映画『南極料理人』ネタバレ感想。堺雅人が試されるにもほどがある大地

映画『さかなのこ』の「好き」を一心に追い求める尊さを描きつつ、同時に「好き」がどれだけ暴力的だったりするかという側面もがっつり描きぬいた物語がとても面白く、強く関心を引かれたため、沖田修一監督の過去作品も幾つか観ていっている。

「主人公の在り方がミー坊にも通じるところがある、ミー坊はいわばアナザー世之介だ」と幾つか感想も上がっていて、観てみればその通りと思えた『横道世之介』。

 

追い求めてきた「好き」をいよいよ叶えられる貴重な立場、映画監督になりながら自信を無くしトラブル続きの撮影に打ちのめされていた小栗旬が撮影現場の山林での一人の木こり/役所広司との出会いを通じて立ち直り一人前へと育っていき、役所広司も思いもかけない自分の「好き」を見出しそれに周囲を巻き込んでいく『キツツキと雨』。

 

そして沖田監督の出世作とされる『南極料理人』。

➡『南極料理人』Netflix視聴ページ

これが一際、良かった。

終始明るくユーモアに溢れ、コミカルにおっさんたちのワチャワチャを描き出しつつ……同時に一人の人間の大事な尊厳がゴリゴリゴリゴリ削られ続け、微笑みながらそれを乗り切りつつも、ふと心が緩みようやく「帰ってきた」と思えた瞬間、そこに居た間どれだけ大切なものを封じ抑え込んでいたのかに気づく物語が描かれているという構成のえげつなさは正に『さかなのこ』の監督の手になるものだと大いに納得もさせられた。


映画『南極料理人』と原作本二冊を併せてみて行くと原作のエピソードの翻案ぶり、そして人物を例えば一人をベースにしつつ色々変えたり膨らませたり、それに他の人のあれこれを混ぜ合わせてのキャラクター造形もとても面白い。

例えば主演・堺雅人演じる「南極料理人」にあたる原作の作者は西村淳という名前は引きつつも似ても似つかぬ豪快なおっさんで、映画で豊原功補が演じている福田ドクター(なんかこの人物はモデルとなる人物との一致度?が際立って妙に高い印象も……)と似たもの同士意気投合するような人で。

 

映画に取り入れられている水浪費犯摘発話では「地獄の門番のような形相をした私の強制捜査」(『面白南極料理人』p168)をしていたりするわけだけど(映画ですごい目つきで睨みこの後追いかけまわすのは、小浜正寛演じる平林隊員)。

その人物像のベースは(映画では高良健吾が演じている兄やんこと川村隊員について語った)『面白南極料理人』p328のこのくだりなのだと思う(すぐ後に続く話は正に対照的な実在の西村淳さんの姿を伝えてもいる)。

概ねこの一節から、堺雅人演じるあのキャラクターを立ち上げていく手腕に痺れる。

 

そして映画での南極料理人堺雅人の描写でとにかく面白いのはこの「ほんとの自分の感情を包み隠して、隊員たちのために立ち回」る様子だと思えて。
この映画最大の見せ場二つ……「胃にもたれる」と、最後の最後に口をつくあの台詞と場面は共に堺雅人がそこまでどんな思いを微笑みの下に押し隠してきたかを一つ一つ辿っていくことでその度ごとに味わい深くなると思えている。

 

 

以下、映画冒頭から順を追って、堺雅人の様子を追い、紹介していきたい。

(添付画像にNetflix版での再生時間もだいたい載せているので、気になる場面は前後含め確認してみるのも面白いかと思う)。

 

序盤7分、丁寧に盛り付けまで神経をつかって繊細に料理する堺雅人。薬指に光る指輪。

マヨネーズ、どっばー。それを見る雅人の目つき。

俺は、なんでもかんでもご飯にまとめて乗っけたるわー。
俺は、醤油、どっぱーー。

それを見つめる雅人。

基地内での雅人とその料理の扱われ方、それに本来、だいぶ神経質だったりもするんだろうなという性格が序盤から伺われる。

 

続いての場面。

心血注いで丁寧に、具に遊び心も交えておにぎりを握る雅人。

ワルキューレの騎行」をBGMにみんな、食べて食べてー!とアナウンスする雅人。氷の黙示録的地獄に温かい潤いを。料理人の心意気。

がっつく隊員たち。満面に歓びを湛えた雅人の顔。

「あの 主任は…」

だが、しかし。雅人の心づくしの温かさを無下にする人間が、約一名。

 

零下6,70の寒さの中、おにぎりと温かさを届けに走る雅人。

でもそんな雅人の心の温かさすら、南極の寒さは凍り付かせ無為にしてしまう。

「帰りたいわー」「西村さん一緒に脱走しない?」
ぼやきまくる御子柴主任(古館寛治)。

原作を読むとこのぼやき倒しは有名なカメラマン、不肖・宮嶋から引っ張ってきてるらしいのがわかったりする。

「どこに?死ぬよ」

こんな時も笑みを絶やさないけど、そんな雅人の心もこんなこと続いたらしまいには冷えて死んでしまうかもしれないぞ。

 

 

前任の隊が残していった高級食材、伊勢海老。
よし、エビフライだ!いや、フライはないでしょ、刺身とか、
せめてすり潰すとか……と抗弁するも。

流れに押し切られ、

海老フライ調理を強要される雅人。

またも雅人のこの表情……。

 

そして直後から挿し込まれる、雅人が南極に来た経緯の回想。
海上保安庁で船の調理担当として働いているらしい雅人は、
家では料理が下手な奥さんに夕食を任せてくつろいだ顔で様子をみたり、

その出来に文句をつけてあしらわれたり、
「うーん、もうこれ、あとあと胃にもたれんだよこれ」
「いいから黙って食べなさいよ」

愛する娘にも無下に扱われたりをのんびり楽しんでいた。

「あーぐーら!」

でも、なんでも南極に行くのを長年の夢にしていたという同僚が要望し続けて遂に叶えようとしていた南極行きを直前のバイク事故でフイにして。
まったく行くことなど想像したこともなかった、家族を置いて一年以上も行くだなんて絶対嫌だった雅人がゴリゴリの強要で無理やり南極行きを命じられてしまう。

雅人……。このやりとりでの泣き、怒り、悲しむ様をひとつの表情に押し込めた雅人の顔と声。最高……!!!!


そしてそのやりとりを最後に回想が終わり、直後がこのカット。

あまりにその存在にそぐわない、できる限り工夫をしてもなお良さをまるで活かせない姿になってしまった高級食材伊勢海老。

 

つまり、この伊勢海老は雅人なんだ。

 

基地に来て以降の雅人は多くを言葉で語らない。

ただその微笑みの仮面と、稀にその下からこぼれる表情と。

そしてなにより料理でもって、その想いを差し出す。

で、そんな扱いの中でも「やっぱ刺身だったな」「うん」と僅かばかりに溜飲が下がる声を聞いたこともあってか、

雅人はなおも微笑む。雅人……。

原作では高級食材をもてあまして困ったよ、くらいのエピソードとして何回か語られる伊勢海老関連の話(土台とされているのは『笑う食卓』収録の「伊勢海老ボールは庶民のお味?」)を大胆に脚色した上で雅人の南極行きの経緯と組み合わせることで、こんなにも雅人を追い込んでいく素敵な挿話へと生まれ変わらせている。

 

そんな雅人の心の支えはFAXで届く家族の手作り新聞。
狭い自室のベット近くの壁に飾り、幸せそうに、でも縋るように、じっと見つめている。

節分、基地内での祭りの狂騒の中でその新作が届く。
文面に曰く

「お父さんがいなくなってから毎日が楽しくてしかたありません」
「なので余計な心配などせず、どうぞそちらで元気にお過ごしください」

家族なりに心配ないよ、と伝えるユーモアなのだろうけど。

この限界状況で雅人の思いはいかばかりか。

笑いもだいぶヤケっぱちっぽいよ。

大丈夫か、雅人。


そして揃って限界状況のおっさんたちの悪ふざけは生死にかかわるイジメじみたものにまでつい発展しかけたりする。

で、外で死にかけて叫ぶのは雅人でなく、大学院生で年齢でも身分でも一番下っ端の兄やんこと川村隊員(高良健吾)なのだけど。

この凍え死にかけ叫ぶ様はきっと、「お父さんがいなくなってから毎日が楽しくてしかたありません」と伝えられた雅人の心の叫びでもある。

原作では"こんな寒いならむしろ雪に埋もれた方が暖かいのでは?"とおかしな思い付きを試してみた隊員がふざけて埋められたまま放置されかけた、というやっぱり限界状況を多少物語っている心温まるエピソード(『面白南極料理人』p168-171)だったものを、隊員自身の手作り新聞を家族から送られるものに変更して組み合わせて、やはり雅人を追い込む流れを生み出している。観ていてぞくぞくする面白さ。

 

 

将棋を指す雅人。

対面するドクター(豊原功補)の述懐。「自由だよなぁ、ここは。ガミガミ言う人もいないしさ。なに食ってもタダたしさ。息子は金せびってこないしさ」
「俺なんかあと2~3年いても全然いいんだけどね。はっはっはっはっは」
口に出しては何も答えない雅人、その表情。

雅人の心情を雑に察するに……。

俺はすぐにでも帰りたい。家族を置いてきたくなど全くなかった。

でも家族は「ガミガミ言う」自分がいなくてせいせいしているのかも。

「お父さんがいなくなってから毎日が楽しくてしかたありません」という例の新聞のメッセージは本当で「あと2~3年いても全然いいんだけどね」とでも思われているのでは……。

しかし、すべてを飲み込んで、雅人はここでも、ただ微笑む。

 

そして、将棋から離れた雅人は夜の調理場で思いもよらない光景を目撃する。

深夜、めちゃくちゃ雑に調理したラーメンを一心不乱に啜るおっさん二人。

金田隊長(きたろう)と、盆こと西平隊員(黒田大輔)。

ここの「へっ?」のまるで理解できない異界の言葉を聞いたような反応がいい。
以降ひとことも口にせず、すごい表情のまま雅人は扉を閉めて去っていく。

 

"俺が魂込めて作ってる料理より、深夜のラーメンなのかよ!俺はここに必要ないのか、俺の存在価値は"……みたいな。

原作の西村さんは概ね"深夜のラーメン?うまいよそりゃあ!俺だって食べる。消費早すぎていずれ底つくの困るけど。いやほんとそれはどうしよう"みたいなノリだけど、映画の雅人はきっと、違う。
いつもの微笑みも消えたすごい表情のまま去っていく姿が、受けた衝撃を示しているようにも見える。

 

その後、もう間もなくの雪氷観測担当隊員、本さん(生瀬勝久)の誕生日のごちそうを金田隊長から依頼される雅人。
ちょうどその頃、本さんの助手を務めていた川村隊員が凍傷で一週間の作業離脱。

元々当たりがキツい本さんはいつにもまして苛立っていて。

各々担当部門の専門家だからこそ、それぞれの領域は尊重しないといけない……原作でも繰り返し強調される話を破り「ちゃんとした医者に診てもらったほうがいいんじゃないのか」とまで言ってしまう。この直後のドクター(豊原功補)の味のある表情が見所だったりもする……職業的なプライドに土足で踏み込まれたりしているのは、雅人だけじゃないんだ、という。
それはやってはいけない、破ってはいけないセオリーだと皆が理解しつつもついやってしまう、それが過酷な南極生活なんだとさらりと示されてもいる場面。

 

で、川村隊員の代わりに本さんの助手を臨時にさせられもする雅人。
慣れない作業をキツい叱責なんかも受けながらこなしつつ。
料理人だから、おやつも用意し差し出してサポートしようとして……すげなく断られ。

どうにか頼まれごとを切り出すも……答えは「何でもいいよ」。
でも「あ……そっか」となぜそんなことを聞かれたのか、とさすがに思い当って、一応「肉」とは答えてくれる。そこで、もう少し詳しく……と食い下がるとこう返されてしまい。

そして、その先のやりとりで飛び出してしまうのがこの言葉。

 

「別にメシ食うために南極に来たわけじゃないからさ」

 

俺は!!メシ作るために南極来てるんだよ!!!
こんな風にめちゃくちゃ叱られながら、本来他のやつが担当するはずの観測の手伝いなんかするためじゃなくて!!!!
それにお前らと違って、そもそも来たくて来たんですらないんだよ!
やっぱり他の(めちゃくちゃ行きたがってた)やつが担当だったはずなのを!!
無理やり送り込まれたんだよ!!!
それでも!俺は料理人だから!!
全力でうまいもの作って喰わせてやりたいんだよ!!!!
そのために聞いてるんだよ!!それをさあ!!!!!

……などとはただの一言も口にすることなく。

雅人は僅かな微笑みを顔に浮かべて小さく細かく頭を何度かふって頷くような仕草をして。

せっかく持ってきたけど固く凍りついてしまった、心づくしのおやつにかじりつく。

 

こうした流れを踏まえると、作業を終え戻ってきて。
僅かにためいき一つ。

それに八つ当たりの蹴り一発。

それだけで人知れず済ませている、雅人の偉大な精神力に心からの敬意を抱かずにはいられない。

 

そして、その鬱屈した気持ちを明るく開放するような極寒の南極での肉焼きシーンがめちゃくちゃ爽快なものに見えてくる(そうでなくても、素晴らしく愉しい場面だけど)。

 

で、雅人は料理人だから。
「別にメシ食うために南極に来たわけじゃないからさ」
と言い放った相手すら料理で驚愕させ、喜ばせることができたからには。

おそらく"どうだ、見たか!!!"という思いも相まっての、この会心の笑みも浮かぼうというもの。

 

 

で、そうして劇的に盛り上がった誕生会の席で、本さんに「西村君さ、子供いるんだっけ?」と水を向けられて。
結婚指輪が光る手の上に、嬉々として取り出して見せたのが娘の乳歯。

すっかり打ち解けた開放的な表情の雅人、けっこう口数多く話に応じていく。

でも、そこからの会話で……。


「奥さんは?」「えっ?」

「ここに来ることは賛成だった?」
「ウチはさあ…もう、毎回大モメだよ。
これ以上、子供をほったらかしにするようだったら、覚悟があるんだって」
「やりたい仕事がさ…たまたま、ここでしかできないだけなんだけどなあ…」
「ここがさぁ…電車とかで通えたら良かったのにね」
「本さん♪」(周囲の笑い声)

「えっ?」以降、それまで話に応じて家族について幸せそうに語っていた雅人は、ただの一言も喋っていない。

 

雅人はさあ……強要され命令されて、家族とモメることすらできなかったんだよ。
雅人も奥さんも覚悟なんて決めようなかったんだよ。

悩む時間すらなく、はじめから断る選択肢も与えられなかったんだよ。
そして雅人は料理人だから南極で仕事する必要なんてぜんぜんないんだよ。

むしろここはすごく不向きだと思うんだよ。
そうだね!!電車で!!!通えたらなああああああ!!!!


……でも雅人は、そんなことは一言も口にしない。
ただ微笑んで、ビールの缶を握り弄り、微笑んだまま呷るだけ。

 


その後には、良い感じに料理人としての辣腕を振るって見せる姿が少し続く。
ミッドウインター祭で「参加者全員正装でのフランス料理フルコース」を振舞う姿は得意げでもあれば楽しそうでもあり。


多彩な中華料理を並べ、満漢全席?と洒落こむ。
この時の雅人はなんだか隊員たちの中にすっかり馴染み、家族のような親密感さえ漂わせている。

中でも微笑ましくもあり、大事な場面といえるのは川村隊員へのこの叱責。

「あーぐーら!」

序盤の伊勢海老の件の間に挟まれた回想、家族の気のおけない夕食の席で娘を叱ったのと同じ言葉。
それくらい雅人はこの基地での生活に、仲間たちに、馴染んできていたという事かと思う。

 

しかし、そこで南極生活の厳しさを改めて思い出させるように次々に問題が起きてくる。


ラーメン、枯渇。

一度観たら忘れられない、きたろう渾身の演技で切実に、魂から絞り出すように「食」を求められても応えることができない料理人、雅人。


怪奇・深夜バター丸舐め男の出現。

厳しい閉鎖環境での生活のストレスは人をおかしくする。一応食べ物への依存ということで対応は料理人の領分なのかもしれないけれど(???)雅人もこれにはどう向き合っていいのかわからない。


遠く離れた愛しい人たちは今、どうしているだろう。ちゃんと自分のことを思ってくれているだろうか。ひょっとしたら……川村隊員を襲った悲劇と絶望の嘆きは、

多かれ少なかれきっと隊員たちが抱え、耐えている不安と苦しみを代表していたと言えるだろう。もちろん、雅人のそれについても。

 

そんな雅人を突然のトラブルが襲い、

心を支え続けてきたお守り、娘の乳歯が遥かな穴底へと消えていってしまう。

雅人、絶叫。

目を見開き、悲しみの呼び声を繰り返す。
隊員たちがこれまでに観たことのない雅人の姿。

でも、狂乱し暴れ回り原因となった連中に殴りかかったりしてもおかしくない中(他の隊員なら誰にせよ、いや、普通の人間ならきっとそうしていそう)、これだけやられても雅人は自室に引きこもり、ふて寝するだけ。

人の姿をした平和の天使か?


そんな雅人の脳裏に蘇るのは突然命じられた南極への出発を間近に控えたある夜、お守りとして持ってくることになった娘の乳歯が抜けた時の光景。

そして、ふらりと他の隊員たちの様子を雅人が見に行くと。

そこに展開されていたのは不慣れな隊員たちがおぼつかない手つきで料理に挑戦する光景。

特に本さんと金田隊長がおっかなびっくり唐揚げを揚げる姿は偶然にも、雅人が文句をつけたまずい唐揚げを作っていた時の奥さんとも重なるようでもあって。

その誕生日の前にあれだけ雅人につれない態度で接していた本さん、その後すっかり打ち解け語り合いもした本さんの

「西村くん……」

「おなかすいたよ」

この人なりの精一杯の降参、次からはまた君の料理を食べさせて、お願いだよ……という語りかけに思わず雅人のさすがに頑なになっていただろう心も少し、柔らかくなっていく。

雅人の、あー、もう、しゃあないなあ、というなんとも言えない、微笑みまでは浮かべられない、でもだいぶ和らいだ表情がとても趣深い。

 


そして、ラストと並んで作中を代表する名場面がここ。

「胃にもたれる…」

 

いつも微笑みを浮かべてきた雅人が浮かべる、はじめての涙。
例の伊勢海老の場面の合間の回想の中、文句を垂れつつ食べた妻のまずい唐揚げ。
家族の食卓と時間が味覚から一気に蘇って。
そこでの雅人は気軽に料理に文句を言い、娘を叱り、軽くあしらわれる……そんなただのおじさんで、夫で、お父さんで、つまりは人間で。

微笑みの下に多くを押し隠す天使なんかではなかった。

 

「泣くこたぁないでしょう……」

でも、周囲はそもそも、雅人が天使を演じてきたことも分かっていないのかもしれない。
痛みも苦しみも怒りも悲しみも押し隠して、言いたいことを、人間なら言わずにいられないような言葉も押さえこんでいる……のだというようには感じさせない。

そういうプレッシャーなり罪悪感なりも感じさせず、自然にそこにそういるようにして限界ギリギリの隊員たちの心を破局から護ってくれていた、それが『南極料理人』における雅人の天使性の核心なのではとも思う。

 

なお、ここまで正にそれを解説してきたように。

雅人の苦悩は映画を観ている観客にはいろいろと見て取ることが出来る。
観客なら気づくことが出来る。

でも、南極で限界生活をする面々は気づけない。

 

観客は映画館の客席なり、自宅での配信視聴なりで、安穏とその様子を眺めている。

雅人の心情が端々から伝わるように長い南極生活のどこをピックアップするかの選択、順番、採り上げた場面の見せ方等々、よく整え演出された映像でその姿を観てきてもいる。
でも、極寒の諸々不便な狭い閉鎖環境における長い集団生活の中で、例えば深夜にバターを丸かじりしたり、爪に灯をともすように大事にしないといけないと重々分かっている水でジャブジャブとシャワーを使わずにはいられなかったり、好物のラーメンが尽きたとなればこの世の終わりを迎えたかのような有様になったりと……

揃ってまず自分のことで人間性というか獣性とでもいうべきものがむき出しになるまで追い詰められている中、彼らに他人のことを気にする余裕なんて、きっと無い。

 

それに雅人が望まずして南極に来た事情なんかも、きっと他の隊員たちは知らないだろうし。
雅人は彼らの責任ではなく、言ったところで今更どうなるわけでもなく、ただ雰囲気が悪くなるだけだろうことをわざわざ言い出さなかっただろうし、人情として口をついてもおかしくない時(先だって触れた「別にメシ食うために南極に来たわけじゃないからさ」と言われてしまった時とか)ですら口にしなかった。

泣いて騒いで叫びでもしないと、他人のことなんて気にかける余裕はない。
皆が人間性というか獣性というべきかもしれないものをむき出しにする、そうでもなければやっていられない限界生活の中で、なお微笑み続け仮初の天使を演じられていたとしたら、それはもう仮初でなく、真に天使的ななにかではないだろうか。

 

そんな天使だった人間がこれまで押し隠し押し留めてきた思いが一気に吹き出てきての人間の貌を露わにしての言葉と涙は、これまでの雅人の心情、足跡を一つ一つ細かく振り返って観れば観るほど、味わいが増すものだと思う。

 


その後の場面。

日本の子どもたちから電話質問に応える一幕。

雅人は質問する女の子が娘だとどこで気づいたのか、あるいは気づかなかったのか。

個人的には声を聞きやりとりする中で気づき、名前を尋ね、答えを聞いた時に確信に近いものを抱いて、その上での重ねたやりとりとアドバイスなのかと思う。

 

 

続いて。
卓球しながらの雑談で本さんにラーメン作りに欠かせない「かん水」作りのアイディアを聞かされ(原作『笑う食卓』の「京大監修手打ち麺」というエピソードを元にしているけどそちらではこんな劇的な話ではおよそ無い)、心踊らせ調理場まで駆け出していき、

さっそく調理して。

きたろう、渾身の喜びの演技。

それを目にしての微笑みでない、雅人の満面の笑み。

 

更に「こんなオーロラ、観たことない!」「観測しないといけないんじゃないの!?」
と騒ぐ平林・川村両隊員を前に

「そんなもの知るか!」と言い放つ越冬隊の金田隊長。

勿論本当は良くなどない、ダメなことに決まっている、映画内でも(水浪費犯発覚の前の場面で)平林隊員が「俺はこの越冬観測の準備に3年かけましたよ」と語っていたように、

そのために投じてきた時間もお金も労力も苦労も考えたらそんなことは許されない……でも、そんなことは分かりきってる隊長にこうまで言わせてみせた(フィクションならではの翻案ではある)。
本さんに「別にメシ食うために南極に来たわけじゃないからさ」と言い放たれていたような扱いを受けていたのが、ここまで来た。やって見せた。
料理人として、一人のプライドを持った人間として、雅人の喜び、達成感はいかばかりかと思う。

そして、ここではしゃがず「伸びちゃうよ」と笑いながら言うに留める雅人の姿もたまらなくいい。

 

そして帰国。
喜びを体中で示して迎えてくれる家族。

全身で喜びを爆発させ、満面の笑みで駆け寄る雅人。

 

その感動が過ぎた後、訪れる穏やかな日々。

 

「髪を切りヒゲをそると 目の前に現れたのは
 どこにでもいる ただの おじさんの顔だった」

「当たり前のように水を使えて

当たり前のように外に出かけたりすれば……

ますます分からなくなっていく」

 

でも当たり前のように家族で遊園地にでかけて。

当たり前のように軽口をたたきあって。

当たり前のように大して上等なわけもないハンバーガーを一口かじったとき。

南極にいる間誰も言ってくれず、そして何より雅人自身も忘れてしまっていた言葉が口をつく。

あえて、深い感慨など感じさせないようにさらっと口に出された瞬間、映画が終わる。

あえて、「胃にもたれる……」の時のようには、いわゆる「劇的」には描かないことが更なる味わいになっている。

 

料理が「うまい」。料理人にとって、そして人間にとっても根源的なこと。

つまり、辛さや苦しみを微笑みの下に隠し押し込めていたときだけでなく。

会心の笑みを浮かべた本さんの誕生パーティーの時も、まるで家族との食卓のように馴染みくつろいだ様子だった中華料理の時も、ラーメン作りに成功して自分の料理で救われた至福の笑みを前に浮かべた満面の笑顔の時でも……ずっとずっと、雅人から「うまい」は奪われどこかに押し込められてしまっていた。

終わってみれば、苦しく辛かったけど、喜びも楽しみもあって悪くはなかった……などとは片付けられない。

やはりまず第一に、そこにいる間は人間から根源的な大事なものをも奪い忘れさせてしまうような極限の苦しみの世界だった。

 

冒頭の繰り返しになるけれど。

終始明るくユーモアに溢れ、コミカルにおっさんたちのワチャワチャを描き出しつつ……同時に一人の人間の大事な尊厳がゴリゴリゴリゴリ削られ続け、微笑みながらそれを乗り切りつつも、ふと心が緩みようやく「帰ってきた」と思えた瞬間、そこに居た間どれだけ大切なものを封じ抑え込んでいたのかに気づく物語だと明示されたということ。

(『さかなのこ』もそうであるように)実に面白く愉しく、そして意地が悪い物語だなと思う。

 

最後に。

まず映画を観た後に原作を手にとり、このあたりを読んでいた時には大いに笑えた。

翻案の、ある種の醍醐味と思う。