読んだ本の感想あれこれ。森バジル『ノウイットオールあなただけが知っている』、道尾秀介『N』。宮澤伊織『裏世界ピクニック』9巻、冲方丁『マルドゥック・アノニマス』9巻。関連で小森健太朗『大相撲殺人事件』殊能将之『黒い仏』、うえお久光『紫色のクオリア』。

 

最近読んだ本(主に小説)↑の多くがたまたま、

 

"新たに何か前提や重要情報が加わると、分かっていたと思い込んでいた人物や物事のイメージや解釈は一変してしまう"


"ということは、誰についても何についても、本当に「わかって」いるなどということはまず有り得ないのでは"

 

という、ごくごくあたり前のことだけれど、きっととても大事なことについて考えさせるものと思えたので。
ここでまとめてその辺についてを中心に書き残しておいてみる。

 

上記からテーマを拡げるなら、

 

"誰についても何についても本当に「わかって」いるなどということは有り得ないのだとしたら、人と人とが本当の意味で理解し合うなどということは不可能なのではないか"


"人の認識や理解はいかにたった一つの前提や、たった一つなにかの重要と思う(あるいは思い込む)情報に大きく甚大な影響を受けるものか。受けてしまうものか"

 

といった話にも繋がることになる。

 

■森バジル『ノウイットオールあなただけが知っている』
道尾秀介『N』

森バジル『ノウイットオール あなただけが知っている』は1つの街を舞台に登場人物を重ね合わせつつ5章各章でミステリ/青春小説/SF/ファンタジー/恋愛小説とジャンル小説を展開、ジャンル間に綱を渡し一輪車で渡る曲芸じみた真似をした上で。
綱はあやとりの糸でもあり連なって多彩な絵柄をみせてくるという……これがデビュー作ってなんだよ、とかこれで「松本清張賞受賞」というのが妙に可笑しいとか……様々なことを思わずにはいられない、なんだかとんでもない作品。そして何より、読んでいてとにかく面白い。

もしもミステリ/青春小説/SF/ファンタジー(バトルもの)/恋愛小説、どれか一つでもジャンル小説としておよそ水準を満たしてない、論外みたいだったなら無様に崩壊する構成だし。水準くらいは満たしてる程度だと単に技術のひけらかしみたいでつまらないとなりそうな所……個人的な感覚で判断する限り、どのジャンルでも水準なんか超えてるし、特に二章の青春小説は頭一つ抜けてる。
いや、本当になんなんだよ、この作品と作者。

 

……で、ここにおいて。
道尾秀介『N』、森バジル『ノウイットオールあなただけが知っている』という、どちらも作品構成に非常に際立った工夫がある小説があり。

 

※『N』の構成と工夫は作品紹介及び著者による冒頭の「本書の読み方」にある通り。

いずれも「ある場面、物語をある程度登場人物の内面までも読める(が干渉は出来ない)"まがいものの神"のような視点で「大体わかった」と一度捉えたとしても。実はちょっとばかりその時点で把握できていなかった情報が足されれば、場面や物語の意味など一変してしまう」ということを突きつけてくる……
引いては、日々の現実の世界で出会う人や出来事について「大体わかった」などと思っていても、そういった認識や感覚などというものは何かちょっと新たな視点や認識、知識が加わるだけでどれだけ変わり果ててしまうものか。
ということは、誰についても何についても、本当に「わかって」いるなどということはまず有り得ないのでは。
そんな当たり前だけど、きっととても大事なことを強烈な説得力をもって再確認させてくれる作品となっている。

 

なおここで、どちらの作品もその際立った工夫を単なるアイディアで終わらせないためには、物語の構成力や文章力といった基本的な実力がすごく要求される代物なのだけれど。
道尾秀介が嫌味なくらいなにかにつけ巧いのは、もう今更言うまでもない広く知られた単なる事実として。
なんで森バジル『ノウイットオール あなただけが知っている』はデビュー作なのにそんな真似ができているのか、やはりよくわからない。

 

小森健太朗『大相撲殺人事件』
殊能将之黒い仏

ともあれ。
一般に人の推測や理解なんてそんなもの……というか、入手し認識し得る情報に限りがある以上、それを元にした(そうせざるを得ない)推測や理解にも同様に限りがあるのは自明すぎる理だという話ではある。
ここでその話を更に推し進めると、推測や理解の力が神掛かっており誤りがない……「神のごとき名探偵」でもその推理には明白な限界が理論上避けがたく存在するという話もあったりする。

 

例えばちょうど今放送中のTVアニメ『怪異と乙女と神隠し』8話で小森健太朗の怪作『大相撲殺人事件』がさらっと登場していたので、そこを起点に言及してみるのだけれど。

『大相撲殺人事件』は蘇部健一六枚のとんかつ』も大きく上回るようなバカミスの中のバカミスなのだけど、おそらくある種の批評性もあって。
論理をもって謎を解決するというミステリの在り方に対し、では事件があまりにも異常な論理を当然の常識とする世界の中で発生した場合「論理をもって謎を解決する」という手法はどれだけ有効足り得るか?という。

 

こうした考え方なり発想なりは、例えば殊能将之黒い仏』を例に考えてみると、より分かりやすくなるものかもしれない。

名探偵が完璧な論理をもって快刀乱麻に謎を解くというが、論理(による演繹に基づく推理)は謎を解くための証拠が十全に揃っていなければ意味をなさない。
例えば事件の核心及び事件含めた世界を左右するものがおよそ名探偵だろうと想像し得ない、常人はもちろん人間の常識の完全に外にある「理外の理であり力」であった場合、名探偵の推理と解決とは、どれだけ無力で滑稽なものになってしまうものだろうか。
そして「理外の理」は例示であり、単に決定的な情報が一つ欠けていたり、単に探偵の想像し得る論理を超える論理が働いている、それだけで名探偵の推理など脆く崩壊してしまう。それは構造的に避け得ない問題なのだ、という。
そういう話。
なお『黒い仏』の内容について上記の話以上に触れていないのは、わざと。
読んだ人には分かる話であるとも思うし、読んでいない人にはぜひ一読してもらって「なんだこれ!!!!!!!!!!」と思って欲しい、極めつけの逸品なので。

 

■うえお光『紫色のクオリア

更に「誰についても何についても、本当に「わかって」いるなどということはまず有り得ないのでは」という疑問は「人はどれだけ他人を理解し得るのか。あるいは理解し得ないのか」という問いにも繋がるものであるわけだけど。
まさにその問いをこそメインテーマとして扱って。
どこまで行っても<私は私/あなたはあなた>であり、様々なSF的な探究を経て"誰しも互いを本当には知り得ない"ことを改めて確認してみせ。
その上で、だからこその互いに手をつなぐ意味と意義を掲げてみせた

 

うえお久光紫色のクオリア

 という傑作小説があったりもする。


ただ『紫色のクオリア』はある種のSF的嗜好を一冊の中に驚くべき圧縮率で詰め込みに詰め込んだ、SF好きのための開けてびっくり玉手箱みたいな性格が多分にあると思えるので、あまりその分野に馴染みのない人には向かない小説ではあるかもしれない。
一方で、その分野に馴染みがある人なら少なくない割合で既に当然に読んでいる、古典的名作の一角であるようにも思う。

 

■宮澤伊織『裏世界ピクニック9 第四種たちの夏休み』

この巻で一つ面白かったのは空魚が語る"〈恋愛〉という概念の持つ、なんでもかんでもその重力に引き込みその文脈に回収してしまう恐ろしさ"についての話。
本来もっと色々複雑微妙であるものも"そこらへんの諸々はだいたい〈恋愛〉という概念に沿って意味づけ、説明してしまうことが出来る"という前提を無意識的にでも抱いてしまった時、なにもかもその文脈に沿って回収され、意味づけられていってしまう。
<恋愛>というものを当然の「前提」だと仮定する、たったそれだけのことで、どれだけのものがひどく歪んでしまうことか。

"人の認識や理解はいかにたった一つの前提や、たった一つなにかの重要と思う(あるいは思い込む)情報に大きく甚大な影響を受けるものか。受けてしまうものか"

という恐ろしさをよく示している描写であり語りだとも思えた。

 私と鳥子は、二人の関係を〈鵺〉と名付けた。右目と左手がもたらすこの世のものではない感覚の嵐の中心、青い深淵に到達して還ってきた高揚感の中で生まれたその呼び名は、決して誰のものにもならない私たちだけの関係を表す言葉として、これ以上ないほどぴったりに思えた。
 でも、誰のものにもならないというのは、誰にも理解されないのと同じ。他人から見れば私たちのやっているのは「恋愛」であり、私たちは「恋人」でしかない。
 他人なんてどうだっていい、という考え方はある。基本的に私はそういう考えをする人間だ。なのに、意図しない見方をされるのはそれはそれで嫌なのだった。

 というか何をもって恋愛、何をもって恋人と言うのだろう。
 これは私たち二人の間で定義される関係とはまた別の、他人に説明するときの話だ。  何がどういう状態なら、任意の二人もしくはそれ以上を「付き合っている」と言う?  恋愛関係というのは、肉体的接触の許可なのか? 結局そこ?  社会的な意味合いとしては、肉体的接触の許可がある関係の周知?
 付け加えるなら、ここは一組のユニットなので邪魔するなという、排他の意思表示?  それだけなのか?  いや、わかるよ、それが重要なのは。「大事なことだよ」と紅森さんなら言うだろう。
 でもなんか……。つまらなくない?

 

「もうさあ~! それがめっちゃめちゃ悔しくて! さんざん〈恋愛〉じゃない関係を二人で模索して辿り着いたわけじゃない。なのにそれを、人に訊かれたときに説明しようとすると、〈恋愛〉の文脈に引き寄せられちゃう! 屈辱だよ……」

 

 私たちの関係を語ろうとしたときに、他ならぬ自分の口から、よりによって「付き合っている」という言葉が出てきたことが、私はショックだった。まったく笑い事ではない。怖かったのだ──こちらの意思にかかわらず、〈恋愛〉という文脈に引き寄せられてしまったことが。
 あの言葉は、私の意図するものではなかった。自動的に口から出たものだった。あの一瞬、私に意思はなかったのだ。「付き合っている」と口にした私はbotだった。
 私と鳥子がお互いの間で納得して、どれほど自分たちだけの特別な関係を定義しようとも、油断するとあっという間に〈恋愛〉にされてしまう。巨大な重力を持つ天体に引き寄せられるようなものだ。
 順を追って説明すれば鳥子は理解してくれると思う。紅森さんも……多分。でも他の人はどうだろう。小桜はこういう話自体面倒くさがるだろうけど、真面目に話せばわからない人じゃない。夏妃は無理そうな気がする。
 もう一つ怖いのは、わからない人には、私がこうして怖がっていることすら〈恋愛〉の文脈で受け止められるだろうということだ。これは確信がある。つまり、恋愛ビギナーの私が、自分の恋愛を認めることができずに、愚かにのたうち回っている──と。好意的にしても、嘲るにしても、幼児を見るような目で見られるだろう。〈恋愛〉重力圏の中にいる人間は、重力の存在を自覚できずに、〈恋愛〉の文脈に沿って自動的に動くからだ。
 きっとそれは、個々の人間のせいですらないのだろう。
 地球上の人間が重力の影響を受けているのが、人間のせいではないのと同じで。
 じゃあ、何のせい?
 私は考える──
 もしかして、〈恋愛〉という概念そのものが、何かとてつもなく恐ろしいものなんじゃないだろうか……?

 

「怪談ってそうなんだよ。怖いはずなのに、異常なことが起こっているとわかっているはずなのに、なぜか途中で離脱できずに取り返しが付かないところまで行っちゃう。一度そのコースに乗ったらもう、そこから逃げるのはすごく難しい。思考も行動も自動的になっちゃうんだ」
「はあ……」
「……恋愛もそうなんだ」
 ぽろっと口からその言葉が出た。言葉の後から理解が遅れてやって来た。背筋がぞわっと粟立つ。核心的な場所に辿り着いたという気がした。
「そういうことなんだ……。恋愛もきっとそうなんだよ!」
 わけがわからないという顔のるなに、私はまくしたてる。
「恋愛って怖くて、ものすごく強い重力を持つ星みたいに、近づいた人間を〝恋愛〟っていう文脈に引き込もうとする。そこに取り込まれると、やることなすことみんなその文脈でしか解釈されなくなっちゃうし、自分の言動もそうなっていく。そこが私、ずっと気になってて、怖かったんだけど……そうだ、恋愛と怪談って、人間をむりやり文脈に乗せてくるって点で同じなんだ! 恋愛の文脈が人間を乗っ取ってくるみたいに、裏世界の存在は怪談の文脈に人間を乗せてくるんだ! どう? わかる?」

 

ここで言及した仁科鳥子の怖すぎる真顔もまさに<恋愛>という重力圏に強烈に囚われ、その歪みを思いっきり反映しているからこその「怖さ」なんだろうな、という。
9巻ラストの一行についても正にそう。

 

 

 

 

 

……で。ところで紙越空魚については、<恋愛>の重力圏、恐るべき引力というのは、それはそれとして。
それを言い募る空魚自身が、いまやその力をだいぶ強めつつある「紙越空魚という引力圏」をもっと自覚して気をつけた方が良いだろうと重ねて思わされた9巻の内容でもあった。

中盤でさらっと語られた"紙越空魚への愚痴で繋がる連帯感"……それって、閏間冴月被害者の会の何歩か手前まで来ているんでは。
そして、終盤というかほぼラストのアレ。
紙越空魚の関心を惹きたい、どうにかしてその目をこちらに向けさせたい、振り向かせたいという執着……空魚がそうと意識も気づきもしない間に、第二の閏間冴月に成りかけてきてはいないか。
空魚が思う、なんでも恋愛絡みに帰着させてしまう「恋愛という引力圏」という考えも大変面白いし、個人的な人の思考や意思といったものに対する捉え方(は極めて強く周囲の環境や特定の概念に影響され、特にある種の常識といったものに引っ張られる)にも強く合致する所があったりもしたけど。
それはともかく。紙越空魚はそういうの考えるのもいいけど、自分自身が周囲にどんな引力を発揮してしまっているかという「紙越空魚という引力圏」にもっと気をつけた方がいいと思う。

 

他に9巻についての感想は以下の二つも。

 

冲方丁『マルドゥック・アノニマス』9巻

『マルドゥック・アノニマス9』Kindle版読み進めていて今、30%くらい。
諸勢力が互いに争い、時に交渉を続ける中。囚われの身となった超凶悪女性犯罪者が鬱で自棄的になり病み衰えていくのが関わるどの勢力にとっても都合が悪いという事態が発生した結果、諸勢力が力を合わせ、彼女のために以前からの恋人である犯罪者仲間が心からのプロポーズをすることで気力を取り戻させる計画への協力に合意。
最大限ロマンチックな環境を用意し、計画通りプロポーズ大作戦が滞り無く進み目出度く愛し合う二人の気持ちが最高に盛り上がりを見せた結果、ルーン・バロットも思わず涙ぐんでるし諸勢力の関係者が揃って心から祝福しているという「どうしてこうなった」という凄いシチュエーションが描かれている。
その上で、こんなにもハッピーそのものの光景が描き出されているというのに、事前になんか不吉と言うか酷すぎる将来を示唆というか避けがたく予告するような描写も突きつけられていて、一体どんな感情で読めばいいんだこれ、と困惑しつつ楽しんでる。

https://x.com/sagara1/status/1799367872621560207

 

『マルドゥック・アノニマス』という作品において、1巻からこの9巻に到るまでずっと継続している諸々の事態の中心となる構図として。

ルーン・バロットとそのパートナーであるウフコックをはじめとする主人公側に対し、必要なら残虐非道な手段も躊躇わず実行し、舞台となるマルドゥックシティに数々の暴力と破壊を撒き散らしてきたハンターという男が率いる、それぞれ強力な超能力(ギフト)を備えた超凶悪な犯罪者集団が対立しているというものがあるのだけれど。


そのハンター一派が強固な共感(シンパシー)の絆で結ばれ、結束と仲間を大事にしあい、望まずして強制された悲惨な境遇からの脱出と立身出世……「天国への階段」を登ることを誓いあい、凶悪な犯罪と暴力から可能な限り手を洗って「合法化(リーガライズ)」を推し進め、まっとうな生活、まっとうな感覚、まっとうな夢、まっとうな幸せ、まっとうな職業、まっとうな未来を全身全霊で志向する姿は時に読者に強い共感を抱かせそうになる魅力をもって描かれても来ている。

9巻でシルヴィアのためにバジルが誠心誠意行ってみせたプロポーズの場面などはその極致といった趣もあった。

 

例えば『HUNTER×HUNTER』の幻影旅団あたりがわかりやすいけれど、作中で極悪非道の限りを尽くした集団として描かれているキャラクターが、にも関わらず読者に非常に強い人気を得て、強烈に好感を抱かれたり、時に肯定的に受け取られたりする事例は多い。

『マルドゥック・アノニマス』のハンター一派もちょうどそのような魅力を発散してもいる。

 

ただし、作中でルーン・バロットに対してウフコックやドクター・イースターといった周囲が時折強く釘を差し、またそれを通じて作者が読者に釘を指してもいるように見えるのがハンター一派は所詮「カルト」に過ぎないという断言で。

その断言が『マルドゥック・アノニマス』という作品の一つの大きな特徴でもある。

時にどんなに魅力的に見えようとも、彼らは突き詰めれば身内の利害や絆やルールのみに忠実で、そのためには外部……社会のルールや良識、正義や法律など本当の意味では歯牙にもかけていない、彼ら以外の社会にとって受け入れ不可能、共に天を戴けない相手……すなわち「カルト」集団である、と時折念を押すようにはっきりと語られる。

いわば「カルト」という一つの言葉と概念を用いて、危険な共感から作中キャラクター及び読者を遠ざけるという工夫が施されている。

 

"人の認識や理解はいかにたった一つの前提や、たった一つなにかの重要と思う(あるいは思い込む)情報に大きく甚大な影響を受けるものか。受けてしまうものか"

 

そうした人の認識や理解の在り方をうまく利用した工夫であり、作品の大変重要な姿勢であり在り方だと思う。

 

 

ところで……冲方作品の大きな魅力として、作者が作中世界を狂的なまでに精緻かつ詳細に把握しきった上で描く、多人数の思惑そして衝突や交渉がリアルタイムに交錯し続ける圧倒的な描写があると思う。

その魅力は『オイレン・シュピーゲル』4巻&『スプライト・シュピーゲル』4巻で一つの事件に並行してそれぞれに関わる二つの集団の視点を完璧に制御しきって交錯させ続けてみせた手腕やその後の『テスタメント・シュピーゲル』での描写、そして巻を追う毎に複雑さを増す『マルドゥック・アノニマス』の筆致の中に溢れかえっている。

そして『マルドゥック・アノニマス』では諸勢力の対立や交渉、社会との関わりがより複雑になりより深いものになるにつれ「シザース」という存在なり能力なり設定なりの持つ力や可能性や意味の、大きやさ深さ広さも明らかにされていくのがなんとも面白い、作品が発する独自の強烈な引力であり重力にもなっている。

その作家としての力量に、読者として見惚れずにはいられない。

 

ただし、その作中世界の完璧な掌握はその当然の大前提として……作中世界においては作者が創造主として在り、必要な情報は概ね得ることが出来、作者が想像も把握もできない出来事は作中において起き得ず存在もしないからこそ成し得ているものなのであって。

もしもなにかの拍子にそのノリで作者が現実の複雑極まる世界情勢に目を向けて……同じようなレベルでそれを把握することを自らに求めてしまった場合。

いろいろなことが簡単な理屈で腑に落ちる、腑に落ちてしまうというある種の罠……言ってしまえば陰謀論的な思考にあまりにも陥りやすいのではないかと憶測してしまえたりもする。

 

なぜこんな事を書くのかと言えば、数年前、突然世界情勢?についての一読者、一ファンとしてただただ困惑する他無い……価値観とか政治的立場とか以前の、単純かつ致命的な人物の取り違え含む雑過ぎる陰謀論を日記?の形で唐突に出されたのに大変に驚かされたという体験が忘れ難くあるからで。

上述したように、なぜそんなものが出力されてきたのかについてある種の憶測はできてしまったりもするのだけれど……とにもかくにも、二度とそんなもの出してきて欲しくはない、もしそんな気配が見えたら、頼むから周囲の編集者なり作家仲間?なり友人なりはちゃんと止めて欲しいと……ごくごく勝手な願いだけれど、そう思えてならない。

 

最後に。

冒頭で示した最近読んだ本の内、既に単体の感想記事がある三作品についてはこちら。