ランス10、雑感。

 

今年の連休始めから終わりまで。幾つかSFやアニメ方面のイベントには行ったりもしつつ、他は寝ても起きてもひたすらランス10を遊んで、概ね一区切り(全ENDコンプリート、実績80~達成)つきました。

ランス10がどんなゲームなのか、どんなシリーズの総決算だったのかはこちら↓に素晴らしくまとまっているのでまずそちらをどうぞ、としつつ。


折角80時間くらい遊んだことだし、一区切りついた直後に思わずプレイ済みの人にtwitterのDMで延々3時間くらい感想やりとりさせて頂いたりもしたので。

概ねそこから引っ張りつつ、少し雑感を。

※(自分の発言をオレンジ、雑談相手の方の感想は緑色で表示しています。流れに合わせて一部編集も)。

なお、以下はランス10プレイ済み前提の人向け、ネタバレ配慮一切なしです。宜しくお願いします。

 

二部の構造、シリーズの締め方

「二部がルドラサウム接待プレイだったのなんかとても面白くて。
「あなた≒プレイヤー≒ルドラサウムが満足して楽しめたら、作中世界も幸せに続く。大満足できたはずなので大団円です。良かったです。良かったですね?」
いろいろメタ的に提示されて、綺麗に閉じられる。
「満足して楽しめましたか?」ではなく、「もちろん、大満足で楽しんで頂けましたね?」という自信満々な姿勢なのも、ごく個人的にもその通りだからとても心地よかったです」

 

「よくもまあ締めたなという感があり……。しかし魔想さん子供化とか、長期間にわたるスルーパスが決まる構成とか、なんか30年続く超大作がこんなに綺麗に終わるのか……という感動があるんですよね……」

 

「締め方といえば、最後のクルックーさんの笑顔CGもあるわけですが。
シィルさんだと本当に純粋な含みのない笑顔になるので、いろいろ、いろいろ、いろいろと込み込みのこれで締めてくるのは個人的にとても好きですね」

「クルックー笑顔締めは最高に最高でしたがやっぱり最後はランスとシィルの絵で締めてほしかった感があります(ラストはそうだけど……)
まあでも第二部の話だと当然の帰結……」

「ランスの物語の締めならシィル、ルドラサウム世界の締めならクルックー、で、1枚絵では後者が選ばれて。シィルさんはエンドロールの看取りの方に、という感じですねー。
この手のメタネタの締め方と言うか描き方としても、あの笑顔の一枚画とやりとり、んでもって「答えならばもう聞いた」とその後の会話で、これくらいの示し方で描くの、とても洒落て綺麗で良かったです。」

「まあそもそもランスの締めではあってもルドサラウム世界がこれで締めなのか問題がありますが」
「ああ、確かにそれはありますね」

源氏物語光源氏・薫大将問題?みたいな話(あまりにも魅力的で強烈なキャラクターの主人公が主役から降りると、その子供世代とか後継者とかを主役に据えて二部とか続編とかを描くときに見劣りせざるを得なくて困る)で、第二部でランスが(終盤まで)主役を降りて、その子供の話にする……と「格」がどうにも保てなくてしんどい、とか、厄介な問題をうまいことすり抜けてたのも良かったなー、と。
二部の主人公の性格としても「なんだかよくわからない」「何を考えてるのかわかりづらい」としばしば評されたりとか、選択肢にやたら奇抜なのや乱暴なの置くとか。
ルドラサウムinなので好き勝手だったり無茶やったりするのはそりゃあまあ当然に、というのメタ的にも良い扱いと示し方だったりしてなるほどなー、と思ったりも」

「なんか仲間内でワイワイ楽しくやってる時のTRPG(の参加者)っぽいんですよねー。もともとランスはTRPGが原型にあるときいたことがあるようなきもしますが」
「ゲーム(特にエロ一般問わずノベルゲー)、小説(特にSF,ライトノベル)について、今30代~50代くらいの作家へのTRPGへの影響はめちゃくちゃ大きい印象はよく受けますね。ランスに限らず。タイプムーン関係なんかも勿論そうで」


「30年も書いてきて作中でも4?5年? ぐらい経ってランス君がなんか普通に英雄みたいに成長しているのもいいんですよね……」

「ランス自体の変化もですし、ランスの善性?みたいなのを子供という形で多面的に分割して描いてるのすごく面白かったですね」

「第二部、子どもたちがだいぶ厄介そうに語られていたのでドキドキしながら読み進めていたのにみんなめちゃくちゃいい子たちで笑ってしまいました」

「ダークランスさんへの善性のぶっこみっぷりがすごい」

※ダークランスさんの「笑顔」について語られる場面のキャプチャいくつか送信。二部友情イベントでの「どうやら、あなたの兄はよく笑う人らしかった」他。
「そしてやっぱり第二部ラストバトルみたいな無茶苦茶な状況になっても平然と向かっていくのがランスで、ランス以外にはいないし、ランスがいなくなったらもうこの世界もまあ終わりだよなー……というのが非常に寂しいな……とおもうのでした……」

「老衰死大往生まで描くというのは定番ですけど、綺麗な締めですね」

 


膨大なキャラそれぞれの、端役に至るまでの魅力、食券イベント等


「食券イベントだけで延々5,6時間は読んでいたような……めちゃくちゃ良いのがいろんなところにありますね」

「食券イベント、どれも短編小説みたいに本当に出来がいいんですがパッチ前はキャラランダムなせいで本当に集めるのが苦痛だった……」
「食券イベント、大変良いのが多かったので、メモ代わりにキャプチャで残してたりも。いや、統合のキャラ情報からイベント再生すればいいんですが。見直す時、わかりやすいよーにみたいな。そんな暇あるのかどーかはともかく」

(※DMのやりとりでは適時キャプチャ送信しながらやりとり)

 

トルストイとか完全モブやんけ! みたいなキャラのヤツまで地味にできがいいから困るんですよね……」

トルストイ食券イベントすごく良い感じ(半分クリームさんイベントですが)だったの良かったですね……」
「二部始める前に食券イベント数時間延々読んで、それからやっていて。例えば早雲さんの食券イベント2つ目みてた後なので「ちょっと。なにやってんだおい」となったり、その後闘神大会で大健闘してたのは大変良かったりもしましたね」

「ウスピラ&サイアス、ケッセルリンクメイドさん方面、パパイヤ&ネルソン父子とか、ランス中心とはまた別の関係性の話とかも好きでしたねー」

「地味にガンジーの食券イベントが衝撃的です」

ガンジー食券イベント、アレックスさん(食券3イベ出てくる場合には)5ターン経過で死んじゃったから……)の立場が……うう、アレックスさん……。

アレックスさん、食券3イベントはしみじみと良いのに。例えばさっき挙げた早雲さんの食券2イベントあたりとも併せて読みたい感じで」

「アレックス、本当に悲惨……」

「エロピチャさんのめげない生命力、活力が素晴らしい、ということで、まあ。エロピチャさん食券3イベントで露骨にはっきり「そこに隙があった」と吐いてるのが強くて良いですね」

「強いというか、異能生存体というか……”どんな状況にあっても最強の男を虜にしてみせる”という特殊スキルを感じる」

「しかしまあ、状況考えるとアレックスさん(生存時)にもガンジーさんにも良いように未来が拓けそうなので、その意味でもエロピチャさん、たいへん強くてよいですね」
「ここらへんのフラグが立つとはじめて千鶴子さんあたりも食券3イベントを選択できるように……とか「フラグ管理複雑すぎるだろ!」ともちょっと。いや、まあ、内容的にも仕方ないというか当然ではあるんですが」
「カオル・ウィチタもかわいそうでした……」

「カオルさん卒倒はかわいそうだった……(確かに明らかにあおりを受けて不幸になってる……)」
「たしかに、別に搾取しているわけではないですからね。

しかし史実としてはたぶんふたりとも死んでるのが悲しい……

(一部のリズナ魔人化ルートではガンジーは死んでるので……)」

「ウィチタさんはガンジー再婚イベントでも、そしてそれ以上にたしか自身の食券イベントでもランスに「カオルさんはガンジーのためなら本気で死ぬしそれわかったけど、お前そうじゃないんじゃない?」と言われてたのかわいそうでした……」

「ウィチタとカオルはその辺のキャラクタの書き分けがけっこうぐっとくるんですよねー。ふたりとも忠誠度は高いけど──という。マアその分かわいそうですけど……」
「キャラクターの背景設定とか関係性描写、ゼス方面は他に比して層も深みもやたら充実している感じが」

「ウルザ周りもいいですからねー」

「キャラクター人気投票、ウルザさんに一票かな……(ウルザさん贔屓)」

「そんな中でネルソンさん食券イベントは楽しかった……。

「従って! 現状を打破するためには!現体制の転覆しかない!」

「 「そいつの食券イベントもあるんかい!」というのが今回何人もいましたがネルソンさんもその一人で、そして相変わらずアホだった」

「ネルソンさん、食券イベント2では技能に振り回される哀愁とギャグぶん投げてきながら、3になるといきなり親子の良い話(パパイヤさんと併せ読むとなお味わいが)になって、すごく良かったですね。

「そいつの食券イベントもあるんかい!」といえば、小早川秀秋……もといビヨンホウさんはランスと親バカコンビ結成しますし……」


「名前忘れた時を戻して時間軸の中をランダムに意識が飛び回っている聖女の子モンスターの食券イベントとか、完全に梶尾真治短編でおもしろかったな……」

「聖女モンスター4種の名前いちいち覚えてらんなくて僕もこんがらがってますが……あのイベント良かったですね。その手の話の定番として、こちらにとっての出会いの場面を……というシチュエーションでしたが、定番をしっかり上手く描かれるのは良いものです」

「(該当イベントのキャプチャ送信しつつ)改めて読むとうん、梶尾SFっぽいですね……情感先行、年数とか規模とかやたら壮大、みたいな(?)

聖女モンスター、食券イベントも大と小で別扱いなのちょっと面白かったですね。存在/キャラクター自体とその描写がそのまんま、(世界)設定語り(の一部)という観もあって、ちょっと優遇されている感じ」

「たしかエマノンのどこかの短篇にセラうんたらと同じ設定のキャラクタがいたはずなんですよねー。たぶん元ネタなんじゃないかな。で、そうそう、そこ分ける必要あるか!? という本気を感じましたね……大と小で別扱い」


「ランス10、なにげに紀伊とかずっと前からいますけど何か? みたいな良キャラクタの追加が多い……」

紀伊さん初出だったのか……誰だろ?と思いつつ。このキャラも食券イベント面白かったです。「一服盛った」の天丼オチ……良かった。素晴らしかった」
「ずっと前からいるような顔して実は10初出ってのが何人もいたんですよねー。ケッセルリンクメイド部隊とかみんなデザインが良すぎるのもひどい」

「目の前の虐げられた女性絶対救う魔人ケッセルリンクさん、それをいいように利用されて追い込まれても、ペルエレさんに(分かっていて)裏切られても満足して消えていく。

これ、勇者のアリオスさんとのえげつない対比にもなっていて、むごいな、とも思えましたね……まあ年季が違う、ということでもあるっぽいんですが」
「勇者はえげつないほどウザく描かれていましたしねー。ここまで勇者がウザい作品はほとんどないのでは(シナリオレベルでウザいというか、ゲームレベルでウザいし)」
ケッセルリンクさん周り、最も古い使徒シャロンさん関連が特に好きでしたが。ケッセルリンク本人の食券3イベントのランス評がものすごく良かったです。

(該当場面キャプチャ送信しつつ) 

「……夢を見せるのが上手いな、君は」

は短く鋭く、とてもとても好きなフレーズですねー」

「夢をみせるだけじゃなくてその夢を基本的に自分でも信じ切ってるのも凄いですよねー。それでいて後半シリーズでは「このままじゃマズイな……」みたいなけっこう戦略的な視点がでてきているのもおもしろい」

「まあでもランスの食券イベントが異常におもしろいのも、ここまで9作のキャラクタの積み重ねがあり、膨大な世界設定とキャラクター数があり、色んな能力者もいて、とやりたい展開をやろうと思ったらいくらでも組み合わせを考えつける積み重ねがあるからだろうなあとおもったり。その点やはり他の作品とは格も歴史も違うということなんでしょうね」

 

二部の悲しみ「あるある」話、見当かなみさん、ウルザ・プラナアイスさん、ランス6ゼス崩壊関連


「でも第二部でかなみがぜんぜん出てこなかったのとか悲しすぎるんでもっとかいてほしかった……」

「しかしあの生まれ変わり制度、かなり恐ろしいなと思ったり……。かなみの娘、せっかくかなみとランスの娘なのに完全に鈴女だし……せ、せっかくのかなみの娘なのに鈴女にのっとられた……」
「蘭とすずのところで生まれ変わり云々解説したので(ところで「北条すず」ってネーミング凄かった(?)ですね。『この世界の片隅に』は北條すずなので……)、どうみても鈴女が生まれ変わってるというのはわざわざ説明しないんですよね」

「そうそう、少なくともシナリオ中では説明されないんですよねー。実はレベルいくつだったか忘れましたけど娘(ウズメ)のカードで明かされてたりするんですが」

「LV90/240しか登録されていない……性別女パターン2主人公の統合への登録兼ねて4週目で入手目指します……」
「ウズメ、地味に選択を間違えると第二部では仲間にすらならないのがかわいそう……」

「二部の二週目、仲間イベントでなく宝箱選んだらどーなるのかなー、とやってみたら全員サラッと、仲間にならずその後存在に言及されないまま進むのなんか見事ですらありましたね……」


「かなみに鈴女といえば、描き方の味としても、フレイア食券イベント3の締めとかも好きですねー。

(キャプチャ送信しつつ)


【ランス】

「なんてか、人生楽しんでるな……」

【ランス】

「忍者とかアサシンとか、闇の仕事する奴らって案外そんなもん?」

【フレイア・イズン】

「短いからねぇ。

色々と」


こう、二行に分けつつ、さらっとカラっと締める。

戦国ランスやって鈴女さん周りとくのいちの設定とか知らないとさらっと流しそうで、さらっと流されても別にいいけどね、みたいなテキストの出し方はとても好きですねー」

「割りとこの世界のくのいちやニンジャはさらっと死にますからねー」

「あ、そういえば、がっつり毒を仕込まなければニンジャ/くのいちもめちゃくちゃ寿命短くはならない、ということでかなみさんは(出てこないけど)二部でも元気にやってるのか。そうだった」


「ところで僕は二部でウルザさんが出てこなかったのが寂しかったですね…‥。これだけ魅力的なキャラが多いと、こういう「〇〇が(二部で)出てこない/活躍が少ない」といった話がそれぞれ出て来そうで。仕方がなくもあり、当然でもありつつ、しかし各々寂しさを抱える話ではありますねー。しかしエンドロールで出て改めて天を仰ぎましたが、ゼス崩壊って2004年。14年前ですか。マジか……。
(該当場面キャプチャ送信しつつ)


【ウルザ・プラナアイス】

「……私も限界は無しでいきますよ。ランスさんには負けません」

【ランス】

「………それが本気だからな、君は……」

【ウルザ・プラナアイス】

「ランスさんと対等でいられる女性が、少しくらいいてもいいでしょう?」


ウルザさん……」


(他の流れ挟んで)

「ランスシリーズって海外展開とかしていましたっけ/するんでしょうか。例えば中国方面に、ゼス方面魔物大将軍ツォトンが知識人を選別して大虐殺、愚民化政策を採る……という話を持ち出したらどうなるのだろう…… そういう厄ネタが、例えばゼス自動解放での描写とかで、作中の歴史、作中のキャラクターたちの思いとしてしっかり作中世界の出来事として昇華されて熱く示されていくの、本当に素晴らしいんですけどねー」

「ゼス自動解放は本当に熱い……というか国家体制の話としては完全にゼスというか6の出来がいいんですよね、9はキャラクタの話として好きなんですけど国の話としてはやっぱり6が一番好きだな……」

「ファンタジー世界の国家、政治、戦争、群像劇、恩讐/復讐劇、魔人アベルトのキャラ造形、かなりの部分、アベルトに対応するヒロインのウルザ・プラナアイス……うん、ランス6ゼス崩壊はやっぱり僕もシリーズ中で群を抜いて好きですね」

 

作中の死生観(?)、世界設定/メタ設定、その描写などについて


「ランス10、いきなりアールコートが死んだので凄いシナリオだ! と喜んでいたらあっさり生き返った(でも死ぬやつはさらっと死ぬのであった……)」

「僕は「アールコートさん!なんてことを!!!!!」と素で驚きましたね……」

「ゲームの設定が執拗にリーザスのコルトバさんを殺すべく動き続ける(コルトバさんが何をしたというんだ。暑苦しいからか?)」


「鈴女みたいなのをすっと殺せるのはやっぱ凄いシリーズだなーと思いますが当たり前に転生もするし場合によっちゃ幽霊になるしでけっこう死生観がゆるゆるな世界でもあるからなーとおもったりそしてそういう死生観がゆるゆるでランス自身も別に望めばいくらでも生きて冒険ができるのにそういう選択は選ばずに普通に老いて死ぬのがまたキャラクタとしていいなと」

「なんの説明とか入れずとも、そのキャラクターなら当然そうするという説得力にも満ちていて良かったですね」

「因果応報、罪と罰みたいな話も「それぞれであっていい」みたいな描写、すごく良いなと思いましたねー。

ルドラサウム世界はそもそも創造主がアレだから基本酷いのであって、その中で縦横無尽に振る舞うにはランスくらいでないとアレだし。

その中でとことん人間として生き抜く人間もリアみたいに(この人昔は気まぐれに人をいじめ殺す人間版メディウサみたいな人だったし、その後もまあ)善悪の彼岸で楽しく生きるキャラクターもいろいろいるけど。

パパイアさんとか気にしまくるキャラクターもいて、それはそれでそれで良い、という」

「それでもって、トドメの締めがあの法王クルックーの笑顔だったので、まあ、なんかすごいもの楽しませてくれてありがとう、と思えます」


「もうこんな作品は出てこないだろうなーと思うと悲しくなります。こんな作品のこんなの定義は凄く難しいけれども……」

「きっちりとしているところと鷹揚だったり曖昧なところがすごく良いバランスで編み込まれた、無類の傑作シリーズでしたね」

 

「一言でいえばメタ・ファンタジィと言った感じですがなかなかこのバランスと世界設定量は普通では無理ですよね……」

「バランスとか設定とかもそうですが、メインシナリオでも食券イベントでも、単純に「文章うっまいなー。文体とか単語の選択レベルとかでもなー」と思うこと多々あったりしましたし」
「だいたいここまで大勢のキャラクタを出して特に破綻なく集団の会話が成立させられるという点であらゆるシーンがうますぎるんですよね……どうキャラを作り込むかって点からしてレベルが違うんでしょうねー」

「これだけのキャラクターがそれぞれのキャラクターとして生きていて、誰かの下位互換とか誰かに価値観や作中で描かれた生き方ごと全否定される……とかおよそなってない印象なのもすごいですね。ある種のテンプレ、例えば見当かなみ=軽い、メナド・シセイ=ちょろい、なんかでもそれを崩さず揺らがさず、その上でキャラクターとして立たせる描写の妙がすごい」


「メタ視点の扱い方とかでも、ヌヌハラさんなんてキャラクター自体まさにその提示のために生み出されて活躍してるわけですが、なんというか「あ、こっちの世界のすごくちゃんとした人が造形して細部まで描いてるなこれ」というのすごく伝わってきて良かったですね。第四の壁とか観察者とかシュレディンガーの猫パラドックスとか、たぶんあえて単語として使わず(そういうの乱発して、その癖明らかになんというか「わかってなくて」イラつく作品、アニメや漫画、小説問わず結構多いですね……)テキスト組んでたような」

「第四の壁とかぜんぜん使ってませんからねー。ここまで一切出さなかったっていうのも凄いですし、ここであえて出した(というか設定をあらためて作ったのか)のもまあ第二部があるからでしょうしね。ヌヌハラさんもデザインがいいのがまた……。織音氏の才能が際立ちすぎている」

「ヌヌハラさんの語りが語りとして出す設定の在り方も、語り方そのものも、なんかもー、すごくしっくり気持ちよく聴けるんですよね。素晴らしかったです。

他にも例えばパイアールの特異点過ぎて誰にも伝わらず受け継がれない超技術、一方でマリアの危険性……みたいな話の扱い方も、ある種の定番でありつつ、定番の描き方がすごーーーーーーくしっくり来るの(自由都市シナリオ本編及びパイアール及びその姉の食券イベント)、とにかくもうめちゃくちゃ良いんですが、どう良いのか説明するとなると結構むずかしそうですね」


「さっきのセラうんちゃらのSFネタもそうですが、いろんなジャンルやら歴史の定番ネタを広く集めてくるところがまず凄くて、そこからのランス世界ならではの調理の仕方もうまいという神業ですよねー」

「ランス世界……作中世界への落とし込み方も良いですし。ネタの扱い方として、「あ、これ嫌だな。イラっとするな」というガワとか用語だけ借りてるヤツにありがちな悪いところがまるで無い(と思える)の、ホント凄いなあ、と。
あー……歴史・政治人物ネタとかはこだわる人だとアレかもしれないですが、まあ……そこらへんは個人的な相性が……」

「歴史・政治人物ネタはかなりアッパラパッパーな方に舵を切っているのがいちおう防御というか配慮なのかもしれませんね……」


「ともあれ、30年前にスタートした作品・世界とはとても思えないですよねー」

「そうなんですよね。これ、30年前にスタートしてるんですよね……どうやったらこんな風にできるんだろう。信じられないですね……」

 

 

 ……と、例えばこんな感じで。プレイしている間、ずっととにかく面白過ぎましたし。遊んだ人同士でいろいろ話出せば話題が尽きない名作だと思います。素晴らしい作品、大傑作シリーズでした。

2018年冬アニメ『宇宙よりも遠い場所』『恋は雨上がりのように』『ゆるキャン△』『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』『刀使ノ巫女』『ハクメイとミコチ』各感想メモ。

2018年冬アニメの各話の感想その他のまとめです。

 

今期は他に先日取り上げたこちら。

2クール目のこちら。

あと、

BEATLESS
からかい上手の高木さん
三ツ星カラーズ
刻刻
Fate/EXTRA Last Encore
だがしかし2
オーバーロード2
りゅうおうのおしごと!
封神演義

といった作品を毎週観ています。

 

 

 

 

北村薫『ヴェネツィア便り』感想メモ

北村薫ヴェネツィア便り』感想メモ

ヴェネツィア便り

ヴェネツィア便り

 

 

※『ヴェネツィア便り』収録各作品の内容に大きく触れます。
未読で、いわゆるネタバレを避けたい方はご注意ください。


現在、この作品を課題本とした「「贅沢な読書会 第二十二回」北村薫×瀧井朝世」という企画に一読者として参加させて頂いています。
2月4日(日)17:30-19:30 瀧井朝世さんと参加者による読書会

を終え。

2月11日(日)17:30-19:30 北村薫さんを囲んでの読書会

を控えている中で。

2月4日の回に色々他の読者の方の感想などを伺い、自分も幾らか語らせて頂く中で諸々考えたことなどをとりあえずまとめさせて頂き。
11日への準備の一環としたいと思えました。

 

大学二年の頃に『秋の花』で初めてその作品に出会って以来、北村先生は常に最も好きな作家であり続けてきているのですが。
北村作品を課題本とした読書会は初体験で、諸々、大いに参考にも刺激にもなりました。
11日にまたお会いすることになりますが、読書会のモデレーターを務められている瀧井さんはじめ、まず参加者の皆さんへの感謝を記しておきたいと思います。
改めて、ありがとうございました。


4日の読書会ではまず瀧井さんによるレジュメ。

・北村先生の略歴
・主な作品と主なシリーズ
・簡単な作風の紹介
・『ヴェネツィア便り』の特徴
・「モデレーター・瀧井さんからみなさんに訊いてみたいこと」

を簡潔にまとめた資料が配布されました。

ここで本ブログ記事をまとめさせて頂く上で、そのレジュメをこちらでも添付し参照しつつ書き進められると良いかと思ったのですが。
お伺いを立てた所。

「あれは参加された方たちだけのものとして、そのままアップするのはご遠慮いただけないか」
「私の設問に沿ってお話ししてくださいましたし、その部分を引用するのはかまいません」

とのお話でしたので、そのようにさせて頂ければと思います。

<モデレーター・瀧井さんからみなさんに訊いてみたいこと>
・北村作品を読んだことがあるか、好きな作品は?
・愛読者にとってこの本の位置づけ。
(特に日常の謎系が好きな方は、それ以外の北村作品をどう読んでいるのでしょうか?)
◎本作の中で好きな短篇、気になった短篇とその感想&疑問
・北村作品の女性像についての思うことは?(何かあれば)

読書会でも上記の設問に沿って、一参加者としていろいろ話させて頂きました。
このメモも、その流れで記していきたいと思いますが、多少長くなりますので。
まずは以下、最初にポイントとなりそうな事項を箇条書きで示します。

 

  • 《時と人》シリーズの一冊としての『ヴェネツィア便り』
  • 読者に多くを託す作風/一ファン、一読者としての読み方の例示を幾つか。「くしゅん」「黒い手帳」他。
  • 一冊の本としての流れ。構成から見て取れるもの
  • 北村作品の怖さ。断じて一面的でない複雑さ、あえて言うならば「意地の悪さ」について
  • 「高み」について(雑誌初出時の感想紹介)


では、先述の設問に沿って、続けます。

 

・北村作品を読んだことがあるか、好きな作品は?

大学二年の時にたまたま『秋の花』に出会って以来、北村先生は常に一番好きな作家であり続けています。
書籍化されたものは全て、雑誌掲載のものなども幾らかは読んでいます。
縁があり、これまでに『ミステリ十二か月』 (中公文庫) 、『紙魚家崩壊 九つの謎』(講談社文庫)では一読者として解説を書かせても頂きました。

ですので、とりあえず愛読者であるとは思いますが。
特に出版業界等とも取り立てて縁もなく、ライター活動などもしておりませんので、(こうわざわざ断るのも変な話なのですが)読書会で話させて頂いた諸々の感想も、こちらのメモも当然に一読者として個人的なものとして出させて頂いています。

 

・愛読者にとってこの本の位置づけ。

まず「(愛)読者にとって」という設問とややズレる観もあるのですが。
ヴェネツィア便り』は一冊の本としてまとめて刊行されることで《時と人》シリーズに属する一冊と位置づけられているかと思えます。

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外形的にはまず、版元さんからの紹介末尾にも「プリズムの燦めきを放つ《時と人》の15篇」とあり。
『ターン』『スキップ』『リセット』の《時と人》三部作と同じ新潮社からの刊行であり。
担当編集者はおなじみ、新潮社で刊行される北村薫作品は全て携わってきている北村暁子さんであるといった話があったりします

一方で、巻末の記載を見れば分かる通り、出典は2008年~17年の広い期間に渡り、掲載誌等もまちまち。

 

しかし、勿論当然に重要なのは内容です。
これがいずれも、まさに《時と人》の物語であるのだと思えます。

 

物語の中で解ける謎、たどり着く、あるいは抱くことになる思い。
それは各々の登場人物が作中で人生を歩み、時にその中で短くない年を重ねたりもしつつ、<その歩みを経たその時>だからこそ解ける謎、抱く思いとなっています。

 

それがわかりやすい作品もあれば、わかりにくいものも。
そして、一冊の本としてまとめられ、この並びとして読者に提示されることで生まれてきている何ものかもあるのだとも思えます。

 

なお、並び・構成については後でより詳しく観ていきますが……
とりあえず触りだけ。目次がこうで。

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「くしゅん」(「白い本」)「大ぼけ 小ぼけ」「道」のひとかたまりが(「白い本」を除き)"夫婦の話"。
「指」「開く」「岡本さん」「ほたるぶくろ」は"不思議な力や幻想(が絡みつつそれぞれ何ごとかの暗喩だったり象徴していそうだったりする)の話”。
「機知の戦い」「黒い手帳」「白い蛇、赤い鳥」は"学問や創作の世界での対抗心や妄念執念、才能とプライドといったものの話"。
「高み」「ヴェネツィア便り」は"これまで歩んできた《時》を振り返り人生を受け入れる話"。

 

……と、まずは例えばそんな風にそれぞれのかたまりを見立てることもできそうです。

また、それ以外にも前後の繋がりなどで面白く思えるものがいくつもありますので、順次触れてもいきます。
ただ、ここではともかく「意味もなく作品がこう並んでいるなど、決してあるわけがない」ということだけでも感じて頂けると大変ありがたく思います。

 


以下、順に観ていきます。

 

「誕生日 アニヴェルセール」


語り手には逃れ難い死病(当時不治かつ致死的な病とされていた結核かと思います)か空襲による死が迫っています。
双子である彼とその兄に名前をつけた父も、もうこの世にはいません。
長らく葛藤の種となっていた家督の行方も、定められた通り既に兄が継いでいます。
しかし、「雷のようにある考えが落ち掛か」り解けた積年の謎、名付けと出生の秘密はきっと、正にその状況の中でこそ解かれることを待っていて。
だからこそ、その日は「誕生日」であり「記念日」となった。なることができた。それは明らかと思えます。


「くしゅん」


こちらは、ややわかりにくい作品かとも思えます。
しかし、その前に置かれた「誕生日 アニヴェルセール」があるいはその謎を見出し、解(ほど)く補助線になるのかとも思えます。

 

あくまで私見なのですが……

読書会に参加されていた他の方が「病んでしまった人の、なにか要を得ない、ぐるぐるとした喋りの感じがよく出ている」と感想を出されていた、この作品の語りについて。

冒頭。

「結婚式の日はよく晴れてて、あれが十一月の今頃で、結婚記念日がこの間、過ぎたんだから、もう一年とちょっと経つわけだよね」

なぜ、結婚から1年ばかりが過ぎたというまだ新婚気分が残っていたって良さそうな時期だと言うのに。
その後ずっと、こうもぐるぐると、こんなにも辛そうに。
しかし、何がそんなにもつらいのか芯がぼやけたような感じのまま語りが続くのか。

私には最後の2ページ。

p48-49の語り手の夢の中での。

「出かけて、止まってしまうクシャミ」

についてのやりとりが核心だと思えます。

なぜ、

「男の人は、はっとして、それから、ちょっと苦しそうにいった」

のか。

「そういうクシャミはどこに行くの」
 ちょっと間を置いて、答があったわ。
「生まれなかったクシャミの国に行くんだよ」

なぜ「ちょっと間を」置いたのか。

「青白い空気に閉ざされたその国、赤ん坊の格好をした、生まれなかった、いいえ、生まれることの出来なかったクシャミ達が寒そうに震えながら、手を握りあっているんだ。
「その子達を、《はっくしょんっ!》という、大きなクシャミにならせてあげたいよう。はじけるようなクシャミに」
 男の人の髭は、いつの間にか、どこかに消えていたよ。やさしい懐かしい顔が、哀しそうに頷いている。そしてね、鼻の詰まったような声が、答えてくれたんだ。
「……そうかい、……そうかい

もう、上の引用部分などでは全文が。
言葉の端々が読者が見出すべき「謎」を語っているように思えもします。

「赤ん坊の格好をした」
「いいえ、生まれることの出来なかった」
「寒そうに震えながら」

そして、
「大きなクシャミにならせてあげたいよう」
この「あげたいよう」という語尾、そのニュアンス、きっと込められた万感の思い。

なぜ「哀しそうに頷いている」のか。
「鼻の詰まったような声」。
なぜ、まるで泣くこともできない語り手の代わりをするように泣いてくれているのか。


あまりにも耐え難く辛いことを抱えてしまった時。
人はそれに目を向けることも、直接それについて語ることも。
そして、しっかりと向き合うこともできなくなったりするものかと思います。

語り手は四年前に深く愛し愛されていたのだろう父を失い、しかし「一年とちょっと」前に伴侶を得て、そして新しい祝福されるべき生命を家族に迎え、愛猫にゃおりも寄り添い、皆で共に歩んでいくはずだったのが……それなのに……そういうことがあったのだと、暗に示されているのだと思えます。
語り手は夢の中で四年前に死んだ父と出会い、きっと久しぶりに心が解(ほど)けて厳しい枷が緩んで。
しかし、それでもなお、どうしても、こういう形でしか語れない。
そんなことがあったのだと思えます。

 

更に言うならば。
誰かの、いえ、どちらかのせいであったなら。
まだしも恨みや怒りをぶつけたり、ぶつけられたり出来たのかもしれず。
しかし、どちらのせいでもなく。
掛け替えのないものが「出かけて、止まって」喪われてしまったなら。
悲しみは行き場さえ失ってしまうのではないかとも思えます。

 

でも、きっと「くしゅん」の語り手はこの語りを通じて。
それでも、どうしても向き合わないといけないものに、こんな形ではあっても向き合うことができたのだと思えます。
「大きなクシャミにならせてあげた」かった、「はじけるようなクシャミに」ならせてあげたかった。なのに「生まれなかった、いいえ、生まれることの出来なかったクシャミ達」のためにも、そうして向き合ってやらなければならないものに向き合えたのだと思えます。

これは、ある種の葬儀であったのかもしれません。

 

ここで。
ようやく喪失に向き合えたからといって、喪われたものは帰っては来てくれません。
壊れてしまった夫婦の関係も、元には戻り得ないのかもしれません。
その心も、今共に暮らす相手との関係も……いまだ深く傷ついたままではあるのだと思います。

しかし、例えば「誕生日 アニヴェルセール」の語り手も死病を抱え、空襲で明日にも焼かれるかもしれず。
いずれにせよ余命幾ばくもなく、家督は兄が継いでおり死ぬまでにせめて果たすべき責務もない中でも。
あるいはそれだからこそ、積年の謎を解き、その日を誕生日/記念日とすることができたことは、彼にとってあまりにも大切であったことは疑い得ません。

「くしゅん」の語り手もまた、それでも今日を明日に向けて歩むために、どうしても必要な儀式をやり遂げることができたのだと思えます。


この物語の中にも四年前の父の死、一年ちょっと前の結婚、そして今……いずれも必然としてそこにある《時》と、その中に生きる《人》との、こういう形でしか描き得ない姿があるのだと思えます。

 

なお、こうも長々と書いてきてなんなのですが。
冒頭に私見と断った通り、この読みはあくまで私の作品読解であって。
それが「正しい」かどうかなど、私にはわかりません。
ただし、北村作品はしばしば、読者に多くを委ね、託すものだと思えます。
私は「くしゅん」についてはこのように謎を見出し、読みました。
例えばこういったものが、一ファンとしての北村作品との付き合い方の一例となります。

 

「白い本」「大ぼけ 小ぼけ」「道」


さて。
こう見てくると「誕生日 アニヴェルセール」「くしゅん」という序盤は、なかなかに重苦しいものにもなってきてもいますので。
続く「白い本」「大ぼけ 小ぼけ」そして「道」が、暗く沈みそうになるものを温かくすくい上げてくれるように並んでいるのは実に相応しくもてなしの良い並びとも思えます。

「大ぼけ 小ぼけ」では温かく積み重ねられていく時の中での人と人……互いに互いを選んで家族となった夫婦の歩みが描かれ。
「道」は「くしゅん」「大ぼけ 小ぼけ」と続く"夫婦の話"に連なるものでありつつ、より広く"家族の話"として「誕生日 アニヴェルセール」の重さ痛ましさも併せて引き受けつつ、大きく温かい時の流れの中で見事に受け止めてくれている物語のようにも思えます。


なお、ここで。
「白い本」は人と人が出会って夫婦になるという関係同様、人と本の出会いもまた……といった流れの中で。
どのような時に出会ったかも含め、一つの運命といえると描いているかと思えます(《時と人》と本の話ですね)。
そして、これは"時に、人と本の出会いは夫婦の出会いと同じくらい意味も重みもあるものなのです"と言わんばかりの配置と見て取れなくもなく。
もしもそうであるととしたなら、実に北村作品の並び・構成らしい話だと思えてならなくもあります。


ただ、ここで『ヴェネツィア便り』という一冊の本でもうひとつ面白いと思えるのは「白い本」と「黒い手帳」が共に収録されていることです。

 

「黒い手帳」


人と人の出会いには良いものも悪いものもあれば、望んで自ら求めるものもあれば望まずして逃れ得ないものもある、というように。
人と本の出会いもまた複雑で多面的であり、良いものばかりでもなく、時には本の方から悪意をもって人を襲いにくることだってあるのかもしれません。

 

2017年11月14日に下北沢本屋B&Bで開催された「北村薫トークイベント「時を越えて届けられるもの」『ヴェネツィア便り』刊行記念」に参加させていただいた時。
アンケートで参加者が好きな作品を挙げていき、集計するという内容もありました。
そこで掌編ながら「白い本」も人気を集めていたかと記憶しています。
人気のある収録作の名前が幾つか挙げられる……ということになり、逆にあまり名前が挙がらない作品は何か、という話は(それはそうだろうとも思いますが)出てはきませんでした。
ただ、「黒い手帳」はきっと不人気なのだろうなあ、とは思えました。

 

ですが、しかし。


「黒い手帳」もまた疑いなく北村作品です。
(それが「正しい」かどうかなど勿論およそ保証の限りなどではありませんし、そもそも保証の必要を感じませんが)例えば「白い本」と「黒い手帳」を対になる作品として読む時。
それによりいや増す興趣というのはあるのではないかと思えます。

 

「白い本」は古書店の平台に「読まれることなく、ここに来た」歌集を語り手が「間違った人のところに行ったんだね」とつぶやき。
「そして、その白い本を抱きながら、《わたしは読む。------わたしが読む》と、思った」
と締めくくれられ。
「黒い手帳」は、語り手にとってみれば、その人については嫌な思い出ばかりの小学生時代の担任から何十年ぶりかの同窓会での再会で(きっと押しつけるように)配布された句集について。押しつけた側からすれば「わたしの俳句生活の結晶だ。生涯の総決算だ」というものについて。"お前は読まなかったな。------お前は読まないまま、売り払い、あまつさえそのことを隠そうとしたのだな"と逃れ得ぬ証拠(実際に売り払ったのは事情など知らない語り手の妻であるわけですが)を突きつけられ、締めくくられているわけです。

 

なお、件の句集が「蚊柱」と題されているところも、北村ファンとしてはすこし面白いところで。

「中学生の時『奉教人の死』を読み、まことに中学生らしく感動し、何冊か読み続けた。そして彼が、池西言水の鬼趣を得た句として、これをあげているのにぶつかった。

 ------蚊柱のいしずえとなる捨て子かな。

 恐かった。思わず本を閉じてしまい、しばらくそのままでいた。句を作った人については中学生では何も分からない。ただ、それを《芥川という作家が引いた》ことが、忘れられなかった」
(『秋の花』創元推理文庫版p38)

 があるためですね。
そんな題名の句集を同窓会でかつての教え子たちに配ったかつての嫌われ者の担任教師、ということになります。

また、直前の「機知の戦い」では結局、疑いは誤解であったとして(互いに心は晴れないけれど)ともあれ、穏便に幕は下りたその後で。
「黒い手帳」ではまさに逃れ難い証拠がつきつけられたその時、そこしかない、という場面で終わる。
そんな流れも面白いと感じます。

 

「機知の戦い」


ここで続けて話題を「機知の戦い」に移すと。
この作品については本編の流れに言及されている作品を重ねてみると、すこし、面白いところがあります。

たとばDVDの字幕表示の話で語り手が同僚を追い込もうとしている時。

「今の君の顔は、まるで不思議なことの書いてある本のようだよ」(p180)

と口に出すのは『マクベス』の台詞です。

第1幕第5場、マクベス夫人。

「Your face, my thane, is as a book where men May read strange matters.」

続けて王の殺害を唆し、そんなことでは気取られてしまう、気づかれぬよう、何食わぬ顔をし歓迎の素振りで……と勧めていく場面。
(英文学、アメリカ文学と専門こと違え)文学部教授同士らしい?あてこすり方、追い込み方で読んでいてなんとも楽しくなります。

 

またダールの傑作「味」「南から来た男」はどちらも、非常にスリルのある展開が描かれ、しかし、最後には……という話です。
そのイメージは「機知の戦い」の流れとも重なるところがあり、ダールの短編を読む、あるいは再読する……それに作中で言及されているロアルド・ダール劇場やヒッチコック劇場での映像翻案を見て観るのもお勧めです。
なるほど、こういうイメージが本編に重ねられているのか、とそんな楽しみもきっとできるかと思います。

また、作中人物の語る通り、ダールの名作の翻案としてもたいへん面白いものですので、せっかくですのでここで少し紹介もしておきます。

 

 

「白い蛇、赤い鳥」「高み」「ヴェネツィア便り」


実は続く最後の3篇「白い蛇、赤い鳥」「高み」「ヴェネツィア便り」はそれぞれに、またこの並びがこの本の中でも私としてはもっとも心に残ったものなのですが。
逆に、だからこそ、それらを読んで何を思ったかは軽く語るのは難しいと思えたりもします。すみません。

 

ただ、そこについてはこんなことがあったりもしました。

 

ただ、このまま投げ出してしまうのもなんですので、すこしだけ書きますと。

「白い蛇、赤い鳥」の小島政二郎のあの言葉については、そしてそれを綴り、心に抱いた作家は今は文学史なり世評なりの中でどのような位置づけになっているか。
語り手はその作家や作品について、どのような印象を語っているか。
そこがまず、多くを思わされずにはいられないところです。

 

また、語り手が最初にその言葉に出会い、捕まり……そして、再会した今はそれから四十年が過ぎていた。
そんな《時と人》の姿にやはり多くを思いましたが……すみません、簡単には言葉にまとめられそうもありません。

 

なお、「高み」については、先ほどのtweet引用でも触れていますが。
雑誌初出時の感想記事がありますので、お気が向くようでしたらそちらも読んで頂ければ幸いです。

 

skipturnreset.hatenablog.com

 

あと、本当に雑然としたまとまりのないメモとなってしまっていて申し訳ないのですが。
せっかくですので最後にもう一度、モデレーターの瀧井さんの問いかけに立ち戻って少し提示しておきたいこともあります。


設問の中に

 

「(特に日常の謎系が好きな方は、それ以外の北村作品をどう読んでいるのでしょうか?)」

 

というものがありました。

 

書くべきかどうか、悩みもしたのですが。
私はごく個人的に、だいぶ以前から「日常の謎」というしっかりかっちりと広く認められた定義もないようなあやふやな用語は、いろいろと便利だったり諸々の良い役割を果たしてきたのだろうとも思いつつ。しかし、しばしばあまりに宜しくない「レッテル」としても働いてしまっているのでは?と。強い疑念なり忌避感なりを覚え続けてしまってもいます。

 

北村作品に対しても、他の「日常の謎」に属するとされる作家の諸作に対しても。
むしろそれぞれについてあまり親しんではいない読者の人が「日常の謎」というあやふやな用語に各々に更に偏ったイメージ……例えばハートウォーミングですとか、人が死なないですとか、警察沙汰にならないですとか、極悪人がいないですとかをレッテルなり色眼鏡のようなものとして貼り付けてしまい。
「目の前のその作品」でなく「勝手につけたレッテル」を読んでしまっているように見えてしまうことが、ネット上の感想にせよ、他の場で目にしたり聴いたりするものにせよ、少しばかり目立ちすぎるようにも思えます。

 

やや極端な例示ではありますが。
例えば北村薫作品といえば日常の謎日常の謎といえばハートウォーミング……などと思い込みレッテルを貼り付けた状態で読んでしまうと。
ヴェネツィア便り』でいえば「くしゅん」や「黒い手帳」などは「え?なんで。暗い。怖い。なんでこんなの入れてるのかわからない。あ、でも他のあったかい気持ちになれる作品は楽しい。そうそう、こういうの読みたかった」といったように、まず「その作品」として真っ直ぐに接してもらえていないのでは。
そんな疑問と……あえていえば、憤りや悲しみのようなものも、一ファンとして強くあります。

この話題については過去にも触れていますので、もし気になる方がいるようでしたら、見てやってください。

 
また、

・北村作品の女性像についての思うことは?(何かあれば)

という設問について。

北村作品の女性像といえば、きっと、まず代表として真っ先に挙げられ、語られるのは《私》であるのだろうと思います。
その彼女については約10年前に『ミステリ十二か月』の解説の中で次のように書かせて頂きました。

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今も、一字一句違わずそう思えます。
その人物像を捉えることは難事であり、それは《私》が意図的にそうしているのだと思えます。

ここで、私が知る最も優れた《私》という謎を追う名探偵の歩みは『太宰治の辞書』創元推理文庫版に寄せられた、米澤穂信さんによる解説です。
そのような歩みの上で語られる《私》の人物像、作品像は心から素晴らしいものだと思えました。

 

 

余談ですが。
ここで米澤穂信さんの名前も出て。
また「贅沢な読書会」の来月は米澤穂信さんをゲストに迎え、『満願』を課題本として行われるということで。

悔やんでも悔やみきれないことながら、私はチケット申し込みについうっかり出遅れてしまい参加できないのですが。
せっかくなので、関連とも言えそうな過去記事を幾つか挙げておきます。

 

 

 

みやびあきの『なでしこドレミソラ』感想メモ(3巻発売時点)

物語の導入が本当に無類に柔らかく綺麗で。

模様/文様を織り込んだ帯が人を包んだり誘ったりする独特な音楽の表現も、必見の面白さです。

まずは1巻だけでも、ぜひ。

そして3巻も。実に美しい流れでした。

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DEVILMAN crybaby(湯浅政明監督版『デビルマン』)雑感

DEVILMAN crybaby(湯浅政明監督版『デビルマン』)。

現代的なアレンジと原作へのリスペクト、それに実写版の諸々の本文や描写、その他の作品(例えば『CASSHERN』オマージュの9話ED後描写)等への目配りや貪欲な取り込みを行いつつの、常に躍動感ある映像と音楽に彩られた傑作と思えます。