山田風太郎『戦中派復興日記』〜面白すぎて、頭を抱える。

……これについても書くとなると、まだ終わらない『戦中派動乱日記』の感想と合わさって、いつになれば離れられるのかわからない。ただ、どうしてもそれはやっておきたい。
《今》という時に「分かったこと」や「うまく想像できたこと」を何とか残したいということもある。しかし、それ以上に、「今、何が分からなかったか」、「今、どんな価値の無い誤読をしてしまっているか」ということをきちんとまとめておきたい。
何かの形にまとめておかないと、もう少しは物が見えるようになるだろう《未来》から振り返った時、多かれ少なかれ、はじめから馬鹿馬鹿しい読みなどしていなかったかのように、意識的にも無意識的にも記憶を捻じ曲げてしまう。それは嫌だ。自分自身の考えが変容する過程を、もっと詳しく知りたいし、知らなくてはいけない。

もっとも、《過程》の詳細な記録は極めて手間がかかるものだから、並大抵の関心ではやりたくない。だとすると、北村薫アシモフ風太郎か、というあたりに落ち着く。しかも、そのうち二人は既に故人である以上、その未読作品は余りに貴重だ。大事に大事に糧にしていかないと、いずれ必ず後悔してしまうに違いない