新潮社『yom yom』vol.10(2009/3)北村薫「高み」ほか。

いい号です。
特に印象に残ったものは以下の通り。

北村薫「高み」
川本三郎「君、ありし頃」
嵐山光三郎「文士の手土産----深沢七郎のキンピラゴボウ」
万城目学「悟浄出立」
丸谷才一「本の本を紹介する」
瀬名秀明「新刊をヨムヨム 対決!ボンド・フレミングVS.メグレ・シムノン
梨木香歩「家守綺譚 茶の木」

北村薫「高み」

……これ、すいませんが、まどろっこしい紹介は省きます。
未読の方には、ただもう、「すばらしい作品です。読んでください」としか。

特にネタばれ云々という類の小説ではないため、別に先に読んで頂いても全く構わないと思いますが、ともあれ、以下、一読はされた方向けの、自分なりのこの「高み」という小説に関するまとめです。


次の誕生日で還暦の定年を迎える、文芸誌の編集長、御厨。
人の想像力を扱う仕事を長く勤め、語りのうちに自らにも高い想像と共感の力があることを示す男は、しかし、こと自分自身については、

「幻想は、一切、抱くことなど出来なかった」(p358)
という人物です。
「御厨の一つ前の世代なら誰もが知っている------という戯曲」(p343)
であるモルナール・フェレンツ『リリオム』の主人公、
「俺にはとうとう、こんなことしか出来なかったと天を仰いで退場していくリリオム」(p343)
に想いを馳せ、重ね、劇の最後の台詞に打たれる御厨。
しかし彼には、間もなく人生を投じて来た仕事から引退しようとし、いよいよ間近に見えてきた人生の終わりを見つめる中、どんなことであれ、何かをするべき相手がいません。

あるのはただ、僅か一つの記憶だけ。しかも、その顔すら今は思い浮かばない。
そのおぼろげな記憶を語る文があまりにも哀しい。

「御厨は、自分の力を示そうというように一心に逃げた。
「……つかまらない」
 息を切らしながら、そういった彼女の口元が見えるような気がする。可愛かった。しかし、その顔が浮かばない」(p358)
彼にとって、人生最良の一瞬はここにあって。
その時、それをもたらした相手は彼を一心に追い掛けていた。
「御厨がその高みまで上ると、あの子も懸命について来た」(p359)
ついて来て、くれていた。
その掛け替えのない瞬間も、御厨は「自分の力を示そう」という、その後彼の人生を覆い続けた「傲慢過ぎる自尊心」(p357)のまま、取るべき手をとって共に並ぶどころか、「一心に逃げた」。

その記憶は、八章構成の最後の章において、高校生の時でさえ、<小学生の頃の追憶として初めて大切なものだったと意識出来たもの>であったことが語られるます。
そして、高校生の時、

「そういう垣根をやすやすと越えられる心があることが不思議」(p360)
とだけ思えた心は、四十年を越える月日を経た今、別の像を結ぶことになります。

また、特にこの八章で描かれることは、既存の北村作品の幾つかと強く繋がりもします。
「高み」を目指そうとする<道>が限られ、ものによってはあまりにも冷酷に閉ざされていた/いる女の子の寄せる、スポーツへの思い。それは、『野球の国のアリス』に。
その思いと、そこで「バレーボール」が引き合いに出されることと、『スキップ』のバレーボールの場面。
あまりにも若くして不意に逝ってしまった少女の母親が、かつての少女の友人に向けた「有り難う」という思いと、『秋の花』の津田真理子の母親が娘の親友だった和泉利恵に向けた思いと。

これはそんな、いかにも北村薫作品らしい、時の流れの中で幾重にも折り畳まれた複雑な構成を持つ佳作なのだと思います。


……あと、「高み」という題、そして最終章で描かれた少女の意志のからは、なんとはなしに、阿刀田高「砂時計」(『風物語』収録)の「錯覚でもいい、高く登りたい」と呟く少年・紀一が連想されたりもしました。


ただ、この小説について、あと一つだけ。
作中でジュディ・ガーランドについて、登場人物のひとりによって、『オズの魔法使』の頃のあまりにも眩い輝きの後の人生を、

「だけど、薬をやっちゃってねえ。晩年はぼろぼろ。最後も睡眠薬の飲み過ぎか何かでしょう」(p348)
と片付けられてしまいます。

この小説においてそこにこだわるべきところではないのかもしれませんけれど、暗い翳が射してからのジュディ・ガーランドについて、その一言で切って捨てられてしまうのは、少し、放っておけないと思えます。

確かに、あの『オズの魔法使』の曇り一つない輝きは、彼女以外の全ての人同様、誰にも二度と手が届かないものではありました。
しかし、例えばジュディ・ガーランドにはある期間彼女を支えようとしたパートナーと共にその輝きにも翳りにも共に強く向きあい、傑作を残しています。

映画、『スタア誕生』です。

※以前書いた紹介・感想
http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20060123

そして、ジュディ・ガーランドは偉大な娘も残しています。
ミュージカル『キャバレー』でやはり不滅の光芒を描き、母と同じような暗い挫折を経て、今も活躍を続けるライザ・ミネリです。

その母娘が共演したコンサートの模様は、「Judy Garland and Liza Minnelli: Together」というCDで聴くことが出来ます。

Judy Garland and Liza Minnelli: Together

Judy Garland and Liza Minnelli: Together

デュエットで歌われる名曲「Swanee」の力強い躍動。
そして、過酷な運命を経て、それだからこその強さと喜びを高らかに歌う、ジュディ・ガーランドの、そして古き良きアメリカの象徴、「Over the Rainbow」。
私はあの『オズの魔法使』の「Over the Rainbow」よりも更になお、この長い時を経て、もはや虹の彼方に無垢な目を向けることは出来ない、しかし、だからこその強さに満ちたこのCDの「Over the Rainbow」を素晴らしいものだと思います。


※3/19追記。


「高み」を読んだ後で、作中で触れられている飯島正訳の中公文庫『リリオム』を読んでみると、面白いことに気付かされました。

リリオム (中公文庫 C 17)

リリオム (中公文庫 C 17)

「だれかが私の手にキスしたような気がしたの」
と娘が言うのを聞いたリリオムは、ト書きに、
「(ほこらしげに顔をあげ、ユリを見る)」
と書かれています。
そして、あの時の母の年に二歳足りないだけの十六歳の娘(『エノケンの天国と地獄』の息子は十歳)は続けて、泣きながら、
「……まるで裸の心臓を私の手に置いたみたいなの!」
と叫ぶんですね。


−−−そうであるならば、リリオムは満足でしょう。そうである筈です。


「高み」の語り手御厨が、

「俺にはとうとう、こんなことしか出来なかったと天を仰いで退場していくリリオム」
と語るところは、実際に『リリオム』を読むとこうあります。
「リリオムは左手の方に向き直り、刑事たちのさきに立って退場。歩きだすとき、両手を広げ、空をあおぐ。それは「ああ神様、私にはこうしかできないです」といっているかのようである。刑事の一人が「こいつは救いようがないなあ」といった手ぶりを見せる。二人の刑事は頭をふりふり、リリオムにつづいて退場」
ここで、「さきに立って」去りゆくリリオムの背中に哀しみはあっても未練はない筈なんです。
普通は、そう読める筈だと思えます。そして、そこが面白いと思います。
つまり、御厨がリリオムの退場についてああ語るのは、彼のどうしようもない寂しさを鮮やかに示す、北村薫らしい仕掛けなんだろうと思います。


川本三郎「君、ありし頃」

副題に「----家内、川本恵子は昨年、五十七歳で逝った」とあります。
ファッション評論家であった奥さんに捧げられた、追悼エッセイです。

魅力的なエピソードの中でも、ある写真誌の「私のバス・タイム」という連載で裸の写真を撮られた時に奥さんが怒った、という話がとりわけ気持に残ります。

……まぁ、とんでもないのろ気なんですけどね。

四十代の中年太りが目立ち始めた頃だ、と語り手はいいます。

「掲載誌が届き、ページを開いてみて仰天した。それまで登場した人はすべて湯舟につかり顔だけ出しているのに対し、私はカランの前で椅子に座っている。つまり、前はタオルで隠しているとはいえほぼオールヌード。醜い裸をさらしている。
 これには参った。編集者に「あんな写真を載せて!」と抗議しようと思ったが、撮影中にいやだといわなかったのだから仕方がない。おまけに能天気な本人は裸で、にこにこ笑っている。これでは抗議しても迫力がない。あきらめた。
 家内は写真を見て怒った。いつもクールで、私が他の女性に心を寄せた時にも「どうせ振られるわよ」とまったく動じなかった家内が、この時ばかりは「こんなことをして、恥しい」としばらく口をきいてくれなかった。ファッションの仕事をしている人間として、夫の裸は許せなかったのだろう。いまも反省している」
なんだか野暮な話なんですが、まぁ、「ファッションの仕事をしている人間として、夫の裸は許せなかったのだろう」というのは照れの上でのごまかしの形を借りた、ホントにまぁ、とんでもないのろ気です。
「醜い裸」「抗議しても迫力がない。あきらめた」という、<体も状況も実に情けない>という自虐は、その後に描かれる奥さんのゆるぎない信頼と愛情を引き立てるスパイスなわけで。
なーにがもう、「いつもクールで」か!!
あまりの微笑ましさに、しみじみと温かく呆れてしまいます。


嵐山光三郎「文士の手土産----深沢七郎のキンピラゴボウ」

こちらはももう……。
深沢七郎さんは土産評論家みたいなところがあった」
と始まるこの素晴らしい2ページの追悼に、もう、付け加えるべきことなどなにもありません。
読んで、泣いてくださいな。


万城目学「悟浄出立」

題名から言うまでもなく明らかなとおり、中島敦へのオマージュ。
いい作品です。かなりの意気込みを込めた、野心作なんだろうと思います。
そして、佳作だと思います。
そもそも、「悟浄出世」「悟浄歎異」にド直球でオマージュを捧げようという試み、それだけでもう、なんだか大好きです。

ですが、北村薫「高み」と同居してしまっているので、ごくごく個人的な話ですが、やや割を食って印象はそれほど強くなりませんでした。ごめんなさい。

青空文庫
悟浄出世
http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/card2521.html
「悟浄歎異」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/card617.html


丸谷才一「本の本を紹介する」

池澤夏樹『風神帖』収録の「『雲の行き来』の私的な読み」を異例の大絶賛。

中村真一郎の最上の作品と考へてゐて(中略)よく読んで、心をこめて論じたつもりだつたが、池澤の評論のほうが上を行つてゐます。もちろん彼の評価も高い。その点はわたしと同じ。すばらしいのは魅力の分析の仕方が上手なこと。とりわけ語り口の速度についての音楽的比喩---アンダンテ、アレグロ、モデラート---には舌を巻く思ひだつだ。あの忘れられた特異な作品についての好論で、われわれの文藝批評が持つてゐない要素、つまり作品の美的特質をめぐる具体的で知的な鑑賞をきれいにそしてたつぷりと提供してくれる。わたしは教へられ、圧倒されました」

異例というかもう、とんでもないですね、これ。


瀬名秀明「新刊をヨムヨム 対決!ボンド・フレミングVS.メグレ・シムノン

最近になって漸く知ったんですが、この人、書評すっごく巧いんですねぇ……。

レミングシムノンの対談の話から入っていって、セバスチャン・フォークスが亡くなったフレミングに成り代わって書いた、遺作『黄金の銃を持つ男』の続篇『猿の手を持つ悪魔』を論じ、ラストはボンドもののだ一作『カジノ・ロワイヤル』の裏返しであると断じ、ボンドの生みの親であったフレミングと重ねるようにして、

「これは一作目から傷ついたボンドが最後に辿り着いた夢物語なのかもしれない」
と締めくくる。ボンドものは読んだことがなかったんですが、思わず読み始めたくなる文章です
その対面においたシムノン『闇のオディッセー』の評もやはり未読ですが惹かれるものがあります。

あと、はい、分かりました。
『環境知能のすすめ』というのは、

「私が編著で昨年出した『サイエンス・イマジネーション』(NTT出版)とまるで表裏のような書籍である」
とのこと。

はいはい、買いますよ、読みますよ。こちらはきっと、比較的すぐに。
ホント、いい本、いい企画でしたから。『サイエンス・イマジネーション』。


梨木香歩「家守綺譚 茶の木」

まぁ、いつもの「家守綺譚」です。


 ------ムジナとタヌキはどう違うのです。
 私はこの際、と思い、思い切って訊いた。
 ------ムジナは、教養がない。
 おかみさんはきっぱりと言った。あまりに毅然としていたので、
 ------はあ。
 と答えたきり、問い返すこともできなかった。しかしふと、あの女の顔を思い出した」