PCゲーム(十八歳未満禁止)のネタバレ感想。
構造的に非常に面白かったのと、やたらと時間がかかったので、メモ程度だけれど一応何か残しておいてみよう、ということで。
ゲームの概略は製作メーカー「TYPE-MOON」のページで。
なお、ネタバレ満載なので、とにもかくにも両作品をクリアした方以外は絶対に見ない方が無難。
『Fate/stay night』と『Fate/hollow ataraxia』の対称構造〜衛宮士郎の"ユメ"(理想)と言峰綺礼の"肯定"
『Fate/stay night』と『Fate/hollow ataraxia』は、物語の構造が見事な対称構造を示していて楽しい。
『Fate/hollow ataraxia』のストーリー全体をステンドグラスのモザイク画に象徴させているのも見事。
『Fate/stay night』は、
◎「Fate」
◎「Unlimited Blade Works」
◎「Heaven's Feel」
でそれぞれ、主人公・衛宮士郎に関わりの深い人物に焦点を当てて物語を進めることで、ただ主人公を深く掘り下げるのに比べ、より多面的かつ重層的に一つのテーマを描き出した、構造として面白い作品だった。
つまり、『Fate/stay night』は、衛宮士郎の"ユメ"(理想)の物語であり、主人公は衛宮士郎という人物というよりも、彼が衛宮切嗣の憧れを受け継ぎ、自らのものとしたその"ユメ"(理想)のように思える(後に詳述)。
そして、その手法が、『Fate/hollow ataraxia』では更に徹底されている。
『Fate/stay night』が衛宮士郎の"ユメ"(理想)の話であるのに対し、『Fate/hollow ataraxia』は言峰綺礼の託した"肯定"の意志の話。
即ち、主人公はアンリ・マユでもバゼットでもカレンでも、無論、衛宮士郎でもなく、言峰綺礼に深く関わる者たちがその行き着くべき地点を指し示すことになる、彼の遺した"肯定"の意志だということ。あえて今回の物語の中心である人物を意図的に直接描かず、その周辺を渦のようにぐるりぐるりと描いて炙り出す手法が明らかに取られていて、しかも相当成功---描かれているテーマの深さだとか、読者がどの程度共感するかといった問題はともかく、手法として、構成の美しさとして---していると思う。
カレンの言葉を借りるなら、『Fate/stay night』では「世界を愛しながら憎む」"ユメ"(理想)が描かれ、『Fate/hollow ataraxia』では「世界を憎しみながら愛する」意志について語られる。
二つの物語は「決定的に違っていながら、ただ順序が逆なだけ」なのであり、『Fate/stay night』と『Fate/hollow ataraxia』が相互に絡み合って一つの物語を為す様はこの作者が大好きな"螺旋"(そのこだわりはきっと、DNAの二重螺旋構造からだと思う)を描く塔のようにも見える。
『Fate/stay night』『Fate/hollow ataraxia』の構造図式化
螺旋を図式化するのは面倒なので、より単純に書くと、
衛宮切嗣 | (召喚⇒) | セイバー 星の願いを集めた聖剣を振るい、"すべて遠き理想郷"を求める存在。 士郎が追い求める"ユメ"の一つの理想形。 |
言峰綺礼 の"肯定" |
|
衛宮士郎 が受け継いだ "ユメ"(理想) |
アンリ・マユ 人間(せかい)全てを憎む存在。 それをも"肯定"することが言峰綺礼の全存在を賭けた問いかけの一つの解答。 衛宮士郎が衛宮切嗣の"息子"であるように、いわば言峰綺礼の"息子"にあたる存在。 |
|||
アーチャー 「少年→青年」。 士郎とその"ユメ"の成れの果て。 "ユメ"の一つの結末。 |
カレン・オルテンシア 「親→娘」。 言峰綺礼の"肯定"という業を継ぎ、その先へと歩む存在。 |
|||
間桐桜 あまりにささやかで、愚かでもある一つの願い。 士郎の"ユメ"のもう一つの結末。 事件の最終的解決の鍵。 |
バゼット・フラガ・マクレミッツ 自らに失望を重ねつつも(自ら失望を再生産させ続けつつ)、努力を止めることができず、"醜く"あがく存在。 "肯定"したい、されたいというもう一つの意志のカタチ。 事件の最終的解決の鍵。 |
『Fate/stay night』の構造
《セイバー》
⇒"正義の味方"の汎世界的な象徴。
人の"ユメ"=幻想を束ねて光とする剣を持ち、究極の理想(全て遠き理想郷)を追い求める、衛宮士郎が目指した"正義"の一つの理想型。
◎「Fate」
セイバールートTRUEで、一人の少女が描いたユメは、騎士王の伝説として完璧な完結を迎える。
衛宮士郎はそこに、自らのユメの未来を重ね描くことになる。
《アーチャー(英霊エミヤ)》
⇒自らの描く理想の"成れの果て"。
セイバールートTRUE(もしくはそれに類似した第五次聖杯戦争の結末)を経た士郎が行き着いてしまった、磨耗しきり、絶望の中に見失われた理想。
①マルティーンの切り裂いたマント(=聖骸布)を象徴として纏い、
②全ての人のために自らを犠牲にして行動し、
③「ただの一度も理解され」ず、
④最期は周囲の罪を背負って磔になり、
⑤死後は人ならざるもの(⇒英霊)として現れる、
というキャラクターは、イエス・キリストの暗喩か。
◎Unlimited Blade Works
この物語は、アーチャーと士郎の呪文の違いに集約される。
衛宮士郎は、ユメが何をもたらすか、何に行き着くかを問わず、自らがかつて美しいと思い、今もその美しさを求め続けるユメを掲げ続けることこそ、己の唯一の道と思い定める。
この物語は、アーチャーと士郎の呪文の違いに集約される。
※士郎の呪文中、
「waiting for one's arrival」の「one」とは何を指すのか、
ということに確信を持てなかったけれど、今回、「天の逆月」の次の下りで明らかになった。「それが可(ぜん)でも不可(あく)でも構わない。
そもそも現在を走る生き物に判断など下せない。
全ての生命は。
後に続くものたちに価値を認めてもらうために、報酬もなく走り抜けるのだ」即ち、"one"とは、"後に続くものたち"全てを指すのだろう。
ともあれ、衛宮士郎は、ユメが何をもたらすか、何に行き着くかを問わず、自らがかつて美しいと思い、今もその美しさを求め続けるユメを掲げ続けることこそ、己の唯一の道と思い定める。
ユメ=正義は、それを抱くもの自身がその可(ぜん)不可(あく)を判断し得るものでなく、今を生きるものはただ、信じ走る他はないのだ、という一つの結論。
勿論、客観的にいえば傍迷惑な結論で、目新しさもない。ただ、それを《明らかに分かった上で》提示しているところが面白い。
「善(ぜん)」・「悪(あく)」と普通書くべきところにあえて「可」・「不可」と書いてルビをあてているのは、結果としてどういう事態を招いたか」という意味合いを、価値判断の言葉である「善悪」の上に重ねるため。また、この話題については次のように明確にそれについて書かれた下りもある。「誰もが夢見、結局、その偽善こそが悪だと切り捨てる理想の姿。その愚直さに---一度ぐらいは、憧れた事があっただろう」
※こうした、"《それでも》求めずにはいられない"という姿勢、大前提にきちんとした《認識》を置いた上での押さえきれない渇望というのは、願いの在り方として最も共感できるものだと思う。
《間桐桜》
⇒"正義"を振り捨ててでも守るべき、ささやかな願い。
自然な個人の欲望と自我/自愛(エゴ)と愚かさ。
◎Heaven's Feel
「Heaven's Feel」の物語は、「Unlimited Blade Works」でアーチャーが得た"答え"とは異なる、衛宮士郎が行き着いた一つの解答。
衛宮切嗣の憧れを受け継いだ、あまりにも愚直なユメの、一つの結末であり、冬木市の聖杯戦争の根本的な解決ともなる。
『Fate/hollow ataraxia』の構造
《アンリ・マユ》
⇒言峰綺礼が見出せなかった、"生"の意義の託し先。
彼はこの、人間(せかい)全てを憎む存在、彼は存在自体が"肯定"と対極であるモノの生誕を祝福することをこそ、自らの証明としようとした。
いわば、言峰綺礼の行き着いた一つの答えであり、彼の意志の具現、衛宮切嗣にとっての衛宮士郎同様、その愛し子ともいえる存在。
①人々の全ての罪を代わって背負い、
②マグダラのマリアの聖骸布に選ばれた聖女=カレンに導かれ、付き添われ、
③彼女によって、歌うように「貴方、ロックスターみたい」と---"ジーザス・クライスト=スーパースター"みたいだと---評される。
なお、ロックスター⇒『ジーザス・クライスト=スーパースター』の連想は相当飛躍があるが、作品中の以下の部分が、あのロックミュージカルの歌詞を連想させもすると思う。
「仮に------神の如き絶対者としての善がいるのなら、そいつはこの時代に召還されて何をするか。 容認するか、擁護するか。 容認するのなら滅亡を。擁護するのなら傍観を。」 |
「そうだな。今は己を許すのではなく、私という人間を容認した理由(ワケ)を知りたい。 私に、もし自分の人生があるのなら。残る全ての時間を、答えを得る為に使おうと思っている」 「けど、貴方の疑問に答えられる人はいないのでしょう?」 「そうだな。まだ答えを出せるモノは生まれていない。いつか、その機会が訪れるといいのだが」 「フォレスト」 |
《カレン・アルテンシア》
⇒言峰綺礼の実の娘。彼の残した系譜。
綺礼(キレイ)→カレン(可憐)。
アンリ・マユの"マユ"を精神(こころ)を包む"繭"に重ねる等、作者に特徴的な愉快な言葉遊び。
自らを虐げ、利用し、その肉体を傷つけ尽くす世界に対して、罵倒を連ね、冷ややかに睨みつつ、心から認め、肯定する存在。
人の欲を暴き、唆す悪魔を"優しい"といい、自らも人の傷痕を切開することを何より好む、疑いなく父の性向を継いだ娘。
父が完璧な神父であり、最も忠実な神の使徒たる"代行者"となったように、完璧な聖女である彼女は、キリスト教の歴史の中で"使徒の中の使徒"と呼ばれる「マグダラのマリア」の聖骸布に選ばれる。
少年だった衛宮士郎に対し、英霊・エミヤはその行き着く果て。一方、大人だった言峰綺礼に対し、少女であるカレンは言峰が遺したモノを導くことで、その道のあるべき続きを歩む。
なお、「カレンⅤ」の「別に。ただ、貴方の子でも授かれればいいと思っただけです」は、いわば彼女の父と母の辿った道の再現を示唆するもので、そうした重なる過程を踏んだ上で、カレンはその先へと歩んで行く。
《バゼット・フラガ・マクレミッツ》
⇒言峰に呼ばれ、言峰に頼り、言峰に謀られた女性。
自らに失望を重ねつつも(自ら失望を再生産させ続けつつ)、努力を止めることのできず、"醜く"あがく存在。
『Fate/hollow ataraxia』は、言峰がその存在を託そうとしたアンリ・マユが、彼の系譜たるカレンを導きの星として、歪んだ聖杯となった自らのもたらした、繰り返される四日間のユメに幕を下ろす物語。
そして、士郎が万人のための"正義"という、抱き続けてきたユメを捨てたのが、ただ一人、間桐桜の愚かでささやかな望みのためであったように、アンリ・マユが四日間のユメ、"ただ一度きりの、奇跡のような間違い"を終わらせたのは、バゼットの"醜い"あがきに、生きた明日を迎えさせ、続けさせるため。
大義や理想に対して、ごくごく個人的な欲望や願い。
事件を最終的に解決させる原因となったという最重要の点において、桜とバゼットは物語に対して同様の役割を担う。
なお、最後に聖杯の前に立ちふさがるところ、バゼッもラストにおいて、聖杯の一部ともなっているところなどに、意識的に付加された共通項が見られるようにも思う。
『スパイラル・ラダー』〜あるいは"言峰神父の家庭の事情"
物語のクライマックスである『スパイラル・ラダー』(意図的に『Fate/stay night』に同名の下りがある)は言峰綺礼との関係を中心に据えると、これってもう、「言峰神父の家庭の事情」というオハナシに。
実の娘と義理の息子の道行きを、そうはさせじと昔のオンナが待ち構え、ドラ息子の過去の所業のツケが回り、幸せ妬んで押し寄せる、不気味な不死身なケダモノの群れ。
"究極の少女趣味"を取り巻く人間模様は、昼メロも真っ青のドロドロの愛欲乱れる家族関係・・・なのか?
ここまでこんな言葉が似合わない一家も他にないが。
紫陽花と蝸牛
「カレンⅤ」で、
「オレは皮肉を込めて告げたのだ。
紫陽花の花。
葉の下でジクジクと蝸牛にたかられる姿は、オマエには相応しいと。
なのに、それを美しいとコイツは笑った」
という下りがあるが、ここの「蝸牛」のイメージは、おそらくブラウニングの「Pippa's Song」、上田敏が「春の朝(あした)」として翻訳した形で広く知られる詩からではないだろうか。
「Pippa's Song」
The year's at the spring,
And day's at the morn;
Morning's at seven;
The hill-side's dew-pearl'd;
The lark's on the wing;
The snail's on the thorn;
God's in His heaven--
All's right with the world !
「春の朝(あした)」
時は春、/日は朝、
朝は七時、片岡に露みちて、
揚雲雀なのりいで、/蝸牛枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。/なべて世は事も無し。
上田敏の訳ではただ「枝」と約される「thorn」には、(植物の)棘、茨、悩みの種といった意味がある。
即ち、蝸牛は「茨を這う」のである。
そして、「the crown og thorns」という言葉があり、それはキリストの茨の冠、転じて"苦難"一般を意味する。
その這い進む様は、まるでほとんど進んでなどいないようで、険しく辛いもの。
しかし、それでも、神は彼の天に在り、「世界は全て善し!」という、そここそが鮮やかである詩だと思う。
「メタ〜」とかなにかそういうの。
面倒なのでパス。