『サイボーグ009トリビュート』感想

サイボーグ009トリビュート』

参加作家9人に著作を読んだことがない人はいないものの個人的に馴染み(?)のある度合いに濃淡はあるから全部がそう、とは言い切れないけど。

全作品が非常に誠実に原作に敬意を捧げその諸要素を扱いつつ、思っきり各々の作風に取り込んで自身の小説にしてみせる様はなにやら揃って007だな、とぼんやり思ったりもした。

 

9作家9篇すべて良かった中でダントツで好きなのは長谷敏司「wash」。

次いで斜線堂有紀「アプローズ、アプローズ」、円城塔「クーブラ・カーン」。

酉島伝法「八つの部屋」、斧田小夜「食火炭」、藤井太洋「海はどこにでも」も結構好き……ということで、最初に挙げた三作品についてそれぞれ感想も書いてみる。

 

■1:長谷敏司「wash」

長谷作品の中でも『円環少女』が繰り返し提示した"戦いも怒りもいつか過去になる"というのは際立って印象的、かつ、好きだし、残酷だとも思える概念であり視点。

※「戦いも怒りもいつか過去になる」について詳しくはこちら。

サイボーグ009トリビュート』収録「wash」はかつてそのことを描き抜いた作家ならではの1篇だと思えた。「戦いも怒りも、いつか過去になる」ことを断固拒み、だから容赦ない時代の変化に取り残されないために苦みも痛みも伴う多くを受け入れ、しかし誇り高く自分で在り続けるサイボーグ戦士たちの物語。

「言ってやろうとも。重い使命がのしかかろうとも人生をあきらめず、サイボーグの体に卑屈にならず、人間の幸福を捨てようとしなかった、汝こそわれらのもうひとりのリーダーだった。戦場よりも平和の力のほうが強いことを、汝のおかげで見失わずにすんだ」(p273)

 

「004が苦笑する。アップデートを重ねて時代に取り残されないよう必死な彼に、年齢を自然に受け入れられるフランソワーズの強さが、まぶしい」(p273)

 

p282-283で描かれる、"聴きたくなくても多くを聞き取ってしまう"フランソワーズがその力を「世界中のシステムに侵入したドルフィン号のAIが情報を取得するバックドアを作りまく」ることで「世界で最も危険なAI」を育てることに用いてみせた姿。

 

「うんざりなのは、004も同じだ。彼女は、おそらく第二次世界大戦を、理性と狂気が融和したこの国で生きた年代だ。そして、彼女は外の世界を、大戦を引きずった六十年代までしか知らない。時代に合わない潔癖さと古さが、洗濯せずに黄ばんだシャツを見るようで、故郷への懐かしい厭わしさがよみがえる」(p308)

 

003フランソワーズと「wash」で登場するクリームヒルデ……「自分の研究と好奇心に振り回された女」でありどこか『円環少女』の国城田義一を思わせる人物の対比が非常に鮮やかに思えたし、「洗濯せずに黄ばんだシャツ」というあまりに見事かつえげつない表現は作品の題名「wash」とも強烈かつ見事に繋がるものだろうとも思えた。

 

勿論、より直接的な表現が幾度も出てきてはいるのだけれど。

「半世紀も時間があって、身勝手さを反省すらしなかったのか! みんな、いろんなことを、苦しみながら、耐えて、時間で洗って、前に進んでるってのに」(p324)

 

「時間は、それでしか洗い流せないものを洗うためにあるのさ」(p325)

 

「ギルモア博士は、サイボーグ化すれば延命できるのに、それを選ばない。それは、寿命を迎えるときが、博士自身の罪を洗い流し終わるゴールだからなのかもしれない」(p325-326)

 

「自分を洗脳するシステムなんか使うくらいなら、まっとうに生きるべきだった」(p329)

 

「シャワーを浴びたい」(p333)

こうした、これと定めたテーマのいっそ過剰なまでに繰り返されその度に深まっていく問い直し、別側面の提示、更に掘り進めての自省といったものもまた、あまりにも長谷敏司作品らしい在り方でもある。

 

■2:斜線堂有紀「アプローズ、アプローズ」

サイボーグ009』と言われればとても多くの人がまず真っ先に思い浮かべる場面の「その後」を描いてみせた一篇。

前後の行を空けて

 

「拍手が聞こえた」

 

と提示される死を覚悟し昏睡していた009/島村ジョーの覚醒を促した007/グレート・ブリテンの拍手で幕を開けに……そして、

「でも、流れ星に願いを託す人はいても、流れ星に感謝をする人はいないのよね。私、それを思い知ったの……」

という003/フランソワーズの思いを引き金としてサイボーグ戦士たちと彼らを取り巻く様々な思いが様々な「拍手」を通じて描かれていく。

読むと圧巻の感傷と感動に侵食されずにはいられない一作。

 

■3:円城塔「クーブラ・カーン」

9人のサイボーグ戦士でなく、ギルモア博士をトリビュート作品の中心に置くのがまず、大変に「らしい」といえば「らしい」。

ギルモア博士と作中で描かれる「システム・ギルモア」の相違の在り方の描かれ方についても、あまりにも「らしい」一篇。

 

その中でひとつ、強く印象に残ったのが007の思いをスティングの名曲「Englishman In New York」のMVに託して描いてみせた場面。

こういう一面もしばしば、円城作品の魅力だなと改めて思わされもした。

 

Sting - Englishman In New York