『冬期限定ボンボンショコラ事件』及び「小市民シリーズ」ネタバレ感想補遺または続編

こちらの感想記事

の補遺なり続編なり、そういったものになる。

 

【目次】

■1:「狐」が「狼」に抱く思いについて
■2:小鳩常悟朗と仲丸十希子について
■3:小鳩常悟朗の万能感が挫折していく様と「空」の暗喩
■4:「報い」とは。小鳩常悟朗にとっての『十日間の不思議』
■5:【余談】『冬期限定ボンボンショコラ事件』と諸作品~『象は忘れない』『存在の深き眠り』『わが一高時代の犯罪』『バナナフィッシュにうってつけの日』等

 

■1:「狐」が「狼」に抱く思いについて

「大丈夫よ。このお兄ちゃん、ちょっと人の心がわからないけど、すごく悪い人ってわけじゃないから」
(『巴里マカロンの謎』収録「紐育チーズケーキの謎」より

小鳩常悟朗は「人の心がわからない」。
それはきっと、自分自身の心も含めて。
なので小鳩常悟朗の一人称で語られるいわゆる地の文における彼自身による彼の心情は到底、そのまま文字通りに受け取るわけにはいかない。
特に小佐内ゆきに向ける感情について、その傾向が非常に強い。

 

では、どう解釈していけばいいのか。

ぼくが思うに、「狐」が「狼」に抱く思いの読み解き方は「逆読み」で片がつく。

 

ようするになんかしら大きく心が動いた時にはだいたい地の文で言い訳がましく逆のことを言ったり、本当は「それでよかった」ととっくに結論が出てることに対してしれっと「それでよかったんだろうか?」と疑問文の形でごまかしてくるので。
その反対なんだと理解したり、ああ「それでよかった」と分かり抜いているという話なんだな……と理解すればいい。
おおむね、だいたいは、きっと。

 

まず『冬期ボンボンショコラ事件』から幾つか具体例を挙げる。

三者から見れば、ぼくたちは高校入学前から交際をしていて、二年生の夏に別れ、三年生の夏に再び付き合い始めたということになる。実際には、ぼくたちの関係は「交際」の一語よりもう少しだけ複雑だ。ぼくは小佐内さんを助けるし、小佐内さんはぼくを助ける。その互恵関係のために、ぼくたちは一緒にいる。

ぼくが思うに、二人の関係を評するにはたった一語「交際」で片がつく。

ちなみにこれは別に自分の独断ではなく、作中で明快に答えが出ている話。
次の引用部分が丸々そのまんま「解答」なので。
なにが「そして、そうか」だ。

「あんたの顔は忘れない。あんたに気づいた時、すぐにでも轢いてやろうと思った。でもわたしには仕事があるし、あんたへの恨みでぜんぶ台無しにはできないって思ったら、すぐに冷静になった。でもあんたは隣に女の子を連れて、苦しいことなんて何にもないみたいな顔で、轢いてほしそうに車道に寄って、笑ってた! だからわたしが轢いたっていうより、あんたが轢かせたようなものだと思わない?」
 あの日ぼくが車道寄りを歩いていたのは、除雪された雪のせいで歩道が狭くなっていたためだ。それでも路側帯を示す白線を越えてはいなかった。……そうした反論は、胸に留める。ただ、日坂さんはぼくだけを認識し、小佐内さんは憶えていないらしい。ぼくだけで行動したタイミング……日坂さんは、ぼくと日坂和虎さんが伊奈波川ホテルで会ったその日、あの場所にいたのだろうか。こいつの顔だけは忘れないと、ぼくの顔を盗み見ていたのだろうか。
 そして、そうか。あの雪の日、堤防道路の上で、ぼくは笑っていたのか。

 

少なくとも、必要もないのに二人並んで学校から帰るというのは、以前は見られなかった行動だ。ぼくたちはたしかに、少し変わった。その変化は望ましいものだっただろうか。望ましさなんて何だかわかりもしないのに、答えが出るわけもないけれど。

つまり「答えは出ているし、それは分かりきっている」という話。
望ましい。変化の末の今をかけがえなく大事だと思っている。

こういう「はいはい、つまり、小鳩常悟朗が地の文で必死にそうやって「そうじゃない」と弁解している時は、つまりはその反対なんだな」というのは次のくだりが一番わかりやすい。

……たぶん、きっとたぶん、ぼくに小佐内さんを助けるつもりはなかったと思う。単に、自分が逃げる唯一の方向に小佐内さんがいて、小佐内さんを押す以外にできることがなかっただけなのだ。

往生際が悪すぎる。
「たぶん」も「きっとたぶん」も何もあるか。
1000%助けるつもりだったに決まってるだろ。いい加減にしろ。諦めて素直になれ。
ただ、こちらも小鳩常悟朗がまず「素直になろう」だなんてと思おうとしないやつだし、もし仮に「素直になろう」だなどと思い立っても、今更そうそうなれるものじゃないやつだというのは重々承知の上で書いてはいるのだけれども。

 そうだ。夕食まで、ぼくは三年前のことを思い返していた。日坂くんのこと……そして、小佐内さんと出会った日のことを。放課後の図書室でぼくたちは出会い、そして、お互いの目的を知った。
 ぼくたちは、本当に出会うべきだったのだろうか。
 二人でいたから、出来たこともあった。ぼくたちはお互いを利用し、時には離れ、時には元に戻って高校生活を送ってきた。けれど、もしあの放課後、図書室で小佐内さんと出会っていなかったら……ぼくはきっと、自分の失敗に打ちのめされたままでいられただろう。その方がよかったということはないだろうか?

こういった戯言にいちいち付き合うとなると、糖分過多で死にそうになる。
はいはい、その反対。
分かった。もう、分かったから。


ここで、ものすごくざっくりいえば、小鳩常悟朗と小佐内ゆきが互いに向け合う思いの大きさというやつは、きっと大体おんなじくらいなのだろうと思う。
その自覚の度合いに、絶望的な格差があるだけで。


では、強く相手を思うようになった時期はどうか。どちらが先か後か。そういったズレはどの程度あるのか。
おそらく、それもそんな大してズレてはいない。
小佐内ゆきが相当早い時点、中学三年の時に二人で「互恵関係」を結んで向き合い、そして挫折した最初の事件の途中から既に強い思いを抱き始めていただろうことは、前回の感想記事で触れた。
では、小鳩常悟朗の方はどうか。

ぼくたちはたぶん二人とも、志望校かぶりにさして感銘を受けなかった。

つまり「めちゃくちゃ感銘を受けた」と解釈してきっと、問題ない。
同じ高校を志望していると話し合った時点あたりで、小鳩常悟朗の方もだいぶ強い思いを向けていたのだろう。
もちろん、ほぼほぼ自覚無しで。

 

■2:小鳩常悟朗と仲丸十希子について

小鳩常悟朗が「人の心がわからない」というのは、こと人間心理に関しては"言外のメッセージをまるで受け取れない、察することができない"というものであるようで。
逆に言えば"口に出して間違えようもなくはっきり言われれば分かるし、一度言われたことはとてもよく覚えている"ということでもあるようだ。


例えば『夏期限定トロピカルカフェ事件』で小佐内ゆきとの「破局の場面」で言われた言葉はそれはもう、嫌になるくらいよく覚えているんだろうと思う。
その上で、それを色々踏まえた上で続けて引用する『秋期限定栗きんとん事件』の仲丸十希子との「破局の場面」を読んでいくと色々と面白くもある。

「ぼくは、ぼくたちが一緒にいる意味はないとは思わない」
 小佐内さんがはっと息を呑む。だけどぼくが続けて、 
「ただ、効果的ではなくなってると思う。確かに、小佐内さんの意見には一理あるみたいだ」
 と言うと、小さな溜息をついてかぶりを振った。
「……やっぱり、そういう返事になるのね」
「そうならざるを得ない」 
「違うの。返事の内容じゃなくて、その方法のこと。
 小鳩くん。わたし、いま別れ話を切り出してるの。別れ話って言い方がちょっと恋人っぽすぎるとするなら、関係解消を持ち出してるの。小鳩くんならわかるでしょう? わたしがずっとこう思っていたなら、どうして今日まで言い出さずにいたか」
 そんなこと。考えるまでもない。
「石和馳美を始末するまでは、袂を分かつわけにはいかなかったから」
「そう。それを、自分勝手だと思わないの? わたしが嘘をついて石和さんを陥れたことには怒ったのに」
「石和さんのことはルール違反だから、当然じゃないか。でも、小佐内さんがぼくを利用したことは、怒る筋合いじゃない」
 答えながら、ぼくはどんどん冷静になっていく。
 冷静になるべき場面ではないというのに。小佐内さんも、とても冷静だ。小学生のような顔に、冷たい笑みを浮かべている。
「ほらね。わたしたち、さよならしようってお話を自分勝手に切り出されても、痴話喧嘩もできないの。それが正しいか、妥当なのかで判断しようとしてる。考えることができるだけ。怒らないし、ちっとも悲しくないの。小鳩くんといる限り、そのままでもいいのかもしれないけど。
 ……ずっと一緒ってわけには、いかないから。
 わたし、今日、中学時代からの宿題を一つ済ませたの。ちょうど、いい機会だと思う」
 そうだね。
 もともと、過渡的な措置だったんだ、ぼくと小佐内さんが一緒にいることは。
 結論を下そう。
「小佐内さんの言いたいことはわかったよ。……別々になろう」
 それに対する小佐内さんの反応は、全く説明に困るものだった。
 目を閉じて、そして開くと、瞳の端から涙が一粒だけこぼれてきた。小佐内さんは合理的な提案をし、ぼくはそれを検討の結果受け入れただけなのに、悲しいことなんて、どこにもひとかけらもないはずなのに。小佐内さんはなぜかこう言った。
「……ごめんね、小鳩くん……」
(『夏期限定トロピカルカフェ事件』終章「スイート・メモリー」)

 

「でも、小鳩ちゃんは変わらなかった。ぜんぜん。……それでね、つい、すごく優しくて器がでっかいって誤解するところだった」
「誤解はひどいな」
 ぼくの言葉は、もう届かない。彼女はひとりで話している。
「違うよね」
「どうかな」
「違う。小鳩ちゃんが変わらなかったのは、あたしを信じてたからでも、器が大きいからでも、優しいからでもない。あたし、気づいたんだ。
 小鳩ちゃんは、最初から何も変わってない。去年、学校でこうやって、つきあっちゃおうって言ってから、なんにも。あんなにデートしたのに。いろんなとこ行ったのに。最初の日から、そのにこにこ顔が変わってない! ほら、いまも!」
 指を、つきつけられた。
 ……仲丸さん、むやみに人を指さすのは良くないよ。そんなことされたら、許さない人もいると思うよ。
 ぼくは許すけど。
 仲丸さんは、なぜか笑いかけてくる。
「ねえ、小鳩ちゃん。冗談で始まっても罰ゲームで始まっても、形だけしかないとしても、恋は恋だよ。体温が上がるもん。あたし、それが好き。でも小鳩ちゃんは違ったんだね」
 いつもの、軽い笑顔ではない。
「きみ、何? 一年かけて表情ひとつ変わらないって、ほんとどういうこと? あたし、小鳩ちゃんのこと、ぜんぜんわかんない。冷たい人ってこと? それとも、人のこと根本的になめてるの? 小鳩ちゃんには、わかってもらえないと思うけど。あたし、つきあってた子と別れるとき、いつもちょっとだけ悔しいんだ。あたしと別れた後、この人は別の子とつきあって違う顔するんだろうなって思うと、悔しかった。でも、いまはそう思わない。小鳩ちゃん、誰とつきあっても絶対変わんないから。前の彼女とも、同じ感じだったんでしょ?」
 的外れだよ。それは違う。
 仲丸さんには、一生わかってもらえないと思うけど。
 窓の外から、運動部がランニングするかけ声が聞こえる。もうそろそろ、クールダウンの時間帯だ。
「小鳩ちゃん。わかってると思うけど、もう終わり」
「うん。それはさすがにわかった」
「だからさ。最後にひとつだけ、やってみたいことがあるんだけど、いいかな」
 仲丸さんの目が、いたずらっぽく輝いている。 
「ジョーって呼んでいい? かっこいいし」
 ぼくはにこやかに、しかし即座に断言する。
「いやだ」
 仲丸さんも笑って、そして歩きだす。教室の真ん中ですれ違って、肩越しにこう言われた。
「バイバイ、小鳩ちゃん。あたしもそうだけど、きみも最低だった」
 そう、たぶんね。
(『秋期限定栗きんとん事件』下巻)

 

あえて逐一詳しく書くまではしないけれども。
仲丸さんとの別れの場面は、色々と夏期限定での小佐内ゆきとの別れの場面がフラッシュバックさせられる(ように見事に言葉を選んで描かれている)ものになっている。
だから小鳩常悟朗はそれで大きくダメージ受けつつ……そうして自分の「人間失格」ぶりは重ねつつも。
また「人のこと根本的になめてるの?」はきっと仲丸十希子が思っているよりも遥かに強烈な、ストライクゾーンど真ん中に投げ込まれた豪速球でもあったりもしつつ(なぜなら小鳩常悟朗はまさに言われた通り、仲丸十希子に限らず全般的に「人のこと根本的になめて」しまっている人間だから)。
一方で"小佐内さんは君とは違う"と、そこについてはめちゃくちゃに怒っている。
とりわけ「前の彼女とも、同じ感じだったんでしょ?」という言葉に対してはきっと「ぼくは」「許さない」と思っている。
口にされることはなかった地の文での「仲丸さんには、一生わかってもらえないと思うけど」にはきっと、強烈な怒りと拒絶が込められている。
「クールダウンの時間帯だ」などと言っているのは、内心大いに激昂して熱くなってしまっているからこそ。
小佐内ゆきに痛烈な復讐を決意させた瓜野高彦のあの行動のように、仲丸十希子も小鳩常悟朗の逆鱗に触れていた。
仲丸十希子は実はそこで、"せめて最後に怒らせてやりたい"という願いを叶えてはいる。

一方、小鳩常悟朗は仲丸十希子との交際を通じて、特にその間に聞かされた様々な言葉を通じて、小鳩常悟朗なりに苦手にもほどがある分野についての知見を少しばかり深めてもいる。
恋について。
「恋とはどんなものか」について。
恋している人間はどう振る舞うべきかについて。
そこに関して小佐内ゆきと期せずして、同じ時期に同じことに向き合っていたとも言える。

「ああ、うん」
 小佐内さんのくちびるから、小さな溜め息が漏れる。
 「本当なの。告白されて嬉しかった。瓜野くんって、ほら、結構恰好いい方で自信家だし。すぐにおつきあいすることに決めた。わたし、知りたかったの。恋とはどんなものかしらって」
 フィガロ
(『秋期限定栗きんとん事件』下巻)

だから、この大事な場面でも「言葉を選」んだ上で、仲丸十希子に教わったその言葉を用いている。

「仲丸さんとのデートは楽しかったよ。女の子のショッピングって、結構戦略的なんだね。映画を選ぶのも、話題を選ぶのも、とても楽しかった。でもぼくの本当の趣味はこっちなんだ。今夜みたいな会話の方が、解決篇の方が、何倍も昂奮する。喋らせてくれてありがとう。やっぱりこっちの方が」
 言葉を選ぶ。
「体温が上がるよ」
 月がまぶしい。
(『秋期限定栗きんとん事件』下巻)

そしてきっと、次に引用するやりとりのこともよくよく覚えていて、忘れていない。

「わかんないかなあ。小鳩ちゃん、そういうお店、よく知ってるよね。スイーツのおいしい店とか」 
「あ、うん。それなりにね」
 頷くと、胸元に人差し指を突きつけられた。
「なんで、どうして、知ってるの?」 
「……ああ」 そういうことか。
 ぼくが知る甘いものの店は、ほとんどすべて、小佐内さんに教わったものだ。
「わかった? 小鳩ちゃんがあのお店このお店って言うたびに、前の彼女の影がちらつくの。良くないよぉ、そういうのは」
 ぽりぽりと頭をかく。なるほど、そういうものかもしれない。一言もない。

『冬期限定ボンボンショコラ事件』において、小鳩常悟朗は過去の交際のことを思い出すときにも、頑ななまでに「仲丸さん」とも「仲丸十希子」とも……決してその名前を口に出さないという上に、地の文の中にすら一切出そうとしない。
それはきっと別れの場面で彼の地雷を踏んだ(「前の彼女とも、同じ感じだったんでしょ?」)ことへの、ある種の怒りと復讐でもあり。
そしてきっと、新しい彼女と付き合い始めたのなら「前の彼女の影」をちらつかせるようなことは「良くない」と学んだ、その学びを忠実に活かしているということでもあるのだと思う。

仲丸十希子との交際を経たことで、確かに小鳩常悟朗も「変わった」。
恋について、恋をしている自分の心について、恋人としてのあるべき振る舞いについて……諸々無知であるのにも程があったそんなことに、少しだけ詳しくなった。
自分との交際を通じて小鳩常悟朗が「一年かけて表情ひとつ変わらない」ことに嘆き怒った仲丸十希子も、もって瞑すべしなのかもしれない。
元気に生きていて、死んでなんかいないだろうけど。

 


あとこれは、色々と考えすぎなのかもしれないけれど。
再度引用すると。

「ああ、うん」
 小佐内さんのくちびるから、小さな溜め息が漏れる。
 「本当なの。告白されて嬉しかった。瓜野くんって、ほら、結構恰好いい方で自信家だし。すぐにおつきあいすることに決めた。わたし、知りたかったの。恋とはどんなものかしらって」
 フィガロ
(『秋期限定栗きんとん事件』下巻)

ここで小鳩常悟朗は小鳩常悟朗らしく「ああ、「恋とはどんなものかしら」って『フィガロの結婚』だな」で認識を止めているかと思うのだけど。
ここでまず「恋とはどんなものかしら」は「少女」ではなく女装した思春期の「少年」、ケルビーノが歌うもので。
ケルビーノは思春期の衝動に突き動かされて、(綺麗な)女性とみれば誰彼なしに惚れ込みそうになる人物であったりする。
また『フィガロの結婚』は当時の貴族の傲慢さを激しく批判したもので、だからこそ人気を博したことでも名高く。
その強烈に批判される傲慢を体現するのがアルマヴィーヴァ伯爵なのだけれど……「恋とはどんなものかしら」の場面におけるケルビーノは演技はしつつも、ある種の純真さと共に、ある種伯爵のミニチュアとしてその傲慢さの一端もまた我が身に帯びているようでもあり……という話があり。

つまりはここで「恋とはどんなものかしら」と言葉を出すことで、小佐内ゆきは自分と別れてすぐに他の女性……仲丸十希子との交際を始めた小鳩常悟朗の浮気性を責めてみせているようでもあったり。
その交際を通じて「恋とはどんなものかしら」と探っているのは、私だけではなく、小鳩くんもでしょう?とも言ってみせているようでもある。
そして誰かと交際しながら、相手そのものだけを見ず、いわばそれを利用として「恋とはどんなものかしら」と探るような自分たちの姿はひどく傲慢だと批判と非難を浴びてしかるべきものだろう、とも言ってみせているようでもある。


ところで、もうひとつ。
「恋とはどんなものかしら」同様に、小佐内ゆきのある種の引用癖とでもいうべきものでもう一つ非常に面白いのは三年の月日を挟んで二度口にされた、次の挨拶。


それは繰り返し繰り返し狐と狼に互いを擬してきた二人について、異なるイメージ、寓意を提示するものであることが、極めて印象的なものでもあった。

「なやましいよるの家根のうへで」「月に吠える」、「まつくろけの猫が二疋」。

「「こんばんは」
 小佐内さんは眉一つ動かさず、応じた。
「おわあ、こんばんは」
「え? いまのなに?」
「行きましょう。道はわかる?」
((『冬期限定ショコラボンボン事件』、「第四章 小鳩くんと小佐内さん」)

 

「夜明けまでは、うんざりするほど長い夜になるだろう。
 ノックもなく、ドアが静かに開いていく。廊下の明かりが部屋に指して、ぼくは眩しさに手のひらで目をかばう。
 戸口には、ファーつきのフードをかぶった姿が立っている。逆光だ------けれど、見間違えはしない。ぼくは言う。
「こんばんは」
 小佐内さんは小首を傾げ、無感動に返した。
「おわあ、こんばんは」
(『冬期限定ショコラボンボン事件』、「第十章 黄金だと思っていた時代の終わり」)

 

   猫

 まつくろけの猫が二疋、
 なやましいよるの家根のうへで、
 ぴんとたてた尻尾のさきから、
 糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』

萩原朔太郎『月に吠える』)

3年前の出会いから間もない時も。
それから3年後のこの夜にまたあらわれた時も。
その挨拶は「おわあ、こんばんは」。

3年前は「え? いまのなに?」と多分本当になにがなにやらわからなくても、この夜には違ったことだろうと思う。
小鳩常悟朗は「え? いまのなに」≒自分が相手の謎掛けのような言葉に答えられない、知恵働きでおくれをとる……そんな自分であることを許し続けられる人間ではないから。
その上で。
思いは読者にも秘されている(地の文でも小鳩常悟朗は何も語らない)。
しかし、秘されていることは、何も思わなかったということではない。

 

それに、その姿と声を聞くまでに連ねられた言葉が、いわば秘した心情を先取っているのだと思えなくもない。
夜明けまで長い夜を共に過ごしていく、ドアを開き眩しい明かりをもたらしてくれる、夜の中でも光の中でも見間違えはしない相手。

共に世間や、社会のまっとうさ、正しさからみれば病気や狂気と指さされる心を、抱えて月に吠えずにはいられないまっくろけの猫二疋。

「黄金だと思っていた時代の終わり」と題された第十章はこの二度目の「おわあ、こんばんは」でもって締めくくられる。
黄金「だと思っていた」時代は終わり、本当の黄金の光、夜明けへと歩みだす一歩がその挨拶から始まっているのかもしれない。

そして『冬期限定ショコラボンボン事件』、小市民シリーズ(の長編)を締めくくるのはこの一文。

「------夜の底から、鐘の音が聞こえてくる」

いまはまだ暗い夜の中にいる「狐」と「狼」であり、そして同時に「まつくろけの猫二匹」である二人に、除夜の鐘の音がその煩悩を払うように、あるいは新しい年を、二人を待つ夜明けを、新しい歩みを祝福するように響く光景であるのかとも思える。

 

■3:小鳩常悟朗の万能感が挫折していく様と「空」の暗喩

「全能感と裏返しの無能感、これを試練にかけることで自分を客観視することのできる視点を獲得する、そこまでの物語として〈古典部〉シリーズと〈小市民〉シリーズは考えています」
(『ユリイカ』2007年4月号/米澤穂信×笠井潔対談より)

小鳩常悟朗が抱えていた万能感がボロボロに崩れ落ちる様はまず『冬期限定ボンボンショコラ事件』において「空」の変遷でもって端的に示されてもいる。

ここでは以下の幾つかの引用の「空」に関わる部分を赤字で強調もしてみることにする。

 小佐内さんは完全に不意を打たれ、堤防道路の斜面によろめき、そのまま一瞬だけ宙に浮いた。ぼくの体当たりで弾き飛ばされたことをとっさに理解できなかったらしく、空中で、目をまんまるに見開いている。小佐内さんの手からは鯛焼きも飛んで、小佐内さんよりも遠くに飛んでいく。これはぼくの見間違いだったかもしれないけれど、小佐内さんは一秒かそこらの間に自分がひどいことをされたと気づいて、ぼくを睨んだ。ぜったいに許さないという意思を込めた、暗く静かな眼差しだった。
 小佐内さんに続いて、今度はぼくが空を飛ぶ。冬の重く垂れこめた雲が、視界いっぱいに広がる。
 これが最期に見る景色なんて嫌だな、とぼくは思った。
(『冬期限定ボンボンショコラ事件』「序章 小市民空を飛ぶ」より)

 

「聞こえていたんだけど、ぼくも行っていいかな」
 ぼくと彼らは、特別に親しいわけではないけれど、話をしたこともないというほどの仲でもなかった。グループのひとり、牛尾くんとは五月の修学旅行で班が同じだったことも、たぶんいい方向に働いた。牛尾くんはちょっと面食らったようだけれど、すぐに力強く頷いた。
 「いいぜ。人数は、一人でも多い方がいいからな」
 放課後の空は雲一つなく晴れていた。
(『冬期限定ボンボンショコラ事件』「第二章 わが中学時代の罪」より)

 

 牛尾くんは顔を上げた。ぼくもつられて遠くを見た。見晴らしがいい。街と農地が彼方まで続いている。鉄塔に中継された電線が、遙か向こうから遙か先へと延びている。六月だった。梅雨の晴れ間で、空はどこまでも青かった。
 この広さの中で、牛尾くんは明らかに、自分に何かができるかもしれないという期待感を失った。牛尾くんの心を諦めが満たしていく、その過程がぼくには見えるような気がした。
(『冬期限定ボンボンショコラ事件』「第二章 わが中学時代の罪」より)

 

「わかった。じゃあ、行こう」
「うん。校門の外で待ってる」
 人目に付くところで二人並んで行動すれば、わずらわしい憶測を招きかねない。小佐内さんの提案は、至極妥当だった。
 まず小佐内さんが図書室を出ていき、一分ほど間をおいて、ぼくも後に続く。昇降口でスニーカーに履き替え、校門へと向かう。今日もよく晴れていた。季節を少し先取りしたような入道雲が、濃い空色に立ち上っている。
(『冬期限定ボンボンショコラ事件』「第四章 小鳩くんと小佐内さん」より)

 

 渡河大橋をくぐり(アンダーパスだ!)、さらに十分、二十分と歩き続ける。当然ながら川の上には建物がないので、見晴らしがいい。初夏の曇り空は広く、彼方に山並みも見えている。
 ひとつ、わかったことがある。堤防道路は、狭い。歩道がなくなると、なおのことそう感じる。これではUターンはおろか、路肩に車を停めることさえ容易ではない。もし犯人が路上に車を放置したなら、事故発生直後に駆けつけた警察が必ず見つけただろう。
(『冬期限定ボンボンショコラ事件』「第五章 秘密さがしにうってつけの日」より)

 

「「小鳩くん。三年間でいちばん、これはずっと忘れないだろうって思う瞬間って、なあに?」
 なんだろう。
 まっさきに頭に浮かんだのは、ぼくに向かって突っ込んでくる車と、視界いっぱいに広がった、冬の重く垂れこめた雲だ。でもきっと、これはいつか忘れていくのだろう」
(『冬期限定ボンボンショコラ事件』「終章 小市民は空を飛ばない」より)


三年前、小鳩常悟朗と小佐内ゆきが出会うことになった、中学三年生での最初の事件。

この広さの中で、牛尾くんは明らかに、自分に何かができるかもしれないという期待感を失った。牛尾くんの心を諦めが満たしていく、その過程がぼくには見えるような気がした。

牛尾くんを通じ小鳩常悟朗はいずれ自身にも待つに違いない"挫折"のイメージを見ていると共に、"自分は彼と違いこの程度で挫折はしない"という傲慢な思いにも満ちている。
「空はどこまでも青かった」というのは青く拡がる若者の万能感のイメージであると同時に、その万能感を挫く世界の広さの象徴でもあり……後者は小鳩常悟朗も(小佐内ゆきも)予感し、当然にあると予測し、恐れているもの。
「季節を少し先取りしたような入道雲」や「初夏の曇り空は広く、彼方に山並みも見えている」は前者の当初晴れ渡っていた万能感の中に段々と立ち込めてくる靄(もや)であり曇りなのだろう。
それに3年前に小鳩常悟朗の心を大きく挫くに到る事件を起こしたのが「空色の軽自動車」だというのもそれに繋がるものかと思う。

 

3年前に小鳩常悟朗が結局解くことが出来ず。
それなのに彼が内心軽蔑してやまない一般人の一人に過ぎないはずの麻生野瞳は少し事情を聞くだけで一瞬で解き明かしたらしい謎……"監視カメラに映っていない「空色の軽自動車」はどこに消えたのか"は、"その持ち主は誰か"という単純極まる話、もっといえばそれは現場近くのコンビニの店員だったという、複雑な心理の綾も奇抜なトリックも一切ない、あまりにも狭い世界のつまらない現実に過ぎなかった。
世界の広さでも、多少知恵が回る程度では到底及ばない深く入り組んだ物事でもなんでもない……しかし、小鳩常悟朗を手ひどく打ち据え挫折させるには、そんなもので十分だった。
中学生、高校生として狭い世界で意気がって傲慢さを振り回していても、いつかきっと世界の広さ深さに挫折させられると予感はしていた。
でも一方で、

「わたしたち、とっても賢いわけじゃない。本当に賢かったら、もっと間違いは少ないはずだもの。自制が利くはずだもの。それになにより、誰の。それになにより、誰も傷つけずにいられるはずだわ」
「そうだね。ぼくもそう思うよ」
 だけど。
「だけど、だからといって、ぜんぜん無能だっていうのも嘘なのよ。わたしが自分で思うほど、小鳩くんが自分で思ってるほど、わたしたちが賢くなかったとしても。……やっぱり、何もできないひとだって言ってしまえば、嘘になるの」
(『秋期限定栗きんとん事件』下巻)

と思うに到ったのが、秋期限定~での一旦の着地点だったはずなのに。
いわば、

「そして、わたしもわたし。わたしの計画は、こんなにも見抜かれた。わたしたちがとっても賢い『狐』でも『狼』でもないいんだとしたら、『小市民』になろうっていうのも嘘なんだとしたら、何が残るか、ねえ、わかる?」
 本当は『狐』なんかじゃないのに自分を『狐』であると思い込んで、そして『小市民』になると宣言したんだったら。しかも、それすらも嘘なんだとしたら。
 それはまるで、綿菓子のよう。甘い嘘を膨らませたのは、ほんの一つまみの砂糖。
 何が残るか、もちろんわかるよ、小佐内さん。小佐内さんのくちびるが、ゆっくりと動く。
「残るのは、傲慢なだけの高校生が二人なんだわ……」」
(『夏期限定トロビカルパフェ事件』)

という地点に小鳩常悟朗が引戻されてしまったのが、終章でようやく小鳩がたどり着いた3年前の事件の真相の一端なのかと思う。
かつて打ちのめされた「空色の軽自動車」。
空色……どこまでも広がる青空、世界の広さだと思っていたものすら幻想で、直面させられたのはただただ「傲慢なだけ」の自分だという。
しかも無力であったどころか、謎も解決できなかったくせに、傲慢さを振り回したばかりに多くの人を酷く傷つけてしまった。そしてその報いを受けることにもなった。
他人がそれを、そうではないと、そんなものを受けるいわれはないと言っても、小鳩もさすがに殺されそうにまでなるいわれはないとは思いつつも、受けるべき報いという側面は確かにあったと小鳩常悟朗自身が思っている。

「「小鳩くん。三年間でいちばん、これはずっと忘れないだろうって思う瞬間って、なあに?」
 なんだろう。
 まっさきに頭に浮かんだのは、ぼくに向かって突っ込んでくる車と、視界いっぱいに広がった、冬の重く垂れこめた雲だ。でもきっと、これはいつか忘れていくのだろう」
(『冬期限定ボンボンショコラ事件』「終章 小市民は空を飛ばない」より)

「序章 小市民空を飛ぶ」の時の「視界いっぱいに広がった、冬の重く垂れこめた雲」はおそらくは傲慢にも今後、自身の前に広がり拓けていくと疑うことなく信じていた未来や将来がいきなり「死」という形で閉ざされようとした、その恐怖と認識とを示すものだったかと思う。

それは事故後の昏睡から目覚め、リハビリの日々が続く中で小鳩常悟朗の心から一度は去っていたものでもあった。

 看護師さんが車椅子を押し、ぼくは屋上庭園に入る。
 花の季節なら、もっと色とりどりだったのかもしれない。新緑の季節なら、目にも鮮やかだったのかもしれない。いま、十二月も終わろうとしている時期、屋上庭園はさみしかった。常緑の植物も葉がしおれ、花壇らしき場所は土がならされているだけだ。だけどぼくは、冬とはこんなに美しい季節だったのかと思った。空は澄み、太陽の光は澄んで、肌には冷風が吹きつける。
(『冬期限定ボンボンショコラ事件』「第八章 幸運のお星さま」より)

 

 看護師さんが、もう一度言う。 
「さあ、寒いですから」
 名残を惜しんで空を見上げる。ぼくは、路上に積もっていた雪のせいで逃げ場がなくて、車にはねられた。いま空は澄み切って、雪の気配もない。
 ぼくは自分の肩越しに、看護師さんを振り返る。
「ありがとうございます」 
「……」 
「いつも、ありがとうございます」
 ベリーショートの看護師さんは、優しく微笑んだ。
(『冬期限定ボンボンショコラ事件』「第八章 幸運のお星さま」より)

 

死にかけて改めて噛みしめる生の実感は、高校三年生の小鳩常悟朗に世界を美しく見せてもいた。
しかしその後、小鳩常悟朗はまさに彼が彼だからこそ、とことんまで打ちひしがれずにはいられない「報い」を突きつけられていく。
それらを経た後。
「終章 小市民は空を飛ばない」の時には「視界いっぱいに広がった、冬の重く垂れこめた雲」は「死」という恐れは今は眼前からかき消えても、自身の前に広がり拓けていくと疑うことなく信じていた未来や将来をおよそ信じられなくなった心象風景となっていたのかと思う。
今この時、小鳩の心の前にはいつか自分を打ちのめすだろう、どこまでも広い青空など見えない。
「視界いっぱいに広がった、冬の重く垂れこめた雲」……自分に見れるもの、ふさわしいものはその程度なのだ、それが愚かな自分への「報い」だと思ってしまっている。

 


■4:「報い」とは。小鳩常悟朗にとっての『十日間の不思議』

 

米澤穂信さん「小市民」四部作完結を語る 青春ミステリーの金字塔
聞き手野波健祐/2024年6月1日 10時00分(朝日新聞デジタル

 第3作「秋期限定栗きんとん事件」はシリーズ初の長編で上下巻。市内各地で月1のペースで起きる放火事件の真相を追う「ミッシングリンク」ものですね。ミステリー作家として、一度は書いてみたかったということでしょうか

 発想の元はエラリー・クイーンの「九尾の猫」ですね。事件が起きてこの中に犯人がいるという、「この中」を区切れないミステリーをやってみたかった。必然的に都市が舞台になります。2人の学年が上がっていくに従って、学園の中の話から外の世界の話にしていこうと考えていて。加えて裏テーマとして、シリーズが進むにつれて少しずつ深刻な犯罪を描こうとも思っていて、街全体を舞台に連続放火の謎を追う話にしました。

これはごくごく勝手な個人的な見立てだけれど。
「『秋期限定栗きんとん事件』の発想の元はエラリー・クイーンの「九尾の猫」」であったように。
『冬期限定ボンボンショコラ事件』の発想の元(の一つ)はエラリー・クイーンの『十日間の不思議』なのではないかと考えている。

ヴァン・ホーン家もとい日下家との間の事件の顛末は『十日間の不思議』が他ならぬエラリーだからこそ追い詰められるよう念入りに組まれた業の操り糸だったように、他ならぬ小鳩常悟朗だからこそ「報い」になるよう、天の配剤として念入りに編まれている。
ただ『冬期限定ボンボンショコラ事件』では最終的な「操り」を為す人物が「報い」の状況を作った人間でなく、小鳩常悟朗への「報い」であり「復讐」として救い出す人間になっているところに翻案の妙味があるのだとも思う。

 

具体的にはどういうことか。


詳述するのはあまりに小鳩常悟朗に酷なようにも思うので、多くは概要に留める。
つまりは、こういう構図。

 

■三年前の「報い」。かつて無自覚に日下祥太郎にしてしまったことが、小鳩常悟朗自身の身に「報い」のように降りかかる。

◯事故にあった時点で十分かわいそうなのに、未来に繋がる大事な機会を奪われたのに(その上まだ酷い目にあわせるのか)
1:中学生活の多くを懸けてきた大会に出れない→大学入試を受けることが出来ない。
2:家族関係の決定的破綻→重傷/死の危機。

◯そこまでされるほど酷いことを自分はしたのか。
1:轢き逃げ事故→轢き逃げ事故。
2:なぜそうまでするのか分からない親しくもない同級生のよる土足の調査→なぜ殺意まで向けられるのか分からない謎の害意。

◯事件を解決するためであって被害者の思いなど汲まない捜査
頼んでもいない同級生による捜査→警察による調書。

 

■土足で人の問題に踏み込み賢しらに知恵を振りかざした「報い」
・怪我で苦しみここから離れることも出来ない病室に、知らない内に事件の方からやって来続ける。
・自分自身を狙って進行する事件に(小佐内さんの介入を期に察しがつくまで)気付けなかった愚かさ。
・犯人を追い詰めたのは自身の優れた推理でも知恵でもなく、回復する自身の身体だという屈辱。

 

■傲慢に「問題や誤りや「知恵働き」を認識すらできない」他者を見下してきた「報い」

これについては特に重要かと思うので、少しだけ詳しく。

 仲丸さんとの楽しい日々については、三文字で要約できる。幸い小佐内さんが、
「それってどんな気持ちだった?」
 と訊いてくれたので、スムーズに答えられた。
「糠に釘、かな」
 他人に先んじて事の真相を言い当てたりすることは、とても楽しい一方、でしゃばりで反撥を買う。その反撥の意外な強さにぼくは怯み、頭を引っ込めることにした。そんなぼくにとって、仲丸さんは一緒にいて気楽な人になるはずだった。
 でも、褒め称えられることは嬉しく、嫌われることは悲しいとしても。
 ……気づいてももらえないというのはどうだろう。ぼくは仲丸さんに、「いやちょっと待って。いまぼくは謎を解いたんだけど、それについて感想は?」と言いたい衝動を抱えていた。結局、口にはしなかったけれど、そのもどかしさは時間と共に積もっていく。
(『秋期限定栗きんとん事件』下巻)

 

 寒さを忘れ、ぼくは訊く。
「ぼくが何をした? 殺されなきゃいけないほど、何をしたっていうんだ」
「それがわかんないことが一番許せない」
「あなたは……日坂さんは、日坂祥太郎くんの身内なんだろ?」
「あんたが祥太郎の名前を言うな!」
 日坂さんは金槌を振る。びょうという風切り音が聞こえてくる。日坂さんはマスクをかなぐり捨て、歪んだ顔でまくしたてる。
「あんたは知らないだろう。当然だよ、人には誰にだって事情ってもんがあるんだ。それはね、誰かにほいほい話したりしないんだよ。ふつうの人間はそれをわかってて、他人の事情に土足で踏み込まないよう気をつけるんだよ。でもあんたは、何も知らないくせに知ってるような顔をして、あたしらの願いを踏みつけていった。ああ、なんであんた、生きてるんだよ。もっときっちり轢いておけばよかった!」
 頭の中に、声が甦る。
 ──気持ちだけで充分だ。何もしないでくれ。
 ──気合を入れてたよ。俺の最後の大会だって言ってな。
 ──一年の頃は、いまよりもよく笑ってた気がする。
 ──日坂の親父さんは見たことがない。
 ──春の大会に行くとき、あいつはそのお守りを外した。
 ──僕、その人は先輩の妹じゃないかと思ったんです。
 ──あいつのことは誰にも言うな、警察にも言うな。
 ──それってもしかしてエーカンのエーコじゃない?
 ──もちろん息子にも訊いたよ。その上で、君の話を聞きたいんだ。
 ──あれはよくもなし、悪くもなしといったところだね。
 ──スポーツ推薦の話もあった。だけど、それも流れた。
 ──あんな目に遭って、生きてるだけで俺は充分だった。
 ──不思議な顔してるじゃないか、小鳩。
 ──まるで、自分が何をしたのかわかっていないみたいじゃないか。
 ──なあ。
 ──おまえ、
 ──鬱陶しいよ。
 ああ。そういうことだったのだろうか。ぼくがしたのは、そういうことだったのか。 おずおずと訊く。
「もしかして、日坂くんは、家族と仲が悪かったんですか」
(『冬期限定ボンボンショコラ事件』「第十一章 報い」より)

 

 たしかに、日坂くんが家族と仲が悪いのではと考えたぼくは間違っていた。仲が悪いなんてものじゃない。
 ぼくは解きたがりで、自分の知恵を誇示せずにはいられない。だけどいまだけはそのくそったれな性分のためではなく、警察が到着するまでの時間を稼ぐために、ぼくは言いたくないことを言うしかなかった。
 「ご両親は憎みあっていたんですね。そして、父親についていったあなたと、母親についていった祥太郎くんが会うことも、ご両親は許していなかった」
 ぼくを黙らせようとするように、あるいはそうすれば事実が変わるとでもいうように、日坂さんは叫ぶ。
「違う! ただ、ちょっと一時的に、悪い時だっただけ!」
 振りまわされた金槌が、びょうと音を立てる。
「立て直せるんだよ、悪い時は! だからわたしと祥太郎は相談してた。どうやったらパパとママを仲直りさせられるか、どうやったらまた一緒に暮らせるか、どうやったらわたしたちのいちばんすてきな時代が戻ってくるのか、ばれないように相談してたんだ。でもあんたが、あんたが! わたしと祥太郎が会ってることを突き止めた! それを張り紙にして、学校の前に張った! 噂になったんだよ。パパが気づいたんだよ。それでぜんぶ終わりだよ、ぜんぶ! わたしと祥太郎は、もう会えなくなった! わたしらの家族を立て直す、たった一度のチャンスだったのに!」
 金槌を持ったまま、日坂さんは自分の頭をかきむしる。
「わたしがいれば。わたしがそばにいれば。わたしたちの家族が元通りになっていれば、祥太郎はあんなことしなかった。わたしがさせなかった! あんたのせいだ。あんたが余計なことをしたから、祥太郎がいちばんつらいときに、わたしはあいつのそばにいられなかった。あんたのせいで、祥太郎は飛び降りた!」
 脳から血が引いていくようだ。その言葉だけは、聞きたくなかった。……ぼくのせいで、日坂くんは飛び降りた! 
 嘘だ。日坂さんが言うことは嘘に決まってる。しっかりしないと。言い返すんだ。小佐内さんも巻き込んでいるのに、ここで弱気になったら……本当に二人とも殺されてしまう。
(『冬期限定ボンボンショコラ事件』「第十一章 報い」より)


例えば「問題を問題と認識した上で解くことができない」ことよりも、(まさに仲丸十希子がそうだったように)「問題を問題としてそもそも認識し得ない」人間……小鳩常悟朗にとって、小佐内ゆきや堂島健吾といったごくごく僅かな例外を除くほぼ全ての人間……に対して傲慢な軽侮の眼差しを向け続けて生きてきた小鳩常悟朗にとって。
"お前こそが、目の前の問題を問題として認識できていない愚か者そのものだったのだ"と否応なく突きつけられ、逃げようもなく認めざるを得なくなかったことは何を意味したか。
小鳩常悟朗が小鳩常悟朗であるからこそ、この時、小鳩常悟朗は小鳩常悟朗を激しく軽蔑し、無価値な塵芥でしかないと思わざるを得ない。
そうでなければ筋が、論理が通らない。
小鳩常悟朗はその論理に基づく知恵働きにに己の自我を懸けてきたからこそ、その筋を、論理を裏切ることは出来ない。それは己の人生そのものの否定になるから。

しかも事態は、己を無価値だと認めるだけでは済んでいない。
人に役立ち称えられ認められるどころか、自らの愚かさ故にその認識すらできないままに自ら強引に関わりを持った相手を不条理に傷つけ、追い込み、自殺にまで走らせる大きな要因になってしまった。
それでは無価値どころか、世の中から排除されるべき有害な廃棄物ではないか。
小鳩常悟朗とはそんな存在だと言わざるを得ないのではないか……小鳩常悟朗が小鳩常悟朗である限り、自身についてそう結論付けざるを得なくなってしまっていた。

その上で前回の感想記事

「■1:最初から傲慢だった二人は、最後に到ってもやはり傲慢なまま。ただ「なんのために傲慢であるか」が変わった」の最後に触れたように。

断罪を下すべき日下祥太朗は小鳩常悟朗を「許して」しまった。
それも小鳩常悟朗が頼みともすれば誇りとする「知恵働き」即ち賢さでなく、その愚かさの証明である「治療費の話」などを理由に「許して」きた。許されてしまった。
小鳩常悟朗にその「許し」を断る権利などない。そんなことはそれこそ許されない。
しかし、小鳩常悟朗はそんな自分自身を許すことなどできない。
小鳩常悟朗の「人生観に照らせば」、彼はなにがなんでも断罪されなければならなかった。「全部が無理だった」。
しかし、その上で

「でも、もしかしたら、許さない方がよかったりするのか?」

などと言われてしまったからには、なおさらもう、断罪を乞うわけにはいかなかった。
そんなことを求めてしまうことは許されなかった。

 


ここまで書いた内容を、改めてまとめると。

 

小鳩常悟朗は人の問題に請われれば喜び勇んで首を突っ込むし、非常にしばしば、請われなくてもずかずかと土足で踏み込んで行き。
頼まれてもいないし、望まれてもいないかもしれない「知恵働き」を見せつけ、それがいかに優れたものかよくよく認識してもらった上で称賛され、そして感謝されることを切望し。
そうすることで自分は確かに、自覚している傲慢な自負、それに見合った人より優れたところのある人間なのだと胸を張って思えるようになりたい。
自分で自分を認めたいと思い続けている人間だったのだと思う。

 

しかし、人の問題に土足で踏み込むくせに肝心の「人の心」がまるで分からないがために、その面での知恵が人並み以下にしかないがために。
数々の思い違いを繰り返し、感謝されるどころか、何度も小鳩常悟朗が関わることそのものを拒んでいた相手にそれでも関わり続けた挙げ句に、わざわざ自殺を考えるまでに追い込む大きな要因を作ってしまった。
小鳩常悟朗は自分が(概ね誰しもがそうであるように)ある面において人より確かに優れ賢くありつつも、ある面においては人並み以下に劣り愚かでしかないということを突きつけられることになった。
感謝される……人に役立つ人間であるどころか、その愚かさで人を傷つけてしまう、迷惑で価値のない人間だと思わざるを得なくなってしまった。
そうして自分で自分を断罪せずにはいられない立場に追い込まれ……しかし、そこで最も彼を手厳しく裁く資格があるだろう相手に、あろうことか赦されてしまった。
その赦しを断る資格は小鳩常悟朗には無かった。
だから、受け入れたくなくてもその赦しを受け入れざるを得なかった。
そんな自分は人と深く関わるべきではない、関わる資格がない、孤独であるべきだ、それが自分が引き受けるべき「報い」だ……と思いこむようになってしまった。

 

大体、以上のようになるかと思う。

 

小鳩常悟朗が後生大事に抱えてきた万能感は、ヴァン・ホーン家もとい日下家との間の事件を通じて、かくのごとくして粉々に粉砕されることになった。
『冬期限定ボンボンショコラ事件』が小鳩常悟朗にとっての『十日間の不思議』であるという意味の過半はこのような意味ということになる。


「過半」と書いたのは残りはその「名探偵の挫折と崩壊」を経ての、小佐内ゆきによる「報い」のインターセプトと彼のための迷宮を用意しての謎の提示と解明への呼びかけ……即ち「名探偵の救済と再生」があるからで。
それについては前回の感想記事で詳述したので、ここでは言及を行わない。


■5:【余談】『冬期限定ボンボンショコラ事件』と諸作品~『象は忘れない』『存在の深き眠り』『わが一高時代の犯罪』『バナナフィッシュにうってつけの日』等

ここ以降はやや余談になる。
目次を眺め、内容を鑑みると見えてくることなのだけれど。


第一部、第二部の名称及び章題の幾つかは、個人的に推測できる限りにおいても、きっといろいろと国内外の作品を踏まえたものになっている。

もちろん、先程挙げた『十日間の不思議』や、文庫解説で挙げられている『時の娘』などそれに留まらない関連作品は数多くある上で、ここでもまた色々見て取れる、という趣旨になる。

つまり、
「第一部 狐の深き眠り」はジェームス三木によるドラマまたはジェームス三木自身による小説『存在の深き眠り』。
「第二章 わが中学時代の罪」は高木彬光『わが一高時代の犯罪』。
「第五章 秘密さがしにうってつけの日」はJ・D・サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』。
そして、
「第二部 狼は忘れない」はアガサ・クリスティ『象は忘れない』。

こういった対応関係になるかとごく個人的に憶測している。

 

他にも「第九章 好ましくない人物」は夏樹静子『ペルソナ・ノン・グラータ』かもしれない……といったようにまず第一に該当する章の本編内容と対応する作品の内容、それに「米澤穂信を作った「100冊の物語」」(「野性時代」2008年07月号掲載)をはじめ諸々の特集やインタビュー、作品、アンソロジー等から窺える作者の嗜好・傾向等を踏まえつつ幾らか憶測を広げることはできたりもするが、ここでは割愛する。

 

以下、それぞれの対応関係(への憶測)について軽く触れていくと。

 

「第一部 狐の深き眠り」/『存在の深き眠り』は小鳩常悟朗が「これは報いだ」と実際に聴いたか幻聴かも定かでない声に悩まされ続けたことに代表されるように、三年前の事件の思い出と現在の状況を行き来しつつ"自身の在り方に惑い悩む様子"に関わるものだと思う。

「第二章 わが中学時代の罪」/『わが一高時代の犯罪』は三年前の事件の手酷い失敗は小鳩常悟朗にとってなにかのきっかけに思い出してしまったなら、あるいはそうでなくとも心の底ではずっと……とてもそのままにしてはおけないくらい、たまらない恥でありアイデンティティの危機に関わるものだ……といった話かと思う。

「第五章 秘密さがしにうってつけの日」/『バナナフィッシュにうってつけの日』は小鳩常悟朗の脳裏に取り憑いて離れない「自分のせいで日下祥太郎は自殺してしまったなどという話は本当か?自分は人をそんなにも追い込んでしまうようなことを知らぬ間にしてしまっていたのか?まさか!そんなはずはない。いや、でも、しかし……」といった懊悩に関わるものかと思う。

そして「第二部 狼は忘れない」/『象は忘れない』。
人間は恨みも恩も忘れることがある。それが救いでもある。
しかし、象は忘れない。
そして、狼もまた、恩も恨みも忘れることなどない。
狼が狼である限り、けっしてあり得ない。
そして狼はきっとこれからも狼で在り続ける。
狼は忘れない。恨みには必ず復讐し、恩には必ず報いる。
そういうことなのだと思う。

 

米澤穂信という作家は自身の作品もきっとそのようにして……多くの先行作品を踏まえ、それらへの愛着や諸々のオマージュ等も大いに込めて書き綴っている事例が多い作家だと思える。
他の作家の作品を評する際にも、そうしたことを踏まえた評を書く作家でもある。
例えば北村薫太宰治の辞書』解説はその中でも特に優れたものの一つかとも思う。
北村作品について書かれた評の中で、疑いなく最良のものの一つとも思う。