長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』初読直後の感想

長谷敏司プロトコル・オブ・ヒューマニティ』、まずは一度読んだ。

 

現時点の印象として著者の言葉通りその最高傑作であり、自然、自分にとってのSF小説のオールタイムベスト最上位の一角を占める作品と思う。


普遍とパーソナルな体験・思索をこうも結びつけ、作中で視点人物を務める護堂恒明が抗議されるように

「カンベンしてくださいよ! もっと普通の人間が、頭がおかしくならないやつにしてください」
(166/327ページ)

と言いたくなるような執拗な「人間性」への問いかけの繰り返しを行う……それはこれまでの長谷敏司作品の魅力の精髄と自分が信じるものだけれど

畏怖すべきストイックな追究は更に歩みを進めているように思えた。
重ねて「答え」を出し、その「答え」が揺らいだり「答え」に牙を剥かれる度、更に問い直しを重ねていく様に驚嘆し、引きずり込まれる。

「このトレーニングは、本気でやってて、頭がおかしくなる気がしないか?あらゆる日常動作を、慣れによる自動化から切り離してることになるぞ」
(166ページ)

なにが「人間性」、人間らしさかなどということはたとえ言語化なんてできなくても、こうして生きている以上誰しも暗黙の内にわかっているものでは?などといった甘さなど、微塵も許さない。

 確かに、気持ち悪くも見えるかもしれないと、思った。人間は皆、赤ん坊のとき、日常動作を意識せずに行えるように脳に覚え込ませる。恒明がしている動作のコントロールは、それを、人間性の汎用プロトコルとは違うものだからと整理し直しているようなものだ。実際、やっていて果てしないのに、進歩を実感できることもない。人間が意識して覚えておける経験の量など軽く超えていて、無駄なことをしている思いにかられる作業だ。それでも、制御にしがみつきたい理由があった。
「おれは、肉体のあらゆる動作を客観化してコントロールしたいんだ。そうできたら、自分の心も人間性もコントロールできるようになる気がする」
(166ページ)

 

作中で描かれているのはダンスを人生の中心に置き、最も大事なことはダンスでしか伝えられないという父子の業でありつつ。
それを通じて大事なことを言葉あるいは小説の形で描き伝えることを選んだ業とその在り方が自然に重なり伝わってくる。

 

なお、作者はでこれほどまでダンスに、またダンスを通じた人間性の追究に懸けた人物に、こうも言わさている。

 人間性なんてものが、必死で表現するほどたいそうなものだろうかと、全身に言い表しようのない疲れが襲ってきた。そんなものを、つらい思いをして追いかける必要があるのだろうかと、一晩考えても答えは見つからなかった。
(200ページ)

「おれはさ。一生ダンサーでいいと思ってた。誰よりうまく踊れたら、それだけで生きていけると思ってた」
 だが、本当は、それで乗り越えられるものは限られているのだ。たとえば、介護の問題はなにひとつ解決しない。父は50年踊り続けたのに、認知症の進行を止めることすらできない。人生を捧げたはずのダンスが、何の役にも立たないという、当たり前のことを受け入れられない。
「助けてくれ。踊っても、何も変わらないんだ」」
(206ページ)

 

作中では「ダンスとは何か」という定義、本質を突き詰め「「距離」と「速度」」という一つの解を導き(小説において主題とするテーマの「定義」を作中において探り、提示する手法は野崎まどの十八番であるけれど、その軽やかな機知で鮮やかにパッと提示して見せるその在り方と、一歩一歩踏みしめ螺旋のように堀り進め探る対照的な在り方が面白くもあると改めて思う)、それを元に多くを展開し提示していく。


もし同様に「言葉」とは、あるいは「小説とは何か」という定義、本質を問うたなら、どのような解が提示され得るのだろうとも思いもした。


なお、卓抜な答えの一つとしては、北村薫先生による

「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」

がある。

ただ、書き手そして読み手の数だけ、そのあるべき答えはあるだろうとも思う。

 

ところで、護堂恒明や護堂森が作中で打ちのめされたように人間はしばしば例えば怪我や病気や老化や他諸々により、生涯をかけ見出し(まず、そこで何らかを見出し得ること自体、その時点で極めて稀な幸運と努力の賜でもあるだろう)、そして懸けてきた自らの人間性の精髄ともいうべきものを決定的に損なわれたり、不可逆的に喪失してしまう。

そして何より、誰にでも訪れる死が諸々を奪い去っていく。

護堂恒明の(そして作品の)「普通の人間が、頭がおかしく」なるような執拗な探究、その動機はそれへの抗議であるのかもしれないとも思う。

 

それにしても『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』とは見事な題だとも思う。
ここまでも重ねて書いたように長谷敏司作品の最大の魅力は執拗に問いを重ねに重ねていくこと、その過程及びそれによって明らかになり輪郭を見せてくる構造、ルール、仕組み……即ちプロトコル(手続き)であり、その問いはいつもヒューマニティ(人間性)とは何であるかということに向けられ続けてきていたから。

 

この作品及び各作品のいずれでも一読すれば明らかなように、問いを重ねに重ねていく歩みはあまりに過酷で果てしなく、何か得られるもの得られたものがあるかも判然としない荒野のようにも思える。

しかし例えば「荒れ野の楽園」と題された『円環少女』最終巻で武原仁は

「世界はもはや誰にとっても《地獄》ではない」

円環少女(13)荒れ野の楽園』p466

と言ってみせ。

例えば『あなたのための物語』冒頭、そして最後の一文と『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』最後の一文そして以下のくだりを引き比べる時、確かにその歩みは前進であり、かけがえのない価値に輝くものなのだろうと思うこともできる。

 どうしようもない現実に、届く力がダンスにはある。なぜなら、死という、最悪の現実にとらえられた父の身体が、まだこの身体は護堂森のままだとメッセージを発しているのだ。身体性から芽吹いた強固なプロトコルの上に乗っているから、死によってすらメッセージが止まらない。死人からは、言葉は発せられず音楽も止まり、絵が描かれもしない。だが、それでも、肉体は存在してメッセージを発し続ける。死によってすら、止まらないのは、身体表現だけなのだ。その確かさが、恒明を絶望から救い、彼ら父子を、人生をかけて追いかけるほど魅了した。
「親父、聞いてくれよ。おれたちは、本当に、ものすごいものと繫がっているんだ」
 得体の知れない激情が胸からのぼってきて、歯を食いしばる。顔がこわばって、どうしようもない。思い出が、とめどなくあふれ出してきた。父と一緒だった記憶と、それに紐づく感情が、肺を満たし気管を満たし、恒明を溺れさせながら口より水位を上げて鼻をもふさいだ。

(318ページ)

護堂恒明はダンス、身体表現に人生を懸ける/懸けた人間だから「死によってすら、止まらない」確かさ、価値を「身体表現」に見い出している。

彼と同じくらいの執念と力をもって荒野の歩む者なら、その人が人生を懸けたものに同じような確かさ、価値を見出し得ることもあり得るのかもしれない。そんな希望を抱き得るのかもしれないとも思う。

なお、その上で人が荒野を渡ることについてこうしたくだりがあることも、大きく注目すべきとも思える。

「論文みたいに、荒野に、誰でも通れる再現性がある道路を敷くのは、まだ高すぎる目標かもな。ただ、荒野を渡り切る旅人を、まずひとり出したい。世界にまだないものをかたちにしたいなら、どんなに無謀でも荒野を踏み越えるくらいの覚悟がいるさ」
 谷口がどうしてその荒野を渡りたくなったのか、今さらながら疑問に思えた。どれだけ自分が生身の人間に興味がなかったのか、驚くほどだった。
(130ページ)

 

過去作品、例えば『円環少女』『BEALTESS』『ストライク・フォール』(の既刊)『My Humanity』『あなたのための物語』等々がいずれもそうなっているように、これからも幾度も読み直し付き合っていく小説になるのだろうとも思う。

 

 

↑10/20追加。いろいろ思いついたことを思いついたままに並べて……後でなんかいい感じにまとめられたら良いのだけど。