宮内悠介『国歌を作った男』&『ラウリ・クースクを探して』感想

宮内悠介のノンシリーズ短編集『国歌を作った男』読んだ。

とても面白かったもの(「料理魔事件」「国歌を作った男」)、個人的に身につまされずにはいられなかったもの(「夢・を・殺す」「三つの月」)、色々と思うことが多かったもの(「パニック------一九六五年のSNS」)と盛りだくさんの13篇。

 

以下、それぞれ感想。

 

■「料理魔事件」

最初の「ジャンク」に引き続き「うんうん、さりげなさを装いつつ別にさりげなくはない、でも別にさりげなさを本気で目指していなさそうな描写に味があるよな、たとえば

「その警官の一人が、一瞬だけ表情をやわらげ、ぽん、とわたしの肩を叩き、ふたたび険しい顔つきをして現場に向かっていったのだった」

のくだりとか」と思って読み進めていたら。
「うんうん、例えばこれ……はさすがに引っかかりすぎるな?」というくだりがあり。案の定、そこがある種事件の解明の鍵ではあったわけだけれど。

この作品の肝は、そこからの二転三転にこそあるわけで、その引っ掛かりはきっとまさに「引っ掛かりを覚えてほしい」ということでそこにそう置かれている。
だからきっと、ある意味作者が用意したもてなしにとても素直に応じた作品の楽しみ方をしたのだと思う。

そして、大いに楽しめた。面白かった。

 

■「国歌を作った男」

「これ、あえてコンシューマーのRPGからズラした形で描いてあるけど、発想の元はドラクエとFFのどっちかな?あるいは大穴だか対抗として、東方というかZUNという筋もあるのかな……?あと勿論『Ultima Onlineウルティマオンライン)』あたりも色々連想されるけど」

と読みながら思っていたけど、後書きでその答えも示されていた。

 

最後に作中でもはっきり書かれている通り「陰画としてのアメリカ」を描いてみせた作品なのかとも思う。

ちょうどこの後『ラウリ・クースクを探して』を読もうと思っていた所なので、この短編が「その原型」と「あとがき」で言及されていたのはかなり楽しみ。

 

 

■「夢・を・殺す」「三つの月」

個人的に身につまされずにはいられないというか、一応(携帯コンテンツ業界という世界で)小さなベンチャー企業の創業者・代表というやつを社会に出た時からずっと続けてきた(経営はできないし全くやりたくなかったからずっと人任せなので、経営はほぼ全くしてきていないけど)経験から、なんか色々と色々と色んなことを思わされた短編。それらはちょっと、詳細は言葉にしづらいところもある。
「三つの月」は自分に限らず、精神科への通院歴がある人ならなんというかある種身近?に感じざるを得ないところが大いにある作品かもしれないというか、おそらくそういう小説だろうなあ、と。

 

■「パニック------一九六五年のSNS

まったく一切隠す気なしにtwitterをモデルにした話だから、いわゆるツイ廃の一人?としては色々と考えさせられずにはいられなかったのと。

「あとがき」にはっきり

「ラストには米澤穂信さんの『さよなら妖精』の影響がある」

と書いてあるけれど、個人的には『さよなら妖精』の登場人物・太刀洗万智を主人公にした〈ベルーフ〉シリーズ、特にその第一作『王とサーカス』をより一層強く自然と連想させられたし、その連想はきっと、自分ならずとも(『さよなら妖精』と)『王とサーカス』既読者なら割と当然のことではないだろうかとも思った。

 

※6/21追記

■『ラウリ・クースクを探して』感想

先に触れた表題作「国歌を作った男」がこの『ラウリ・クースクを探して』の原型だということで、さっそくこちらも読んでみた。

まずとても面白く、感心もしたのはこの作品を貫く「当事者性」への真摯さについて。

西:当事者性の問題って最近、よく言われますよね。「日本人の作家が、エストニア人の話を書いていいのか?」というような。もちろん私は書いていいと思うし、大切なのは「どう書くか」ですよね。逆に「当事者だから書いていい」というのも違うんじゃないか。例えば私の場合であれば、短編で乳がん患者のことを書きましたが、自分が乳がんの当事者だからといって全ての同じ属性の人のことを語る権利を得たわけではない。同じ当事者であっても一人一人感じることは違うということを忘れてはいけないし、そもそも作家って自分が主導権を握るのではなくて、物語が要請してくるものを書くべきなのではないかと思うんです。と言いつつ今、そういうことを宮内さんに聞こうとしちゃってるんですけど(笑)。

宮内:日本人である私がエストニア人を書くことについては、細心の注意を払わなければいけないとは思っていました。ただ、先ほど西さんに言及していただいた『あとは野となれ大和撫子』を書いた時に、主人公を日系の女性にしたんですね。その選択が、日本人である自分が海外を舞台に書くことに対する言い訳っぽいな、と後になって感じたんです。それもあって今回は、日本人ではなくエストニア人の男性を主人公にしたんです。

西:言い訳っぽい、とおっしゃる宮内さんはすごく公正な方だなって思います。

宮内:今回ラッキーだったのは、作中のラウリと同い年ぐらいのエストニア人の方に発表前の原稿を読んでもらうことができたんですよね。その方にいろいろとツッコミを入れていただけたおかげで、リアリティを底上げすることができました。

西:例えば今ロシアがウクライナを侵攻していますが、国のせいで運命を変えられたという人は、世界中にたくさんいる。ラウリのような人は一人じゃないんだ、たくさんいるんだ、と改めて感じることができました。

宮内:あまり時勢とはリンクさせたくないんですけれども、今回は避けられないところがありました。エストニアはロシアの隣国ですから、次は自分たちの番ではないかと恐れている。その現実は、無視できるものではないとは思います。

上記対談でも引用した部分以外にも更に触れている話でもある。

更に言えば宮内さんが「パニック------一九六五年のSNS」を書き、「あとがき」で米澤穂信さよなら妖精』について触れていることからも「当事者性」については深く考え抜いて書かれた作品だというのは読んでいてひしひしと伝わってきた。

そのことがまず一つ、『ラウリ・クースクを探して』の大きな魅力だと思う。

 

また、これも上記インタビューで思いっきり触れられている話なのだけれども。作者が原型だという「国歌を作った男」が主人公を通じて「陰画としてのアメリカ」を描いたように、こちらではラウリ・クースクという架空の人間を実在の人間のごとく可能な限り真摯に描き出すことによって、陰画というかある種あぶり出しのようにして著者自身を描いているような趣があり、その面でもとても面白かった。

それと(やはりこちらもインタビュー中で触れられている話なのだけれど)エストニアを真摯に描き出すことは、現在と近未来を思えば決して他人事とは思っていられない、現在と近未来の日本をやはりある種のあぶり出しのようにして描くことにも繋がっているかとも思う。

 

その上で、エストニアの独立と今の歴史を通じて描き出されるブロックチェーン技術の意義や、データとしての国家と国民のアイデンティティ、データによる「不死」という概念も新鮮に面白かった。

最後に、ある人物の素性と抱えていた秘密を巡るミステリ的な仕掛けと興趣も、途中であ、これは……とどちらにも気づけたこともあり、色々と楽しめた。

そんなこんなで、色々と面白い、いい作品だった。