映画『すずめの戸締まり』ネタバレ感想

 

まっすぐで、まっとうで、とても良い映画と思う。
描くものが、描き方が真摯かつ明確。

※以下、映画の内容にいろいろ触れていくので、既に観た方のみに閲覧をお勧めします。

 

 

『すずめの戸締まり』は何を描いているか。

はっきりしている。
"震災の鎮魂"という話だ。
描くのは"場所の鎮魂"……かつて人とその思いで溢れ、今は廃れた場所たちの。

そして"その時"を前にその朝に、

おはよう。
おはよう。
いただきます!
いってきます。
ごちそうさま。
いってらっしゃい。
早く帰ってきてね!
気をつけていっておいで。
いってくるね!
いってきます。
いってらっしゃい。
いってきます。
いってきます。
いってきます!

(小説『すずめの戸締まり』p342-343)

行きて、そして帰ると当然に全く疑いなく思っていた人々、その少なからぬ数が帰れず、また、体が死んだり傷ついたりしなかったとしても、昨日まで、今日も、そして明日からも生きていく場所はもう昨日までの場所ではない、そんな場所の。

 

この映画は鈴芽と草太が九州は宮崎から旅立って日本を縦断し東北は宮城まで至るロードムービーのような色合いも持っている中、行く先々で確かにその土地土地にしっかりと立つ人々の生活が力強く描かれ続けていく。その描写の数々も、そこに繋がっている。

 

そして、その時を経てなお"偶然に"生き延びた人間を救い得るのは、(多くの人に支えられたり思い思われたりは勿論尊くも大切なことでありつつ、それでも)まず他の誰でもなく、その後それでも生きて年月を重ねたその人自身とも描かれる。ある種、とても誠実な姿勢と思う。

「朝が来て、また夜が来て、それを何度も繰り返して、あなたは光の中で大人になっていく。必ずそうなるの。それはちゃんと、決まっていることなの。誰にも邪魔なんて出来ない。この先に何が置きたとしても、誰も、すずめの邪魔なんて出来ないの」
(中略)
「あなたは、光の中で大人になっていく」

(p356)

※11/13追記

「すずめの戸締まり、道中の千果とかルミが別れ際にハグしてくれてたのが印象的だったけど、あれって「今の自分」は、他の人も抱きしめてくれる、ってことなんだな。過去は自分が抱きしめてあげるしかないけども、っていう」

という他の人の感想を見かけた。

きっと、その通りだと思う。

※追記終わり。

 

それに人々の暮らしを無惨に壊した自然の猛威には、別に悪意なんてものがあるわけではない。
仮にもし、意思なき現象でなくそこに天の意思なり運命なりなんなりが関わっているのだとしても、それは文字通り人ならざるものとの間の不幸なすれ違いだったのかもしれない。

「だいじんはね------すずめの子には なれなかった」
(中略)
「すずめのてで もとにもどして」

(p337-338)

ひとつとても大事なことなのだけど。

ダイジンは悪意をもって厄災を撒き散らす存在「ではない」。

当人的には

”要石としての代替わりは済ませたよ、役目は果たしたよ、「うちの子になる?」って言ってもらえたから、だからダイジンは言われた通りすずめの子になって、これから幸せに暮らすんだよ。仕方ないから引き継ぎとして、開きそうな後ろ戸に導いてやるくらいはするよ、ねえ、早く要石引き継いだ自覚をもって、仕事して。役目でしょ”

という感覚?なのかなと思う。

人と感覚も知性も倫理もおよそ異なるであろうダイジン------「大臣」でありそれに「大神」でもある存在なので、あまり人間的な思考や感情に引き寄せて捉え過ぎるのもまずいのだろうけれど。

 


また、仮に多くの人々の中で、その内の限られた誰かが自然や運命の猛威に向き合い、鎮める役目を負うのだとしても。
その人は非人間じみた、使命に殉ずるブリキの英雄である必要はない。むしろ、そうでなく人間であるのがいい。

「なんと……!」という台詞を繰り返し、親しみ深く魅力的に発してみせた宗像草太役松村北斗さんは特にその面において優れた演技をみせていたと思う。
ついつい、果たすべき使命と関係ない、幼い子どもの世話に手こずる鈴芽をみかねて彼らと遊んでやるとか、そういった行動を自然にとってしまう。
「閉じ師」の使命を果たす一方、これから人生を生きていく子どもたちを教える教職につくべく、しっかりと身の回りを整え地道に懸命に励む生活を続けていた様子。
悪友・芹澤(ここぞ、という時にはやはりまた神木隆之介に頼る新海誠。いいと思う)の向ける思いや振る舞いから察せられる、年相応の青年としての人間臭さとだからこその魅力。

そういう人間だと描くからこそ、

消えたくない。
もっと生きたい。
死ぬのが怖い。
生きたい。
生きたい。
行きたい。
もっと------……

(p332-333)

という叫びに命が宿るのだし。

「------命がかりそめだと知っています」
(中略)
「死は常に隣にあると分かっています。それでも私たちは願ってしまう。いま一年いま一日、いまもう一時だけでも、私たちは永らえたい!」

(p343)

という祝詞にも、あるべき言霊が宿り得たのだろうと思う。


そんな流れの上で描かれた「行きて帰りし物語」という王道。
その在り方を、いつもの見事な背景美術やキャラクターの動きや仕草の作画ががっちり支える。
なんとも、まっすぐで、まっとうで、とても良い映画だと思えた。

 


ところで小説版よりも、映画で観ると以下の二箇所がある種の反復であり対比なのが分かりやすい。

1:まず、草太が自分こそがダイジンに代わる要石とされてしまっていたのだと気づく場面。

「ようやくわかった-----今まで気づかなかった-----気づきたくなかった------」
(p206)

2:次に、常世で鈴芽が幼い日の自分に会う場面。

 ------そうか、と私は思う。
 やっと分かった、と私は思った。
 知りたくなかった。でもずっと知りたかった。
 あれはお母さんだとずっと思っていた。いつかまた会えると、心のどこかで信じていた。同時に、もう会えないことも本当はずっと知っていた。
(p350)

とっくに気づいて/知っていながら、気づきたく/知りたくなかったことという意味で反復。
それに向き合い、諦め歩みを止める場面と、歩ませるべく抱きしめ送り出す場面という意味で対比。


なお前者の少し前、小説では

 草太さんにぎゅっと顔を寄せ、私には聞き取れない言葉で何かを短く囁く

(p205)

と書かれていたくだり、映画版では一応小声ではあるけどしっかり聞き取れるようちゃんと発声されていたの、媒体の違いによる演出の違いでもあるし、ある種のサービス精神かとも思えた。
事前に小説版を読んできて頂いていた皆さん。きっと分かっていたかと思いますが、はい、答え合わせです、という。

 

ちなみに類似であり対比である関係としては。

草太は傷つき溢れてはいけないものが溢れそうになる土地を閉じて回る「閉じ師」であり、一方で子どもを育て送り出す教師として生きたいとも思う青年で。

鈴芽は亡くなった母とも、共にに暮らす叔母・環とも同じく、傷ついた人を看て回復したら送り返す看護師を志望していて、草太と最初に関わる際に関わる理由として掲げてみせたのもそのことだったということもある。

 

 

なお、ここまで『すずめの戸締まり』が「どのような作品であるか」について書いてきたけど。一方で「なにでは無いか」も重要だとも思う。

"恋か世界か選べ/選んだ"

でも、

"恋が世界を救う/救った"でもない。

どちらでもない、そういうのじゃないんだよ、というのは『すずめの戸締まり』という作品の理解において大事なことかもしれない。

 

例えば岩戸鈴芽が"誰より好きで、大事で、何よりその人を喪うのが怖いという人にも出会う"というのも……常世で出会った幼い日の鈴芽が、今は世界が黒一色に塗り潰され先など何もないように思えても"それでも”多くのものに出会い大人になっていく、必ずそうなっていく中で、あくまで草太との出会いも恋愛もその一部なのだ、という。

 

作品外の話持ち出すのは作品解釈として微妙でもあるのだけど、パンフレットで新海誠監督は

「今回は恋愛ではない映画にしたいというのがありました」

とまでコメントしている。

勿論、別にこのコメントがなくとも素直に作品を観てもそう思えるけれども。
ともあれ、これだけ言っているんだから、そこは監督の言葉を汲んで作品に接するというのも良いのでは。

ところでそれはそれとして(?)新海誠神木隆之介を深く愛しているし、神木隆之介もまたその愛に見事に応える、美しい光景だ……とは『すずめの戸締まり』観ていてつい思えたりはしたな……。

 

そんな事情も踏まえつつ、序盤、出会いの場面での「かんたん作画」とその用い方、とても好きだなと思う。

劇場映画で、その大事な大事な主役二人の出会いの場面で、あえて繰り出している「かんたん作画」なんだ。

もちろん、後々との落差が素晴らしく面白いという話でもある。

またこの作品において鈴芽と草太は旅路を共にし大きく心を通わせてはいるものの、その関係が戦友、相棒のようなものなのか、次第に恋愛になっていきもするのかも含め、まだまだこれから、二人の物語はまだまだ始まったばかりなのだ、ということでもある。

 

■追記(2022/11/12)

芹澤朋也というキャラクターについて。

※ちなみに「6:(サダイジンと共に)鈴芽と環の和解の実質、お膳立てをする」についてはこの感想でこの後「余談」として書いている中でいろいろ書いています。

 

なお「3:鈴芽や環たち事態の中で動く者や事態を「外」から客観的に観る視点も担う」という点において一つ、極めて重要なのはこちらの記事

で言及されている芹澤の「このへんって、こんなに綺麗な場所だったんだな」という感想と鈴芽の反発かと思う。

 『すずめ』を観たとき、「これが映像化されるのか」と最も衝撃を受けたのは、その戦いのシーンではなく(エヴァ使徒との戦いを思い出すような戦闘で、壮大で良かったですが)、新海誠の代名詞のひとつである、美麗な背景に対してでした。被災地の今が、「美しく」描かれるのです。

 草太の親友の芹澤の運転で向かう被災地の旅の途中、地震を感じ、すずめは芹澤に車を止めるよう言います。扉が開いてしまっている場所があるのではないか、ミミズがいるのではないか、と考えたからです。

 画面の情報から判断すると、その場所は福島県双葉町近辺です。『すずめ』は、廃墟を探し、悼む物語ですが、そこでは町全体が廃墟になっています。廃墟と地震が合わさる場所には必ずミミズがいた本作において、ここにはいません。この展開にも震えました。ここではただ単に、地震が起こっているのです。『すずめ』は、ここにおいて現実とシンクロします。原発事故の影響で住むことができなくなり、今でも小さな地震に見舞われる場所は、今現在、リアルタイムで、私達の現実に存在しているからです。

 すずめと芹澤は、丘の上から自然に覆われたその町の風景を眺めます。誰もいなくなった廃墟の町と海を眺めたとき、芹澤は「このへんって、こんなに綺麗な場所だったんだな」と語ります。それに対して、双葉市の住人ではないですが東日本大震災の被災者であるすずめは、これのどこがきれいなのか、と呟くようにして反発します。すると、カメラが動き、今まで見えていなかった福島第一原発の姿が遠くにぼんやりと映り込むのです。

 このシーンにおいて、実景を美しく描くことに執念を燃やしてきた新海誠は、その美しさが孕む両義性に意識的になっています。誰かにとっての悲劇の地が、他の誰かにとっての美しさとして映りうるということ。その皮肉自体は、『君の名は。』でも語られていたものではありました。しかし、災害を忘却していた瀧を主人公としていたその作品においては、その部分はアイロニカルな印象よりもむしろ陶酔の気持ちをもたらしていました。

ここで鈴芽は「呟くようにして反発」しつつ、自分にとってのその風景の意味を言葉で芹澤に説明をしようとはしない。

言葉の説明などで簡単に埋まるような溝ではない、埋めてよい溝ではないからだろうと思う。

 

 

■追記(2022/11/14)

「閉じ師」について。

「ダイジン」について。

「戸締まり」について。

 

 

■余談

 

余談だけど鈴芽が回想する母に自分だけの椅子を作ってもらい贈られた温かな思い出。

あまりにも今期大好評放送中の大傑作TVアニメ、DIYこと

 

『Do It Yourself!! どぅー・いっと・ゆあせるふ』

でありすぎて、なんだかすこし、笑えてしまった。

なんせ、先程も書いたけどこれ「その時を経てなお"偶然に"生き延びた人間を救い得るのは、(多くの人に支えられたり思い思われたりは勿論尊くも大切なことでありつつ、それでも)まず他の誰でもなく、その後それでも生きて年月を重ねたその人自身とも描かれる」話であったわけで。

幼い鈴芽を救ったのは、そして救い得たのは、そこから年月を重ねた鈴芽自身だった。

すなわち、

なんだよ!!

 

……なお、このまま話を放り出すのは気がかりでもあるので更に付け加えると。

 

自分を救えるのは自分だけ、というのは"よし、がんばっていこう!"みたいな無責任なポジティブさでなく。

 

周りが善意をもって良くしてくれても、あるいは悪意や無関心を向けてきても、なんであれ抱え込まざるをえない屈託が、簡単に整理などできない思いがどうしたってあり。
そうするには必然的に多くの時間も要するだろうけど、最終的には自分で向き合うしか、自分で自分を救うしか無いのだ、というある種の諦念も多く滲んだ極めて誠実な認識であるのだと思う。

 

まず鈴芽が己の都合を身の安全を命さえも顧みず危地にためらわず、むしろ求めるように飛び込んでいくのは明らかにサバイバーズ・ギルトの現れだろう。それは数々の思い切りが良すぎる行動の端々からも伺えるし、その上で映画でも小説版でも草太の祖父と鈴芽の病室での会話の中で、強く滲み出ていることでもある。

また折に触れて滲ませるように、親を喪い叔母の環の世話になり多くの負担や心配をかけてしまっていること、そうでないと生きられなかった/生きられない自分にも大きな屈託を抱いている。

例えば小説版序盤、草太と出会う日の出かける前の朝の描写などはその滲ませ方がとても巧くもある。

鈴芽は「お天気お姉さん」をただなんとなく「ちょっと好き」なわけではなくて。

「雪国めいた肌の白さが、なんとなく北国の出身かなと思わせる」人が「イントネーションは完璧な標準語」で喋る様は、故郷・宮城を離れ九州・宮崎の叔母の家で暮らす自分と重なるから。

そこに叔母・環さんがかける「宮崎弁」は「ちょっと責めるような口調で」「私が勝手にそう感じるだけかもしれないけど」と響く。

お弁当を「忘れてしまう」こともそれで「すこしだけ解放感がある」ことも「Lサイズのランチボックスを、私は手渡される。それは今日もずっしりと重い」というのも、鈴芽の屈託の反映であり、それをかなりの程度自覚してもいる。

「環さんデート!?」という呼びかけも……「環さん」という他人行儀な呼び方、そして「デート!?」と盛り上がるさまは年頃の女子高生らしくそういう話題に目がない……というより、まだ自分も若かった身で4歳の姉の子を抱え、いわゆる結婚適齢期をその世話に追われつつ過ごしてきた叔母に向ける、自分の人生を生きて欲しい、そして自分が叔母のあるべき人生を奪ってしまっているという引け目を無くすことはできなくても(これまで重ねた過去はどうあっても変えられない)せめて薄めて欲しいという思いが強いだろう。

小説版ほどではなくとも、映画版においても学校で弁当を食べる場面などで、そうした微妙な感情はよく描かれてもいる。

 

一方の環さんも多くを抱えていることは、鈴芽・芹澤と共に三人で鈴芽の故郷へ向かう中、サダイジンに取り憑かれることで押し隠した思いを表に引きずり出されての叫びによく示されている。

そして"口に出してしまったそんな思いは嘘だ/偽りだ/間違いだ"と片付けるのでなく。

こうしっかりと受け止めることでこそ、人は自分から自分を救い得るのだと描かれているのだと思う。

鈴芽の側の描写も諸々繊細である中、

何本か混じった白髪に、私は初めて気づく。

あたりも、ベタではあるけど良い描写。

 

なお先だって「ダイジンは悪意をもって厄災を撒き散らす存在「ではない」」ということを解説したけれど。

ここで鈴芽が気づいたように、同様にサダイジンもまた「悪」なる存在ではない……むしろ、ありがたい神的存在であるというのも大事なところ。神意というのは単純には捉えがたいものだから。

ただ、これは映画版だけだと、やや伝わり難いことかもしれないとも少し思う。少し後の「ミミズ」に対するサダイジンの奮戦などから十分察せられることではありつつ。

それと旅路の途中での子守や、幼児のようなダイジンに翻弄されることで、これまで叔母に保護され(きっと幼い頃からいろいろ負い目を感じ大人しくは振る舞いつつも)振り回してきた鈴芽は、保護し振り回される立場も体験・体感できたことにもなる。そうしたことも踏まえた上での和解なのかなとも思う。

 

■与太話