南條竹則・編訳『イギリス恐怖小説傑作選』〜見事な訳、見事な作品選択。

イギリス恐怖小説傑作選 (ちくま文庫)

なぜ「北村薫関連作品」のカテゴリになるかは、2006/3/19の「ミステリ読むこと書くこと〜講師:北村薫×杉江松恋」講演の記録を参照。


そして、この本に収録された作品は以下の通り。

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ「林檎の谷」
H・R・ウェイクフィールド「目隠し遊び」
ヒュー・ウォルポール「小さな幽霊」
アーサー・キラ=クーチ「蜂の巣箱」
エイミアス・ノースコット「ブリケット窪地」
H・G・ウエルズ「不案内な幽霊」
エルクマン=シャトリアン「人殺しのヴァイオリン」
アーサー・マッケン「地より出でたる」
ジョージ・ゴードン・バイロン「断章」
M・P・シール「ヘンリとロウィーナの物語」
エクス=プライヴェート・エクス「見た男」
アルジャノン・ブラックウッド「窃盗の意図をもって」
マージョリー・ボウエン「罌粟の香り」
フランシス・トムスン「闇の桂冠」


ここで、まず、翻訳・編集を行った南條竹則の優れた手腕と慧眼は、幾つかの作品の出だし数行を抜書きしてみるだけでも、誰の眼にも明らかだと思える。

ロセッティ「林檎の谷」

眠ればいろいろな夢を見る、と人は言うが、生まれてからこのかた、自分はただひとつの夢しか見ない。

ウェイクフィールド「目隠し遊び」

「ありがたい、あの田吾作どんはちゃんと道を知っていたらしい」コート氏はひとりごちた。
「『最初に右へ曲がって、次に左。黒い門がある……』と。ウェンドヴァーのあの頓馬め、六マイルも遠廻りをさせやがって。あんな手合いはこの寒さで凍えて死んじまうといいんだ。イングランドじゃ珍しい寒さだからな。実際-----死人の眼にのっけた銭みたいに冷えやがる」

ウォルポール「小さな幽霊」

幽霊だって?
私はテーブルごしにトラスコットの方を見て、急に何か彼の心を揺り動かすような話をしてやりたくなった。トラスコットは以前(まえ)にもそんな風にして、打ち明け話を誘ったことがある------あのまったくの無神経さ、こちらが何を言っても風馬牛な様子、おまえの人生劇だの悲哀だのには金輪際興味がないという態度でもって。

エクス=プライヴェート・エクス「見た男」

世の中には、えてして人に好かれる感じの良い人間で、いつでも会いたいと思うが、いなくなっても誰も気にしない------そういう消える才能を持った男がいるものだ。クラッチレーもその種族だったにちがいない。


そして、その上でこの作品の並びがまた、《芸》だと思う。
鮮烈なファム・ファタルのイメージが迫ってくる、ロセッティ「林檎の谷」から始まり、明確なイメージが《語られない》が故に、この一冊の中で最も質の高い恐怖を描き出せている、エクス=プライヴェート・エクス「見た男」に至るまでの計算され尽くされた流れは、当に手練の業。「そうそう、こういう作品集をこそ読みたいんだ」と嬉しくなってしまう。
------ただ、その後の三作品については、その配置の意味するところはわからないでもないけれど、そこまでに収録されたものと比べると、作品自体を余り好きになれない。あえて言ってしまえば、「見た男」のところまでで、この傑作選を終わらせても良かったのではないかと思う。
ともあれ、「見た男」のところまで、一冊の本としての《流れ》を意識しつつ、感想を書いていきたいと思う。

ロセッティ「林檎の谷」 〜ファム・ファタル(運命の女)幻想


解説にもあるように、この作者はまず、ラファエル前派を代表する画家の一人として有名。
そして、この小説についても、その画を観れば、直ちにその小説と画のイメージはほぼぴったりと一致して来ずにはいられない。
即ち、この選集は、極めて明確な(ロセッティが描く)《ファム・ファタル(運命の女)》というビジュアルイメージを持つ、《恐怖》を描く作品で幕を開けたことになる。


また、ここでいう《運命の女(ファム・ファタル)》というのは------彼らの画を観れば一目瞭然だと思えるが------生身の《女性》そのものを恐るべきものとして扱うのではなく、《女性》に人を翻弄する様々な要素を集約・象徴させて《運命の女》という存在に《仕立て上げた》上でそれを芸術的イメージの源泉にする、というやたらと観念的なもので、従って、この小説で描かれる《恐怖》もまた、実に観念的なものとなっている。

※参考

「Art at Dorian」の「ロセッティ」特集

特に、

ヴェヌス・ヴェルティコルディア(心変わりを誘うヴィーナス)」(1864-68)
プロセルピナ(ペルセフォネー)」(1874)
パンドラ」(1879)

……なお、個人的にはラファエル前派の画については、ロセッティよりも、フレデリック・レイトン------例えば、「イカロスとダイダロス」「燃え立つ六月」「クリュティエ」------なんかの方が好きだ、など少しばかり興味がある分野では有るけれど、この選集の感想としては単なる脱線になるので割愛する。


ウェイクフィールド「目隠し遊び」 〜かつて子供であったことのある誰もが持つ《暗闇》への恐怖


この小説には、幾つもの魅力的な表現が溢れている。
まず、冒頭の

「死人の眼にのっけた銭みたいに冷えやがる」

から始まり、

「それにしてもこの家の窓は、眉毛みたいな飾りはあるし、何だか人を睨みつけているみたいだなあ」

と引き継がれ、

「妙だなあ。夕陽のあたっているところが、みんな眼玉みたいに見える」

と《視られている》イメージが敷き詰められた後------------《暗闇》が広がる。


《視えない!!》そして、《そこに《何か(It)》がいる!!》------かつて子供であったことのあるものなら、誰もが実感できる、《暗闇》の怖さ!


そして、そうした中で出てくる、

「神経質な性質(たち)の人間だったら、うろたえちまって大騒ぎだろうな。こういう場合はそれが一番いけないんだが」

という下りがもう、たまらなくいい。
これがまた、

「迷路なんて、これに比べりゃ子供だましだな」と思った

と繋がっていく。
(俺はもう大人なんだ!暗闇なんて怖くないんだ!!)と主人公が強がれば強がるほど、彼も読者も、幼き日の理屈を超えた《暗闇》への恐怖に呑まれていく。


初読では素直にその技が醸し出す恐怖に酔い、読み返すときには、細かく仕込まれたその工夫を見ていくのが実に楽しいという、一作で二度美味しい秀作だ。

ヒュー・ウォルポール「小さな幽霊」〜《私の領域・私の懐かしきものたち》を浸食するもの


この作家は、何より『銀の仮面』の作者として知られているわけだが、この「小さな幽霊」というのも、実にそのイメージとうまく重なってくる作品だ。
------例えば、慣れ親しんだ家。故郷。家族。親友。古き日の想い出。何気ない日常の中で、自分の生活の中に自然に出来てきたルール。
そうした《私の領域》に、ある日、《何者か》が侵入してくる。それも、いかにも親しげで、丁寧で、善意に溢れているような雰囲気でもって。そして-------全ては壊され、奪われていってしまう。
このパターンの作品では、「その《何者か》がどんな存在であるか」ということと、「《その侵入を許してしまう私》の心の隙間と傷がどういったものか」(勿論、この二つはいつもセットとして在る)、というところにその作品の、その作家の個性が強く現れるが------例えば中島敦『牛人』、トルーマン・カポーティ『ミリアム』、山岸凉子『蛭子』(自選作品集『月読』に収録)------この「小さな幽霊」では、それが《時代の流れ》だとか、大人として生きる上で直面していかなければならない《世間》だとかいったものなのかもしれないと思える。「目隠し遊び」を読み、読者の中に恐怖と共に、幼き日への懐旧の想いが------意識してもしなくとも------ほのかに浮かび上がってきたところでこの作品の登場、というのは見事である一方で、いささか意地が悪いとも思えてしまう。
勿論、そんなテーマがどうこう、などということより、この作品を傑作足らしめているのは、友を失った悲嘆と、可憐な少女の幽霊の姿を描写する筆の運び、短い物語の隅の隅までに宿った神の力なのは言うまでもないけれど。

(続く。2006/3/26。)