フィラデルフィア物語〜名匠ジョージ・キューカーと愉快な名優たち

フィラデルフィア物語 スペシャル・エディション [DVD]

映画を観る前に持っていた基礎知識

キャサリン・ヘップバーンが女優生命を賭けて取り組み、大成功を収めた舞台の映画化です。
ヘップバーンの友人でもあった名映画監督ジョージ・キューカーが監督、ケーリー・グラントジェームズ・スチュアートという豪華キャストを揃え、万全の態勢で挑み、見事に大成功を収めた傑作。
そこらへんの事情は、映画サイト「素晴らしき哉、クラシック映画!」の「フィラデルフィア物語」にまとめられています。


ここで、ジョージ・キューカー監督といえば、後に、ジュディ・ガーランドが映画復帰の野心と希望の全てを賭けた名作『スタア誕生』(2006/1/23の日記に感想、名作ミュージカルとオードリー・ヘップバーンの魅力を見事に融合させてみせた希代の大傑作『マイ・フェア・レディ』(2006/3/9の日記に感想)を撮り、《全てはただ、グレタ・ガルボのために》といわんばかりの美しい映画『椿姫』を作り上げた名匠でもあrます。そもそも、このDVDを借りてきたのも、この監督の代表作をもっと観てみたくなった、というのが第一の理由でした。


なお、「素晴らしき哉、クラシック映画!」でも触れられているように、この舞台/映画は後にビング・クロスビーグレース・ケリーフランク・シナトラ主演で『上流社会』としてリメイクされますが、そちらもいい映画でした。それが、この映画を観ようと思った第二の理由(『上流社会』の見所------というか聴き所------は、なんといってもビング・クロスビーグレース・ケリーが二人の新婚旅行の回想シーンで歌う、コール・ポーターの名曲「True Love」でしょう)。


以下、その上での感想を。


冒頭の寸劇の素晴らしさ!


まず、冒頭のキャサリン・ヘップバーンが演じる上流階級の令嬢・トレイシーと、その夫・デクスター役のケーリー・グラントによるサイレントでの寸劇が、《映画》の魅力に溢れた見事な工夫であるのは誰もが認めるところでしょう。実にわずかな間で二人の性格と過去を描き出してしまう。

素直に荷物を渡すように見えて、いきなりそれをバン、と投げ出し「フンッ」と言わんばかりの表情を浮かべるヘップバーン。その上に、更に追い討ちの一撃でゴルフクラブをへし折ってしまう。
そして、そんな彼女の憤激に大人の余裕を持って応じ、優しくキスをする------ようにも見えたところで、思いっきり彼女を張り倒してしまうケーリー・グラント
もう、この時点で、映画の流れに引き込まれずにはいられません。


キャサリン・ヘップバーン〜《女神⇒女王⇒人間》という構図で描かれる魅力


ジョージ・キューカー監督作品であるからには、まず注目せずにはいられないのが、主演女優の描き方。

先に挙げた他の作品同様、本作においても、女優の魅力を活かすために、その役が抱えた課題とそれへ向き合う方向性を非常に非常に分かり易く明確に打ち出した上で、どこまでも細かく丁寧な工夫が重ねに重ねられています。


フィラデルフィア物語』では-----作品を観た誰しもが分かるように------冷酷で無情、人の弱さを決して許さない《女神》であり《女王》であったトレイシーが、他人の弱さも自分の脆さも認める、魅力ある《人間》になっていく過程が滑稽な中にも決して優雅さを失わずに描かれていきます。
型通りといえば型通りだが、これだけ徹底して《型通り》を見事に成し遂げられる監督は他にいないのでは。
全てが《あるべきところにある》ように思えるキューカーの描き出す世界は、《決して激しい個性を声高に謳わない》という、逆説的に強烈である信念を貫いた名匠だけが創り出せた、独自の魅力に溢れていると思えます。


この作品でいえば、例えば、ヘップバーンがケーリー・グラントに「人の弱さを認めない」欠点を責められた後で、実の父にも全く同じことを厳しくあげつらわれる場面がいい。冷然たる女神の眼に涙が溜まり、女王はその玉座に収まってはいられなくなります。
そして、ジェームズ・スチュアート演じる作家志望の三流雑誌記者であるコナーに惹かれつつ、その拗ねたひがみっぽい俗物さ(スノッブ)が抜けない他人を観る眼の冷たさに対して、思わず説教をしてしまうところも印象的。トレイシーは自分の口から出た言葉が、正にケーリー・グラントに突きつけられたものであることに気付き、失望と迷いの中から、新たな認識が芽生え始めていきます。
終幕においての父娘のやりとりに至っては、もう、《描かれているテーマそのものズバリ》だとしか言いようが無いのですけれど、それもこれだけ優雅に描かれてしまうと、洒落っ気に溢れているように感じられ、好きで好きでたまらなくなってしまいます。

「ねぇ、どんな風に見える?(Wait, How do I look?)」
「女神のよう、女王のようさ。(Like a queen, like a goddess.)」
「わたしはどう感じているって思う?(And you know how I feel?)」
「どうなんだい?(How?)」
「人らしく思うわ。人間らしく、ね(Like a human. Like a humanbeing.)」
「私がどう感じているか、わかるかい?(Do you know how I feel?」
「どうなの?(How?)」
「誇りに思うよ(Proud.)」


ただ、一つだけ《想像してみると面白い場面》というのがあって、思い浮かべてみると実に趣深くて(?)いい。
つまり、彼女の別れた夫であるところのケーリー・グラントが「君の方だって酔っ払って凄いことをやったことがあるじゃないか」といったあの事件のこと。
作中の酔態をトレイシーがほとんど憶えておらず、ケーリー・グラントが「今度で二回目だな」と言う事からも分かるように、彼女はそれをやってのけた上で、きれいさっぱり忘れているというわけ。
勿論、その事件は(それと、服のままプールに飛び込んだという「二回目」の事件のクライマックスも)映画の中で映像化などされなかったけれど、その姿を脳裏に思い描いてみるのは少しばかり愉しいことです。


ルース・ハッセイ演じる女性カメラマンの静かな魅力


この映画では、他にケーリー・グラントジェームズ・スチュワート(この映画でアカデミー主演男優賞を受賞。酔っ払ってケーリー・グラントに絡むシーンなどは特に素晴らしかった)も貫禄の名演をみせているが、それよりも一層印象深かったのが、そのジェームズ・スチュアート演じる三流雑誌記者に惚れている、女性カメラマンを演じたルース・ハッセイ。


彼女はこの役でアカデミー助演女優賞にノミネートされたが、『怒りの葡萄』のジェーン・ダーウェルに敗れたという。残念なことだと思えます。間違いなく、受賞に値する名演だったと思えたのに。

特に好きな場面が二つ。


一つ目は、取材の資料集めに行った筈のジェームズ・スチュワートと待ち合わせをしていたのに、彼がヘップバーンと愉しげに談笑して歩いていくのを美容院から眺める場面における、美容師と彼女の会話。

「どうしました?少し痛かったですか?(What's the matter? A little too rough)」
「少し、ね……。でも、私は慣れてるから(A little……but, I'm used to it)」

二つ目は、ヘップバーンの結婚式の前夜、彼女の屋敷での、ジェームズ・スチュワートと彼女とのやりとり。

「君はいい女だね」
「いいカメラマンよ。今は、ピントがずれてるけど」
「なあ、泳がないかい?」
「泳ぐ?」
「そう。トレイシーとパーティの後、いつも泳いだものさ」
「あなた達が?(Did you?)」
「ああ」
「愉しかったでしょうね。いつか、私もマイクと一緒に行きたいわ」
「……リズ、なぜ、彼と結婚しないんだい?」
「……本当に知りたい?」
「ああ」
「彼には、もっと学んで欲しいからよ。いろんなことを、ね。……それまではいいのよ。分かった?」
「そうだね……しかし、リスクがあるね、リズ。もし、他の女が割り込んで来たらどうする?」
「目玉を抉り出してやるわね、きっと。ええ、もし、その女が次の日に誰かと結婚しようとしているのでなければね」

妹役のヴァージニア・ウェイドラーの愛らしさ


これはもう、観ればわかるし、観なければ分かりません。
何ともまあ、めちゃくちゃ可愛く-------生意気なのが実にいいと思えます。
テイジン」のCMのクソ生意気なフランスのガキ(カトリーヌ)とか、昔のアメリカのホームドラマ「フルハウス」に出ていた幼児期のオルセン姉妹とか(今はなんだか、実にえげつない成長を見せていることが世界的に極めて有名であるわけですけれど……)、何というか、その系統。


ジョージ・キューカー作品では、脇役も芸達者揃いであるのがまた、大きな魅力だと思います。
ちなみに、いい脇役といえば、この映画を観て、最後にある人物が出てきて、幸せ四人組から一本取っていくのも実に洒落ていていいところ。巧いなぁ、本当に。