WBC二次予選:日本×アメリカ戦〜ああいう判定も、「お国の事情」だから覚悟しなくてはいけないんだろうな。

日本の3点リードから、3-4でアメリカの勝利。


何よりまず、面白い試合だった。
7回表ツーアウト一、二塁でのイチローの凡退(このときには「あーあ」と思ったけれど、1回に先頭打者ホームラン打ってたのか)と9回の敬遠のほか、薮田の力投(すごいスライダーだなぁ)、8回の西岡の盗塁(あのタイミングのスタートでも、危ういタイミングになる送球に驚かされた)など、みどころ満載。

勿論、8回の例の疑惑の判定(1死満塁の外野フライからのタッチアップで、二塁塁審がセーフの判定をした後、米国側の抗議を受けて球審が判定を覆してアウトにした)も観た。で、それについて少し。
まず、あれはどうみてもひどい誤審で、アメリカの試合をアメリカの審判(しかも、後で出た情報によると、バレンタイン監督曰く《ボークなどをやたらととって、判定で目立ちたがる》ことで有名な人なのだとか)が担当したことと無縁でもなさそうだと思えてしまう。
ただ、「アメリカの試合をアメリカの審判が裁く」という状況でしか開催できなかった時点で、試合の前段階の力関係としてある程度の不利は仕方が無いので、こういうことだってあるというのは、今後も覚悟しなくてはいけないことなんだろうな、と思う。


オリンピックだって(トリノはなぜかあまり無かったみたいだが(機会が少なかった?))、サッカーのワールドカップだって、もっと分かり易い例ならボクシングやK-1の判定などだって、開催国や競技運営の面で力を振るえる立場にいる国は、結構好き放題にやってくれるものだ。日本だって、長野五輪K-1の判定などをみれば、その例外ではないのは明らかだろう。
ただ、そういう「お国びいき」の度合いにも国毎に格差があるのもまた明らかで、それは国民の倫理観云々ということよりも、より大きな要因として、《そういう場での「国家の威信」というものをどれくらい切実に必要としているか》という事情が関わって来ているのだろう。まさに、「止むをえないお国の事情」というやつで。「切実」というのを更に詳しくいうなら、《どれくらい、人工的に国家という幻想を堅く保たざるを得ないか》または《それに他の国にも増して強力な求心力を求めざるをえないか》ということだろう。
それに、勿論、各競技毎のスポーツビジネスとしての業界事情や、各国の文化や精神的風土も深く深く関わって来るが、一番大きいのは、《国家》という幻想に対する依存の深さだと思える。
イギリスみたいに(いかにもイギリスらしくキツい皮肉と、それに浸りきってしまわない程度の自虐も込もった言葉だが)「ウィンブルドン方式」だなんて悠然と構えていられる国ばかりではないわけだ。


ようするに、はっきりいえば、「特にアメリカ、韓国、中国のいずれか又は複数が運営に主導的に関われる立場で参加している、大きな注目が集まる国際大会なんかでは、どんなスポーツだろうと、公正な審判・判定を期待なんかできないのは分かり切ったことだよね」ということで、「こういうのって、別に今に始まったことでもないよなぁ」と思う。
大体、「スポーツの商業化」というのは必然的に、相当厳密に制度的に縛らない限り、《公正》なんて概念がいいように弄ばれることを意味しているのであって、殆ど見切り発車の大会でしっかりと《公正さ》が保たれたりしていたら、かえってそちらの方が驚くべき事態だろう。
ただ、《それでも》そうした諸々の事を乗り越え、誰にも覆し難い、明確な勝利を収められるようであれば、それは単なる勝利以上に輝かしいものになるだろう。そういう意味でも、この大会の今後の展開は楽しみだと思う。