山田風太郎『戦中派動乱日記』〜日付を追っての点描(2)


戦中派動乱日記―昭和24年・昭和25年

2/7の第一回に続く感想。

昭和二十四年(1959年)2月28日。乱歩の「名作四編」と題したミステリ時評を引き写している。

坂口安吾『不連続殺人事件』、高木彬光『刺青殺人事件』、山田風太郎『眼中の悪魔』、大坪砂男『天狗』を扱った評。これ以前もこれ以降も、乱歩の評が丸々引用されることが多い。風太郎の敬意の表れだろう。
そして、確かに、全引用するに相応しい、見事な内容だと思う。

3月12日。「スピロヘータ氏来朝記」の参考資料を列挙。

風太郎作品の中ではそれほど出来のいい作品ではないが、その創作の参考になる記述。

4月12日。
「余の作品の多くは悪の賛美であり凱歌である。しかしこれは今日本人が自らを劣等民族と自虐してよろこぶ(?)心理に似ている。その自嘲の裏には痛烈な涙と憤怒がある。そうでないと奥底で叫んでいるものがある。かかる逆説的な時代が日本にも余にも一時も早く去らんことを祈る」

しかし、そうした願いにも関わらず、この十四年後の昭和三十八年四月、風太郎はあの『太陽黒点』を上梓することになる。

5月22日。乱歩の有名な「探偵小説第三の山」論を引き写している。

7月5日。
「<サロン>買い来り。丹羽文雄「日本敗れたり」読。わが将来の大目的としていたものめざすは丹羽と石川か」

気になるので、早速この日記で触れられている、「サロン 第4巻第7号(通巻32号)」をネット古書店で購入してみる。届いた後に、感想をここに追記してみるか。

7月15日。
「潤一郎『盲目物語』読。中学時代に熟読せるもの、殆ど初読の如く面白し。」

7月17日。ユーゴー『レ・ミゼラブル』評。
「『レ・ミゼラブル』中巻読。中学生の頃よんで熱狂心酔。爾来、如何に人に笑われようと、これを最も愛読する小説の中にあげていたが、こんど読んでみると、やはりそのあんまり大ゲサな形容が時々ふき出したくなり、あの頃ほど盲目的に感服することを妨げるものがあるが、しかしやはり感動するところが至るところにある。特にジルノルマン老人、マブーフ老人、ガウローシュ、エポニーヌetc。」

「如何に人に笑われようと」という下りが興味深い。当時は、そうした作品を嘲笑うような文学的風潮があったのだろう。
ただ、そんなことを書く以前の問題として、『レ・ミゼラブル』は帝国劇場でのミュージカルを一度観ただけで、原作をまだ読んだことが無い。いつか読んでおこうと思う。

なお、ミュージカルには、その構成の素晴らしさ------全てが歌で綴られ、中でもジャン・バルジャンとジャベールを象徴する歌が双子のような相似形を為す見事な演出には感嘆させられた------が何より印象的だったが、オリジナル版の二人の共同演出家の一人があのトレヴァー・ナンだと知って、納得した。トレヴァー・ナン監督の『十二夜』はシェイクスピア映画の最高峰の一つだと思う。
脱線になるが、北村薫「砂糖合戦」で触れられている、デュレンマット『ロムルス大帝』が掲載されているということで手に入れた雑誌「テアトロ」の1970年3月号で、そのトレヴァー・ナン演出のRSC公演『冬物語』が取り上げられ、更に、北村薫シェイクスピアを引用する時、常にその訳を用いる小津次郎がそれを絶賛する評を寄せているのは(無論、その舞台を観たわけでもないのでよくわかりなどしないのだけれど)何とはなしに嬉しかった。
また、2005年に観たミュージカル版では、ジャン・バルジャン山口祐一郎、ジャベールの岡幸二郎が実に上手く迫力のある一方で、漠然と------特に山口祐一郎から------《いつものこと》を演っている、という空気が感じられたのに対して、エポニーヌを演じた坂本真綾の熱演が印象的だった。坂本真綾については「菅野よう子と組んだ『DIVE』『ハチポチ』というCDアルバムが面白い。特に自ら作詞もした「パイロット」や、ファイナルファンタジーⅧの名曲「eyes on me」の作詞者・染谷和美が手掛けた「24〜twenty-four」がいいと思う」ということで多少関心があったけれど(ただ、その他のアルバムは正直言ってあまり面白くない)、ミュージカルでもこれだけ力強く演じる人だとは知らなかった。興味深い人だと思う。

7月20日。
漱石『門』読。『それから』に劣ると思う。

この後も終始一貫して、風太郎の『それから』の評価は極めて高いようだ。


8月7日。
「フランス『舞姫タイス』読。

何の感想も書かれていないが、風太郎作品と風味の似た作品ではないかと思う。
『神々は渇く』といい、『エピキュロスの園』といい、この『舞姫タイス』といい、いかにも風太郎とは肌が合いそうだと思うのだけれど、どうだろうか。

8月20日。風太郎の大衆小説論。
「作家はジャーナリズムに沈没する。ほとんど例外なく、ジャーナリズムの風潮に同化する。ジャーナリズムとは編集者のつくるものである。編集者はまた儲け主義に徹底した経営者に支配される。かくて、「売れる物」でなくては話にならぬということになる。売れるものは読者の面白いと思うものである。しかし読者は創作家ではないからその面白がるものは過去にあるものの範囲をまぬかれない。故にジャーナリズムは時代の先端を切っているもののの如く見えて本質的に保守主義者である。この旧套を脱して、真に新しい面白さを読者のまえに展開することこそ、戯作者の念願でなくてはならない」

そうとなると、編集者にもなり、そして大経営者になった菊池寛という人は、やはり大変興味深い大人物だったのだなぁ、と思う。

9月7日。乱歩の「戦後派の五人男」論を引き写している。

・・・・・・しかし、乱歩というのは凄い人だったんだなぁと思わされる引用文。

9月12日。
クロフツ『樽』読。」

9月14日。
太宰治『斜陽』読、彼一代の傑作、感動せり。」

9月18日。
「『ポー全集』(佐々木直次郎第一書房版)第Ⅰ巻読。」

珍しく、風太郎が訳者の名前も併記している。
ポーは独特の文体と余りに多方面の顔を持つが故に、翻訳者の力量が試され、訳者によってイメージが大きく変わってくる度合いが非常に強い作家であるからか。


例えば、手元にある東京創元社版の「ポオ全集」1〜3巻の目次を見ると、多士済々の翻訳者の名が並んでいる。
「モルグ街の殺人」「黄金虫」「盗まれた手紙」「スフィンクス」は丸谷才一
「メルツェルの将棋差し」は小林秀雄大岡昇平という大顔合わせ(小林秀雄がここで出てくるのは、東京創元社の顧問をやっていた関係もあるのだろうか。元々若年の頃から翻訳をやっている人ではあったけれど)。
そして、「メエルシュトレエムに呑まれて」小川和夫、「赤死病の仮面」松村達雄、「黒猫」「アッシャー家の崩壊」河野一郎、「ペスト王」高松雄一、「早まった埋葬」田中西二郎、「不条理の天使」永川玲二、「鐘楼の悪魔」野崎孝・・・・・・といった具合。
中野好夫(個人的にはシェイクスピアの翻訳よりも、ギボン『ローマ帝国衰亡史』の訳者としてまず思い浮かぶ)、佐伯彰一といったあたりもそれに名を連ねている。
編集委員佐伯彰一福永武彦吉田健一
実に豪華という他無い顔ぶれだ。


・・・・・・風太郎が読んだ、佐々木直次郎訳は、それと比べてどんな内容だったのだろう?
これも、いつか調べてみる価値があるかもしれない。

9月28日。
荷風『墨東綺譚読。』
(※「ぼく」はパソコンで出力困難なので「墨」を代用として宛てた。勿論、本には正しい漢字で記載されている)

9月29日。
「『真山青果全集』第九巻読。

特に感想は書かれていないが、風太郎はこの日以外にも、真山青果の全集の他の巻にも手を出していっている。風太郎にとって、興味を引かれる素材であったのだろう。
そうした姿を見ると、自分でも、毛嫌いせず、今の歌舞伎で上演されているものとは切り離して、真山青果の作品を読んでみるべきだろうか、と思う。

ところで、正直言って、今の歌舞伎で真山青果原作の狂言を特にひねりも無くしばしば上演する神経がわからない。特に『元禄忠臣蔵』の「御浜御殿綱豊卿」(徳川綱豊卿は染五郎富森助右衛門勘太郎)などは、台詞の響きの美しさや、助右衛門の実直さと(まだ父の勘三郎襲名を機に化ける前ではあったけれど)勘太郎の真摯朴訥な個性との相性のよさなどには惹かれても、どこまでも安全圏の立場から観念的な《義》を口にする綱豊は、ひたすら卑怯な存在にしか思えなかった。
綱豊は明らかな作者の分身であり、その論は、「世の流れに対して到底真正面から批判することなど出来なかった昭和初期」という、作者の過ごした時代状況があってこそ、「そういう形でしか表現できない」という作り手側の苦しさがごく自然に観客に伝わる。時代が変わって一億総評論家、ただただ無責任な言動がはびこる現代において、青果の作品を皮肉や逆説としてではなく真正面から出してくる感覚というのは、どうしても理解できない。

文章として青果の著作を読むならば、作者の置かれた状況を念頭に置きつつ、その中での主張として変換しつつ読んでいけるかもしれない。しかし、目の前で役者が演じてイメージが押し寄せてくるとなると、そうしたフィルターを掛けるのは難しく、その主張は正に自分自身の恥部、その卑怯未練さを拡大して映されているようで、ただただ不愉快だ。劇場では、素直に(時に理屈をしっかりと踏まえながらも)理屈を越えた芸の素晴らしさに酔いに行くのであって、言わずもがなの課題を突きつけられなどするために行くのではないので、現在の形での上演は敬遠したくなってしまう。

11月25日。
バルザック『赤い宿屋』読、くだらなし。

12月13日。風太郎の女性論。女はなぜ幸福より悲劇を好むのか。

風太郎は、男性に関しては《下半身に起因する滑稽さや人間性の複雑さ》、女性に関してはその《常に他者の反応を要求・期待し、余りに環境に恬然として適応する身代わりの早さ》について、深いこだわりと興味深い考察の数々を為し、それが作品に独特の味をもたらしてもいる。
ただ、やはり、それにはフロイトユングの思想・哲学が余りに彼らの個人的な幼年時代の経験に基づきすぎているのと同様、他の事項に関する洞察と比べて、やや平衡感覚を欠いた部分があると思う。
特に、これらの日記の中でも女性に関する記述は、その結論の当否はおよそ私などの判断出来ないものとしても、そこに至る思考の過程はどうみても他の洞察より粗雑に感じられる。
井上ひさしが政治関係の話になると途端に頭の回路が変な繋がり方をしてしまうように、ずば抜けた天才といえども------あるいはそれだからこそ------どうしようもなく弱い部分というのはあるのだと思う。

12月16日。乱歩の風太郎「旅の獅子舞」評。

・・・・・乱歩はミステリ作品にある、ミステリとしての魅力を的確に指摘するだけでなく、ミステリの枠の外にある作品の魅力も嗅ぎ分けてみせている。なるほど、北村薫が惚れ込むわけだと思う。ただただ、凄い。