『博士の愛した数式』を巡る物語

横浜・相鉄ムービルで『博士の愛した数式』『オリバー・ツイスト』を観る。
原作『博士の愛した数式』を併せて再読(『オリバー・ツイスト』は別の映像化としてミュージカル映画『オリバー!』は観たものの、ディケンズの原作は未読…)。

オリバー・ツイスト』もそれなりにいい映画だったので多少書きたいことがあるが、『博士の愛した数式』について、余りにも書きたいことが多い。今日はそれを書くので精一杯だろう。


以下に書くのは、三つの『博士の愛した数式』を巡る話だ。
一つは小川洋子の小説であり、もう一つは小泉堯史監督の映画であり、残る一つは原作を読み、私が脳裏に思い描いた『博士の愛した数式』という物語である。


映画『博士の愛した数式』への違和感と反発〜物語の半面を担うもう一人の主役の描き方についての異議

……映画が始まって数分で、席を立って帰りたくなった。


改めて思い返せば、黒澤明の助監督を長く務めたという小泉堯史監督の撮る映像は確かに美しかった。
「数式」を一つの究極の《美》として、また人と人との越え難い距離を埋め、その思いを繋ぐものとして描き出した原作の稀有な魅力を、その磨きぬかれた感覚をもって、春の陽射しと咲く花々、緑の野原の風景に溶け込ませた匠の技にも感嘆する。
「冷たく無機的」という一般的なイメージを持つ「数学」「数式」の一般的なイメージを、それに対抗するでも否定するでもなく---「打ち壊す」といった表現のおよそ対極にある軽やかさを以って---読者をその《美》の中に、彼らがそうと気付かぬくらいに自然に、どこまでも柔らかく包み込んでいく原作の"その面での"素晴らしさはここに見事に再現されていたのだと思う。
そして、「何よりも《今》という一瞬を大事に生きよう」というテーマを原作に大きく手を加えてでも前面に出したいという、小泉監督の意図は勿論分かる。原作とは別の描き方をしているのは、誰がどうみても監督の強い意志があってのことなのだ。


だが、それでもその変更はどうしても受け入れるのが嫌だった。はっきりいえば、不愉快だった。

何が嫌だったのか---それも、はっきりしている。これではこの物語は《美しい》だけなのだ。悲哀も寂しさも、《時》の流れさえも、全ては《美》と暖かさな春の陽射しの中に溶けて行く。それは、この映画が原作を読んで思い描いた世界の半分をおよそ似ても似つかぬものに変貌させてしまったということに思えた。《数》の持つその冷酷な半面---愛も悔恨も、いかなる情も越えることの出来ないその冷厳なる恐ろしさは、およそ興味を引かない凡俗の悲哀にまで堕とされてしまった。
無論、これは未亡人、博士をギテイと呼ぶ、物語の半面を覆う主役の描き方についての異議である。

これから記していく論議の前提

なお、念のために書いておくと、ここから書く話の前提は「こんなのは原作者の意図とは違う」という原作絶対主義ではなく、「一読者である私が読者として原作から思い描いたイメージ」と「原作を基に映画で小林監督が描いたイメージ」が違う、という話。大体、原作者はパンフレットの言葉からも分かるように、この映画を絶賛している。おまけに、本人が映画版で追加された場面に出演すらしている。それを確認した上で、以下の話を進めたい。

原作における"未亡人"の意志の魅力と映画における彼女のキャラクターの差異

小川洋子の『博士の愛した数式』には、神話的な美しさに溢れた物語の陰で、《80分》という冷徹な数字と《17年》(これも10年に変更されていた!)という重い重い時間が伝えるもう一つの物語があると感じた。
それは、博士がその《80分》を失った幕切れ近くになって、それまで裏に隠されていたその存在を読者に強烈に突きつけてくる《その言葉》は、そこに至るまで断じて、口に出されるべきではないものだ。
小泉監督の『博士の愛した数式』には、その最も深刻な思いを初対面の全く信用もしていない相手にペラペラと喋ってしまえる人物が出てくるが、あれは一体誰だろう?あの、いつでも「私が世界で一番の不幸に耐え続けている女です」「私は苦しんでいます」「この辛さをどう伝えたら」と小奇麗な行書体ででも書いたメモを、体中に貼り付けてでもいるかのような女は?
映画で彼女が登場する場面では、原作においては、その最も重い苦しみだけは断じて表に出さない、凛冽たる意志を持った老婦人が現れた。もう十度目にもなる説明を「落ち着きなく杖をいじって」「視線が合わないように注意しながら」語りながら、話が彼女にとって最も苦しい、博士の病状に至ったとき、苦しいからこそ「何の感情もこめず淀みなく喋った」女性。だからこそ、家政婦の"私"を問詰した際の取り乱す姿、最初に読んだときには誰しも不快に思うであろうその姿が、後になって思い返す時、全く別のものとして心に迫った。だからこそ、物語の端々にこれでもか、というくらいに伏せられ暗示された思いが後にどうしようもなく心を打った。どうやら、そこのところから、全く別の作品が始まっていたらしい。

「映画ゆえの仕方のない工夫」という見方は、監督及び観客への侮辱である。

"映画は読み返すことが出来ない"からこその工夫?あれだけの美しい映像を生み出す力を持った監督ならば、一度終幕まで物語を見せた上で、再び新たな視点を与え、観客の脳裏に残った映像からその裏に隠された物語を再生させることも出来たろう。それを「作品に求めたそもそものテーマが違うから」よりも、主に観客への説明の必要性からだ、といわんばかりのパンフレットにあった井上志津という新聞記者の評などは、観客の感性と想像力への侮辱であり、それ以上に監督の技量への、また、優れた映画の持つべき力への無理解だろう。

博士の愛した数式』の《数》を巡る裏面の物語と、それへの扉を大きく開く《その言葉》について。

さて、ここまで、あえて説明してこなかったことがある。
かすかにほの見えていながら、あまりに明るく輝く博士と家政婦とその子供の物語に隠れてしまっていた、やはり《数》を中心にしたもう一つの物語の扉を大きく開く《その言葉》と、そこから広がる物語の姿である。それを、ここから書いていく。


「一度言い淀んでから、彼女は続けた。
「私がおります。義弟は、あなたを覚えることは一生できません。けれど私のことは、一生忘れません」



無論、《その言葉》とはこのことだ。
"私"との最初の出会いで博士の病状を淀みなく喋り切った彼女が、「一度言い淀んでから」語ったこの言葉である。
そこから、博士と家政婦とその子供の物語が明るく輝けば輝くほど、その哀しい影を色濃くする『博士の愛した数式』のもう一つの物語が浮かび上がる。


しかし、そうはいっても、そこにある具体的な事実は少なくとも私には、今もなお分からない。だが、作中から推測してみることは出来る。例えば、幾つかの材料---29歳の博士の論文の冒頭に記された「〜永遠に愛するNへ捧ぐ あなたが忘れてはならない者より〜」の言葉。そこに添えられた未亡人の写真。博士の子供への無条件の愛情と過剰なまでの心配性---から。

博士と未亡人との間の物語に関する一仮説

29歳と37歳(事故を報じる記事の年齢差から)の幸福なカップルがいた。共に数学を愛し、その中の《美》を同じ言葉、同じ数式で語れる、愛する者が愛する物を心から同じように愛することが出来る真に幸福な二人がいた。
やがて高齢出産の苦しみを乗り越えて生まれた子供は、あまりに過保護気味の父とそれを笑っていさめるその一回り年上の母の下ですくすくと育ち、後に現れる"ルート"と同じくらいの年頃になる。しかし、その時、母の僅かな間の不注意により不幸な事故が起きてしまう……。
哀しみのどん底にありながらも、妻を責めない夫。しかし、それだからこそ、より強い自責の念に苛まれる妻。そして既に四十を大きく越えた妻は、その悲しみを唯一癒すことが出来るかもしれない、二人目の子供を授かることもまず不可能だった。
募り続ける自責の念と哀しみ、そして苦しみつつ自分を責めない夫の姿を見続けるのに耐えられず、遂に離婚した妻は、同年輩の夫の兄---父の残した織物工場を必死になって大きくしてその年まで独身で来た兄---に慰められるうちに親しくなり、結婚する。そして数年が経ち、彼女は未亡人になった。
その葬儀をきっかけに、再び会うようになる未亡人と博士。再び暖かい空気が彼らの間に戻ってくる予感を感じ始めた二人---その時、運命は再び二人の間に越えがたい溝を生んだ。そして、17年の月日が過ぎた---。

そう、例えば、そんな物語だ。そうして想像を広げれば、あのオイラーの公式とそれがルートの前で争う"私"と未亡人の前に出された意味や、他の諸々のこともうまく説明できそうだな、とも思う。
しかし、その物語を確かなものとして頭に描き切るだけの確信は、私には持てない。あるいは、持ちたくないのかもしれない。
分かるのはただ、博士と未亡人の間にはかつて博士が《永遠》といった愛があり、それが事故までの18年あるいは19年の間に何らかの形で真っ直ぐには繋がっていけなくなってしまっていた、ということだ。それはどのような思いであれ、並大抵のものではなかったということだ。「忘れることはありません」とは単に「永遠の愛」を誇った言葉では決してないということだ。そして、そうした一つの仮定の物語を立てることで分かる、それがどのような思いであれ、それが博士を捕らえて話さない《80分》の冷厳なる病の掟と向き合うとき、いかに恐るべき心の地獄が生まれたか、ということだ。

博士と未亡人との物語〜まずは抽象論から。《80分》と《17年》、二つの《数》が織り成すもの。

まずは抽象論でいこう。
思い出は、過去の記憶は永遠に変わらず輝き続ける。
新たに記憶を重ね続ける普通の人において、過去の記憶は次々に上積みされる、より新しい記憶によって薄れていく。たとえそれが、どんなに大切な記憶であろうとも。遂に《80分》の記憶をも壊れた博士の背広から、次々に剥がれ落ちていったメモのように。
しかし、《80分》の記憶を繰り返す博士の記憶、その中の未亡人の姿は《17年》の長きにわたってまさしく不変だった。博士にとって、江夏が"今も"永遠に輝ける現役の大投手であり、"阪神の江夏"であるように。だが、江夏が博士が事故にあったその年に(というよりも、正にそれゆえに、博士は1975年に事故にあったという設定がなされたのであり、その年を基準点に他の全ての年代も決定されたのだろう)トレードされ、やがて引退していったように、未亡人はその外見も心も変わっていく。その変化をどうあがいでも抑えることなどできない。その変化を、誰よりも愛する彼と二人の記憶として共に持ち続けていくことも出来ないのだ。
永遠不変にして完全なる《数》の《美》と、変わらずにはいられない不完全なる人間の鋭い対比。


さて、ここまでが抽象論だ。しかし、その事態の本当の恐ろしさは、こうした抽象的な言葉を連ねただけではその何分の一も、いや、何十分の一も分かりはしない。その地獄をどれだけ具体的に想像できるかどうかで、この物語が見せる貌は全く違ったものになる。
では、ここで"具体的に考える"ため、先ほどの仮定の物語を持ち出して、原作の様々な文章を見ていこう。なお、引用ごとに掲げる原作のページ数は、美しい装丁を誇るハードカバー版のものを使う。
ここからが本題になる-----。

未亡人は、その苦しみを初対面の相手になど決して漏らさない。漏らすわけがない。

7ページ。
「とにかく義弟に、誰もがやっている、ごく当たり前の日常生活を送らせてやれる方ならば」

それが、「ごく当たり前」に博士と時間を重ねていくことが出来ない、「時計より厳密で冷酷」な《80分》という時の壁を越えられない彼女が口にした言葉だ。それは、もしそれが叶うものならば、かつてのあの自責と哀しみに打ちのめされた日々でさえ、どんなに喜びを持った毎日であっただろうと思わずにはいられない彼女が、彼のことを何一つ知らぬ赤の他人に託すしかない頼みなのだ。その哀しみは、その嫉妬の大きさはどれほどのものであることか。
そして、それだからこそ、彼女は思うに違いない。その誰にも分かち得ぬ苦しみを、目の前の何も知らぬ女になどに髪の毛一筋ほどでも漏らしてなるものか。この苦しみでさえ、私以外の誰にも渡してなるものか、と。

既に多くの共に過ごした《時》を重ねた二人が新たに《時》を積み上げられない。その恐るべき意味。

32ページ。
「一度教えたことを忘れてくれるおかげで、遠慮なく何度でも同じ質問ができるのも重要なポイントだった」

博士に会って、全く知らぬ美しい世界に目を見開かされることになった"私"にとって、それはありがたいことだった。------だが、過去の苦しみを越え、再び新たな暖かな関係を築く望みを持ち始めた矢先にそれを無残に断たれた未亡人にとってはそれは何を意味するのか?


死んでいれば------いかに苦しくとも、その心はいずれ整理がついただろう。
だが、博士は確かにあの時のままそこにいる。事故の後に初めて彼に会った"私"やルートにとって、彼がかけがえのない人物となっていったように、彼の心と頭の魅力はいささかも失われてはいない。
彼女が心を告げれば、博士はその時の心のまま、その心を返してさえくれるのだ。
だが、それは《80分》で失われてしまう。そんなことに耐えられるだろうか?
勿論、メモでそんなやり取りを残しておくことは出来る。博士が「私」とルートに対してしたように。
だが、例えば「彼女の告白を受け、彼女がかけがえのない人間であることを改めて深く心に知る。嬉しい。私からもその心を伝えた」というようなメモを書き、それを博士が《80分》が過ぎる度に見る---そんなことは考えるだけで悪夢のようなことだ。メモ一枚だけでなく、許された時間全てを使ってどんな言葉、どんな数式を連ねようとも、失われて行く《その時》の心の動きを捉えることは出来ない。
しかし、後に必ず訪れるその苦しみが分かっていても---博士同様、優れた頭脳を持つ未亡人には初めからそれが分かっていただろう---告白という行為の抗しがたい魅力に負け、彼女はその禁断の行為を犯したことだろう。ひょっとすると、一度でなく幾度も。それは大きな喜びと、その喜びの時を含んだ《80分》が終わった後にはその幾倍幾十倍となって襲い来る悲哀を逃れようもなく約束する、心の地獄だ。

博士と"私"とルートの物語の幸福と無邪気さの光が強く輝けば輝くほど、未亡人と博士の物語の影はその色を濃くしていく。

そして、その地獄を知る由もなく、余りにも美しい数学の《美》と、春の陽のような---正に小泉監督がその部分こそは見事に描き出したような---優しい心の触れ合いを初めて知った"私"の無邪気な言葉は、その幸福と無邪気さの光の強い輝き故に、その影を一層際立たせずにはいられない。
それに気づくと、『博士の愛した数式』という本のもう一つの物語とは、《80分》という冷酷無比なる《時》の悪魔が司る地獄をどこまでも執拗に描くと共に、その中で《17年》もの月日を過ごした一人の女性の偉大な意志を称えるものであることが見えてくる筈だ。幾つかの例を、あえて説明を付けずに挙げてみよう。それは余りに明らかだと思わないだろうか。

38ページ。
「博士にとってやはり私は、いつまでたっても数字の右手でそろそろと握手する相手であり、息子はもうただそこにいるだけで、抱擁すべき相手だった」

44ページ。
"私"が語る、母と、母から理想的なイメージだけを伝えられた父親の話。

46ページ。
「私がいない間、未亡人が手助けしているのは間違いなかった。しかし私の仕事中に、彼女が姿を見せることは決してなかった。母屋との行き来をあれほど厳しく禁止するのは何故なのか、ふに落ちなかった。」

57ページ。
散髪屋で、博士に対するわずかな知識から「私」に芽生える、周囲への優越感。

64ページ。
「元々優秀な頭脳の持ち主なので、自分の病気についても、それだけ深く理解していたのだろう。プライドを守りたいというよりは、ごく当たり前の記憶の世界に生きる人々の邪魔になるのが、申し訳なくてたまらない、という様子だった」

もう、こんなところでいいだろう---と思うだろうか。
だが、違う。
二つの最も強烈な団体様がまだご到着になっていない。
即ち、一つは博士がルートに示す無償の愛情であり、もう一つは博士の永遠の夢---完全数28を背負った阪神のエース・江夏だ。

博士の愛した二つの永遠=江夏、《N》

……このうち、博士がルートに示す無償の愛情を描くシーンはあえてパスしたい。個人的な事情だ。最近、私の兄に子供が生まれた。男の子だ。この甥っ子が実に可愛い。愛らしい。だから、今、わざわざそれらのシーンが暗示するものを反芻したくない。つくづく、怖ろしいものをも余りに見事に描いている小説だと思う。だが、だかこそ、その地獄が見事に、奇跡的に鮮やかさ、神業的な美しさで救われる場面について、この感想の最後に書こう。だから今、この後に書いていくのは"江夏"の話だ。

68ページ。
「「江夏はトレードされたよ。僕が生まれる前に……それにもう、引退したんだ」
 えっ、と絶句したきり、博士は動かなくなった。

70ページ。
「そして私は、もしかしたら適切ではないのかもしれない言い方で、息子を慰めた。
「大丈夫よ。心配いらない。明日になれば元通りになるから。明日になればまた、博士の江夏はタイガースのエースに戻るから」」

112ページ。
「同じ江夏でも、さまざまなバリエーションのカードが揃っていた。私の知っている太鼓腹の面影はなく、痩せて精悍な姿をしており、もちろんどれも、阪神のユニフォームを着ていた」

118ページ。
「博士が知っている時代のタイガースの選手は、誰も出場しない。皆、引退してしまっている」

完全数28を背負う江夏、永遠に阪神のエースである江夏は、博士の《永遠》の夢の中に輝く江夏だ。
その江夏が描かれるとき、それは博士が《永遠》を託した《数字》の夢であると共に、常にもう一つの博士の《永遠》、「永遠に愛するN」をも描かれているのだ。
数字を愛し、人と常に数字を介して交わろうとする博士はかってこんなことを言ったに違いない---君の名前の頭文字はNだ、数字全てを表す記号だ、僕の愛する全てだ、と。
即ち、完全数28を背負うのは博士だけではない。博士の記憶の中に輝く《N》もまた、それを背負うのだ。

博士の夢の中の江夏と、夢の中の《N》〜未亡人が家政婦に課す最大の掟の意味

ここでもまた、具体的な想像を巡らしてみよう。
《N》---即ち、未亡人が博士の心の中で永遠に変わらないということ、そして、博士の未亡人への思いも永遠に変わらないということは何を意味するのか。
ここで重要なのは、47歳、55歳の時に事故にあった二人の間にはそれ以来、《17年》という歳月があったということだ

まず、若者が中年になるのに比べればその変化は少ないものの、外見の変化は確実に積み重なっただろう。江夏のトレードと引退を聞いて絶句した博士は、毎回の《80分》において初めに《N》に会った時、どんな反応を見せるのだろう。事故から5年後には?10年後には?15年後には?物語で描かれた17年後には?---その答えは、未亡人が家政婦に何より守るべきものとして課したのが、なぜあの掟なのかという謎と極めて密接に繋がっていることだろう。

永遠の《N》と、《時》の中にいる未亡人〜「一生忘れません」という呪い

そして、心だ。博士の心は永遠に変わらない。だが、記憶を重ね続ける未亡人の心はそうはいかない。人である以上、そうはいかない。
考えてみよう。事故から17年が経てば、彼女は70歳を越えている。しかも、事故で足の不自由な身だ。決して丈夫とはいえない。ならば、もう、自分の死を思わずにはいられないだろう。自分が死んだ後の博士のことを思わずにはいられないだろう。
それは生活の心配だけではない。いいだろうか、博士は記憶を重ねられないのだ。《80分》の悪魔に呼び戻された彼は、時に彼女を探すだろう。そして、家政婦への指示を記した文字や、博士の世界を乱さないよう注意深く抑えられた片付けや、その他細々としたことたち…その中に確かに彼女を感じ、「僕の記憶は80分しかもたない」というメモを見た彼は、彼女が姿を見せぬ理由を直ちに理解するだろう。だが、彼女がいなくなれば、それも消える。その度に、彼は彼女がもうこの世にいないことを知らなければならないのか。
そのことを思うとき、いかに苦しくとも、《N》は博士の側から離れられない。悲しみに負けて死ぬことなど決して出来ない。《その言葉》、「けれど私のことは、一生忘れません」の持つ意味は、かくの如く重い。あえていうなら、それは呪いとすらいえる。《決して忘れないでいてくれる》というだけではなく、《決して忘れてくれない》ということ。


これらのことを思うとき、「八十分のテープは、壊れてしまった」博士の背広からメモが消え、ただ一つ博士の象徴として身に着けるようになった江夏のプレミアムカードが象徴する意味、そして、小説の末尾を飾る最も輝いていた時の江夏の雄姿は万感の思いをもって読む人の心に迫ってくるだろう。

博士の愛した数式》〜幾十年もの《時》を越え、遂に博士が《N》へと贈れたもの。

そして、いよいよ、『博士の愛した数式』に関する長い長い感想も最後だ。
それは、私が思い描いた『博士の愛した数式』の幕切れだ。


繰り返しになるが、私は私の例の仮説を信じ切れはしないし、信じ切って『博士の愛した数式』が私の脳裏に描く世界をその一つに固定したくはない。
他にも、"未亡人はその子供を生まずに堕胎したのだ"とか、"博士の兄を未亡人の結婚が先にあり、二人の間にあったのは不倫の愛だったのだ"とか、色々と異なる仮説はそれなりの説得力を持って立ち上がり得る。そして、そのそれぞれから想像を広げれば、各々異なる心の地獄が見えてくるだろう。
ただ、それでも、私の最初に示した仮説、私が私の脳裏に描いた『博士の愛した数式』が実のところ、結構好きだ。
そして、少なくとも、次の一つの場面は、私の『博士の愛した数式』は、小林監督の『博士の愛した数式』よりも美しいと信じる。あの数式は、あのような残酷な言葉と共に示されるものではない筈だ。

P167
「そうしてポケットから取り出したメモ用紙に、何やら書き付けたかと思うと、それを食卓の真ん中に置き、部屋から出て行った。あらかじめ、そうすべきことが決まっていたかのような、毅然とした態度だった。そこには怒りも混乱もなく、ただ静寂だけが彼を包んでいた。
 取り残された三人は黙ってメモ用紙を見つめた。いつまでもそのままじっとして動かなかった。そこにはたった一行、数式が書かれていた。
《e^iπ + 1 = 0 》
 もう誰も余計な口をきかなかった。未亡人は爪を鳴らすのをやめていた。彼女の瞳から少しずつ動揺や冷淡さや疑いが消えてゆくのが分かった。数式の美しさを正しく理解している人の目だと思った。」

博士は、《N》が失わせてしまった「1」を再び得た。彼の書いた数式を見た時、《N》にはそれがわかった。それこそは何十年もの時を越え、遂に博士がNに贈ることが叶ったもの。それは許しであり労わりであり愛であり------全ての言葉を越え、人が人に向ける暖かな思い全てを込めた数式である。
それこそが博士の愛、《博士の愛した数式》に他ならない。