アニメ映画『トラペジウム』ネタバレ感想

※2024/5/16追記

この感想記事で書いた東ユウのキャラクター解釈及び作品全体の解釈が次回の感想記事で概ね根っこからひっくり返されてしまったため、もしどちらも未読なら(こちらの感想日記でなく)「ネタバレ感想2」↓の方を(先に)読んで頂くことをお勧めします……。

 

 

 

アニメ映画『トラペジウム』についてのネタバレ感想です。
諸々、内容について大きく触れています。

また、1度映画を観た(&その後原作小説を読んだ)記憶からの感想のため、事実誤認や多くの見落とし、思い込み等があるかもしれません(恐らく、少なからずあってしまうかと思います)。
ご留意の上読んで頂けると助かります。

 

※明確に作中描写と異なってしまっていることを書いてしまっていたりした場合、コメント欄でご指摘など頂ければ助かります。
また、その他感想などもやはりコメント欄、あるいはX(旧twitter)アカウント等にどうぞ。

 

以下、目次です。

1:東ゆうは映画開始時点「以前」で一度、アイドルに挫折し打ちひしがれている

2:東ゆうは必死に自己演出しようとし、しかし全然徹底できていない。

3:映画版『トラペジウム』はとことん東ゆうの視点に寄り添って綴られている。別視点からだとおよそ別の様相をみせるということでもある。

4:およそ徹底できない東ゆうの計画と、容赦なく勝手な「流れ」に組み込み使い捨てる芸能界ひいては社会の対比

5:自己演出しそれに強い屈託を抱くのは東だけではない。北と南(特に北)、ある意味西も

6:西南北の三人も他の登場人物たちも、なんだかんだそれなりに強かに自分の「ゲーム」を生き続けている(実は東ゆうの「ゲーム」の便利な登場人物として動き続けている/そうしてくれている人物など最初からまるで居ない)

7:東ゆうは"アイドルとして、自分の持つ手札はどう組み合わようが役にならないクズ揃い"と認識しているが、しかし事実はそうでなかったと描かれる

8:東ゆうがそれぞれアイドルとして強烈な手札を持っていると見込んだ西南北の三人も、その手札絡みでそれぞれ色々と大変だったりコンプレックスまみれ

9:劇中で色々あった後に打ちひしがれ、一旦引きこもった東ゆうと母親の会話の良さ

10:劇場特典のある登場人物からのメッセージカードが面白い

11:『トラペジウム』という作品における「アイドル」とは何か、「人が光って見える」とはどういうことか(※2024/5/15 10時頃に追加、17時半頃に改訂)

 

1:東ゆうは映画開始時点「以前」で一度、アイドルに挫折し打ちひしがれている

「どうして東さんは、オーディションを受けてアイドルになろうとしなかったの? その方がよっぽど近道なのに」
 「さぁ……なんでだろうね」
(中略)
「全部落ちたなんて、かっこ悪くて言えないや」

引用は原作小説から。映画版でもほぼ同様のやり取りと独白がされている。

具体的にいつ頃のことかは分からないけれど、映画で描かれる冒頭「以前」に東ゆうはごくまっとうな方法、オーディションを受けてアイドルになろうとし、そして全部のオーディションに落ちている。

"配られた手札で勝負するしかない"という使い古された言い回しがあるけれど、アイドルに憧れる高校生(あるいは小中学生の頃から何年もかけてかの話かもしれない)の東ゆうにすればきっと"アイドルとして、お前の手札はどう組み合わせても役なんてつかないブタなんだ、クズ札しかないんだ"と烙印を押されたも同然と思える経験だったことだろう。

絶望し、打ちひしがれただろうことは想像に難くない。

 

それでも、東ゆうはアイドルへの夢を諦めなかった。

自分の手札が使い物にならないなら、強い手札を持つ他人を引き込み、自分もその外せない一員として居るグループとして手札を揃え勝負するしかない。
映画開始時点から東ゆうがその計画をはじめる「東西南北」のアイドル企画は、自分を「東」として当然の一員とするため……クズ札しか持たない自分がグループの欠かせない一員となるための窮余の一策だったに違いない。

「馬鹿で勝算のないプロジェクトだが、始める覚悟はできているようだ」

上記引用は原作小説のほぼ冒頭から。

アニメ映画版ではこうした東ゆうの地の文での独白(の多く)をあえて省き、その内面を伏せていることに一つ大きな特徴があるけれど(カギ括弧でくくられ、台詞として出されるような独白は映画版でも前述の「全部落ちたなんて、かっこ悪くて言えないや」のように口に出す独白として描かれたりもしている)。
映画冒頭時点でやはり「馬鹿で勝算のないプロジェクト」だとは思っていたに違いない(そうでなければ、それこそ信じられないホームラン級の馬鹿であり過ぎるだろう)。

それには「始める覚悟」が必要で、その覚悟は既に固めた上で自分の態度や心構えはそれに沿えているようだ……映画開始時点での東ゆうの状態と自己認識はきっと、そんな感じだったことだろう。


2:東ゆうは必死に自己演出しようとし、しかし全然徹底できていない

「馬鹿で勝算のないプロジェクト」を実現させるためには、馬鹿げた覚悟が必要になる
それはまず、自分を主人公とした自分の目的(アイドルになり、アイドルとしてやっていく)を叶えるためのゲームの駒のように他人を(そして自分自身も)見て、自分のゲームに組み込み、誘導し操っていく覚悟だろう。
そうでもしなければ遂行できない、そうすることが要求される計画だから。

 

また、全身全霊を賭けて成りたいと願ったアイドルへの夢をオーディション全落ちという形で否定に否定を重ねられた時、東ゆうの自我はもうボロボロだったことだろう。
"この世界はお前の願いを叶えるためにあるわけじゃないし、お前はハッピーエンドを約束されて歩む物語の主人公なんかじゃない"そうした否定を否定し返すには……自分を自分が演じたい主人公として受け入れてくれる場所/世界がないならば、自分で作ってしまえばいい。自分で作るしか無い。
"自分は今から始めるゲームの主人公であり、周りはそれを叶えるために便利に誘導し操るべき駒である"という妄想は、傷ついた自我を癒し立ち上がるために必要とした夢想でもあったことだろう(「癒やし立ち上がるのにはもっと別の方法もあったのでは?」というのは至極もっともな疑問だけど、幾つもありはしただろう方法の内、その一つではあったという話)。

 

東ゆうはきっと、生まれながらに他人のことが道具にしか見えない認知の歪んだエゴの塊だとか、(フィクションの人物や、時には現実の他人を非常に雑に捉え決めつける人が)いわゆる「サイコパス」(というしばしばあまりにも雑に使われる言葉)だとして片付け切って捨ててしまう類の人間ではない。
他人を(そして自分自身も)道具のように捉え扱わなければ遂行できないプロジェクト、馬鹿馬鹿しいと思いつつもそれくらいしか思いつけなかった計画をどうしても進める必要があったから、どうにかして必死にそうあろうと自己演出していただけだ。
そして、にも関わらず到底そうあり切れていなかった、大体いつ見ても徹底なんて出来ていなかった様子が描かれ続けていたのが本編の描写だろう。

 

東西南北のアイドル計画があれだけ早く破綻したのは、東ゆうが他人を道具としか見れないエゴの塊だったからではなく、むしろ自分も他人も徹底して道具扱いし切ることなんて最初からずっと全くやれていなかったからだろう(もし仮に徹底できても長くは保たなかっただろう、無理がありすぎる計画だったにしても)。

 

例えば冒頭、典型的なお嬢様学校という風情の聖南テネリタス女学院にまずは一人目、南の星を見出しにいった場面。
白く綺麗な制服のお嬢さんたちの中で、野暮ったい紺の制服の東ゆうはとても目立つ異物だ。
にも関わらず、こそこそせず、堂々と目的に向かって歩いていく……といったきっと保ちたかっただろうイメージを、この時点からもう、まるで保てていなかった。
ヒソヒソに留まらず聞こえるように交わされる疑念、そして蔑視。
おそらく東ゆう自身気にしているだろう制服のダサさを嘲笑される等の対応に不機嫌や怯えをあからさまにし、大きく舌打ちもしてしまう。

 

他人を道具のように冷静冷酷に利用し尽くしていこうというなら、まず自分自身を冷静冷酷にコントロールできないと話にならないだろうと思われるが、東ゆうは最初からこんな感じで、その後も概ねずっとそうだ。


勝手な計画に都合のよい反応を得たり展開があれば、喜びを結構はっきり顔にも態度にも出し、時には小さくガッツポーズ。逆に都合が悪い展開や想定外な事態が生じれば非常にわかりやすく不機嫌を滲ませ、すぐにピリピリし始めたりする。
たとえばボランティアで向かったキャンプで四人で同じグループに入って親交を深めようと思い描いていたのが、二人と二人で別グループに分けられてしまった時などは、もうボランティアとしてサポートすべき人たちなどそっちのけで露骨に不機嫌を撒き散らしていた。

 

これだけ上機嫌も不機嫌を露骨に示し続けていれば、西南北の三人をはじめ身近に接している人間なら、はっきりとは言わずともなんとなく東ゆうの目的なり夢なり言動の意図なりを察していくことになりそうだし、おそらくは実際そうだったことだろう。
関係破綻後の再会時に「何となく気づいてたよ」とは大河くるみの弁だけれど、他の二人もそうして口にしなくても、結構いろいろ気づいていたことだろう。
アイドルの仕事関係の芸能界のスタッフ関係者なんかにもバレバレだっただろうし(なんせ、四人の中で一人だけあんなにわかりやすくアイドル業に積極的だったりしたわけだから)、たとえば翁琉城のボランティアの老人たちあたりも色々察した上で割合温かく接していたような空気もあった。

当人は"私は冷酷非情、人の都合や痛みや苦しみなど気にせず、自分の目的のために道具として利用する……そう、私は悪い人間なんだ!"とでも思い詰め、それで罪悪感も抱いた上で押し込めて、ますますピリピリとしていた気配があるのだけれど。
そして映画は概ね東ゆう視点で進むので、その認識や感覚に大いに引きずられた映し方、印象の打ち出し方がされていたかと思えるのだけれど。
実は割合、周囲からみれば隙だらけで、むしろ時折は(上機嫌なときには)愛嬌とか、ある種の健気さとか、そうでない時にもなんかしょっちゅう明らかに無理してがんばってるな、ちょっといたましいな……といった、だいぶ東ゆうのセルフイメージとは違った見方をされていたのではとも思えてしまう。

 

東西南北のアイドル活動破綻後、三人との再会時には東ゆうは自分が続けてきた仕打ちを告白した際、きっとひどく驚かれ、怒りを買い、断罪されるのではないかと覚悟していた節がある。
東ゆう視点で綴られその認識や心情を大きく反映した映像にずっと付き合ってきた我々観客も、なんとなくそういう思いに引き寄せられる空気もあった。
でも、その後に待っていたのは驚くほど速やかで和やかな和解であったわけで。
そこに観ていて不自然だとかご都合主義みたいなのを感じた人もいるかと思うのだけれど……ここにおいて、むしろ不自然なのは東ゆうの主観で。実は少し客観的に観るならば「ああもう、しょうがねえなあ」というくらいの扱いを受けるのが妥当なくらいのところで、概ね実際そうなったということなのかもしれない。

 

勿論、三人には三人の事情や思惑があり、後に詳しく触れていくように「自己演出しそれに強い屈託を抱くのは東だけではない。北と南(特に北)、ある意味西も」ということから、三人の側にもそれぞれ東ゆうの事情や心情を理解し受け止め、それなりに共感する素地が大いにあったことも大きいと思われもするわけだけど。

 

言ってしまえば映画中盤頃までに描かれた、東ゆうの東西南北アイドル計画の短い栄光と破綻は馬鹿げた計画と自覚しながら縋らずにいられず、精一杯悪ぶったものの当人が思っている数分の一も悪(ワル)になんて成りきれず……破綻すべくして破綻した、一人の少女のお遊戯だったんだ、と総括できてしまえなくもない。


3:映画版『トラペジウム』はとことん東ゆうの視点に寄り添って綴られている。別視点からだとおよそ別の様相をみせるということでもある。

前項の最後で東西南北のアイドル活動を「破綻すべくして破綻した、一人の少女のお遊戯だったんだ、と総括できてしまえなくもない」と書いたことについて。

「そうは言っても、東ゆうの身勝手に巻き込まれ、周りは大変なことになって酷い目にあってたじゃないか!」

と文句を言いたくなる向きもあるかと思う。
でも、言ってしまえばとことん東ゆう視点に寄り添った映像だからこそ、その夢の破綻が一大事と映され、観る側の印象もひきずられているわけで。
少し視点を変えてみると、事態はおよそ別の様相を見せてきたりもする。


まず作中随一の悲劇的事態、破綻として描かれたのは勿論、大河くるみの号泣と、直後の華鳥蘭子、亀井美嘉との決裂だと言えるだろう。
一連の場面においてはずっと、総作画監督にクレジットされている、けろりらさんの絵柄が全面に押し出され、くるみの感情の爆発、蘭子と美嘉との言い争いで決定的に東ゆうが押し付けたアイドルの幻想、そして東ゆうが自分自身に求めたアイドルとしての在り方が破綻し、東西南北のアイドル計画が崩壊する様が強烈に情感豊かに、叩きつけるように描かれる。

「東さんは本当、何もわかってないわ。くるみさんは限界よ」
「そもそもアイドルって楽しくないわ」

(「アイドルって大勢の人たちを笑顔にできるんだよ?」)
「近くの人を…笑顔にできない人が?」 

これは"アイドル活動を二人も楽しんでくれている、あるいは今はまだそうでなくてもきっといつかそうなってくれる"という都合の良い幻想(東ゆうが抱えているだろう罪悪感にとっても大変都合が良い)に真正面から突きつけられた否定による破綻であり。
そこでなに一つ取り繕えない、東ゆう自身も楽しさも笑顔も……心からのものは勿論、そう装うことすら全くできない無惨な姿を晒してしまったことは、三人の脱退と共に東ゆうの心を(オーディション全落ちから、ようやくここまで立て直したというのに)再びボロボロに破砕してしまった場面でもあった。

東ゆうにとっては、間違いなく一大事、人生における大事件だ。

 

一方、例えばこれは他の三人にとってみれば、それぞれ何を意味したのだろう。

 

まず、大河くるみは確かに危うかった。
でも、こうして感情を爆発させ号泣することで、大河くるみは大河くるみの心を自ら守り抜いたということでもある。
破壊力抜群の笑顔のように、素直な心をそう表すことができることも、大河くるみという少女の掛け替えのない特質だと言えるのだろう。

「周りにいろんな人がいる環境で、あそこまで感情を爆発させられることってなかなかないと思うんですけど、だからこそくるみちゃんの辛さや限界も感じられて。それと同時にすごく大切なことでもあるなと思ってます。心が死んでしまう前に叫べることは本当にすごいことですし、あれこそくるみちゃんの本音でもあると思うので、ぜひ見届けていただきたいです」
(パンフレット掲載の大河くるみ役、羊宮妃那インタビュー)

次に、華鳥蘭子も亀井美嘉もそもそもアイドルに特に懸ける思いも薄く、「そもそもアイドルって楽しくないわ」「近くの人を…笑顔にできない人が?」とアイドルというものに、何より自身がアイドルをすることへの幻想も意義も失った所で、実のところ大した話ではない。
アイドル活動に賭けていた東ゆうと違い、別に活動するうえで取り返しのつかないような犠牲を払ってきたわけでもない。

そして三人にとって、ここで決裂してしまった東ゆうとの関係も割とすぐに雨降って地固まるくらいの和解もあったわけで……言ってしまえば「ちょっと大変だったけど、それも良い思い出」くらいの話だったりする。

 

更に言えば東ゆうにとってはアイドル活動のための単なる手段だったのが、他の誰かにとってはそうではないということだってある。
例えば大河くるみ視点からは、
"最初からやりたくなかったアイドル活動やらされてからは色々すごく嫌なことばかりだったけど。南さん家のプール借してもらって東さんと三人でロボコンに向けて二ヶ月も一緒にがんばって、準優勝できたのはすごく良い思い出!"
と東ゆうの視点とはまるで異なる思い出が当然にあるかと思われるわけで。

「くるみと仲良くしてくれた女の子は、東ちゃんが初めてだった」

上記は原作小説からの引用だけれど、映画版でもこういった台詞があったというか、むしろより強調されて出てきていたかと思う。
で、「くるみと仲良く」していた時期は東西南北のアイドル活動より前の、実は何ヶ月もに渡るアイドルやっていた時期と比べても時間としても結構長いものだったりするので、ロボコンに打ち込んだ(くるみにとっての)濃度も濃い時間だったろうこともあり、そりゃあ輝くような大事な思い出にもなっただろう、という。
ことによっては東ゆうは大河くるみにアイドルの面白さ楽しさを教え込むことは叶わなかったけどその逆に、後から振り返るなら……くるみとロボコンに打ち込んだ時間はそれ自体、東ゆうにとっても実は結構楽しいものだったと改めて思えたりすることもあるのかもしれない。

 

例えば亀井美嘉にとって、とても大事な友だちである東ゆうとの決裂はそのままだったら非常に大きな痛手だっただろうけど、「最初のファン」として東ゆうが立ち直る大きなきっかけになったりもして、むしろそれこそ雨降って地固まるでむしろ関係は深まった。
たぶん彼女にとって東ゆうとの関係性は共にアイドルをやっていく仲間同士であるよりも、ファンとアイドル/ヒーローという形のほうがずっとしっくりくるのだろうとも思われる。
あと彼女にとって、アイドルであることやアイドル活動なんかより、彼氏との関係のほうがたぶんずっと大事なことだろう。

「………でもやっぱり腑に落ちない。美嘉ちゃん、恋愛ってそんなに大事?」
「ふふっ。大切な人ができればわかるよ。東ちゃんも」

これは原作小説からの引用だけれど、映画版でも似たようなやり取りがあった気もするし、もし無くてもそこについては小説版の亀井美嘉も映画版の亀井美嘉も、言うまでもなくそういうキャラクターであるのだろうと思う。


他の事例を挙げるなら、いわば映画版『トラペジウム』はデレアニ……アニメ『アイドルマスターシンデレラガールズ』6話と似たような側面を持ってもいるのかな、と。
本田未央の主観では大失敗、大事件だけど少し客観的に外から見ればライブは成功だったし、当人の落ち込みとそこからの問題しか実は起きていなかったと作中でも7話で結構しっかり説明された顛末。

 

ちなみにこうしてデレアニ6話(~7話)の話題出したので、一応。
余談もいい所ではあるので、まあ、物好きにも興味がある方だけぜひ。

【6話(&3話)】未央、凛、卯月で三者三様のアイドル像から観る6話感想

【7話感想【前編】】7話概説&本田未央特集
【7話感想【中編】】島村卯月&渋谷凛特集
【7話感想【後編】】CP14人+Pの再出発としての7話


なお、一応付け加えておくと。
映画『トラペジウム』がとことん東ゆう視点に寄り添った映像で綴られている以上、観る側も基本的にその視点に沿って観たほうが色々と楽しい筈で。
東ゆうの視点から離れ別視点で観る試みは相応に面白いかとは思うけど(だからこそこの項でそれなりに書いても来たわけだけれど)、作品を楽しむあるべき本筋では多分無いのだろう。
あまりそうした脇道からの視点に拘泥しすぎないように……例えば「実はちょっと離れてみれば、この作品って全体がくだらない話なんだよね」などと片付けてしまうことなど無いよう願いたいとも思う。


4:およそ徹底できない東ゆうの計画と、容赦なく勝手な「流れ」に組み込み使い捨てる芸能界ひいては社会の対比


はじめてのTV収録の際にゆうが漏らす

「これが大人の世界なんだ」

自身のおよそ徹底できない……自身に言い聞かせるように悪ぶったところで言ってしまえば遊戯じみた観もある東西南北のアイドル活動計画と、容赦なく型にはめてくる芸能界/社会の仕組みの徹底した酷薄さという、作品全体に関わる大きく明確な対比を明らかにしている一言と思う。
ちなみに原作小説にはない、映画オリジナルの台詞となっている。

例えば大河くるみを追い詰めたのも東ゆうの計画などではなく、一度踏み入ったらどんどん勝手な型に嵌め込み、よいように使いまわし、しばしば使い潰す芸能界/社会の仕組みであったりした。

「わたくしたち、このままどんどん別世界へ連れて行かれるのかしら。」
「くるみは今すぐにでも逃げ出したいくらい。」
「不安な気持ちもわかるけど、これまでもなんとかなってきた。きっとこの先も流れに逆らわずに生きていけば、なんとかなってしまうのよ。」

「この前、南さんがくるみに言ったこと。やっぱりくるみは違うと思う。」
 「……」 
「このまま流れに身を任せて生きていけば、なんとかなる…そう言ってた。でもね南さん、くるみはもうおかしくなりそう。」
 「くるみさん…」 
「美嘉ちゃんが笑わなくなった。見ず知らずの人たちからの、言葉の暴力によって。芸能人ってこういうのが普通なんでしょ。」

上記は原作小説からの引用。
ただ、この「流れ」については映画版でもおそらく印象的に口にされ、提示されていたかと思う。
ちなみに東西南北としてアイドル活動を始める前は、東ゆうが広く人気がある大河くるみの参加を一番当てにしていた時も、さっと音信不通を通して逃げに逃げ、東ゆうを大いに苛立たせていたりした。
大河くるみはかなり最初の方から、東ゆうの計画に沿って思い通りになんか動いていてくれなかったという話でもある。


それと東西南北の活動を大いに揺さぶったのが、亀井美嘉の彼氏発覚事件。
小説版では割合さらりと流されたりもしている所、映画版では怒りを抑えられない東ゆうが激しくなじり、非常に不穏ないたたまれない空気を作り出したりしていた。

 

ところでここで一つ、落ち着いて考えてみて欲しいのだけれど。

"アイドルなんだから交際禁止、彼氏だなんてもってのほか"

というのは何も、東ゆうが独自に身勝手に押し付けているルールではない。
日本の芸能界、特にアイドル界隈(アイドル的な声優界隈とか他にも色々あるようだけど)での「常識」とでもいうべきものだろう。元乃木坂46の主要メンバーだった原作者高山一実にも非常に馴染み深いルールだったのだろうとも思う。

でも、そんなによく考えるまでもなく、10代(~20代)の若い(男)女にアイドルだからといって恋愛もするな、と押し付けるというのは、東ゆうが個人のエゴで色々と誘導したり押し付けたりする程度のことなどとは比較にならないくらいグロテスクな縛り付けだろう。
どう言い繕ったところで「恋愛なんてされたら「商品価値」が落ちるから」という話であるわけで。
人間をとことん商品として扱ってしまう、芸能界/社会の仕組みの酷薄さ身勝手さの表れであることは明らかかと思う。

 

それに、東西南北が内輪もめから三人がまとめて退所を希望すると、事務所はあっさり受け入れる。

形ばかりの慰留くらいはしたのかもしれないが、きっとあったとしても形ばかり以上のものではなかっただろう(そもそも、東ゆうの超積極的な売り込みにも、そんなに大歓迎という姿勢を示していたわけではおよそ無くもあった)。


東ゆうにとって東西南北でのアイドル活動がどんなに切実に大事なものであったとしても、事務所/芸能界/社会にとって、そんなことは概ねどうでも良すぎることで。
良いように使い、そして使い潰した。潰れてしまったら、はい、さようなら。
東ゆうのような不徹底などどこにもない、罪悪感なんてものもおよそない。
その対比は作品全体を通じて、明確に示されていたかと思う。


この物語の中で真に身勝手で、汚れていて、酷いものがあるとするならそれは何だったのか、明らかだと思う。

 

5:自己演出しそれに強い屈託を抱くのは東だけではない。北と南(特に北)、ある意味西も

先述したようにこの映画は東ゆうの視点に寄り添って描かれるため、東ゆうの自己演出とその屈託がとにかく強調され、西南北の三人を始め周囲はそれに振り回される一方のような印象を受けがちだ。

でも、きっとこの作品について考えていく上でとても大事なこととして"自己演出しそれに強い屈託を抱くのは東だけではない。北と南(特に北)、ある意味西も"という話がある。
三人には東ゆうの仕出かしたことを受け入れたり、理解し共感する素地が十分にある。
そう描かれているという話でもある。

 

(1)「お蝶夫人」になりたくてなれない「縦ロールの女」南の星/華鳥蘭子

南の星/華鳥蘭子はお蝶夫人に憧れそんな格好をしテニス部にいながら、部で一番下手で誰もお蝶夫人みたいだと言ってくれない。だから東ゆうが何気なく漏らした「お蝶夫人」の一言で初対面なのに一気に心を寄せていった。
他人からすれば「なんでそんな振る舞いするの?馬鹿じゃないの?頭おかしいの?」と思われるだろうことが当人にはやむにやまれぬ、馬鹿みたいにみえても切実なものであったりする……きっと散々お蝶夫人云々絡みで色々言われてきただろう華鳥蘭子には、アイドルへの資質が無いと散々に否定された(この計画の前にアイドル目指して受けたオーディションは全部落ちた)上でそれでも目指さずにいられず色々仕出かした東ゆうを、理解し共感し、その所業を受け入れる素地がそりゃああるだろうし、きっと実際にあったからあのように描かれている。

 

「縦ロールの女」は原作の章題「第一章 南の星 ~縦ロールの女~」で提示されたもの。
映画パンフレットの人物紹介でも、彼女のキャッチフレーズのように扱われている。
彼女もまた自己演出の人間……いつも憧れのお蝶夫人を、在りたい自分を意識した振る舞いをしている人間であることをよく示している言葉でもある。


(2)嫌いだった自分を変えようと、髪型や服装などだけでなく、作中で言及されていたように整形までした「善を為す女」北の星/亀井美嘉

北の星/亀井美嘉は嫌いだった自分を変えようと、髪型や服装などだけでなく、作中で言及されていたように整形までした。
ボランティアに打ち込むのも純粋な善意より、とにかく誰かに愛される自分になりたいからに見える。ボランティアに参加した東ゆうが自分の計画ばかりに夢中で、サポートすべき人たちへの対応がおざなりだったり不機嫌をあらわにしていたのを目の当たりにしても「サポートすべき人たちに失礼」みたいなことは全く言わなかった。


ただ、かつて自分を救ったヒーローである東ゆうが、自分を友だちとして……大事な存在とみてくれるか、ヒーローが認めてくれることで自分自身を認められるかばかりに拘泥して、言動もそればかりだった。最初のTV撮影の時には、東ゆうにも「なんでボランティアで繋がっているだけみたいに言ったの。大事な友だちだって言って欲しかった」と強烈に喰ってかかったりもした。


周囲をいわば自己肯定のための道具として捉え、接しているということでは亀井美嘉も東ゆうと良く似ているとすら言えなくもない。
彼氏がめちゃくちゃ大事というのもそれはそうで、自分を大好きでいてくれる彼氏は彼女の自己肯定にとってそりゃあ大事だろう、という。

 

そしていじめられていた幼い日に、関わって自分もいじめられる危険など気にする価値なんて無い、知ったことかと助けてくれた東ゆうは亀井美嘉にとってずっとヒーローで、彼女いわく「ゆうちゃんの最初のファン」。
周りからどう受け止められどう言われてもいい、という態度に憧れてそうなった亀井美嘉は、東ゆうの自分がアイドルになりたい/アイドルをやっていきたいがための傍若無人も、"そういう所もゆうちゃんらしい"と許す素地が大いにありそうだし。
そしてきっと。(また)挫折して凹んだことで。それに自分(美嘉)への仕打ちへの罪悪感からも"あのゆうちゃんが、傷つけた自分からの反応をすごく気にしてる……今、私はゆうちゃんにとって大事な存在になっている"そんなロジックですごく喜ばしいことだとすら思っていそうで、なかなかに怖い。そういうエゴや身勝手さの形もある。

 

「善を為す女」は原作の章題「第四章 北の星 ~善を為す女~」で提示されたもの。
「何の為に?」という問いを忍ばせてる、なかなかに意地悪なキャッチフレーズだとも思う。


(3)無邪気で破壊力抜群の笑顔、身も世もない号泣が作中屈指の印象を残す「萌え袖の女」西の星/大河くるみには同性の(親しい)友達がいない

西の星/大河くるみは天真爛漫な笑顔が強烈な魅力だと、繰り返し非常に力のこもった笑顔の作画でも強調されるし、東ゆうも「蘭子の強烈なキャラクター、くるみの笑顔の破壊力、美嘉の万人受けする容姿」(だったかな?記憶がやや曖昧)とその魅力を語る。
けろりらさんの絵柄全開で描かれた号泣場面も作品全体の大きな見どころのひとつ。
ここで……破壊力のある笑顔も号泣も……それが意図的でない自然に出るものであっても、他者に訴えかける強烈な自己演出になる。しばしば、当人がそう思ってなくても、そう受け取られる。


で、ロボコンに出る高専のような極端に女子比率が少ない環境だけでなく、おそらく大変幼く愛らしい容姿で繰り出す素直すぎる笑顔や号泣、それに対する世間や男性の反応や人気が「女の子の友達が出来たことない」「ゆうが最初の友達だった」という同世代の(アイドルとしてはともかく、身近な友人としてみる時の)女性受けの悪さにおそらく繋がっていて、それをめちゃくちゃ気にしていたのだろうとも思われる。


東ゆうが自分を自分勝手に利用したのだとしても(実際そうであるわけだけど)、少なくともこんな自分をとても価値のある際立って魅力的な存在だと考えて、ロボコンもアイドル活動もずっと一緒に友達として仲間として同じ時間を過ごしてくれた。同年代の同性の人間でそんな相手は東ゆうと、ゆうをきっかけに出会った他二人しかいなかった。
全然乗り気なんかじゃなかったアイドル活動に引っ張り込まれてとてもとても嫌な思いもしたし、とことん向いていないことも改めて分かってもうアイドルなんて金輪際お断りだけど、東ゆうに出会ったこと、どんな理由であれ引っ張り込まれ一緒に過ごした時間は自分にとっても悪いことばかりなんかじゃなかったよ、と。
そう受け止める心理は十二分に理解可能だし、実際概ねそういうことを作中で言っていたかとも思う。

 

「萌え袖の女」は原作の章題「第二章 西の星 ~萌え袖の女~」で提示されたもの。
なぜ同性同年代の(親しい)友達がいないのか→そういうところだよ、と言わんばかりのなかなかにえげつないキャッチフレーズかとも思う。

 


あと、流れで少し続けると。

アイドル活動をはじめてからしばらくの間の順調な日々について、東ゆうが「蘭子の強烈なキャラクター、くるみの笑顔の破壊力、美嘉の万人受けする容姿」を人気の理由として数え上げる場面。自分自身については一言も触れていない。
これは当たり前のことで、東西南北の計画の前にオーディションに落ち続けたというのは彼女にとってみれば"アイドルとして、お前の手札はどう組み合わせても役なんてつかないブタなんだ、クズ札しかないんだ"と烙印を押されたも同然だから。
SNSの反応で他三人が想像以上に世間の反応を集めているのに対し、自分一人がひどく人気が無いことを目にした時も、ろくに手を打つことがなかったのもまた当然で。自分に使える手札なんてないと思うからこそ、それぞれ強力な札を持つ三人を引き入れ、四人セットの一人になることで無理やり自分にも価値をつけた。だから、それぞれが自分の手札で自分の人気を得るとなったらクズ札しか無い自分がそうなるのは当たり前過ぎて、対策もあるわけがない、と。

 

そして。そんな東ゆうだからこそ……ボランティアで接して、文化祭の日にアイドルへの憧れを口にして"将来の自分のイメージをここで衣装を着て変身して先取りしてみよう"と言われ、一度アイドル衣装を手に取ったのに自分の義足……夢を阻むだろう大きすぎる障害に目を落とし。東ゆうに衣装を、夢を託した少女が東西南北の解散後も寄せたファンレター、曲のリクエストがどんなにか嬉しかったことだろうか、と。

四人の順調だったアイドル時代をスタートさせた場所で、三人は既に退所、東ゆうも(どれだけ悪ぶってみせたところで)罪悪感でいっぱいの中で再会した三人から仕出かした所業を受け入れられ、許されたことが。
特に(「北の星」は向こうから来たので、一人だけそうはしたことがなかった)相手の学校まで出向いて。出待ちした上でこれまで関心を向けてこなかった、相手にとっての過去の自分自身について訊ねたことで……亀井美嘉からあなたは幼い日に自分を助けてくれた時から私のヒーローで、アイドルだと。私はあなたの最初のファンなんだと……アイドルとしてクズで無価値な自分を、ずっと輝くアイドルだとみていた人間がいてくれたと聞かされた時、どんな思いでいたことだろうかと。

そんなことも思わずにはいられない。


6:西南北の三人も(他の登場人物たちも)、なんだかんだそれなりに強かに自分の「ゲーム」を生き続けている。実は東ゆうの「ゲーム」の便利な登場人物として動き続けている/そうしてくれている人物など最初からまるで居ない

東ゆうは自分の計画通りにうまいこと他人を操っていこうと彼女なりに頑張ってはいたし、彼女自身が驚くくらい幾度か都合よく目論見通りかそれ以上に話が進んだりした巡り合わせもあり、ともあれ東西南北は見事にアイドルとしてデビュー、活動を開始するまでにはなった。

ただ、少し落ち着いて見ていくと西南北の三人も(他の登場人物たちもだけど、ここでは割愛する)、なんだかかんだ各々の我や都合を通していて、東ゆうの思惑通りに素直に動き続けている/そうしてくれている人物など最初からまるで居ないことがわかってきたりもする。

 

例えば亀井美嘉は東ゆうの「最初のファン」「大事な友だち」を自認しており、彼女がアイドル活動に並々ならぬ意欲を燃やし夢を抱き自身を賭けていることも大いに察していることかと思われるのだけれど。
それはそれとして彼氏の存在を隠していたし、事務所にも東ゆうにも劇中であれだけ厳しく責められながら……恐らく、結局別れてなんかいない。
だって、亀井美嘉にとって自分を愛し自分が愛する彼氏はとっても大事だから。
それは大事な東ゆうの都合や頼みよりも、亀井美嘉にとってもっと大事な優先すべきことだから。

 

例えば大河くるみは東ゆうが四人のアイドルデビューを目指す上で、既に持っている人気とカリスマ性を三人の中で一際頼りにし、協力してくれるよう、大事な時には一緒にいて参加してくれるよう必死に頼み、連絡を取ろうとするのだけれど。
東ゆうにとって大事な時に繰り返し欠席したり、音信不通になったりしていた。
だって、大事な友だちの頼みであっても、大河くるみは嫌なものは嫌だから。

 

例えば華鳥蘭子は他の二人よりは概ね積極的に東ゆうの計画に沿って動いてくれている風ではある。ただ、蘭子はどこまでもマイペースな人間であるわけで。

「せっかくここまで来たのに辞めるっていうの?」
「そうよ。わたくしね、気づいたことがあるの。そもそもアイドルって楽しくないわ。」

おそらくもし仮に東ゆうがもっと自分も他人も巧みに道具として操るなり誘導するなり徹底してやってやりきれる人間だったとして。
それで美嘉やくるみを丸め込んでやっていくことは出来たとしても、蘭子はなんかしらのルートをたどって「そもそもアイドルって楽しくないわ」という結論にたどり着いてしまうのは防ぐことはできなさそうな気がする。
ある意味では、三人の中で本質的には一番思い通りになんてならない人物なのではないかと思う。

 

もしも東ゆうを"他人を道具のように操って自分の目的を叶えようとする化け物"とでも見立てようとするならば。
どうも、だいぶ弱い化け物でしか無い見立てにはなってしまうようだ。

 

東ゆうの"被害者"に見えがちな西南北の三人も、なんだかんだ結構自分の都合、自分の価値観、自分にとって何が大事なのかで動き続けていたし。
東西南北のアイドル計画もその破綻も含めて、それぞれの人生の物語に都合よく回収して、各々結構各々にとって悪くないだろう人生を重ねていった……というのが作中の「8年後」で描かれる様子から察せられることなのではないかとも思う。


7:東ゆうは"アイドルとして、自分の持つ手札はどう組み合わようが役にならないクズ揃い"と認識しているが、しかし事実はそうでなかったと描かれる

端的に、ラスト近く、時間が飛んでの8年後の描写から。
どんな経緯を経てかはわからないけど、東ゆうはアイドルとして大成功している。

かつてオーディションに全落ちし、アイドルとして無価値として烙印を押されたと思い込んだだろうけども。
だからこそ東西南北のアイドル計画なんて無茶苦茶で無謀な計画に縋ったのだろうけれども……ともあれ何年もの後、どうにかした、どうにかできた。

それは一時的に浴びせかけられた他人の評価なんて絶対視するもんじゃないよ、といったメッセージでもあるんだろう、きっと。


8:東ゆうがそれぞれアイドルとして強烈な手札を持っていると見込んだ西南北の三人も、その手札絡みでそれぞれ色々と大変だったりコンプレックスまみれ

「華鳥の強烈なキャラクター、くるみの破壊力抜群の笑顔、美嘉の万人受けするルックス」

と東ゆうが挙げた三人の人気の要因は、どれも面白いというか裏面があるのがポイントかとも思える。

 

まず一番分かりやすいのは「美嘉の万人受けするルックス」というもの。
作中で割合はっきり描かれた通り、髪型や服装だけでなく、整形までした結果なわけで、つまりは彼女が元々持ってた手札ではない。
東ゆうは手段を選ばずアイドルになろうとしたという自己認識だろうけど、それでもそのために整形しようとはしなかった(あるいは思ったかもしれないが、実行しなかった)ということでもある。
美嘉の過去の写真と今を見比べて「整形してる」と見て取った時には「問題ない」と判断した……他人の整形にはそう判断したし、整形も含めて美嘉が作り上げたイメージが「万人受けする」と強い武器だと見て取りつつ、自分はそうしようとはしなかったということでもある。
……ごくごく個人的には"本当に何がなんでもアイドルを目指したいが自分には武器がない、本当の本当に何が何でもなりたいんだけど……"というなら整形も普通に検討すべき一つの手段に過ぎないんでは?それの何が悪いんだろう?くらいには思うけど、それはそれとして、作中の描写としては上記のようなことが言えるだろう。

 

次に、「華鳥の強烈なキャラクター」。
蘭子は「お蝶夫人」に憧れるあまり、それに似せた髪型や服装をしてテニス部にも入ったけど。肝心のテニスは部内一ヘタで、誰も彼女を「お蝶夫人」だなんて言ってくれない。つまり、彼女には強く明確に願う「かく在りたいキャラクター」がありつつ、それを誰にも認めてもらえてなかった。
彼女自身は自分が「強烈なキャラクター」を(アイドルとしての)手札として持っているなどとはおよそ思っていなかっただろうし、思えるわけもなかっただろう。

 

最後に「くるみの破壊力抜群の笑顔」。
その笑顔にはよくも悪くも破壊力があるというか、おそらくそれもあって「萌え袖の女」たる彼女は同性の友達を持てたことがない。
彼女自身にとってはその笑顔も、けっこう大きなコンプレックスの一つだったのではないだろうかと思う。

 

つまるところ雑にまとめると……
"東ゆうがそれぞれアイドルとして強烈な手札を持っていると見込んだ三人も、その手札絡みでそれぞれ、まあいろいろと大変だったりコンプレックスまみれだったりするんだよ"
といった話になる。
8年後に結局、二度にわたり自身のアイドルとしての可能性に絶望してもうダメだと自身を決めつけただろう東ゆうがアイドルとして大成していた描写ともあわせて考えるに。

10代の頃のごくごく狭い視点や感覚で自分の可能性も他人のそれも、簡単に決めつけてしまわないでもいいんじゃないか。
可能性など微塵もないと絶望していたことだって、なんとかなってしまうこともあるし。
自分と違って恵まれていると思えてならない相手も、それぞれに色々と何やら大変さを抱えている。人間、概ねそういうものだよ、と。


なにやらまあ、作品のメッセージみたいなものをそりゃあ感じるよね、という話にはなる。


9:劇中で色々あった後に打ちひしがれ、一旦引きこもった東ゆうと母親の会話の良さ

アイドル活動が破綻し家にひきこもってしまった東ゆうが、母親に「私ってひどいやつだよね」とこぼし、それに母親が応える場面はおそらく丸々映画オリジナル。
盲目的な全肯定でない、よくよく娘を理解し、良い所も悪い所もよくわかった上で、それでも味方だと、がんばって、と伝える……映画で描かれた東ゆうという存在にとって、ものすごくありがたい理想的な母親像に思えた。
素晴らしい描写と思うし、個人的にとても好きな一幕。

 

またこの母親が娘に向ける視線と態度は年長者ならではの……つまりは10代の頃の狭い視野や感覚とある種対置されるものとも言えそうで。
若さゆえの短慮や極端さや視野狭窄、それゆえの暴走と挫折といったものにフォーカスしているように見えつつ、実はそれに対置される諸々も終盤で割合強く訴えている作品でもあるのかな、とは少し。

 

10:劇場特典のある登場人物からのメッセージカードが面白い

映画『トラペジウム』公開から間もない時期の劇場特典。
これなんだろう、と開封してみたところ、とある作中人物からのメッセージカードだった。
笑った。まず心から良かったね、と思えたし。
この人物について信じ難い程雑にしか観ようとしない観客にはいい面当てになるというか、そう目論んでないとはとても思えない。よくやるなー。
その意味する所を(めちゃくちゃ勝手に)翻訳?して、ちょうど今流行りのTVアニメの一場面に託してみると。

冗談抜きでつまりはこういう意図も(それがメインでは決して無くとも)入っていないとは思えないので、ロックだな、素晴らしい心意気だと、勝手にめちゃくちゃいい笑顔を浮かべてしまっている。

 

11:『トラペジウム』という作品における「アイドル」とは何か、「人が光って見える」とはどういうことか(※2024/5/15 10時頃に追加、17時半頃に改訂)

 

映画『トラペジウム』はきっと、アイドルという存在、その輝きやアイドルへの憧れは否定してないと言うかだいぶ肯定的で。

一方で、アイドルを商品として「流れ」に嵌め込んで扱う業界の仕組みは悪辣で熱狂的にアイドルに、その職業としての業も含め憧れるような人間でもなければ耐え難かったり「ちっとも楽しくない」代物だとも描いてるように見える。

 

ここで、後にプロ写真家になるカメラの人(工藤真司)は星/光を見つけ見出し、撮る人間であるわけで。
だから「8年後」の元東西南北の四人が集った彼の展示会に並ぶ写真は、どれも星(光)の写真。
ようするに彼はこの作品において「アイドル=光(光って見える人間)」とはなにか、という答えを提示する存在であり、「トラペジウム」という作品の題名の持つ意味も、その文脈で提示されるというか、その意味の提示がそのまま問いへの回答になってる。


四人が大河くるみが通う高専の文化祭での「10年後の自分」の企画で各々が心から願う将来の姿/夢を体現する様を彼が撮った「トラペジウム」と題された写真は光り輝く四つの星を……その構成する「不等辺四辺形。どの二つの辺も平行でない四角形(「トラペジウム」という用語の意味)」を映したもので。
光≒アイドル(という存在、その意義、その輝き)であり、そしてそれは職業でもなければ、プロかアマチュアかなんて話でもなく、そもそもアイドルという方向性である必要もなく、その人が心から願う在りたい自分を表現する姿こそが、という。


また、工藤真司が東ゆうを初めてみた時のあの挙動不審は制服が好き云々は単なるごまかしで、ようするにあの瞬間、星/光を見出すことに極めて優れた才能を持つ(まさにそれで後にプロ写真家になった)彼が、東ゆうの姿に直感的にまばゆく輝く星/光を見出していた、だからあんなにも最初から積極的に動いたということでもある。

 

一心にアイドルになりたいと願い、挫折(オーディション全落ち)してもめげずに奇妙すぎる計画一つ抱えて突き進む東ゆうの姿は、野暮な制服姿だの、アイドルという職業や称号(※)だのなどと関係なく、正に東ゆうが出会い憧れた光を放っていた……少なくとも工藤真司の目には彼女が光って見えた、「人って光るんだ」という驚きと感激はその時の彼のものでもあったんだ、という。

「……やめさせていただきます」 
『うーん、まあ、残念だけどねえ、また連絡するから、がんばってよ』
 でもきっと連絡はない。わかっていた。
 やっと掴みかけたと思っていたアイドルという称号は、私の手からするりと逃げていった。」

引用は原作小説から。この「アイドルという称号」という台詞は映画版でも同じ場面で口にされる。

 

また、例えば義足少女(水野サチ)から贈られたラジオでのファンレターと楽曲リクエストのエピソード、亀井美嘉が東ゆうの「最初のファン」だったというあたりも「アイドル=光(光って見える人間)」「人が光って見える」とは何か、という問いへの答えに連なる話かとも思う。


一方で、アイドルを商品として「流れ」に嵌め込んで扱う業界の仕組みは非常に悪辣でえげつないとも描いている。

人/ファンを惹き付ける稀有な魅力があっても嵌め込まれる型に合わないような人間(大河くるみ)にとっては耐え難いし。

恋愛禁止とか人間を商品扱いするのは非道であるし(亀井美嘉)。

「そもそもアイドルって楽しくないわ」は華鳥蘭子個人の感想というより、むしろ東ゆうみたいにアイドルに、その職業としての業も含め憧れ受け入れようと決意している人間でもなければ楽しめるようなものではない……と言いたげなところが多分にあると思う。