映画『ブラック・スワン』 「My Little Princess」の意味合い

○映画『ブラック・スワン』感想「My Little Princess」の意味合いとラストの必然性


映画『ブラック・スワン』ではナタリー・ポートマン演じる主人公ニナが、白鳥・黒鳥の二役を演じるプレッシャー(特に演出家に黒鳥に駄目だしされたことと、いかにも黒鳥向きのライバルの出現)と、母親との確執で精神的に追い詰められ、現実と妄想が入り組んでいきます。


そこで気になった点が二点。
白鳥でリフトされる場と、黒鳥の見せ場のグランフェッテ。それぞれの場面での現実と妄想の境目です。
この日記ではその二点について考えていくとともに、例によってそこから作品全体の構造と焦点について、少し話を広げてみたいと思います。


また、その中で「大物コレオグラファー、ルロワが愛用する「My Little Princess」という呼び掛けが思わず苦笑してしまうような気障ったらしいだけのものでないのは勿論、「Swan Princess」と掛けただけのものでもない、この作品の締め括り方の必然に深く関わるものではないか」という話もします。


論点が散漫ですみませんが、以下、本論です。
作品のネタバレを多分に含みます。
それで構わない方のみ、数十行後からの本文を閲覧してください。
































○作品における現実と妄想の境目


[1]黒鳥のグランフェッテ


あれ、当然32回転であるべきですよね。
最大の見せ場ですから、踊りだしてからはずっと映像で回していましたけど、それが32回より随分少なかったように見えました(いい加減な記憶ですみません。本当は回っていたかも……)。


そこについて「それって故意の演出じゃないかな」、と。
つまり、直前に身体が変貌していく、実に衝撃的な場面があるわけですが、


「現実の舞台ではあそこで既に黒鳥は回り始めていて、観客の目にはその回転と共に変貌していくように観えたのでは」


と思うんです。
まぁ、それは見せ場とはいえ、単体の演出の話。
ただ、次の問題はそうではありません。



[2]白鳥のリフトでの落下


あの場面、パンフレットの解説(中村樹基(脚本家))によれば

「リリーの妨害だが、現実なのか妄想なのか判断がつきにくいものも多い。あくまでも私見だが、クラブからリリーとアパートに帰るシーンはニナの幻覚だろう。ニナの母がリリーのことを何も言わないし、リリーに視線も送らないからだ。また、ニナは本番の舞台で王子様のリフトから落ちてしまうのだが、リリーの策略の節が強い。なぜならその前のシーンでリリーが王子様の股間を触り、なにやらお願いをしていたからだ」

とあって。
前半は、理由も含め、自分が観ながら考えていたことと同じでした。


ただ、後半は「え、違うだろ」と。


まず、「バレエ全体と王子役舐めてませんか」と。


注目を浴びる新演出、新たなプリマのお披露目の「白鳥」で王子役という大役に選ばれた人間に、リフト落下なんて大失態を故意にやらせる?それはちょっとねぇ、と。


あと、あれだけ疑心暗鬼でパートナーを信頼していない相手では、リフトって相当難しいのでは。
映像でも、落下の少し前に王子役が「何やってるんだ、しっかりしろ!」という趣旨の声を掛けていたように思います。


次に、作品全体の中での在り方。
作品として、周り中が皆「まずバレエ第一の人」でもあれば「善意の人」でもあった方が面白いと思うんです。


ライバル・リリーは(ドラッグだのなんだのの一般倫理との兼ね合いはともかく)バレリーナとしては純粋に優れたものに賛嘆を隠せない、良い人だった。
全ては本当に言葉通り、善意だった。
なお、代役に乗り気だったのは、もしそれに乗り気になれないようなら、そんな人はそもそもバレリーナではきっとあり得ません。


大物コレオグラファー、ルロワは公私混同のエロ野郎ではなく、純粋に彼女の殻を破らせたいだけだった。
周りからそう見られ、汚名をかぶせられようとも構わないくらい、バレエに純粋な人間だった。
黒鳥のレッスンが始まってすぐの頃、他のダンサーを返して二人だけのレッスンを宣言した際、王子役に「お楽しみを」と皮肉られても気にしなかった。
そして、殻を破らない彼女に「僕が君を誘惑した。これじゃ逆だ」と吐き捨てることで発破を掛けていった。


要するに、ニナもその母も、バレエに全てを捧げ、その執着のあまりの言動や妄想であったように、彼等の周りにいた人々は皆(不摂生なリリーでさえ!)まずバレエのために在ろうとする人々だった。


その中で、他者の悪意など実はニナの脳内の妄想にしか無かった。
ニナの母が思わず「あなたには出来ない!」と繰り返してしまうのも、妊娠・出産でキャリアを断念した元ダンサーの過去と、密着して育った母娘ならではの仕方のない葛藤の結果だが、基本は何より娘を思う母だった。
初の大役を得た舞台で完璧な演技をしてのけた娘を、最高の感動を込めて見つめる瞳が、その本質を語っていたと思えます。


即ち、ルロワが幾度も語ったとおり、徹頭徹尾、ニナが抱えていたのは、ニナ自身の内面の問題だったのだ、と。


ルロワがニナに贈った「This is your moment.」という言葉。
「チャンスを掴むんだ!」とかなんとか訳されてしまっていたけど、これはもう、正にそのままであるべきだったのだと思えます。
そう考えた方が、この映画はより輝くものとなると思います。



○ラストの必然性について



ルロワは-----そしてバレリーナ達も------バレエにどこまでも真摯であり、そうであるあまり、時に「人間」として残酷な<時>と出会うのだと思えます。
人間としては世間並みの思いやりのある人格であっても、バレエの求める美の前にはそれは後回しとなる。


それを象徴するのがヴィノナ・ライダーが演じた、長らくルロワのミューズを務め、彼がMy Little Princess"と呼んでいたかつてのプリマ、ベスです。
ルロワが愛し、ニナが「完璧なバレリーナ」として憧れた彼女は(ルロワが考え、求める)バレエの美の前で<時>という残酷な刑罰の前に敗れ、退場を強制されます。
そして、バレリーナとしても人間としても、自ら堕ちていってしまう。


「完璧」もいつかは、<時>の前にその<完璧>を失うのですね。


舞台が終幕を迎え、ルロワは観客への挨拶を促し、偽りない満身の愛情と敬意を込めて(!)ニナに"My Little Princess"と呼び掛ける------そう、ニナは以前、ルロワがベスを"My Little Princess"と呼んでいたのが素敵だ、そう言える唯一の人だと扱っているのが素晴らしいのだと思い、リリーに呆れられたのでした。
「彼は誰にでもそう呼びかけるの。そう、いずれあなたにも」と。


ニナにとって、ベスは「完璧」の象徴でした。
その「完璧」は永遠のものであって欲しかった。

そうである筈です。


しかし、やはり"My Little Princess"はベスから新たなバレリーナに……自分に受け渡されてしまった。


ルロワに悪意はありません。
不誠実もない。
彼にあるのはただ、バレエへの誠実さだけ。
自らもバレエをもって"完璧"へと至ることに執念を燃やす者として、ニナはルロワを恨みも憎みもできない。
あまりにも、なぜ彼がそうであるのか、分かってしまえるから。


これ以上無い「完璧」を演じ、愛を求めた相手から"My Little Princess"と呼び掛けられた瞬間、ニナは将来に待つのは"完璧"を蝕む<時>との確実な敗北だけが待つ戦いなのだと悟ったのでしょう。
ニナの中では、そう捉えざるを得ない。
そういう筋立てになっています。


また、この映画はとても怖い映画で、なかでも一番恐ろしいのは「ニナの目からみた母の執着」でした。
観ていると、ニナを最も苦しめたのは、黒鳥という役やライバル、大きな舞台での初主演へのプレッシャーよりなにより、母との確執であったのだろうと思えます。
そして、ニナが母に投げた決別の言葉は「私はもう十二歳じゃないのよ!」でした。
これが、"My Little Princess"ではニナに跳ね返ってくるんですね。
いつまでも"Little"でなどいられる女性(勿論、女性に限りませんけど)なんて、いないんですから。
思わず苦笑してしまうような"My Little Princess"は単に"Swan Princess"と被るだけでなく、そういう意味でも考えぬかれたフレーズだと思えます。


それらを考えたとき、観客は「絶頂における死は、彼女にとって救いだったのかもしれない」と納得させられてしまう。
この映画はそういう作りになっていて、故に、あのラストは必然なんですね。
見事なものだと思います。


ところで、それはあくまで映画のメッセージであって、個人的な感覚なり感想なりはまた違いますけどね。
二度とあの"完璧"な演技は戻らないにせよ、あれだけ生々しく人間的に(寓意的にではなく鼓動が感じられるような生身の人間として)描かれたストーリーの主役には、"死"での終演はして欲しくなかったですね。正直。


山岸凉子『黒鳥』絡みの話


なお、余談として、『ブラック・スワン』は様々な意味で映画公式ブログでも紹介されている(2011年01月31日「もうひとつの傑作、「黒鳥 ブラック・スワン」」http://blog.livedoor.jp/fox_blackswan/?p=5山岸凉子の名作漫画『黒鳥』を連想させますが「どこにおいて最も異なるか」を紹介してみたいとも思います。

黒鳥―ブラック・スワン (白泉社文庫)

黒鳥―ブラック・スワン (白泉社文庫)


山岸先生の黒鳥の迫力を支えたのは、古来からの土地と民族の伝統と精霊に支えられ、悪意を放射する「呪い」でした。
一方、映画『ブラックスワン』では悪意の噴火は舞台裏で既に終わっています。
その結果、ニナは殺人を犯した自分はダンサーとしても人間としても"これで終わった"と思い込みます。
(ただ、この時もう、別の意味で「終わって」しまっていたんですけどね)


映画における黒鳥の迫力は、その絶望と、それ以上に、


"しかし、今この瞬間だけは完璧に!!"


という人生全てが収束し、その全てを賭けた、形容し難い思いの結晶でした。
"That's her morment"ですね。


その点において最も異なりもすれば、映画固有の美点となっているとも思えます。



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