杉江松恋さんによる各雑誌掲載小説の2024年上半期年間ベスト・ラインナップを読んでみた。

なんだかふと気が向いて、しばらく前にTLに流れてきた杉江松恋さんによる雑誌掲載小説の上半期年間ベスト・ラインナップ13作品の内12作品をコツコツと読み進めていた(小説宝石7月号だけ手に取れてないので、砂村かいり「どこかの喫煙所で会いましょう」だけ未読)。

せっかくなので、以下、感想。

三浦しをん「はらから」(小説現代3月号)
成田名璃子「腐界の底からこんにちは」(小説現代5月号)
宇野碧「本当はアラスカになんて来たくなかった」(小説現代7月号)
白井智之「眼球は水の中」(紙魚の手帖15号)
嶋津輝「わたぼこりの女」(オール讀物3月号)
島本理生「家出の庭」(オール讀物6月号)
篠田節子「土」(小説新潮1月号)
石田夏穂「デッドラインを守れ」(小説新潮2月号)
相川英輔「大釜とアルコン」(小説新潮3月号)
佐川恭一「万年主任☆マドギュワ!」(小説すばる6月号)
※元投稿には「小説新潮」とあったけど実際は「小説すばる」。
米澤穂信「名残」(小説新潮7月号)
小田雅久仁「越境者」(小説現代1・2月号)

 

三浦しをん「はらから」(小説現代3月号)

「クローン」&「ミソジニー」&「世代間の感覚・倫理の差あるいは隔絶」の三題噺、といった風情。

 

■成田名璃子「腐界の底からこんにちは」(小説現代5月号)

身近ないわゆる生モノにも何やら見出したり当てはめたりして楽しんでしまうような、腐女子のあれこれ。いろいろ独自の世界なんだとは思うけど、ごく個人的にいろいろよくわからなくもあった。

 

■宇野碧「本当はアラスカになんて来たくなかった」(小説現代7月号)

「まだ東京で消耗してるの?」(byイケダハヤト)ブンガク版みたいな……。

 

■白井智之「眼球は水の中」(紙魚の手帖15号)

論理的に理性的にしっかり考えて私は確信を得ている!という認識なんて、前提となる情報の不足や誤り(それは他者から意図的に、あるいは単にミスで誤って伝えられることもある)でどれだけどうしようもなく間違ってしまうことか。
著者の別作品、道尾秀介『N』や森バジル『ノウ・イット・オール』でも扱われていた話。

その上でこの小説は芸術作品の感想、評価、受け止め方と接続して見せているのが一つ、味かとも思う。

 

※関連のブログ感想記事
◯白井智之『名探偵のいけにえ―人民教会殺人事件―』感想

◯森バジル『ノウイットオールあなただけが知っている』、道尾秀介『N』他、感想

 

■嶋津輝「わたぼこりの女」(オール讀物3月号)

落語「居残り佐平次」や映画『幕末太陽傳』の女性版という趣も。

 

島本理生「家出の庭」(オール讀物6月号)

「変人」とか「天然」とか「発達障害者」というように人間に貼られるレッテルの時代による変遷と、それを含めての受容について。

 

篠田節子「土」(小説新潮1月号)

"こう生きるように"と言われてきた。"そう生きて"きた。だから死ぬまで"そう生き続けさせて"欲しかった。それだけなんだ……といった話。

 

■石田夏穂「デッドラインを守れ」(小説新潮2月号)

「土」とある種、同様かな、とも思わされつつ。"ワークライフバランス?いまさら、そんなことを言われても(いまさらもう、俺の人生はそういう方向には取り返しはつかないんだ)"という決して言葉にされることはない哀愁に味があった。

 

■相川英輔「大釜とアルコン」(小説新潮3月号)

伝統(大釜焼き)、AI学習、イノベーションと因縁……の三題噺。
なにやら「現代においてどう生き、どう働くか」といったテーマに連なる作品が目立つラインナップだったのだけれど、その中で米澤穂信「名残」と並び、特に読むことができて嬉しかった作品。単純に面白いし、提示されるビジョンも良いと思う。すごい!とも思うし、こういう作品が好きだな!!とも思う。

以前読んだアイディア豊富な奇想SF短編集『黄金蝶を追って』も素晴らしいなと思っていた作家。
発想もだけどそれ以上に収録作に共通する描き方が好きで。すっと語り手の日常から入ってからの、起きる現象と人物の反応に生活感というか確かな手応えがあった。
「大釜とアルコン」にもそれに通じる魅力が大いにある。

 

■佐川恭一「万年主任☆マドギュワ!」(小説すばる6月号)

あー、うん、はい。

 

米澤穂信「名残」(小説新潮7月号)

見事な<時と人>の物語だと思えた。
野暮ながら、一応、すこし。
◯果物や野菜の旬には「走り」「盛り」そして「名残」の3つがある。
そして、
◯「ビワは種子から育てて結実するまでに長い年月を要する果樹で知られ、「桃栗三年柿八年、枇杷(は早くて)十三年」などと言われている」
◯「ビワの花言葉は、「温和」「あなたに打ち明ける」とされる」

そういう形で示される思いがある。

 

■小田雅久仁「越境者」(小説現代1・2月号)

途中、ある異世界が「瓶詰地獄」だと表現される。
で、夢野久作「瓶詰地獄」においてその地獄とは「文語訳の「新約聖書(バイブル)」を「精神の骨肉と化していた」太郎の「脳髄の地獄」(ここらへんの解釈は北村薫『ミステリは万華鏡』第三章「『瓶詰地獄』とその《対策》、そして」を参照して貰えると話が早い。ここでは割愛する)であったように。
望む望まざるとに関わらず周囲の人の心が読めるし読めてしまう、体を影と化してどこにでも入り込めてしまう……心と身体において融通無碍の「自由」を与えられてしまった存在は、正にそのことによって世界と自分が強制的に繋がってしまい、世界がろくでもない地獄ならばそれと繋がる自身の裡もまた、地獄とならざるを得ないということなのかもしれない。
それは例えば人の内なる衝動や情念が「怪獣」となって世界を侵食、破壊する久永実木彦『わたしたちの怪獣』表題作(に限らないかとも思うけど)の反転、写し絵のようなものであるのかもしれないとぼんやり思えたりもした。