東野圭吾『予知夢』〜一連の物語のテーマについて。それと、オチはその《型》か。なるほど。


予知夢 (文春文庫)

容疑者Xの献身』を読んだからには、という第二弾。
基本的にネタバレ感想なので、大部分、白背景に白文字で。

まず、第一章「夢想る(ゆめみる)」、第二章「霊視る(みえる)」について。
このどうしようもないくらいの後味の悪さは、無論、テーマに沿って計算されたものだ。同様のトリックを使ってもっと後味良く、読者を愉しませる作品とすることなど、この作者ならば勿論可能であった筈だ。
しかし、この作品は、一見不可思議に思える現象に対して、それを安易に味付けし、飾り立て、アホらしく感嘆するオカルト趣味に対する皮肉で端正な抗議である。従って、この謎と解明は、しばしば救いが無く、後味も悪いことのある《現実》を《それでも》見据える姿勢を示すものであり、作品のテーマの求める必然であるともいえる。


続いて、第三章「騒霊ぐ(さわぐ)」、第四章「絞殺る(しめる)」。
これは、《真実》を知りながら、《それでも》《あえて》、情で編み上げた超論理の傘を、守られるべき者、慰められるべき者の上に広げ、《現実》の冷たい雨を防ぐ話といえるだろう。《真実》は時に必要以上に残酷であり、現実の中で生きる者が時にそれを優しい嘘で覆うのは、それに向けての、知と情を兼ね備えた見事な努力を条件として得られるべき、当然の権利ですらあるのではないかと思う。
ここまで読んで一つわかったこととして、この二篇は、前作『探偵ガリレオ』の末尾を飾った「離脱る(はなれる)」と対になる作品だということ。あの情けない卑怯者である父親の《嘘》と、この二つの物語の《嘘》とを比べてみれば、それは明らかだ。
また、「離脱る」について更に書くならば、《嘘》を築き、《嘘》を信じることが時に必要であっても、それは《真実》を認識した上でのことであるべきなのだ。特に、これから未来へと歩み、《真実》を探り、それに向き合うための《知》を獲得していくべき子供に対し、欲得にまみれた《嘘》を押し付ける罪は、それがたとえ法で裁かれることがなくとも、ひどく重いものであるという他ない。


最後に、第五章「予知る(しる)」。
この一連の物語の着地点として、また、ミステリの生んだ一つの《型》への敬意として、このラストは当然こうあるべきものだろう。
つまり、ジョン・ディクスン・カー『火刑法廷』の《型》である。