ヒラリー・ウォー『愚か者の祈り』(沢万里子・訳)〜地道な警察の捜査と、幾重にも浮かび上がる被害者の顔と貌の物語

ダナハーはゆっくりと煙草を押しつけた。「いいか、マロイ。おまえさんは刑事なんかじゃない。フランク・シャピロが何者で、どんな人間なのかもわからないのに、事件の全体像を描き上げている。こういった事件はジグソーパズルなんだ。ピースを集めなければならない。この世界で扱うピースは事実だ。それを集めていないじゃないか」
「事実はたしかに重要です」マロイは言った。「ですが、そのジグソーはまとめ合わせて初めて真価が出てくるものです。そうするために、推理しなければなりません」
「よく言った、そのとおりだ。おれが推理する。おまえさんではなく。おまえさんが理解しなければならないのは、ピースが五つしかないのに全体像がどんなものになるか推測してはいけないってことだ。ピースが全部そろうまで待ち、それからひとつの絵にまとめる。ピースがすべてだ!(中略)おれたちは事実を捜している。事実そのものを。好き勝手にねじ曲げられ、いろいろな色をつけられたものではない事実を。しっかりと耳を傾けて、学ぶんだ」


(25章より。252ページ)

「いったい何度言わなきゃならないんだ、マロイ? 事実だ! 事実、事実、事実! それがすべてだ!」


(31章より。304ページ)

"事件"といえばたいがい引ったくりや空き巣程度、悲惨な犯罪とはおよそ縁遠かった郊外の静かな街で、若い女性が惨殺された。
女性の顔は手酷く傷付けられて人相の判別もつかず、目撃情報もその他の手掛かりもあまりに少ない。
事件の解決への道筋はどこにも無いと思われた------。


そこで調査にあたるのは、老練で強面のダナハー警部・五十八歳と、熱血派で創意工夫の才に富み、大胆な推理を巡らすマロイ刑事・二十八歳のコンビ。
政治家や上司の介入に真っ向から反発し、部下を怒鳴り散らしながら、通すべき筋は断固として通すダナハー。
時に先走り、自分のイメージした通りの結論に飛びつきたしなめられながら、決定的・飛躍的なアイディアで捜査の壁に勢いよくハンマーを叩きつけるマロイ。


この作品は、"1960年代に『失踪当時の服装は』等により《警察捜査小説》という分野を確立し、その巨匠となった作家の初期傑作"なのだという。
ここで、この作家が切り開いたジャンルの際立った特徴は、上記の引用部分に凝縮されているのではないかと思えた。
即ち、二人の姿は、世の中で事件が起きたときにいつも上がる、「警察は何をやっているんだ!!」という声に対する、「よき警察とは、こうして地道かつ熱意をこめた姿勢でもって、頭を巡らしそれを慎重に裏付けながら努力を重ねているのです」という-------勿論、かなり理想化はされた-------回答でもあるのだろう。


一方、勿論、ヒラリー・ウォーの小説は文句なく愉快なエンターテイメントでもある。


二人の刑事のいきいきとしたやり取り。
ダナハーの面子やマスコミ対策にばかり奔走する市長や警察署長に対する胸のすくような啖呵と態度。
聞き込みや地道な証拠集めを通じて、その度毎に浮かび上がる異なった被害者像とその鮮やかさ。
被害者の空白の五年を追う捜査の中で描き出されてくる、当時のアメリカの市民生活。
純粋な論理によってでなく、裏付けと証拠を求める堅実な姿勢から、次々に覆されていく仮説の山とその再構築。
冗漫な長話から、時を隔てて重要な推論の材料が引き出されてくる実にミステリ的な快感。
作中に散りばめられた工夫の数々-------例えば、終盤になって語られる、物語の核心を為すダナハーのジグソーパズルのピースの喩え。これは前半に捜査の一大転機となったマロイのアイディア(まさしく、散らばった"ピース"を組み合わせて一つの像を組み上げた!)と相呼応しているのではないだろうか。


この小説に組み合わさって詰め込まれたそれらの異なる魅力の一つ一つは、単独でも十分な魅力があり、読む人の好みによって、どの要素に特に注目するかも変わってきそうだ。


例えば、巻末の川出正樹(膳所善造)氏の解説では、「郊外住宅地(サバービア)の内面を照射し続けた、警察捜査小説(ポリス・プロシューデラル)の確立者」と題し、丁寧かつ手際よく作者の経歴や作品成立の経緯、一般的な評価をまとめた後で、この小説を初めとするヒラリー・ウォーの作品が、当時のアメリカ社会の重要な一面を活写していることを絶賛している。
第二次大戦後以降、都市の猥雑と混乱から逃れ、郊外にアメリカン・ドリームの実現を求めたアッパー・ミドルたちが形成していったベッド・タウンの数々。そのささやかな理想郷に、60年代頃から顕在化し始めた《影》を描いたことへの注目と評価を促す熱意溢れる文章。


ここで自分の好みを言うなら、特に愉しく読めたのは、マロイとダナハーの関係の面白さ。
散々罵倒されながらも、認めるべきところは認める大先輩の下、挫けずに次々と仮説を披露。それを叩き潰されては伝統的な足を使った捜査に戻っていく若き刑事の姿には、自然と好感を持たずにはいられない。
だからこそ、最後の仮説での一徹な老警部のお株を奪う一撃と、その場面を締めくくる、得意げな熱血漢の姿を思い浮かばせずにはいさせない一文はたまらない爽快さだった。


最後に、マロイの愉快な軽口を二つほど引用して、感想を締め括りたい。

「たったいま世紀の大発見をしたところさ」と言って、マロイは椅子にぐったり座り込み、かぶりを振った。「なんと、警部の血管に血が流れている」


(11章より。100ページ)

腰を下ろしたマロイはサラダを見て、顔をしかめた。
「あなたは小さな子供を食うとばかり思ってましたよ」
「血にいいんだぞ」ダナハーは頑として言い張った。
「なににいいですって?」
「おれの体にも血が流れているんだぞ。で、おつむをしっかり働かせて、結局ひとつも事実をつかんでないってことがわかったか」


(11章より。100ページ)