牧野圭祐『月とライカと吸血姫』感想(本編全7巻既読者向け)

牧野圭祐『月とライカと吸血姫』感想

 

2021年10月-12月に放送されたTVアニメ、特に7話「リコリスの料理ショー」(1,2,6,12話と共に原作者・牧野圭祐さんが脚本を担当)が素晴らしかったこと。
山岸真さんが強く推していたのが目に入っていたこと。

そして2022年第53回星雲賞、日本長編部門(小説)受賞をきっかけに本編全7巻、外伝1巻を読んでみたところ、想像以上に面白く、嬉しくも驚かされた。

作品に感じた魅力は初めから終わりまで一貫している。
アニメなら7話「リコリスの料理ショー」及び12話「新世界へ」で特に遺憾なく示されたものが継続して、そして要所を締めて発揮されていた。


思いつくまま、大きく五つに分け挙げるなら、


一つ。ベースにする史実や人物のモデルの組み合わせの妙。

 

二つ。多くの人々の代表・象徴として、それを自覚し引き受けつつ生きることになる主要キャラクター二人あるいは四人の在り方。

 

三つ。その上で、殆ど常に望まぬ強制にがんじがらめに縛られつつも、時に"何を代表・象徴するか"を可能な限り自身の望みに引き寄せ、時にかけがえのない誰かにだけ伝わる暗号として忍ばせる姿とその描写。

 

四つ、それらがあってこそ、架空の歴史を描きつつ、彼らと彼らが背負う人々の願いを読者が生きるこの現実に対しても射程に入れて描くことが出来るし、そうしている構造。

 

五つ。音楽の絡ませ方。
『愛しのあなた』(モデルは『素敵なあなた』)。
交響曲『新世界』(モデルはドヴォルザーク交響曲第9番新世界より』)。
『Fly me to the Moon』(本編ではSF小説として言及される)。
『太陽と月の行進』(モデルは『聖者の行進』)。
ビートルズ(本編では別の名前で出てくるが、どうみたって)。
その巧みさは時代とその空気を描くことにも直結していると思う。


以下、それぞれ具体的に書いていくのだけれど、本編全7巻の内容に大きく触れ諸々ネタバレにもなるのでここから先はできれば本編既読の方限定でお勧めしたい。

※先行してfusetterで書いた際にも「7巻まで読んだ方は」と改めて断った上で反応して頂いていたりもするので。

またその後、作品終盤で明かされるあるキャラクターの夢と動機、6巻5章での顛末は初読の際は「あれ、これで…?」と思いそうになった上で、少し後からは"これがいいのだ"と考えるようになったことと、『月とライカと吸血姫』という作品の性格、方向性(と思える)ことについて少し、書いていきたいと思う。


■『月とライカと吸血姫』の五種類の魅力について。


一つ。ベースにする史実や人物のモデルの組み合わせの妙。

 

まず冷戦期の宇宙開発競争、吸血鬼と人種差別、ライカ犬(4巻あとがきにあるように実はイリナのモデルではない)、ガガーリンコロリョフフルシチョフといった最初に提示される諸々からして、アニメ版の時点で非常に面白かった。

その上でアニメで描かれた先の3巻以降、連合国パートでの4巻あとがきで明かされている史実の選択と用い方がいろいろ凄くて。

 

特に「そうだよな、言われてみればアメリカの"王家"だもんな」と納得させられつつ、そのモデル……ジョン・F・ケネディからそのキャラクター打ち出してくるんだ!というのがまずひとつ。

 

それ以上に、公民権運動でジャズ・フューネラル……「聖者の行進」、キング牧師。そんな方面の役回りもこのキャラクターにまとめて合流させて担わせるのか、面白いことをするなあ、と思っていたら……そのキャラクターの根っこのベースってその人なんだ!そうか、広報の人が繰り返し「穢れなき聖女」と茶化してたの、そういうことか!と。
ジャンヌ・ダルク。なんだか、やられた、鮮やかだなと思わされた。

 

勿論モデルはモデル、それを一部参照はした作中のキャラクター/設定はキャラクター/設定、当然にはっきり別人/別物であり、その魅力もまずは独立したキャラクター/設定として見るべきかと思うし、実際そう見ていっても大変に魅力的なのだけれど。

その上でも……頑なにソビエトコロリョフへの対抗心を燃やすフォン・ブラウンを、宇宙に憧れると共に公民権運動に尽力する黒人のジャンヌ・ダルクが説得し、宇宙開発からの米ソデタントへ舵を切らせていく、年若い女王として現れたジョン・F・ケネディがその流れを後押し……なんとも楽しい構図だと思える。

 

先掲の通り、山岸真さんが「改変(過去)世界宇宙開発SFの傑作」として推すのも納得がいくと、この時点でも強く思えた。
他同様、その魅力は以降も同じように積み重ねられ更に強まっていく。

 

2:多くの人々の代表・象徴として、それを自覚し引き受けつつ生きることになる主要キャラクター四人の在り方。

3:その上で、殆ど常に望まぬ強制にがんじがらめに縛られつつも、時に"何を代表・象徴するか"を可能な限り自身の望みに引き寄せ、時にかけがえのない誰かにだけ伝わる暗号として忍ばせる姿とその描写。

4:それらがあってこそ、架空の歴史を描きつつ、彼らと彼らが背負う人々の願いを読者が生きるこの現実に対しても射程に入れて描くことが出来るし、そうしている構造。

まず2,3,4はセットでそういうバランス感覚、ある種の誠実さが個人的にすごく好きだというのと。

 

特に3について。

コールサイン
諸々の食べ物飲み物……炭酸水/炭酸檸檬水(レモネード)、茱萸(グミ)の実の浸酒(ナストイカ)、蒸留酒=人生/ジーズニ等々、雛豆のブリュシチ、肉の煮凝り(ホロデーツ)。
首飾りの青い宝石。
乗車賃の銅貨。
世界に生放送される演説、
地下出版。

 

どれも用いられる度に素晴らしい見せ場になっているのが作品の魅力であり、際立って大きな武器と思う。

例えばコールサインの数々、『彼岸花(リカリス)』『十五夜草(アスタル)』、それに7巻『翼竜(ジラント)』そして『スラヴァ』。
通信の最後に「コールサインのように残し」た『冬蔦(プルーン)』。
堂々と通信しつつ、記録に残しつつ、伝わるべき相手にだけ伝わるべき言葉と思い。
これらが絡んだ描写はいつも素晴らしかった。


そしてシリーズの早くから提示されつつ、これが宇宙開発競争の話であるからには考えてみれば当然と言うか、言われてみればそれを意味してるに決まっていたのに。
イリナが受け継いできた首飾りの(カイエの母も「すごく似た宝石を持っていた」(4巻))「青く輝く宝石」がなにを象っているのか、最終巻のほとんど最後の最後で提示されるまで気づいていなかった。
うわ!!!と思わず声が出てしまった。

5:音楽の絡ませ方

『愛しのあなた』(モデルは『素敵なあなた』)。
交響曲『新世界』(モデルはドヴォルザーク交響曲第9番新世界より』)。
『Fly me to the Moon』(本編ではSF小説として言及される)。
『太陽と月の行進』(モデルは『聖者の行進』)。
ビートルズ(本編では別の名前で出てくるが、どうみたって)。


これらの音楽を用いる巧みさは時代とその空気を描くことにも直結していると思えるし、ここまで触れてきた他の魅力とも深く繋がってもいる。

 

『愛しのあなた』(モデルは『素敵なあなた』)


まずはレフとの思い出の曲でもあり、本編でも(外伝でも)しばしばイリナ・ルミネスクの愛する曲として言及され続ける『愛しのあなた』。

『愛しのあなた』……?」
 昨年、まだイリナとそれほど打ち解けていなかった頃、ジャズバーに連れて行ったときに彼女が一聴惚れして、宇宙からの私信でも口にした、ふたりの思い出の曲だ。「歌が知らない国の言葉でわからない」と言っていた彼女は、歌詞の意味を理解できたのだろうかとレフは思った。「どこの国の言葉でも、愛しいと言いたい」、そんな詩だということを。
(2巻、Kindle版位置1848/3613)

モデルとされている曲は『素敵なあなた』。

以下のように、曲の成り立ちと内容を軽く観ていくと……つまるところこの曲はイリナとレフが目指す「新世界」の在り方の象徴なのだな、と見て取ることが出来る。

いわば(後に触れる『新世界より』と並び)作品のテーマソングと言えるのかもしれない。

「素敵なあなた」(すてきなあなた、イディッシュ語: Bei Mir Bistu Shein)は、ショロム・セクンダが作曲した1932年のミュージカル・ナンバー、ジャズ・スタンダード曲。
[概要]

原題の“Bei Mir Bistu Shein”は、イディッシュ語で、直訳は「私にとって君は美しい」という意味になる。このイディッシュ語を現代標準ドイツ語で表記し直すと”Bei mir bist du schon“となり、こちらの表記が使われることもある。

1932年にイディッシュ語のミュージカルでのショロム・セクンダが作曲したものが原曲である。後にセクンダは「素敵なあなた」の著作権を30ドルで売ることとなる。

ジョニーとジョージ(Johnnie and George)というアフリカ系アメリカ人のコンビがこの曲をイディッシュ語で歌っていたのが黒人の聴衆に受けているということを、ユダヤアメリカ人のサミー・カーン がたまたま知り、アメリカ国内でのヒットを考える。1937年に、ソール・チャップリン(英語版)がリフレンを加え、カーンが英語の歌詞を作り、コーラス・グループのアンドリュー・シスターズ録音のレコードを発表して、アメリカでヒットした。
wikipedia「素敵なあなた (1932年の曲)」

www.youtube.com

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webサイト「世界の民謡・童謡」より
素敵なあなた Bei Mir Bist Du Schon 歌詞と和訳

 

『Fly me to the Moon』(本編ではSF小説として言及される)

 

続いて、『Fly me to the Moon』を『Fly you to the Moon』とアレンジする妙味。

アニメ版を観終えた時には「え、これで「Fly me to the Moon」使われないの、かえって凄いな?」なんて思ったりもしたのだけど、

そこから原作小説を読み進めてみればまず2巻あとがきで、

「ところで、『フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン』という曲をご存じでしょうか」

なんて前フリを置いた上での、3巻以降でのこの物語への組み込み方……。

宇宙開発競争を、最も脚光が当たる宇宙飛行士たちと共に、それを支える技術者たちにも同じくらい光を当てて描く……そのコンセプトをこんなに見事に「Fly you to the Moon」というアレンジに象徴させてみせるなんて。

 

そして少し後で改めて説明する話だけど、これを掲げる聖女カイエは行進を先導し「I have a dream」と宣言する者でもあり、その「dream」とは「Fly you to the Moon」だという……。

いいなあ、やってくれるなあ、と嬉しくなってしまった。

 

『太陽と月の行進』(モデルは『聖者の行進』)


3曲目は、3巻でカイエの村で見聞きした新血種族の葬式音楽『ジャズ・フューネラル』、その中の「ジャズのスタンダード・ナンバー『太陽と月の行進』」。

この巻でバートとカイエが先導するデモ行進でも陽気に演奏され人々を導いていった曲は『聖者の行進』をモデルにしたものかと思う。

カイエがバートに教えたように、

「埋葬するまでは死を悼むの。帰りは、苦しい現実から魂が解放されて、天へと行進していく歓びを祝う……」

という筈の歌。
でも3巻終盤においてはジャンヌ・ダルクをベースにしたという聖女カイエに導かれ、世界を月へと宇宙へと、また新血種族の生きる世界の良き明日へと行進を導く歌となる。

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ここで、再度webサイト「世界の民謡・童謡」より
「聖者の行進(聖者が町にやってくる)歌詞の意味・和訳」

も踏まえた上で、

 バートたちは合唱しながら威風堂々と行進し、ロケット発射センターへと真っ直ぐに向かう。
 赤く燃えるような美しい夕空に、薄汚れた手作りの旗が広がる。
 沿道で打ち上げ成功を祝っていた大勢の見物客は、いきなり現れた新血種族の行進に驚くが、お祭り気分で、老若男女、種族を問わずつぎつぎ行列に参加してくる。カメラマンたちが行進にカメラを向け、何十枚も写真を撮る。
 ハロー、ワールド。
 見てくれ、彼女たちが地上の英雄だ。
リベルテ・エンジェル!」
 人々は連呼し、誇らしげに合唱する。

 〈太陽が沈むとき!〉
 〈自由の天使よ、私を月へ導いてください!〉

 バートたちが自信を持って歌を返す。

 〈私たちが、月へ導いてあげましょう!〉

 見物客に受け入れられ、確かな手応えをバートは感じる。
 カイエは牙を隠すことなく、大きな口を開けて歌う。月下美人が風に揺れ、尖った耳が出ても、まったく気にしない。宝石のような綺麗な瞳は、夕陽に照らされていっそう朱く、きらきらと輝く。
 バートは歌いながら、隣で歌うカイエと笑顔を交わす。
 以前は、人前で大きな声で歌うのは恥ずかしかったが、今は胸を張り、誇らしく歌える。

 誇れるものができたからだ。
(3巻、Kindle版位置No.3631/3832)

ここに来て「〈私たちが、月へ導いてあげましょう!〉」即ち「Fly you to the Moon」は同時に、キング牧師の「I have a dream」とも重なる宣言になる。
カイエとバート及び彼らに続き行進する人々は虐げられ続けた者たちを代表して今、誇らしく繰り返し歌い、叫んでいる。

 

だから、ジョン・F・ケネディをモデルにしたというサンダンシア女王ともアポロ計画公民権運動という両面で繋がっていることになる(史実において、デモで逮捕されたキング牧師の釈放に動いたことが1960年大統領選挙における黒人票の大幅な獲得に繋がり、ニクソンとの大接戦を制してケネディは大統領となった)。

その流れの上で、4巻の連合王国サンダンシア女王のこの演説はつまり有名なケネディの大統領就任演説の『月とライカと吸血姫』バージョンにあたるのだろうと思う。

 観衆の視線を一身に受け止めるサンダンシアは眉根を寄せて声を潤ませる。
 世界の運命は、両国政府の決定にかかっています」
 異様な緊張が会場に満ちる。吐きそうなほどの不安にバートは襲われる。バートだけではない。皆が皆、口を閉ざして凍りつく。
 逃れようのない絶望が支配するなか、サンダンシアは深く澄んだ瞳に光を灯す。「皆さん。私は信じます」
 揺るがぬ決意を籠め、彼女は強く祈る。
「聡明英知の人々により、冷静な判断がくだされることを。危機はまもなく回避され、この星が死から逃れることを。太陽は明日も昇り、生命の活力を与えてくれることを。月は明日も昇り、穏やかな眠りを与えてくれることを」
 この場にいない国民へ届けと、世界中の市民へ響けと、サンダンシアはステージの最前に進む。
「そして私たちは挑戦と冒険を続けて、いつの日か月へ到達し、その先にすばらしい二一世紀が訪れることを、私は信じます」
 覚悟を定めた彼女が清々しく微笑むと、観衆は総立ちになり、割れんばかりの拍手を送る。バートもカイエも、レフもイリナも、そしてほかの登壇者も若き女王を称える。
「ご清聴、ありがとうございました」
 サンダンシアの潤んだ瞳や金色の髪が照明を浴びて煌めく。まばゆい光のなかに凜と立つその姿は、美しいだけの一八歳の少女ではない。
 太陽の如き気高き君主だ。
(4巻、Kindle版位置No.3665/3740)

例えばこうして『聖者の行進』を『太陽と月の行進』と翻案して取り込むこと等を通じて、(差別される黒人が住むアメリカ合衆国でなく)差別される新血種族が住む連合王国という作中世界のものに変換した上で、公民権運動真っ盛りの史実の時代の空気、熱気といったものを(勿論、他の諸々の工夫、描写と合わさって)薄っぺらい単なる設定などでは到底ありえない存在感で描き出すことに成功しているのだと思う。

 

そして『月とライカと吸血姫』が宇宙開発という夢/憧れを梃子に、(読者のいる現実も射程に入れつつ)今を越え「新世界」へと踏み出していく、意志と歩みの物語である中で。
4巻あとがきでの参考文献についての言及にある、

「書籍『月をマーケティングする アポロ計画と史上最大の広報作戦』……『ドリーム』と違う視点で描かねばと考えた末、広告塔にたどり着きました」

とあるように技術者であり「広告塔」であるという立ち位置を打ち出した上で。
更に公民権運動の指導者であり象徴、キング牧師のような在り方をも重ね合わせるというアイディアと手際が非常に見事だと思う。
偏見も差別も、読者の今ここの現実において残念ながら過去になどなってくれていないからには、それに向き合うこの物語は当然に読者の今ここも射程に収めていることにもなる。

 

交響曲『新世界』(モデルはドヴォルザーク交響曲第9番新世界より』)

 

最後に、ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」。

まず、2巻ではこんな使われ方で登場していた。

「ねえ、私が宇宙飛行士に望んだもの、覚えてる?」
「……新世界へ導いてくれる革命家」
「そう」
 リュドミラは部屋の片隅にある電気蓄音機にレコードを置き、『新世界』という副題を持つ交響曲をかける」
(2巻、Kindle版位置No.2791/3613)

「俺が原稿にイリナの名を書いたと知ったあなたは、イリナが死んだと嘘を吐き、銃口を突きつけた。『俺が真実を明かさなければイリナは闇に葬られる』という強迫観念を持たせ、焚きつけるような音楽を流して、俺をひとりにした」
(2巻、Kindle版位置No.3430/3613)

これだけでも見事な使い方だなと思えたのだけど、更に面白かったのは最終巻。
序盤において、

「新世界秩序……」
 理念はくわしく知らないが、両国の政治家や知識人たちがその言葉を使うところを、レフは何度か聞いたことがあるように思う。
 ──新世界へ導いてくれる革命家。
 ふっとレフの頭の奥で、今は亡きリュドミラの声が響いた。そして彼女がレコードで流した交響曲『新世界』の扇動的な旋律が蘇り、猛々しい金管楽器の叫びが心を揺すぶる」
(7巻、Kindle版位置No.121/4159)

と再び思い起こさせ、その後も繰り返しそのNWO、New World Order、新世界秩序とやらについてレフに悩ませた上で。

レフには人類の歴史における永久不滅の一歩とともにこう宣言させ、

 レフは通信機に向かって、NWOに指示されたとおりの第一声を放つ。
「この一歩は、東西の二大国にとって、偉大なる一歩となる」
 そしてすぐに否定する。
「しかし、それはくだらない、取るに足りないことです」
 レフはハシゴから手を放すと、右足も月面に降ろし、両足で月の大地に立つ。
「今日の一歩は、すべての地球人にとって、宇宙への飛翔となるでしょう」
 命を懸けた対価として、言葉の付け足しくらいは許してもらおう。このあと二国の国旗も立ててあげるのだから。無論、欲望の象徴など、ロケット噴射で吹き飛ばされて、太陽に灼かれて、つぎに誰かが月に来るときには、見るも無惨な姿になっているだろうけれど」
(7巻、Kindle版位置No.3987/4159)

そしてイリナに、作品全体の最後をこう締めくくらせている。

「すべてのことは、月に行くよりも簡単よ。
 さあ、帰りましょう。
 新世界より、私たちの故郷へ。
〈完〉」
(7巻、Kindle版位置No.4134/4159)

ざっくり言ってしまうなら。

2巻では結局、月への憧れを胸に挑み成功させたイリナの偉業も、それを無かったことになどさせないとレフが全てをなげうち世界にぶつけた演説も全て、リュドミラたちが指揮する交響曲『新世界』の一部として取り込まれてしまっていた。


しかし、多くを経て月面にたどり着いた最終巻において、全世界の人々の営みが織りなす交響曲『新世界』≒これからの世界を自分たち、「すべての地球人」のためのものと編み直されるよう導いているのかな、と。

 

なお、こう書いてきておいてなんなのだけれど、音楽についておよそ素養もセンスも欠いているので例えば、

リュドミラが聴かせた「強迫観念を持たせ、焚きつけるような音楽」「扇動的な旋律が蘇り、猛々しい金管楽器の叫びが心を揺すぶる」というのは『新世界より』の、

(レコードの途中に針を置いて?)第4楽章から再生してみせたのか(特に冒頭のイメージ)、

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あるいは普通に第1楽章から

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をイメージしているものだったのか、自信をもって解釈を定められなかったりもしてしまうし。

 

ともあれどちらにせよ、そこでは「焚きつけるような音楽」「扇動的な旋律」として響いていたものを。
イリナが語る「さあ、帰りましょう。 新世界より、私たちの故郷へ」という作品の締めくくりにおいては、

第2楽章「家路」

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の穏やかな旋律として受けているか。
あるいは交響曲第9番「新世界より」全体がそもそも新世界へと誘うものでなく、ドヴォルザークが新世界(アメリカ)から故郷(ボヘミア)を思う、故郷へのメッセージというものとされているようなので、最後のイリナの台詞は第4楽章の最後の和音、

「新大陸に血のように赤い夕日が沈む」

と評されたというものに相当するのか、どちらかなのかな、と思いつつ判断しかねていたりもするのだけれど。

どちらにせよ、イリナが語る終幕において『新世界より』は「焚きつけるような音楽」でもなく「扇動的な旋律が蘇り、猛々しい金管楽器の叫びが心を揺すぶる」ものでもなくなっている。

 

象徴的に言うならドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」の第一~第二あるいは全楽章の流れが作品全体と重ねられ、一つの交響曲のように捉え得る形にもされているのかと思える。

作者の牧野圭祐さんは脚本家・小説家・ゲームシナリオライター、そして音楽家としても活動されているということでもあり、音楽を用いた仕掛けは小説内でも一際見事に働いているのかと思う。


■リュドミラの扱いと『月とライカと吸血姫』という作品の性格、方向性(と思える)ことについて


小説『月とライカと吸血姫』終盤で明かされるあるキャラクターの夢と動機、6巻5章での顛末は初読の際は「あれ、これで…?」と思いそうになったのだけど、少し後からは"これがいいのだ"と思うようになっている。

 

つまり、底知れない謎めいたキャラクターだったリュドミラが、6巻に至って遂にその主観視点で語る、

「深緑の瞳 Очи Темно-зеленые」

パートが現れ、その夢と動機を

「それは、人類の物理的な死の克服」
(6巻、Kindle版位置No.648/3661)

と読者に明かすことで、いわゆる"ボスキャラの格が下がる"という現象が起きていたかと思うし。
6巻第五章「夢と野望の果てに」でのあっけない退場がそれに拍車をかけてもいた。

 

ただ、それは例えばフィリップ・プルマンライラの冒険』のアレがそうであったように、もしもその纏う謎や権威権力を剥ぎ取ってみればなんてことはない、浅ましく奥行きも深みもありはしないものなんだ……というのが、相当に大事な作品の在り方の一要素であって。
"結果としてそうなってしまった"のでなく。"格を下げ零落させるべく丹念に仕込み描いて、そうあるべくしてそうしている"のではないかと、少し考えた後に思うようになっている。

 

ここで、レフ、イリナ、バート、カイエ。彼/彼女たちが追い求める夢の輝きと尊さは「藍の瞳」「緋の瞳」「青の瞳」「朱の瞳」とそれぞれをメインの視点とするパート名称が示すように、その瞳をもって描かれ語られ続けた中で。

特に序盤ではリュドミラ、ゲルギエフ、[運送屋]たちを視点とするパート名称「黒竜の瞳」はその輝きも圧し潰すような重みをもって描かれていったわけだけれど。

その上でおお……と思えたのが7巻の次のくだりだった。

「そこへ、つかつかとゲルギエフが歩み寄ってきて、レフの両肩をガシッと掴むと、腐った玉葱のような瞳でぎょろりと覗き込んでくる」
(7巻Kindle版、位置2599/4159)

黒竜の瞳」という威厳や迫力はあくまで権力権威、それに基づく暴力の圧であって。
内輪ではもうすっかり傀儡となり権力も権威も失った今、改めてその人間そのものを覗き込めば「腐った玉葱のような瞳」に過ぎない。レフはここでそう喝破しているんだな、と。

主要キャラクターの多くが描写される際でしばしばその瞳について触れられる中、(まだちゃんと確認しきれてはいないのだけれど)ゲルギエフについてはそれが極端に少なかった。ことによるとここに至るまで無かった、あえて避けられていたようにも見える。
あるいはこの場面のためでは、とも思える。

 

なおアニメでは12話、原作では2巻で輝いていた姿を最後に、後は延々と株を下げ続けていった傀儡たるゲルギエフはそうでも、それを操るリュドミラは以下のように頻繁にその瞳の光や闇について描かれていたという話はあるのだけれど。

「苺を口に含むたび、深緑色の瞳が爛々と輝く」

「彼女の深緑色の瞳は鋭利に光る」

「イリナにとっては初対面の相手だが、闇を秘めた深緑の瞳で見つめられると、全身の汗が凍りつくように冷える」

(以上、2巻)

「スピーチライター兼アドバイザーを務めるリュドミラ・ハルロヴァは、企みでもあるように深緑色の瞳を細める」

(4巻)

「戦場の天使のように慈しみを持って駒を愛でる。その深緑色の瞳は不気味な光をたたえている」

「闇を帯びた深緑色の瞳がレフを貫く。わざわざイリナに答えさせた意図は、真実を素直に吐けという脅しだろう」

(以上、5巻)

「金髪を後ろで束ねた女性が、飴の缶を手に、深緑色の瞳をこちらに向けている。この女性を、バートはニュースで何度か見たことがある」

(6巻)

レフ、イリナ、バート、カイエたちの瞳≒その存在は特に各々の視点での語りを経てその在り方が明らかになっていけばいくほど輝きを増して映っていくのに対して。
「深緑の瞳」は6巻で遂にそのパートが表に現れた後はまさにそのために輝きは急速に失われ、零落し続けていってしまう。要するにその光や闇というのは彼女が纏った秘密・不信・敵意・排除といったヴェールのそれであって、それらを剥いで(自身を除けば)誰にも語らないその芯を見せてしまうなら、それはそんなものに過ぎないという話なのかと思う。
6巻で登場し、そして持ち主と共に消え失せる「深緑の瞳」パートがリュドミラの株を暴落させ続けるのは"そうなってしまった"のでなく、逆に"正にそれをするためにこそ描かれていた"のではと思える。

 

ここで勿論、一般論として。作中の特定の場面における特定のキャラクターの言動や見方を、作品のそれと安易に重ねることには非常に慎重になるべきだし、些か妙に踏み込んだ決めつけのきらいもあるのだけど。
それでも……月や宇宙、人種・民族・国家等の垣根を巡る差別や敵意や無理解を超えた新世界に憧れ、望み、向かおうとする意志と輝きを讃える一方で、秘密・排除・相互不信・独占・歪曲といった対照的なものやそちらばかりを向く瞳や人間に対しては然るべき態度や扱いがあるし、そうするというのはおそらく、この作品の"かくあるべし"という姿勢なのではと思える。

 

最後に、ゲルギエフの権力欲名誉欲や保身への執念、そしてリュドミラが夢見た「人類の物理的な死の克服」即ちリュドミラという存在の核心の対極に置かれ賞揚され続けたのが、チーフ/東の妖術師/スラヴァ・コローヴィンであって。

以下のくだりはその讃歌だと思えた。

 カーテンの隙間から冴え冴えとした月光が差し込み、寝台に置かれた銅貨を鈍く照らす。静謐に満ちた病室に横たわる偉大な科学者は、宙への想いを現世に託し、見果てぬ夢の中で、永遠なる宇宙を旅する。たとえ肉体が失われても、その熱き魂は受け継がれていく。
(7巻、Kindle版位置No.3160/4159)