映画『南極料理人』ネタバレ感想。堺雅人が試されるにもほどがある大地

映画『さかなのこ』の「好き」を一心に追い求める尊さを描きつつ、同時に「好き」がどれだけ暴力的だったりするかという側面もがっつり描きぬいた物語がとても面白く、強く関心を引かれたため、沖田修一監督の過去作品も幾つか観ていっている。

「主人公の在り方がミー坊にも通じるところがある、ミー坊はいわばアナザー世之介だ」と幾つか感想も上がっていて、観てみればその通りと思えた『横道世之介』。

 

追い求めてきた「好き」をいよいよ叶えられる貴重な立場、映画監督になりながら自信を無くしトラブル続きの撮影に打ちのめされていた小栗旬が撮影現場の山林での一人の木こり/役所広司との出会いを通じて立ち直り一人前へと育っていき、役所広司も思いもかけない自分の「好き」を見出しそれに周囲を巻き込んでいく『キツツキと雨』。

 

そして沖田監督の出世作とされる『南極料理人』。

➡『南極料理人』Netflix視聴ページ

これが一際、良かった。

終始明るくユーモアに溢れ、コミカルにおっさんたちのワチャワチャを描き出しつつ……同時に一人の人間の大事な尊厳がゴリゴリゴリゴリ削られ続け、微笑みながらそれを乗り切りつつも、ふと心が緩みようやく「帰ってきた」と思えた瞬間、そこに居た間どれだけ大切なものを封じ抑え込んでいたのかに気づく物語が描かれているという構成のえげつなさは正に『さかなのこ』の監督の手になるものだと大いに納得もさせられた。


映画『南極料理人』と原作本二冊を併せてみて行くと原作のエピソードの翻案ぶり、そして人物を例えば一人をベースにしつつ色々変えたり膨らませたり、それに他の人のあれこれを混ぜ合わせてのキャラクター造形もとても面白い。

例えば主演・堺雅人演じる「南極料理人」にあたる原作の作者は西村淳という名前は引きつつも似ても似つかぬ豪快なおっさんで、映画で豊原功補が演じている福田ドクター(なんかこの人物はモデルとなる人物との一致度?が際立って妙に高い印象も……)と似たもの同士意気投合するような人で。

 

映画に取り入れられている水浪費犯摘発話では「地獄の門番のような形相をした私の強制捜査」(『面白南極料理人』p168)をしていたりするわけだけど(映画ですごい目つきで睨みこの後追いかけまわすのは、小浜正寛演じる平林隊員)。

その人物像のベースは(映画では高良健吾が演じている兄やんこと川村隊員について語った)『面白南極料理人』p328のこのくだりなのだと思う(すぐ後に続く話は正に対照的な実在の西村淳さんの姿を伝えてもいる)。

概ねこの一節から、堺雅人演じるあのキャラクターを立ち上げていく手腕に痺れる。

 

そして映画での南極料理人堺雅人の描写でとにかく面白いのはこの「ほんとの自分の感情を包み隠して、隊員たちのために立ち回」る様子だと思えて。
この映画最大の見せ場二つ……「胃にもたれる」と、最後の最後に口をつくあの台詞と場面は共に堺雅人がそこまでどんな思いを微笑みの下に押し隠してきたかを一つ一つ辿っていくことでその度ごとに味わい深くなると思えている。

 

 

以下、映画冒頭から順を追って、堺雅人の様子を追い、紹介していきたい。

(添付画像にNetflix版での再生時間もだいたい載せているので、気になる場面は前後含め確認してみるのも面白いかと思う)。

 

序盤7分、丁寧に盛り付けまで神経をつかって繊細に料理する堺雅人。薬指に光る指輪。

マヨネーズ、どっばー。それを見る雅人の目つき。

俺は、なんでもかんでもご飯にまとめて乗っけたるわー。
俺は、醤油、どっぱーー。

それを見つめる雅人。

基地内での雅人とその料理の扱われ方、それに本来、だいぶ神経質だったりもするんだろうなという性格が序盤から伺われる。

 

続いての場面。

心血注いで丁寧に、具に遊び心も交えておにぎりを握る雅人。

ワルキューレの騎行」をBGMにみんな、食べて食べてー!とアナウンスする雅人。氷の黙示録的地獄に温かい潤いを。料理人の心意気。

がっつく隊員たち。満面に歓びを湛えた雅人の顔。

「あの 主任は…」

だが、しかし。雅人の心づくしの温かさを無下にする人間が、約一名。

 

零下6,70の寒さの中、おにぎりと温かさを届けに走る雅人。

でもそんな雅人の心の温かさすら、南極の寒さは凍り付かせ無為にしてしまう。

「帰りたいわー」「西村さん一緒に脱走しない?」
ぼやきまくる御子柴主任(古館寛治)。

原作を読むとこのぼやき倒しは有名なカメラマン、不肖・宮嶋から引っ張ってきてるらしいのがわかったりする。

「どこに?死ぬよ」

こんな時も笑みを絶やさないけど、そんな雅人の心もこんなこと続いたらしまいには冷えて死んでしまうかもしれないぞ。

 

 

前任の隊が残していった高級食材、伊勢海老。
よし、エビフライだ!いや、フライはないでしょ、刺身とか、
せめてすり潰すとか……と抗弁するも。

流れに押し切られ、

海老フライ調理を強要される雅人。

またも雅人のこの表情……。

 

そして直後から挿し込まれる、雅人が南極に来た経緯の回想。
海上保安庁で船の調理担当として働いているらしい雅人は、
家では料理が下手な奥さんに夕食を任せてくつろいだ顔で様子をみたり、

その出来に文句をつけてあしらわれたり、
「うーん、もうこれ、あとあと胃にもたれんだよこれ」
「いいから黙って食べなさいよ」

愛する娘にも無下に扱われたりをのんびり楽しんでいた。

「あーぐーら!」

でも、なんでも南極に行くのを長年の夢にしていたという同僚が要望し続けて遂に叶えようとしていた南極行きを直前のバイク事故でフイにして。
まったく行くことなど想像したこともなかった、家族を置いて一年以上も行くだなんて絶対嫌だった雅人がゴリゴリの強要で無理やり南極行きを命じられてしまう。

雅人……。このやりとりでの泣き、怒り、悲しむ様をひとつの表情に押し込めた雅人の顔と声。最高……!!!!


そしてそのやりとりを最後に回想が終わり、直後がこのカット。

あまりにその存在にそぐわない、できる限り工夫をしてもなお良さをまるで活かせない姿になってしまった高級食材伊勢海老。

 

つまり、この伊勢海老は雅人なんだ。

 

基地に来て以降の雅人は多くを言葉で語らない。

ただその微笑みの仮面と、稀にその下からこぼれる表情と。

そしてなにより料理でもって、その想いを差し出す。

で、そんな扱いの中でも「やっぱ刺身だったな」「うん」と僅かばかりに溜飲が下がる声を聞いたこともあってか、

雅人はなおも微笑む。雅人……。

原作では高級食材をもてあまして困ったよ、くらいのエピソードとして何回か語られる伊勢海老関連の話(土台とされているのは『笑う食卓』収録の「伊勢海老ボールは庶民のお味?」)を大胆に脚色した上で雅人の南極行きの経緯と組み合わせることで、こんなにも雅人を追い込んでいく素敵な挿話へと生まれ変わらせている。

 

そんな雅人の心の支えはFAXで届く家族の手作り新聞。
狭い自室のベット近くの壁に飾り、幸せそうに、でも縋るように、じっと見つめている。

節分、基地内での祭りの狂騒の中でその新作が届く。
文面に曰く

「お父さんがいなくなってから毎日が楽しくてしかたありません」
「なので余計な心配などせず、どうぞそちらで元気にお過ごしください」

家族なりに心配ないよ、と伝えるユーモアなのだろうけど。

この限界状況で雅人の思いはいかばかりか。

笑いもだいぶヤケっぱちっぽいよ。

大丈夫か、雅人。


そして揃って限界状況のおっさんたちの悪ふざけは生死にかかわるイジメじみたものにまでつい発展しかけたりする。

で、外で死にかけて叫ぶのは雅人でなく、大学院生で年齢でも身分でも一番下っ端の兄やんこと川村隊員(高良健吾)なのだけど。

この凍え死にかけ叫ぶ様はきっと、「お父さんがいなくなってから毎日が楽しくてしかたありません」と伝えられた雅人の心の叫びでもある。

原作では"こんな寒いならむしろ雪に埋もれた方が暖かいのでは?"とおかしな思い付きを試してみた隊員がふざけて埋められたまま放置されかけた、というやっぱり限界状況を多少物語っている心温まるエピソード(『面白南極料理人』p168-171)だったものを、隊員自身の手作り新聞を家族から送られるものに変更して組み合わせて、やはり雅人を追い込む流れを生み出している。観ていてぞくぞくする面白さ。

 

 

将棋を指す雅人。

対面するドクター(豊原功補)の述懐。「自由だよなぁ、ここは。ガミガミ言う人もいないしさ。なに食ってもタダたしさ。息子は金せびってこないしさ」
「俺なんかあと2~3年いても全然いいんだけどね。はっはっはっはっは」
口に出しては何も答えない雅人、その表情。

雅人の心情を雑に察するに……。

俺はすぐにでも帰りたい。家族を置いてきたくなど全くなかった。

でも家族は「ガミガミ言う」自分がいなくてせいせいしているのかも。

「お父さんがいなくなってから毎日が楽しくてしかたありません」という例の新聞のメッセージは本当で「あと2~3年いても全然いいんだけどね」とでも思われているのでは……。

しかし、すべてを飲み込んで、雅人はここでも、ただ微笑む。

 

そして、将棋から離れた雅人は夜の調理場で思いもよらない光景を目撃する。

深夜、めちゃくちゃ雑に調理したラーメンを一心不乱に啜るおっさん二人。

金田隊長(きたろう)と、盆こと西平隊員(黒田大輔)。

ここの「へっ?」のまるで理解できない異界の言葉を聞いたような反応がいい。
以降ひとことも口にせず、すごい表情のまま雅人は扉を閉めて去っていく。

 

"俺が魂込めて作ってる料理より、深夜のラーメンなのかよ!俺はここに必要ないのか、俺の存在価値は"……みたいな。

原作の西村さんは概ね"深夜のラーメン?うまいよそりゃあ!俺だって食べる。消費早すぎていずれ底つくの困るけど。いやほんとそれはどうしよう"みたいなノリだけど、映画の雅人はきっと、違う。
いつもの微笑みも消えたすごい表情のまま去っていく姿が、受けた衝撃を示しているようにも見える。

 

その後、もう間もなくの雪氷観測担当隊員、本さん(生瀬勝久)の誕生日のごちそうを金田隊長から依頼される雅人。
ちょうどその頃、本さんの助手を務めていた川村隊員が凍傷で一週間の作業離脱。

元々当たりがキツい本さんはいつにもまして苛立っていて。

各々担当部門の専門家だからこそ、それぞれの領域は尊重しないといけない……原作でも繰り返し強調される話を破り「ちゃんとした医者に診てもらったほうがいいんじゃないのか」とまで言ってしまう。この直後のドクター(豊原功補)の味のある表情が見所だったりもする……職業的なプライドに土足で踏み込まれたりしているのは、雅人だけじゃないんだ、という。
それはやってはいけない、破ってはいけないセオリーだと皆が理解しつつもついやってしまう、それが過酷な南極生活なんだとさらりと示されてもいる場面。

 

で、川村隊員の代わりに本さんの助手を臨時にさせられもする雅人。
慣れない作業をキツい叱責なんかも受けながらこなしつつ。
料理人だから、おやつも用意し差し出してサポートしようとして……すげなく断られ。

どうにか頼まれごとを切り出すも……答えは「何でもいいよ」。
でも「あ……そっか」となぜそんなことを聞かれたのか、とさすがに思い当って、一応「肉」とは答えてくれる。そこで、もう少し詳しく……と食い下がるとこう返されてしまい。

そして、その先のやりとりで飛び出してしまうのがこの言葉。

 

「別にメシ食うために南極に来たわけじゃないからさ」

 

俺は!!メシ作るために南極来てるんだよ!!!
こんな風にめちゃくちゃ叱られながら、本来他のやつが担当するはずの観測の手伝いなんかするためじゃなくて!!!!
それにお前らと違って、そもそも来たくて来たんですらないんだよ!
やっぱり他の(めちゃくちゃ行きたがってた)やつが担当だったはずなのを!!
無理やり送り込まれたんだよ!!!
それでも!俺は料理人だから!!
全力でうまいもの作って喰わせてやりたいんだよ!!!!
そのために聞いてるんだよ!!それをさあ!!!!!

……などとはただの一言も口にすることなく。

雅人は僅かな微笑みを顔に浮かべて小さく細かく頭を何度かふって頷くような仕草をして。

せっかく持ってきたけど固く凍りついてしまった、心づくしのおやつにかじりつく。

 

こうした流れを踏まえると、作業を終え戻ってきて。
僅かにためいき一つ。

それに八つ当たりの蹴り一発。

それだけで人知れず済ませている、雅人の偉大な精神力に心からの敬意を抱かずにはいられない。

 

そして、その鬱屈した気持ちを明るく開放するような極寒の南極での肉焼きシーンがめちゃくちゃ爽快なものに見えてくる(そうでなくても、素晴らしく愉しい場面だけど)。

 

で、雅人は料理人だから。
「別にメシ食うために南極に来たわけじゃないからさ」
と言い放った相手すら料理で驚愕させ、喜ばせることができたからには。

おそらく"どうだ、見たか!!!"という思いも相まっての、この会心の笑みも浮かぼうというもの。

 

 

で、そうして劇的に盛り上がった誕生会の席で、本さんに「西村君さ、子供いるんだっけ?」と水を向けられて。
結婚指輪が光る手の上に、嬉々として取り出して見せたのが娘の乳歯。

すっかり打ち解けた開放的な表情の雅人、けっこう口数多く話に応じていく。

でも、そこからの会話で……。


「奥さんは?」「えっ?」

「ここに来ることは賛成だった?」
「ウチはさあ…もう、毎回大モメだよ。
これ以上、子供をほったらかしにするようだったら、覚悟があるんだって」
「やりたい仕事がさ…たまたま、ここでしかできないだけなんだけどなあ…」
「ここがさぁ…電車とかで通えたら良かったのにね」
「本さん♪」(周囲の笑い声)

「えっ?」以降、それまで話に応じて家族について幸せそうに語っていた雅人は、ただの一言も喋っていない。

 

雅人はさあ……強要され命令されて、家族とモメることすらできなかったんだよ。
雅人も奥さんも覚悟なんて決めようなかったんだよ。

悩む時間すらなく、はじめから断る選択肢も与えられなかったんだよ。
そして雅人は料理人だから南極で仕事する必要なんてぜんぜんないんだよ。

むしろここはすごく不向きだと思うんだよ。
そうだね!!電車で!!!通えたらなああああああ!!!!


……でも雅人は、そんなことは一言も口にしない。
ただ微笑んで、ビールの缶を握り弄り、微笑んだまま呷るだけ。

 


その後には、良い感じに料理人としての辣腕を振るって見せる姿が少し続く。
ミッドウインター祭で「参加者全員正装でのフランス料理フルコース」を振舞う姿は得意げでもあれば楽しそうでもあり。


多彩な中華料理を並べ、満漢全席?と洒落こむ。
この時の雅人はなんだか隊員たちの中にすっかり馴染み、家族のような親密感さえ漂わせている。

中でも微笑ましくもあり、大事な場面といえるのは川村隊員へのこの叱責。

「あーぐーら!」

序盤の伊勢海老の件の間に挟まれた回想、家族の気のおけない夕食の席で娘を叱ったのと同じ言葉。
それくらい雅人はこの基地での生活に、仲間たちに、馴染んできていたという事かと思う。

 

しかし、そこで南極生活の厳しさを改めて思い出させるように次々に問題が起きてくる。


ラーメン、枯渇。

一度観たら忘れられない、きたろう渾身の演技で切実に、魂から絞り出すように「食」を求められても応えることができない料理人、雅人。


怪奇・深夜バター丸舐め男の出現。

厳しい閉鎖環境での生活のストレスは人をおかしくする。一応食べ物への依存ということで対応は料理人の領分なのかもしれないけれど(???)雅人もこれにはどう向き合っていいのかわからない。


遠く離れた愛しい人たちは今、どうしているだろう。ちゃんと自分のことを思ってくれているだろうか。ひょっとしたら……川村隊員を襲った悲劇と絶望の嘆きは、

多かれ少なかれきっと隊員たちが抱え、耐えている不安と苦しみを代表していたと言えるだろう。もちろん、雅人のそれについても。

 

そんな雅人を突然のトラブルが襲い、

心を支え続けてきたお守り、娘の乳歯が遥かな穴底へと消えていってしまう。

雅人、絶叫。

目を見開き、悲しみの呼び声を繰り返す。
隊員たちがこれまでに観たことのない雅人の姿。

でも、狂乱し暴れ回り原因となった連中に殴りかかったりしてもおかしくない中(他の隊員なら誰にせよ、いや、普通の人間ならきっとそうしていそう)、これだけやられても雅人は自室に引きこもり、ふて寝するだけ。

人の姿をした平和の天使か?


そんな雅人の脳裏に蘇るのは突然命じられた南極への出発を間近に控えたある夜、お守りとして持ってくることになった娘の乳歯が抜けた時の光景。

そして、ふらりと他の隊員たちの様子を雅人が見に行くと。

そこに展開されていたのは不慣れな隊員たちがおぼつかない手つきで料理に挑戦する光景。

特に本さんと金田隊長がおっかなびっくり唐揚げを揚げる姿は偶然にも、雅人が文句をつけたまずい唐揚げを作っていた時の奥さんとも重なるようでもあって。

その誕生日の前にあれだけ雅人につれない態度で接していた本さん、その後すっかり打ち解け語り合いもした本さんの

「西村くん……」

「おなかすいたよ」

この人なりの精一杯の降参、次からはまた君の料理を食べさせて、お願いだよ……という語りかけに思わず雅人のさすがに頑なになっていただろう心も少し、柔らかくなっていく。

雅人の、あー、もう、しゃあないなあ、というなんとも言えない、微笑みまでは浮かべられない、でもだいぶ和らいだ表情がとても趣深い。

 


そして、ラストと並んで作中を代表する名場面がここ。

「胃にもたれる…」

 

いつも微笑みを浮かべてきた雅人が浮かべる、はじめての涙。
例の伊勢海老の場面の合間の回想の中、文句を垂れつつ食べた妻のまずい唐揚げ。
家族の食卓と時間が味覚から一気に蘇って。
そこでの雅人は気軽に料理に文句を言い、娘を叱り、軽くあしらわれる……そんなただのおじさんで、夫で、お父さんで、つまりは人間で。

微笑みの下に多くを押し隠す天使なんかではなかった。

 

「泣くこたぁないでしょう……」

でも、周囲はそもそも、雅人が天使を演じてきたことも分かっていないのかもしれない。
痛みも苦しみも怒りも悲しみも押し隠して、言いたいことを、人間なら言わずにいられないような言葉も押さえこんでいる……のだというようには感じさせない。

そういうプレッシャーなり罪悪感なりも感じさせず、自然にそこにそういるようにして限界ギリギリの隊員たちの心を破局から護ってくれていた、それが『南極料理人』における雅人の天使性の核心なのではとも思う。

 

なお、ここまで正にそれを解説してきたように。

雅人の苦悩は映画を観ている観客にはいろいろと見て取ることが出来る。
観客なら気づくことが出来る。

でも、南極で限界生活をする面々は気づけない。

 

観客は映画館の客席なり、自宅での配信視聴なりで、安穏とその様子を眺めている。

雅人の心情が端々から伝わるように長い南極生活のどこをピックアップするかの選択、順番、採り上げた場面の見せ方等々、よく整え演出された映像でその姿を観てきてもいる。
でも、極寒の諸々不便な狭い閉鎖環境における長い集団生活の中で、例えば深夜にバターを丸かじりしたり、爪に灯をともすように大事にしないといけないと重々分かっている水でジャブジャブとシャワーを使わずにはいられなかったり、好物のラーメンが尽きたとなればこの世の終わりを迎えたかのような有様になったりと……

揃ってまず自分のことで人間性というか獣性とでもいうべきものがむき出しになるまで追い詰められている中、彼らに他人のことを気にする余裕なんて、きっと無い。

 

それに雅人が望まずして南極に来た事情なんかも、きっと他の隊員たちは知らないだろうし。
雅人は彼らの責任ではなく、言ったところで今更どうなるわけでもなく、ただ雰囲気が悪くなるだけだろうことをわざわざ言い出さなかっただろうし、人情として口をついてもおかしくない時(先だって触れた「別にメシ食うために南極に来たわけじゃないからさ」と言われてしまった時とか)ですら口にしなかった。

泣いて騒いで叫びでもしないと、他人のことなんて気にかける余裕はない。
皆が人間性というか獣性というべきかもしれないものをむき出しにする、そうでもなければやっていられない限界生活の中で、なお微笑み続け仮初の天使を演じられていたとしたら、それはもう仮初でなく、真に天使的ななにかではないだろうか。

 

そんな天使だった人間がこれまで押し隠し押し留めてきた思いが一気に吹き出てきての人間の貌を露わにしての言葉と涙は、これまでの雅人の心情、足跡を一つ一つ細かく振り返って観れば観るほど、味わいが増すものだと思う。

 


その後の場面。

日本の子どもたちから電話質問に応える一幕。

雅人は質問する女の子が娘だとどこで気づいたのか、あるいは気づかなかったのか。

個人的には声を聞きやりとりする中で気づき、名前を尋ね、答えを聞いた時に確信に近いものを抱いて、その上での重ねたやりとりとアドバイスなのかと思う。

 

 

続いて。
卓球しながらの雑談で本さんにラーメン作りに欠かせない「かん水」作りのアイディアを聞かされ(原作『笑う食卓』の「京大監修手打ち麺」というエピソードを元にしているけどそちらではこんな劇的な話ではおよそ無い)、心踊らせ調理場まで駆け出していき、

さっそく調理して。

きたろう、渾身の喜びの演技。

それを目にしての微笑みでない、雅人の満面の笑み。

 

更に「こんなオーロラ、観たことない!」「観測しないといけないんじゃないの!?」
と騒ぐ平林・川村両隊員を前に

「そんなもの知るか!」と言い放つ越冬隊の金田隊長。

勿論本当は良くなどない、ダメなことに決まっている、映画内でも(水浪費犯発覚の前の場面で)平林隊員が「俺はこの越冬観測の準備に3年かけましたよ」と語っていたように、

そのために投じてきた時間もお金も労力も苦労も考えたらそんなことは許されない……でも、そんなことは分かりきってる隊長にこうまで言わせてみせた(フィクションならではの翻案ではある)。
本さんに「別にメシ食うために南極に来たわけじゃないからさ」と言い放たれていたような扱いを受けていたのが、ここまで来た。やって見せた。
料理人として、一人のプライドを持った人間として、雅人の喜び、達成感はいかばかりかと思う。

そして、ここではしゃがず「伸びちゃうよ」と笑いながら言うに留める雅人の姿もたまらなくいい。

 

そして帰国。
喜びを体中で示して迎えてくれる家族。

全身で喜びを爆発させ、満面の笑みで駆け寄る雅人。

 

その感動が過ぎた後、訪れる穏やかな日々。

 

「髪を切りヒゲをそると 目の前に現れたのは
 どこにでもいる ただの おじさんの顔だった」

「当たり前のように水を使えて

当たり前のように外に出かけたりすれば……

ますます分からなくなっていく」

 

でも当たり前のように家族で遊園地にでかけて。

当たり前のように軽口をたたきあって。

当たり前のように大して上等なわけもないハンバーガーを一口かじったとき。

南極にいる間誰も言ってくれず、そして何より雅人自身も忘れてしまっていた言葉が口をつく。

あえて、深い感慨など感じさせないようにさらっと口に出された瞬間、映画が終わる。

あえて、「胃にもたれる……」の時のようには、いわゆる「劇的」には描かないことが更なる味わいになっている。

 

料理が「うまい」。料理人にとって、そして人間にとっても根源的なこと。

つまり、辛さや苦しみを微笑みの下に隠し押し込めていたときだけでなく。

会心の笑みを浮かべた本さんの誕生パーティーの時も、まるで家族との食卓のように馴染みくつろいだ様子だった中華料理の時も、ラーメン作りに成功して自分の料理で救われた至福の笑みを前に浮かべた満面の笑顔の時でも……ずっとずっと、雅人から「うまい」は奪われどこかに押し込められてしまっていた。

終わってみれば、苦しく辛かったけど、喜びも楽しみもあって悪くはなかった……などとは片付けられない。

やはりまず第一に、そこにいる間は人間から根源的な大事なものをも奪い忘れさせてしまうような極限の苦しみの世界だった。

 

冒頭の繰り返しになるけれど。

終始明るくユーモアに溢れ、コミカルにおっさんたちのワチャワチャを描き出しつつ……同時に一人の人間の大事な尊厳がゴリゴリゴリゴリ削られ続け、微笑みながらそれを乗り切りつつも、ふと心が緩みようやく「帰ってきた」と思えた瞬間、そこに居た間どれだけ大切なものを封じ抑え込んでいたのかに気づく物語だと明示されたということ。

(『さかなのこ』もそうであるように)実に面白く愉しく、そして意地が悪い物語だなと思う。

 

最後に。

まず映画を観た後に原作を手にとり、このあたりを読んでいた時には大いに笑えた。

翻案の、ある種の醍醐味と思う。

牧野圭祐『月とライカと吸血姫』感想(本編全7巻既読者向け)

牧野圭祐『月とライカと吸血姫』感想

 

2021年10月-12月に放送されたTVアニメ、特に7話「リコリスの料理ショー」(1,2,6,12話と共に原作者・牧野圭祐さんが脚本を担当)が素晴らしかったこと。
山岸真さんが強く推していたのが目に入っていたこと。

そして2022年第53回星雲賞、日本長編部門(小説)受賞をきっかけに本編全7巻、外伝1巻を読んでみたところ、想像以上に面白く、嬉しくも驚かされた。

作品に感じた魅力は初めから終わりまで一貫している。
アニメなら7話「リコリスの料理ショー」及び12話「新世界へ」で特に遺憾なく示されたものが継続して、そして要所を締めて発揮されていた。


思いつくまま、大きく五つに分け挙げるなら、


一つ。ベースにする史実や人物のモデルの組み合わせの妙。

 

二つ。多くの人々の代表・象徴として、それを自覚し引き受けつつ生きることになる主要キャラクター二人あるいは四人の在り方。

 

三つ。その上で、殆ど常に望まぬ強制にがんじがらめに縛られつつも、時に"何を代表・象徴するか"を可能な限り自身の望みに引き寄せ、時にかけがえのない誰かにだけ伝わる暗号として忍ばせる姿とその描写。

 

四つ、それらがあってこそ、架空の歴史を描きつつ、彼らと彼らが背負う人々の願いを読者が生きるこの現実に対しても射程に入れて描くことが出来るし、そうしている構造。

 

五つ。音楽の絡ませ方。
『愛しのあなた』(モデルは『素敵なあなた』)。
交響曲『新世界』(モデルはドヴォルザーク交響曲第9番新世界より』)。
『Fly me to the Moon』(本編ではSF小説として言及される)。
『太陽と月の行進』(モデルは『聖者の行進』)。
ビートルズ(本編では別の名前で出てくるが、どうみたって)。
その巧みさは時代とその空気を描くことにも直結していると思う。


以下、それぞれ具体的に書いていくのだけれど、本編全7巻の内容に大きく触れ諸々ネタバレにもなるのでここから先はできれば本編既読の方限定でお勧めしたい。

※先行してfusetterで書いた際にも「7巻まで読んだ方は」と改めて断った上で反応して頂いていたりもするので。

またその後、作品終盤で明かされるあるキャラクターの夢と動機、6巻5章での顛末は初読の際は「あれ、これで…?」と思いそうになった上で、少し後からは"これがいいのだ"と考えるようになったことと、『月とライカと吸血姫』という作品の性格、方向性(と思える)ことについて少し、書いていきたいと思う。


■『月とライカと吸血姫』の五種類の魅力について。


一つ。ベースにする史実や人物のモデルの組み合わせの妙。

 

まず冷戦期の宇宙開発競争、吸血鬼と人種差別、ライカ犬(4巻あとがきにあるように実はイリナのモデルではない)、ガガーリンコロリョフフルシチョフといった最初に提示される諸々からして、アニメ版の時点で非常に面白かった。

その上でアニメで描かれた先の3巻以降、連合国パートでの4巻あとがきで明かされている史実の選択と用い方がいろいろ凄くて。

 

特に「そうだよな、言われてみればアメリカの"王家"だもんな」と納得させられつつ、そのモデル……ジョン・F・ケネディからそのキャラクター打ち出してくるんだ!というのがまずひとつ。

 

それ以上に、公民権運動でジャズ・フューネラル……「聖者の行進」、キング牧師。そんな方面の役回りもこのキャラクターにまとめて合流させて担わせるのか、面白いことをするなあ、と思っていたら……そのキャラクターの根っこのベースってその人なんだ!そうか、広報の人が繰り返し「穢れなき聖女」と茶化してたの、そういうことか!と。
ジャンヌ・ダルク。なんだか、やられた、鮮やかだなと思わされた。

 

勿論モデルはモデル、それを一部参照はした作中のキャラクター/設定はキャラクター/設定、当然にはっきり別人/別物であり、その魅力もまずは独立したキャラクター/設定として見るべきかと思うし、実際そう見ていっても大変に魅力的なのだけれど。

その上でも……頑なにソビエトコロリョフへの対抗心を燃やすフォン・ブラウンを、宇宙に憧れると共に公民権運動に尽力する黒人のジャンヌ・ダルクが説得し、宇宙開発からの米ソデタントへ舵を切らせていく、年若い女王として現れたジョン・F・ケネディがその流れを後押し……なんとも楽しい構図だと思える。

 

先掲の通り、山岸真さんが「改変(過去)世界宇宙開発SFの傑作」として推すのも納得がいくと、この時点でも強く思えた。
他同様、その魅力は以降も同じように積み重ねられ更に強まっていく。

 

2:多くの人々の代表・象徴として、それを自覚し引き受けつつ生きることになる主要キャラクター四人の在り方。

3:その上で、殆ど常に望まぬ強制にがんじがらめに縛られつつも、時に"何を代表・象徴するか"を可能な限り自身の望みに引き寄せ、時にかけがえのない誰かにだけ伝わる暗号として忍ばせる姿とその描写。

4:それらがあってこそ、架空の歴史を描きつつ、彼らと彼らが背負う人々の願いを読者が生きるこの現実に対しても射程に入れて描くことが出来るし、そうしている構造。

まず2,3,4はセットでそういうバランス感覚、ある種の誠実さが個人的にすごく好きだというのと。

 

特に3について。

コールサイン
諸々の食べ物飲み物……炭酸水/炭酸檸檬水(レモネード)、茱萸(グミ)の実の浸酒(ナストイカ)、蒸留酒=人生/ジーズニ等々、雛豆のブリュシチ、肉の煮凝り(ホロデーツ)。
首飾りの青い宝石。
乗車賃の銅貨。
世界に生放送される演説、
地下出版。

 

どれも用いられる度に素晴らしい見せ場になっているのが作品の魅力であり、際立って大きな武器と思う。

例えばコールサインの数々、『彼岸花(リカリス)』『十五夜草(アスタル)』、それに7巻『翼竜(ジラント)』そして『スラヴァ』。
通信の最後に「コールサインのように残し」た『冬蔦(プルーン)』。
堂々と通信しつつ、記録に残しつつ、伝わるべき相手にだけ伝わるべき言葉と思い。
これらが絡んだ描写はいつも素晴らしかった。


そしてシリーズの早くから提示されつつ、これが宇宙開発競争の話であるからには考えてみれば当然と言うか、言われてみればそれを意味してるに決まっていたのに。
イリナが受け継いできた首飾りの(カイエの母も「すごく似た宝石を持っていた」(4巻))「青く輝く宝石」がなにを象っているのか、最終巻のほとんど最後の最後で提示されるまで気づいていなかった。
うわ!!!と思わず声が出てしまった。

5:音楽の絡ませ方

『愛しのあなた』(モデルは『素敵なあなた』)。
交響曲『新世界』(モデルはドヴォルザーク交響曲第9番新世界より』)。
『Fly me to the Moon』(本編ではSF小説として言及される)。
『太陽と月の行進』(モデルは『聖者の行進』)。
ビートルズ(本編では別の名前で出てくるが、どうみたって)。


これらの音楽を用いる巧みさは時代とその空気を描くことにも直結していると思えるし、ここまで触れてきた他の魅力とも深く繋がってもいる。

 

『愛しのあなた』(モデルは『素敵なあなた』)


まずはレフとの思い出の曲でもあり、本編でも(外伝でも)しばしばイリナ・ルミネスクの愛する曲として言及され続ける『愛しのあなた』。

『愛しのあなた』……?」
 昨年、まだイリナとそれほど打ち解けていなかった頃、ジャズバーに連れて行ったときに彼女が一聴惚れして、宇宙からの私信でも口にした、ふたりの思い出の曲だ。「歌が知らない国の言葉でわからない」と言っていた彼女は、歌詞の意味を理解できたのだろうかとレフは思った。「どこの国の言葉でも、愛しいと言いたい」、そんな詩だということを。
(2巻、Kindle版位置1848/3613)

モデルとされている曲は『素敵なあなた』。

以下のように、曲の成り立ちと内容を軽く観ていくと……つまるところこの曲はイリナとレフが目指す「新世界」の在り方の象徴なのだな、と見て取ることが出来る。

いわば(後に触れる『新世界より』と並び)作品のテーマソングと言えるのかもしれない。

「素敵なあなた」(すてきなあなた、イディッシュ語: Bei Mir Bistu Shein)は、ショロム・セクンダが作曲した1932年のミュージカル・ナンバー、ジャズ・スタンダード曲。
[概要]

原題の“Bei Mir Bistu Shein”は、イディッシュ語で、直訳は「私にとって君は美しい」という意味になる。このイディッシュ語を現代標準ドイツ語で表記し直すと”Bei mir bist du schon“となり、こちらの表記が使われることもある。

1932年にイディッシュ語のミュージカルでのショロム・セクンダが作曲したものが原曲である。後にセクンダは「素敵なあなた」の著作権を30ドルで売ることとなる。

ジョニーとジョージ(Johnnie and George)というアフリカ系アメリカ人のコンビがこの曲をイディッシュ語で歌っていたのが黒人の聴衆に受けているということを、ユダヤアメリカ人のサミー・カーン がたまたま知り、アメリカ国内でのヒットを考える。1937年に、ソール・チャップリン(英語版)がリフレンを加え、カーンが英語の歌詞を作り、コーラス・グループのアンドリュー・シスターズ録音のレコードを発表して、アメリカでヒットした。
wikipedia「素敵なあなた (1932年の曲)」

www.youtube.com

www.youtube.com


webサイト「世界の民謡・童謡」より
素敵なあなた Bei Mir Bist Du Schon 歌詞と和訳

 

『Fly me to the Moon』(本編ではSF小説として言及される)

 

続いて、『Fly me to the Moon』を『Fly you to the Moon』とアレンジする妙味。

アニメ版を観終えた時には「え、これで「Fly me to the Moon」使われないの、かえって凄いな?」なんて思ったりもしたのだけど、

そこから原作小説を読み進めてみればまず2巻あとがきで、

「ところで、『フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン』という曲をご存じでしょうか」

なんて前フリを置いた上での、3巻以降でのこの物語への組み込み方……。

宇宙開発競争を、最も脚光が当たる宇宙飛行士たちと共に、それを支える技術者たちにも同じくらい光を当てて描く……そのコンセプトをこんなに見事に「Fly you to the Moon」というアレンジに象徴させてみせるなんて。

 

そして少し後で改めて説明する話だけど、これを掲げる聖女カイエは行進を先導し「I have a dream」と宣言する者でもあり、その「dream」とは「Fly you to the Moon」だという……。

いいなあ、やってくれるなあ、と嬉しくなってしまった。

 

『太陽と月の行進』(モデルは『聖者の行進』)


3曲目は、3巻でカイエの村で見聞きした新血種族の葬式音楽『ジャズ・フューネラル』、その中の「ジャズのスタンダード・ナンバー『太陽と月の行進』」。

この巻でバートとカイエが先導するデモ行進でも陽気に演奏され人々を導いていった曲は『聖者の行進』をモデルにしたものかと思う。

カイエがバートに教えたように、

「埋葬するまでは死を悼むの。帰りは、苦しい現実から魂が解放されて、天へと行進していく歓びを祝う……」

という筈の歌。
でも3巻終盤においてはジャンヌ・ダルクをベースにしたという聖女カイエに導かれ、世界を月へと宇宙へと、また新血種族の生きる世界の良き明日へと行進を導く歌となる。

www.youtube.com

 

ここで、再度webサイト「世界の民謡・童謡」より
「聖者の行進(聖者が町にやってくる)歌詞の意味・和訳」

も踏まえた上で、

 バートたちは合唱しながら威風堂々と行進し、ロケット発射センターへと真っ直ぐに向かう。
 赤く燃えるような美しい夕空に、薄汚れた手作りの旗が広がる。
 沿道で打ち上げ成功を祝っていた大勢の見物客は、いきなり現れた新血種族の行進に驚くが、お祭り気分で、老若男女、種族を問わずつぎつぎ行列に参加してくる。カメラマンたちが行進にカメラを向け、何十枚も写真を撮る。
 ハロー、ワールド。
 見てくれ、彼女たちが地上の英雄だ。
リベルテ・エンジェル!」
 人々は連呼し、誇らしげに合唱する。

 〈太陽が沈むとき!〉
 〈自由の天使よ、私を月へ導いてください!〉

 バートたちが自信を持って歌を返す。

 〈私たちが、月へ導いてあげましょう!〉

 見物客に受け入れられ、確かな手応えをバートは感じる。
 カイエは牙を隠すことなく、大きな口を開けて歌う。月下美人が風に揺れ、尖った耳が出ても、まったく気にしない。宝石のような綺麗な瞳は、夕陽に照らされていっそう朱く、きらきらと輝く。
 バートは歌いながら、隣で歌うカイエと笑顔を交わす。
 以前は、人前で大きな声で歌うのは恥ずかしかったが、今は胸を張り、誇らしく歌える。

 誇れるものができたからだ。
(3巻、Kindle版位置No.3631/3832)

ここに来て「〈私たちが、月へ導いてあげましょう!〉」即ち「Fly you to the Moon」は同時に、キング牧師の「I have a dream」とも重なる宣言になる。
カイエとバート及び彼らに続き行進する人々は虐げられ続けた者たちを代表して今、誇らしく繰り返し歌い、叫んでいる。

 

だから、ジョン・F・ケネディをモデルにしたというサンダンシア女王ともアポロ計画公民権運動という両面で繋がっていることになる(史実において、デモで逮捕されたキング牧師の釈放に動いたことが1960年大統領選挙における黒人票の大幅な獲得に繋がり、ニクソンとの大接戦を制してケネディは大統領となった)。

その流れの上で、4巻の連合王国サンダンシア女王のこの演説はつまり有名なケネディの大統領就任演説の『月とライカと吸血姫』バージョンにあたるのだろうと思う。

 観衆の視線を一身に受け止めるサンダンシアは眉根を寄せて声を潤ませる。
 世界の運命は、両国政府の決定にかかっています」
 異様な緊張が会場に満ちる。吐きそうなほどの不安にバートは襲われる。バートだけではない。皆が皆、口を閉ざして凍りつく。
 逃れようのない絶望が支配するなか、サンダンシアは深く澄んだ瞳に光を灯す。「皆さん。私は信じます」
 揺るがぬ決意を籠め、彼女は強く祈る。
「聡明英知の人々により、冷静な判断がくだされることを。危機はまもなく回避され、この星が死から逃れることを。太陽は明日も昇り、生命の活力を与えてくれることを。月は明日も昇り、穏やかな眠りを与えてくれることを」
 この場にいない国民へ届けと、世界中の市民へ響けと、サンダンシアはステージの最前に進む。
「そして私たちは挑戦と冒険を続けて、いつの日か月へ到達し、その先にすばらしい二一世紀が訪れることを、私は信じます」
 覚悟を定めた彼女が清々しく微笑むと、観衆は総立ちになり、割れんばかりの拍手を送る。バートもカイエも、レフもイリナも、そしてほかの登壇者も若き女王を称える。
「ご清聴、ありがとうございました」
 サンダンシアの潤んだ瞳や金色の髪が照明を浴びて煌めく。まばゆい光のなかに凜と立つその姿は、美しいだけの一八歳の少女ではない。
 太陽の如き気高き君主だ。
(4巻、Kindle版位置No.3665/3740)

例えばこうして『聖者の行進』を『太陽と月の行進』と翻案して取り込むこと等を通じて、(差別される黒人が住むアメリカ合衆国でなく)差別される新血種族が住む連合王国という作中世界のものに変換した上で、公民権運動真っ盛りの史実の時代の空気、熱気といったものを(勿論、他の諸々の工夫、描写と合わさって)薄っぺらい単なる設定などでは到底ありえない存在感で描き出すことに成功しているのだと思う。

 

そして『月とライカと吸血姫』が宇宙開発という夢/憧れを梃子に、(読者のいる現実も射程に入れつつ)今を越え「新世界」へと踏み出していく、意志と歩みの物語である中で。
4巻あとがきでの参考文献についての言及にある、

「書籍『月をマーケティングする アポロ計画と史上最大の広報作戦』……『ドリーム』と違う視点で描かねばと考えた末、広告塔にたどり着きました」

とあるように技術者であり「広告塔」であるという立ち位置を打ち出した上で。
更に公民権運動の指導者であり象徴、キング牧師のような在り方をも重ね合わせるというアイディアと手際が非常に見事だと思う。
偏見も差別も、読者の今ここの現実において残念ながら過去になどなってくれていないからには、それに向き合うこの物語は当然に読者の今ここも射程に収めていることにもなる。

 

交響曲『新世界』(モデルはドヴォルザーク交響曲第9番新世界より』)

 

最後に、ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」。

まず、2巻ではこんな使われ方で登場していた。

「ねえ、私が宇宙飛行士に望んだもの、覚えてる?」
「……新世界へ導いてくれる革命家」
「そう」
 リュドミラは部屋の片隅にある電気蓄音機にレコードを置き、『新世界』という副題を持つ交響曲をかける」
(2巻、Kindle版位置No.2791/3613)

「俺が原稿にイリナの名を書いたと知ったあなたは、イリナが死んだと嘘を吐き、銃口を突きつけた。『俺が真実を明かさなければイリナは闇に葬られる』という強迫観念を持たせ、焚きつけるような音楽を流して、俺をひとりにした」
(2巻、Kindle版位置No.3430/3613)

これだけでも見事な使い方だなと思えたのだけど、更に面白かったのは最終巻。
序盤において、

「新世界秩序……」
 理念はくわしく知らないが、両国の政治家や知識人たちがその言葉を使うところを、レフは何度か聞いたことがあるように思う。
 ──新世界へ導いてくれる革命家。
 ふっとレフの頭の奥で、今は亡きリュドミラの声が響いた。そして彼女がレコードで流した交響曲『新世界』の扇動的な旋律が蘇り、猛々しい金管楽器の叫びが心を揺すぶる」
(7巻、Kindle版位置No.121/4159)

と再び思い起こさせ、その後も繰り返しそのNWO、New World Order、新世界秩序とやらについてレフに悩ませた上で。

レフには人類の歴史における永久不滅の一歩とともにこう宣言させ、

 レフは通信機に向かって、NWOに指示されたとおりの第一声を放つ。
「この一歩は、東西の二大国にとって、偉大なる一歩となる」
 そしてすぐに否定する。
「しかし、それはくだらない、取るに足りないことです」
 レフはハシゴから手を放すと、右足も月面に降ろし、両足で月の大地に立つ。
「今日の一歩は、すべての地球人にとって、宇宙への飛翔となるでしょう」
 命を懸けた対価として、言葉の付け足しくらいは許してもらおう。このあと二国の国旗も立ててあげるのだから。無論、欲望の象徴など、ロケット噴射で吹き飛ばされて、太陽に灼かれて、つぎに誰かが月に来るときには、見るも無惨な姿になっているだろうけれど」
(7巻、Kindle版位置No.3987/4159)

そしてイリナに、作品全体の最後をこう締めくくらせている。

「すべてのことは、月に行くよりも簡単よ。
 さあ、帰りましょう。
 新世界より、私たちの故郷へ。
〈完〉」
(7巻、Kindle版位置No.4134/4159)

ざっくり言ってしまうなら。

2巻では結局、月への憧れを胸に挑み成功させたイリナの偉業も、それを無かったことになどさせないとレフが全てをなげうち世界にぶつけた演説も全て、リュドミラたちが指揮する交響曲『新世界』の一部として取り込まれてしまっていた。


しかし、多くを経て月面にたどり着いた最終巻において、全世界の人々の営みが織りなす交響曲『新世界』≒これからの世界を自分たち、「すべての地球人」のためのものと編み直されるよう導いているのかな、と。

 

なお、こう書いてきておいてなんなのだけれど、音楽についておよそ素養もセンスも欠いているので例えば、

リュドミラが聴かせた「強迫観念を持たせ、焚きつけるような音楽」「扇動的な旋律が蘇り、猛々しい金管楽器の叫びが心を揺すぶる」というのは『新世界より』の、

(レコードの途中に針を置いて?)第4楽章から再生してみせたのか(特に冒頭のイメージ)、

www.youtube.com

あるいは普通に第1楽章から

www.youtube.com

をイメージしているものだったのか、自信をもって解釈を定められなかったりもしてしまうし。

 

ともあれどちらにせよ、そこでは「焚きつけるような音楽」「扇動的な旋律」として響いていたものを。
イリナが語る「さあ、帰りましょう。 新世界より、私たちの故郷へ」という作品の締めくくりにおいては、

第2楽章「家路」

www.youtube.com

の穏やかな旋律として受けているか。
あるいは交響曲第9番「新世界より」全体がそもそも新世界へと誘うものでなく、ドヴォルザークが新世界(アメリカ)から故郷(ボヘミア)を思う、故郷へのメッセージというものとされているようなので、最後のイリナの台詞は第4楽章の最後の和音、

「新大陸に血のように赤い夕日が沈む」

と評されたというものに相当するのか、どちらかなのかな、と思いつつ判断しかねていたりもするのだけれど。

どちらにせよ、イリナが語る終幕において『新世界より』は「焚きつけるような音楽」でもなく「扇動的な旋律が蘇り、猛々しい金管楽器の叫びが心を揺すぶる」ものでもなくなっている。

 

象徴的に言うならドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」の第一~第二あるいは全楽章の流れが作品全体と重ねられ、一つの交響曲のように捉え得る形にもされているのかと思える。

作者の牧野圭祐さんは脚本家・小説家・ゲームシナリオライター、そして音楽家としても活動されているということでもあり、音楽を用いた仕掛けは小説内でも一際見事に働いているのかと思う。


■リュドミラの扱いと『月とライカと吸血姫』という作品の性格、方向性(と思える)ことについて


小説『月とライカと吸血姫』終盤で明かされるあるキャラクターの夢と動機、6巻5章での顛末は初読の際は「あれ、これで…?」と思いそうになったのだけど、少し後からは"これがいいのだ"と思うようになっている。

 

つまり、底知れない謎めいたキャラクターだったリュドミラが、6巻に至って遂にその主観視点で語る、

「深緑の瞳 Очи Темно-зеленые」

パートが現れ、その夢と動機を

「それは、人類の物理的な死の克服」
(6巻、Kindle版位置No.648/3661)

と読者に明かすことで、いわゆる"ボスキャラの格が下がる"という現象が起きていたかと思うし。
6巻第五章「夢と野望の果てに」でのあっけない退場がそれに拍車をかけてもいた。

 

ただ、それは例えばフィリップ・プルマンライラの冒険』のアレがそうであったように、もしもその纏う謎や権威権力を剥ぎ取ってみればなんてことはない、浅ましく奥行きも深みもありはしないものなんだ……というのが、相当に大事な作品の在り方の一要素であって。
"結果としてそうなってしまった"のでなく。"格を下げ零落させるべく丹念に仕込み描いて、そうあるべくしてそうしている"のではないかと、少し考えた後に思うようになっている。

 

ここで、レフ、イリナ、バート、カイエ。彼/彼女たちが追い求める夢の輝きと尊さは「藍の瞳」「緋の瞳」「青の瞳」「朱の瞳」とそれぞれをメインの視点とするパート名称が示すように、その瞳をもって描かれ語られ続けた中で。

特に序盤ではリュドミラ、ゲルギエフ、[運送屋]たちを視点とするパート名称「黒竜の瞳」はその輝きも圧し潰すような重みをもって描かれていったわけだけれど。

その上でおお……と思えたのが7巻の次のくだりだった。

「そこへ、つかつかとゲルギエフが歩み寄ってきて、レフの両肩をガシッと掴むと、腐った玉葱のような瞳でぎょろりと覗き込んでくる」
(7巻Kindle版、位置2599/4159)

黒竜の瞳」という威厳や迫力はあくまで権力権威、それに基づく暴力の圧であって。
内輪ではもうすっかり傀儡となり権力も権威も失った今、改めてその人間そのものを覗き込めば「腐った玉葱のような瞳」に過ぎない。レフはここでそう喝破しているんだな、と。

主要キャラクターの多くが描写される際でしばしばその瞳について触れられる中、(まだちゃんと確認しきれてはいないのだけれど)ゲルギエフについてはそれが極端に少なかった。ことによるとここに至るまで無かった、あえて避けられていたようにも見える。
あるいはこの場面のためでは、とも思える。

 

なおアニメでは12話、原作では2巻で輝いていた姿を最後に、後は延々と株を下げ続けていった傀儡たるゲルギエフはそうでも、それを操るリュドミラは以下のように頻繁にその瞳の光や闇について描かれていたという話はあるのだけれど。

「苺を口に含むたび、深緑色の瞳が爛々と輝く」

「彼女の深緑色の瞳は鋭利に光る」

「イリナにとっては初対面の相手だが、闇を秘めた深緑の瞳で見つめられると、全身の汗が凍りつくように冷える」

(以上、2巻)

「スピーチライター兼アドバイザーを務めるリュドミラ・ハルロヴァは、企みでもあるように深緑色の瞳を細める」

(4巻)

「戦場の天使のように慈しみを持って駒を愛でる。その深緑色の瞳は不気味な光をたたえている」

「闇を帯びた深緑色の瞳がレフを貫く。わざわざイリナに答えさせた意図は、真実を素直に吐けという脅しだろう」

(以上、5巻)

「金髪を後ろで束ねた女性が、飴の缶を手に、深緑色の瞳をこちらに向けている。この女性を、バートはニュースで何度か見たことがある」

(6巻)

レフ、イリナ、バート、カイエたちの瞳≒その存在は特に各々の視点での語りを経てその在り方が明らかになっていけばいくほど輝きを増して映っていくのに対して。
「深緑の瞳」は6巻で遂にそのパートが表に現れた後はまさにそのために輝きは急速に失われ、零落し続けていってしまう。要するにその光や闇というのは彼女が纏った秘密・不信・敵意・排除といったヴェールのそれであって、それらを剥いで(自身を除けば)誰にも語らないその芯を見せてしまうなら、それはそんなものに過ぎないという話なのかと思う。
6巻で登場し、そして持ち主と共に消え失せる「深緑の瞳」パートがリュドミラの株を暴落させ続けるのは"そうなってしまった"のでなく、逆に"正にそれをするためにこそ描かれていた"のではと思える。

 

ここで勿論、一般論として。作中の特定の場面における特定のキャラクターの言動や見方を、作品のそれと安易に重ねることには非常に慎重になるべきだし、些か妙に踏み込んだ決めつけのきらいもあるのだけど。
それでも……月や宇宙、人種・民族・国家等の垣根を巡る差別や敵意や無理解を超えた新世界に憧れ、望み、向かおうとする意志と輝きを讃える一方で、秘密・排除・相互不信・独占・歪曲といった対照的なものやそちらばかりを向く瞳や人間に対しては然るべき態度や扱いがあるし、そうするというのはおそらく、この作品の"かくあるべし"という姿勢なのではと思える。

 

最後に、ゲルギエフの権力欲名誉欲や保身への執念、そしてリュドミラが夢見た「人類の物理的な死の克服」即ちリュドミラという存在の核心の対極に置かれ賞揚され続けたのが、チーフ/東の妖術師/スラヴァ・コローヴィンであって。

以下のくだりはその讃歌だと思えた。

 カーテンの隙間から冴え冴えとした月光が差し込み、寝台に置かれた銅貨を鈍く照らす。静謐に満ちた病室に横たわる偉大な科学者は、宙への想いを現世に託し、見果てぬ夢の中で、永遠なる宇宙を旅する。たとえ肉体が失われても、その熱き魂は受け継がれていく。
(7巻、Kindle版位置No.3160/4159)

 

映画『さかなのこ』(及び沖田修一監督作品『南極料理人』『横道世之介』とその原作について)感想メモ

沖田修一監督の映画『さかなのこ』。

なにやら凄まじい怪作であり、同時に何よりまず初めから終わりまでめちゃくちゃ面白くてめちゃくちゃ巧い映画です。

一心に「好き」を貫くこと(とそれを支えること)の凄み、眩しさ、魔力のような引力、怖さ、暴力性を描き抜く緻密に振るわれる腕力は圧巻。

 

興味を引かれて観に行くことになった成り行きと感想を、続けて観ていくことになった沖田作品についての話も交えてまとめています。

togetter.com

『連盟空軍航空魔法音楽隊ルミナスウィッチーズ』5話「まっしろリボン」感想メモ

今期のTVアニメ『連盟空軍航空魔法音楽隊 ルミナスウィッチーズ』、佐伯昭志監督でシャフト制作と『アサルトリリィ BOUQUET』とも重なる雰囲気の作品らしいと聴いて観ていたところ、特に先日放送された5話「まっしろリボン」が素晴らしい。

 

『ルミナスウィッチーズ』は『ストライクウィッチーズ』をはじめとする『ワールドウィッチーズ』シリーズ、

魔力が存在する世界の20世紀初頭、突如出現した異形の敵「ネウロイ」の圧倒的な戦力と瘴気の汚染による大陸侵略が進んでいた。人類は唯一の希望として、魔導エンジンを搭載し、魔力によって駆動する「ストライカーユニット」を唯一駆ることのできる魔力を持つ少女「魔女(ウィッチ)」と、航空用ストライカーユニットで編成した初の統合戦闘航空団「機械化航空歩兵(ストライクウィッチーズ)」に望みを託した。

ストライクウィッチーズ - Wikipediaより)

という世界観の中で、ウィッチでありながら各々の理由で戦闘に適さず、音楽の力で戦禍の最中の人々の力になることを選んだ新設部隊の面々を描く物語。

 

4話までの間に、グレイス隊長が創設した音楽隊にメンバー9人が集い、初ライブと共に「ルミナスウィッチーズ」という通称も定まり、世界を巡り音楽の力を伝えるワールドツアーに出発するまでが語られて。

5話ではツアー最初の訪問地ロマーニャ公国を舞台にした、メンバーの一員・シルヴィを中心としたエピソードが描かれる。


ウィッチとして戦う十分な能力と意志がありながら高貴な生まれのために腫れ物扱いされ続け、一度も前線に出ることなく音楽隊に転属させられ、身分を偽り一兵卒として皆と接してきたシルヴィ。

そんな彼女が8人の弟を食べさせ学校に通わせるお金を稼ぐべく、どこであれそれが可能な軍隊暮らしに勤しんでいた同僚・ジョーをはじめとする仲間たちとの交流を経て、単に務めを果たすだけでない「ワクワクする」どうしても居たい場所として改めてルミナスウィッチーズを選び取り、シルヴィアーナ公女もシルヴィも、どちらも私だと見出す。

それと並行して、寄せられる期待に応えられていないと思い込みすれ違っていた父からも、今ここで正直な思いを込め生きる娘の姿を(亡き妻と共に)誇り、愛していると示されることになる。

 

そんな中での、

・折り紙にあしらわれた青い花と亡き妻/母が愛した青い桔梗で示される、すれ違ってしまっていた父娘の間に伝わる愛情と誇り。
・自分を偽るお姫様とクーポラのだまし絵を通じて描かれる、積み上げられてきた繋がり。

・差し出された白いリボンを付けた姿を鏡で見て慌てるシルヴィと、夜の窓に映るまだ拙い自分の踊りを見つめ練習に励むジョー。ふかふかの絨毯・ベッドと床……お姫さまと貧しい少女の境界と越境、友情。
・務めを果たすことを当然と思う二人が共に「仕事のはずなのに、なんかワクワク」してしまう「ずっとどうしても居たい」と願う場所。

一つの挿話の中で入り組んだ細やかな心情が、幾つもの象徴を巧みに用いて品良く美しく描かれる様が卓抜と思う。

 ※諸々の描写の詳細については記事冒頭に掲載したtogetter内で紹介

アニメ『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』2期、感想メモ

アニメ『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』2期、感想メモ

togetter.com

メモです。随時更新。

 

そういえば1期もとても楽しく観ていて、中でも第11話「みんなの夢、私の夢」は2020年TVアニメの個人的なベスト回だったけど、

skipturnreset.hatenablog.com

そちらは感想まとめのtogetter組んでいなかった。

自分で当時の感想振り返るにも不便なので、作っておけばよかったな。

アニメ『86 エイティシックス』7話&22話の花火描写について

f:id:skipturnreset:20220330185307j:plain

『86』7話より。

f:id:skipturnreset:20220330193215j:plain

『86』22話より。

 

 

アニメにおいて、花火は非常にしばしば象徴的な形で用いられる。

f:id:skipturnreset:20220330200619j:plain

ごく最近でも例えば『その着せ替え人形は恋をする』12話では、実写はめ込みと見まごうばかりの華麗さで咲き誇る(花火のコスプレだ)、これまで想像もできなかった楽しい瞬間の、でも来年もまた二人で迎えるであろう幸せの象徴として。

f:id:skipturnreset:20220330200851j:plain

小林さんちのメイドラゴンS』12話、無限とも思える時間を生きるドラゴンと儚い人間が共にすごす、掛け替えのないこの今の日々の輝きとして。


ただ、その中でも、『86 エイティシックス』7話「忘れないでいてくれますか?」&22話「シン」の一組の挿話ほど花火を多義的なイメージの象徴として描いている例はなかなかにないかとも思う(まず、22話で爆散したモルフォの色鮮やかな火花は7話での革命祭の花火のリフレインだ)。

22話は7話の画、場面、台詞、仕草等をしばしば反復しつつ(後述するようにここぞというところで数回、7話のカットが引用されもする)、シンとレーナ、二人の主人公のキャラクターと足跡の核心を見事に描き出している。そのイメージの鍵に花火がある。

 

作中において花火は時に、
悲惨な境遇の中でのささやかな楽しみで。
残酷な格差の明暗を照らし出すもので。
悲しむことさえなおざりに抱え込んだ心を溶かすもので。
間近に滅びを待つ虚栄の市の光で。
人類が得た生存の僅かな猶予で。
叶うことなどありえないささやかな夢想で。
決して手放しはしない誇りの輝きで。
儚く散り行く命で。
手を伸ばし掴むべき理想として現れているように見える。

 

 

 

 

なお、7話絵コンテ&演出は伊藤智彦さん。22話絵コンテ&演出は石井俊匡監督。最終話の23話絵コンテは伊藤智彦さんと石井俊匡監督の連名(演出は河原龍太さんと石井俊匡監督)とクレジットされている。