スピルバーグ『ミュンヘン』〜《ギリギリの生存を賭けた者同士の間での《妥協点》を見出すための戦い》の苦しさを、末端から描く。


この映画は、『シンドラーのリスト』や『プライベート・ライアン』とは比べ物にならないくらい出来のいい、スピルバーグの傑作だと思う。
《正義》という虚構を綺麗に保っていられない状況で、その《前線》に放り込まれる人間の苦悩を、一方の側に傾いた強烈な当事者意識を持っているであろう人間が作ったにしては、実に理性的にバランス良く描いている(ように思える)。スピルバーグの素晴らしい自制心と、抑えた上での優れた描写力には素直に拍手を送るほかないと思う。


この映画の背景について、少し考えてみる。
まず、政治学の基礎の基礎として、国家もしくは国家に準ずる組織による組織的なテロや戦争は、それ自体が目的でなく、政治的交渉の一手段であり、しかるがゆえに常に《妥協点》を求めるものだ。真に救いようがない論外の馬鹿でない限り、政治家や将官以上の軍人ならば、その基本認識は持っている。
この映画のゴルダ・メイヤーの描写において、それが実に見事にきっちりと意識されていたのは素晴らしかった。問題の本質は、その《妥協点》がどこまでもシビアなものにならざるを得ないことだという認識が明示されていた。


その《妥協点》ということを考えるには、問題のそもそもの性格を知らなければ話がまるで見えてこない。
まず、イスラエルパレスチナの人々がやっているのは、文字通りのそれぞれの《民族=アイデンティティの拠り所》(ユダヤ人もパレスチナ人も、《民族》の定義が大変難しい人々だが、ここではそれぞれ、「「ユダヤ人であること」「パレスチナ人であること」にアイデンティティの大きな拠り所を求める人々」と定義して話を進めたい)の間のギリギリの生存競争であり、映画内でしばしば《home》という表現で語られる《国家》とは、ほかの全ての国家の国民同様、彼らにとってその《生存》のためにどうしても必要なものであり、双方ともそれを骨身に染みて知っている。「《国家》をなんとしても形成して生存を確保すること」が何にも勝る課題なのであり、「その目的を果たすために何をするべきか」ということしか考えられないし、考えるべきではない状況なのである。
また、その問題を決定的なものにしたのが、大英帝国という巨大国家が、ナチス・ドイツにギリギリの生存ラインまで追い詰められた末に行った、外交史上に永遠に残るであろう希代の大詐術であることも映画を理解する前提条件かと思う。

要するに、メインアクターたる三者は《為さざるを得ない余儀ないこと》をやったのであって、そのレベルの問題については倫理云々を議論するのでなく、ただその実効性と合理性を問題にする------他にその目的に沿った、より効果的な別手段は存在したかどうかの検討------ほかない。
なぜなら、近代以降において、《国家》とは平常時にも勿論だが、特に人々が何か巨大な危難に瀕したときには、誰の眼にもあまりにも明確な活動の単位となるものであり、その内部においても単位同士の力関係においても、危難の度合いに応じて非情な優先順位付けを行う存在だからだ。《国家》を持たないということは、その優先順位で常に最低に格付けられるリスクを負うということであり、苦難に耐える最も簡単で効果的な方法のひとつが外部に特定の敵を設定することもしくは内部に明確な被抑圧集団を持つことであることも考えれば、少なくとも現在の世界において、《民族=アイデンティティの拠り所》にとって、彼らを------法的にも文化的にも他の構成員における市民感情的にも------十分に保証された市民権を持つ構成員として認める《国家》が、その《生存》に不可欠なことはあまりにも自明のことだ。


ユダヤ人はティトゥス率いるローマ軍にエルサレムを陥落させられて以来------フランスで中央集権国家の萌芽が生まれてからは特に------歴史的にそれを思い知らされ続け、WWⅡにおいてこれ以上なく《決定的な体験》をさせられることになった。
そして、それ故に状況の厳しさを当初から知り尽くしていたイスラエルが、そのシビアな認識に基づいて数十年に渡って提示した《妥協点》は、ようするに「《新大陸》を《発見》した《アメリカ人》と、《原住民》たるインディアン(このネーミング自体も凄い)との間の《妥協点》」に近いものだった。
一方、それに初めは主にアラブの友邦に頼りつつ必死に対抗するうちに、パレスチナの人々もその政治的感覚を嫌が応にも鍛えられ(つまるところ、パレスチナの人々はユダヤ人によって、彼ら同様の《決定的な体験》をさせられることになった)、この映画で扱われたミュンヘン五輪の十数年後には、その成果としてインティファーダのような極めて政治的に高度な手段を取り得るまでに、政治的集団として急成長するに至った。それ以前でも、倫理的な是非はさておき、政治的な手段としてテロはある程度有効に機能したのだろうと考えられる(ただし、ゲリラ戦が正規軍での正面決戦が出来ないための、あまりにも少ない戦力で少しでもその戦力以上の成果を挙げるための手段であることと同様、テロは生存そのものを脅かされた集団が、他にどうしても手段がない場合にしか使うべきでない、強烈な副作用と制御の困難さを兼ね備えた手段であるのは勿論だ。卑劣であろうがなんだろうが、やらなければ生き残れないという状況で初めて検討されるべき手段である。なお、単なる観念的な主張のためにテロを手段にするのは、卑劣であるとともに、ほぼ例外なく愚劣なことでもある。日本の歴史で言えば、桜田門外の変大化の改新ですら、本当に中長期的に見てプラスであったかどうかは疑問の余地があると思う。二・二六事件などは言うまでもなく論外だ)。ここまで強力な《国民》が形成されたきたからには、イスラエルも当初考えていた《妥協点》を修正せざるを得ない。
かくして、イスラエル側は「相手をほぼ完全に排除隔離する、もしくは被抑圧者として内包し切る」ことを諦め、あらゆる手段------メディア操作からロビー活動から何から、取り得る全ての手段で世界の目を逸らし、あるいは都合のいい形で引き付けながらの実力行使------を用いて既成事実を積み重ね、そうして築いた地歩を固め守り、最終的に「相手に認めさせる」ギリギリのポイントを探ることになり、パレスチナ側はアラブの友邦頼りの姿勢から自力救済への方向へ強力にシフトしつつ、イスラエル側の浸透を少しでも押し留め、叶うならば押し戻すべく、硬軟両面から世界の眼をそこで起きている出来事の実態に向けさせようとすることになる。
つまるところ、この映画で描かれたのは、そうした複雑極まる政治的綱引きの様相が変化していく中で、その《前線》に送り込まれた《個人》の物語である。そのことをはっきりと自覚した上で、映画としてのドラマ性、更にはエンターテイメント性をも盛り込んでこの映画を作り上げたスピルバーグの手腕は実に優れたものといえると思う。
また、この映画自体、ユダヤ側の動きとして、既成事実の積み重ねを推し進めることと、パレスチナ側の《認容》を取り付けることとのバランスを《認容》方面にやや傾け、「世界の眼を、一方的なプロパガンダと思われない程度に慎重に調整しつつ惹き付けた上で、可能な限り有利かつ安定した均衡を探る」アプローチの一環なのでは、とも思える。

その一方で、アメリカ人としての(ここらへんのアイデンティティの分裂は大変興味深い問題だが、ここで扱うのはとりあえず避ける)スピルバーグのメッセージは、ラストでかつての世界貿易センターの姿が大写しにされるのを観れば明らかだろう。それはもう、誰が見ても、ここ数年のアメリカが世界に対して設定している《妥協点》は、余りにもヒステリックで、馬鹿馬鹿しく不合理であり過ぎる。

なお、キャストに関しては、ルイを演じたマチュー・アマルリックが他を引き離す名演だったと思う。その他の俳優も素晴らしく、ジョン・ウィリアムズの音楽も上出来。全てが高いレベルにある傑作映画だと思う。