんてものがあるわけではない。
仮にもし、意思なき現象でなくそこに天の意思なり運命なりなんなりが関わっているのだとしても、それは文字通り人ならざるものとの間の不幸なすれ違いだったのかもしれない。

「だいじんはね------すずめの子には なれなかった」
(中略)
「すずめのてで もとにもどして」

(p337-338)

ひとつとても大事なことなのだけど。

ダイジンは悪意をもって厄災を撒き散らす存在「ではない」。

当人的には

”要石としての代替わりは済ませたよ、役目は果たしたよ、「うちの子になる?」って言ってもらえたから、だからダイジンは言われた通りすずめの子になって、これから幸せに暮らすんだよ。仕方ないから引き継ぎとして、開きそうな後ろ戸に導いてやるくらいはするよ、ねえ、早く要石引き継いだ自覚をもって、仕事して。役目でしょ”

という感覚?なのかなと思う。

人と感覚も知性も倫理もおよそ異なるであろうダイジン------「大臣」でありそれに「大神」でもある存在なので、あまり人間的な思考や感情に引き寄せて捉え過ぎるのもまずいのだろうけれど。

 


また、仮に多くの人々の中で、その内の限られた誰かが自然や運命の猛威に向き合い、鎮める役目を負うのだとしても。
その人は非人間じみた、使命に殉ずるブリキの英雄である必要はない。むしろ、そうでなく人間であるのがいい。

「なんと……!」という台詞を繰り返し、親しみ深く魅力的に発してみせた宗像草太役松村北斗さんは特にその面において優れた演技をみせていたと思う。
ついつい、果たすべき使命と関係ない、幼い子どもの世話に手こずる鈴芽をみかねて彼らと遊んでやるとか、そういった行動を自然にとってしまう。
「閉じ師」の使命を果たす一方、これから人生を生きていく子どもたちを教える教職につくべく、しっかりと身の回りを整え地道に懸命に励む生活を続けていた様子。
悪友・芹澤(ここぞ、という時にはやはりまた神木隆之介に頼る新海誠。いいと思う)の向ける思いや振る舞いから察せられる、年相応の青年としての人間臭さとだからこその魅力。

そういう人間だと描くからこそ、

消えたくない。
もっと生きたい。
死ぬのが怖い。
生きたい。
生きたい。
行きたい。
もっと------……

(p332-333)

という叫びに命が宿るのだし。

「------命がかりそめだと知っています」
(中略)
「死は常に隣にあると分かっています。それでも私たちは願ってしまう。いま一年いま一日、いまもう一時だけでも、私たちは永らえたい!」

(p343)

という祝詞にも、あるべき言霊が宿り得たのだろうと思う。


そんな流れの上で描かれた「行きて帰りし物語」という王道。
その在り方を、いつもの見事な背景美術やキャラクターの動きや仕草の作画ががっちり支える。
なんとも、まっすぐで、まっとうで、とても良い映画だと思えた。

 


ところで小説版よりも、映画で観ると以下の二箇所がある種の反復であり対比なのが分かりやすい。

1:まず、草太が自分こそがダイジンに代わる要石とされてしまっていたのだと気づく場面。

「ようやくわかった-----今まで気づかなかった-----気づきたくなかった------」
(p206)

2:次に、常世で鈴芽が幼い日の自分に会う場面。

 ------そうか、と私は思う。
 やっと分かった、と私は思った。
 知りたくなかった。でもずっと知りたかった。
 あれはお母さんだとずっと思っていた。いつかまた会えると、心のどこかで信じていた。同時に、もう会えないことも本当はずっと知っていた。
(p350)

とっくに気づいて/知っていながら、気づきたく/知りたくなかったことという意味で反復。
それに向き合い、諦め歩みを止める場面と、歩ませるべく抱きしめ送り出す場面という意味で対比。


なお前者の少し前、小説では

 草太さんにぎゅっと顔を寄せ、私には聞き取れない言葉で何かを短く囁く

(p205)

と書かれていたくだり、映画版では一応小声ではあるけどしっかり聞き取れるようちゃんと発声されていたの、媒体の違いによる演出の違いでもあるし、ある種のサービス精神かとも思えた。
事前に小説版を読んできて頂いていた皆さん。きっと分かっていたかと思いますが、はい、答え合わせです、という。

 

ちなみに類似であり対比である関係としては。

草太は傷つき溢れてはいけないものが溢れそうになる土地を閉じて回る「閉じ師」であり、一方で子どもを育て送り出す教師として生きたいとも思う青年で。

鈴芽は亡くなった母とも、共にに暮らす叔母・環とも同じく、傷ついた人を看て回復したら送り返す看護師を志望していて、草太と最初に関わる際に関わる理由として掲げてみせたのもそのことだったということもある。

 

 

なお、ここまで『すずめの戸締まり』が「どのような作品であるか」について書いてきたけど。一方で「なにでは無いか」も重要だとも思う。

"恋か世界か選べ/選んだ"

でも、

"恋が世界を救う/救った"でもない。

どちらでもない、そういうのじゃないんだよ、というのは『すずめの戸締まり』という作品の理解において大事なことかもしれない。

 

例えば岩戸鈴芽が"誰より好きで、大事で、何よりその人を喪うのが怖いという人にも出会う"というのも……常世で出会った幼い日の鈴芽が、今は世界が黒一色に塗り潰され先など何もないように思えても"それでも”多くのものに出会い大人になっていく、必ずそうなっていく中で、あくまで草太との出会いも恋愛もその一部なのだ、という。

 

作品外の話持ち出すのは作品解釈として微妙でもあるのだけど、パンフレットで新海誠監督は

「今回は恋愛ではない映画にしたいというのがありました」

とまでコメントしている。

勿論、別にこのコメントがなくとも素直に作品を観てもそう思えるけれども。
ともあれ、これだけ言っているんだから、そこは監督の言葉を汲んで作品に接するというのも良いのでは。

ところでそれはそれとして(?)新海誠神木隆之介を深く愛しているし、神木隆之介もまたその愛に見事に応える、美しい光景だ……とは『すずめの戸締まり』観ていてつい思えたりはしたな……。

 

そんな事情も踏まえつつ、序盤、出会いの場面での「かんたん作画」とその用い方、とても好きだなと思う。

劇場映画で、その大事な大事な主役二人の出会いの場面で、あえて繰り出している「かんたん作画」なんだ。

もちろん、後々との落差が素晴らしく面白いという話でもある。

またこの作品において鈴芽と草太は旅路を共にし大きく心を通わせてはいるものの、その関係が戦友、相棒のようなものなのか、次第に恋愛になっていきもするのかも含め、まだまだこれから、二人の物語はまだまだ始まったばかりなのだ、ということでもある。

 

■追記(2022/11/12)

芹澤朋也というキャラクターについて。

※ちなみに「6:(サダイジンと共に)鈴芽と環の和解の実質、お膳立てをする」についてはこの感想でこの後「余談」として書いている中でいろいろ書いています。

 

なお「3:鈴芽や環たち事態の中で動く者や事態を「外」から客観的に観る視点も担う」という点において一つ、極めて重要なのはこちらの記事

で言及されている芹澤の「このへんって、こんなに綺麗な場所だったんだな」という感想と鈴芽の反発かと思う。

 『すずめ』を観たとき、「これが映像化されるのか」と最も衝撃を受けたのは、その戦いのシーンではなく(エヴァ使徒との戦いを思い出すような戦闘で、壮大で良かったですが)、新海誠の代名詞のひとつである、美麗な背景に対してでした。被災地の今が、「美しく」描かれるのです。

 草太の親友の芹澤の運転で向かう被災地の旅の途中、地震を感じ、すずめは芹澤に車を止めるよう言います。扉が開いてしまっている場所があるのではないか、ミミズがいるのではないか、と考えたからです。

 画面の情報から判断すると、その場所は福島県双葉町近辺です。『すずめ』は、廃墟を探し、悼む物語ですが、そこでは町全体が廃墟になっています。廃墟と地震が合わさる場所には必ずミミズがいた本作において、ここにはいません。この展開にも震えました。ここではただ単に、地震が起こっているのです。『すずめ』は、ここにおいて現実とシンクロします。原発事故の影響で住むことができなくなり、今でも小さな地震に見舞われる場所は、今現在、リアルタイムで、私達の現実に存在しているからです。

 すずめと芹澤は、丘の上から自然に覆われたその町の風景を眺めます。誰もいなくなった廃墟の町と海を眺めたとき、芹澤は「このへんって、こんなに綺麗な場所だったんだな」と語ります。それに対して、双葉市の住人ではないですが東日本大震災の被災者であるすずめは、これのどこがきれいなのか、と呟くようにして反発します。すると、カメラが動き、今まで見えていなかった福島第一原発の姿が遠くにぼんやりと映り込むのです。

 このシーンにおいて、実景を美しく描くことに執念を燃やしてきた新海誠は、その美しさが孕む両義性に意識的になっています。誰かにとっての悲劇の地が、他の誰かにとっての美しさとして映りうるということ。その皮肉自体は、『君の名は。』でも語られていたものではありました。しかし、災害を忘却していた瀧を主人公としていたその作品においては、その部分はアイロニカルな印象よりもむしろ陶酔の気持ちをもたらしていました。

ここで鈴芽は「呟くようにして反発」しつつ、自分にとってのその風景の意味を言葉で芹澤に説明をしようとはしない。

言葉の説明などで簡単に埋まるような溝ではない、埋めてよい溝ではないからだろうと思う。

 

 

■追記(2022/11/14)

「閉じ師」について。

「ダイジン」について。

「戸締まり」について。

 

 

■余談

 

余談だけど鈴芽が回想する母に自分だけの椅子を作ってもらい贈られた温かな思い出。

あまりにも今期大好評放送中の大傑作TVアニメ、DIYこと

 

『Do It Yourself!! どぅー・いっと・ゆあせるふ』

でありすぎて、なんだかすこし、笑えてしまった。

なんせ、先程も書いたけどこれ「その時を経てなお"偶然に"生き延びた人間を救い得るのは、(多くの人に支えられたり思い思われたりは勿論尊くも大切なことでありつつ、それでも)まず他の誰でもなく、その後それでも生きて年月を重ねたその人自身とも描かれる」話であったわけで。

幼い鈴芽を救ったのは、そして救い得たのは、そこから年月を重ねた鈴芽自身だった。

すなわち、

なんだよ!!

 

……なお、このまま話を放り出すのは気がかりでもあるので更に付け加えると。

 

自分を救えるのは自分だけ、というのは"よし、がんばっていこう!"みたいな無責任なポジティブさでなく。

 

周りが善意をもって良くしてくれても、あるいは悪意や無関心を向けてきても、なんであれ抱え込まざるをえない屈託が、簡単に整理などできない思いがどうしたってあり。
そうするには必然的に多くの時間も要するだろうけど、最終的には自分で向き合うしか、自分で自分を救うしか無いのだ、というある種の諦念も多く滲んだ極めて誠実な認識であるのだと思う。

 

まず鈴芽が己の都合を身の安全を命さえも顧みず危地にためらわず、むしろ求めるように飛び込んでいくのは明らかにサバイバーズ・ギルトの現れだろう。それは数々の思い切りが良すぎる行動の端々からも伺えるし、その上で映画でも小説版でも草太の祖父と鈴芽の病室での会話の中で、強く滲み出ていることでもある。

また折に触れて滲ませるように、親を喪い叔母の環の世話になり多くの負担や心配をかけてしまっていること、そうでないと生きられなかった/生きられない自分にも大きな屈託を抱いている。

例えば小説版序盤、草太と出会う日の出かける前の朝の描写などはその滲ませ方がとても巧くもある。

鈴芽は「お天気お姉さん」をただなんとなく「ちょっと好き」なわけではなくて。

「雪国めいた肌の白さが、なんとなく北国の出身かなと思わせる」人が「イントネーションは完璧な標準語」で喋る様は、故郷・宮城を離れ九州・宮崎の叔母の家で暮らす自分と重なるから。

そこに叔母・環さんがかける「宮崎弁」は「ちょっと責めるような口調で」「私が勝手にそう感じるだけかもしれないけど」と響く。

お弁当を「忘れてしまう」こともそれで「すこしだけ解放感がある」ことも「Lサイズのランチボックスを、私は手渡される。それは今日もずっしりと重い」というのも、鈴芽の屈託の反映であり、それをかなりの程度自覚してもいる。

「環さんデート!?」という呼びかけも……「環さん」という他人行儀な呼び方、そして「デート!?」と盛り上がるさまは年頃の女子高生らしくそういう話題に目がない……というより、まだ自分も若かった身で4歳の姉の子を抱え、いわゆる結婚適齢期をその世話に追われつつ過ごしてきた叔母に向ける、自分の人生を生きて欲しい、そして自分が叔母のあるべき人生を奪ってしまっているという引け目を無くすことはできなくても(これまで重ねた過去はどうあっても変えられない)せめて薄めて欲しいという思いが強いだろう。

小説版ほどではなくとも、映画版においても学校で弁当を食べる場面などで、そうした微妙な感情はよく描かれてもいる。

 

一方の環さんも多くを抱えていることは、鈴芽・芹澤と共に三人で鈴芽の故郷へ向かう中、サダイジンに取り憑かれることで押し隠した思いを表に引きずり出されての叫びによく示されている。

そして"口に出してしまったそんな思いは嘘だ/偽りだ/間違いだ"と片付けるのでなく。

こうしっかりと受け止めることでこそ、人は自分から自分を救い得るのだと描かれているのだと思う。

鈴芽の側の描写も諸々繊細である中、

何本か混じった白髪に、私は初めて気づく。

あたりも、ベタではあるけど良い描写。

 

なお先だって「ダイジンは悪意をもって厄災を撒き散らす存在「ではない」」ということを解説したけれど。

ここで鈴芽が気づいたように、同様にサダイジンもまた「悪」なる存在ではない……むしろ、ありがたい神的存在であるというのも大事なところ。神意というのは単純には捉えがたいものだから。

ただ、これは映画版だけだと、やや伝わり難いことかもしれないとも少し思う。少し後の「ミミズ」に対するサダイジンの奮戦などから十分察せられることではありつつ。

それと旅路の途中での子守や、幼児のようなダイジンに翻弄されることで、これまで叔母に保護され(きっと幼い頃からいろいろ負い目を感じ大人しくは振る舞いつつも)振り回してきた鈴芽は、保護し振り回される立場も体験・体感できたことにもなる。そうしたことも踏まえた上での和解なのかなとも思う。

 

■与太話


 

2021年Youtube配信のオリジナルアニメ「Artiswitch(アーティスウィッチ)」感想

サンライズ×アソビシステム共同制作のオリジナルアニメ「Artiswitch(アーティスウィッチ)」。

Youtubeで配信された全6話の各再生数は数十万回を記録してはいるけど、ユニークな面白さに比して余り話題にはなっていなかった印象。

『ぼっち・ざ・ろっく!』シリーズ構成&全話脚本の吉田恵里香さんがやはり、全話の脚本を担当していた。言われてみれば。

せっかくなので当時の感想等を掘り起こしてまとめてみた。