ジョージ・R.R.マーティン『タフの方舟Ⅱ 天の果実』(酒井昭伸・訳)

タフの方舟 2天の果実 (ハヤカワ文庫SF)

ほぼ全面的に二分冊の全巻を上回る、皮肉なユーモアとますます慇懃無礼なタフの態度が印象的。

ただ、<鋼鉄のウィドウ三部作>の最後を飾る「天の果実」の最後は、物語としてのカタルシスが高まれば高まるほど、背景にある《現実》の問題のうんざりする救いようの無さが感じられて嫌だった。


個人的な思い出になるが、十年程前、大学まで内部進学という気楽な身だったので、某高校の三年向けに課せられた「自由研究」とやらで、丸一年近く、次のような言葉の洪水にとことん押し流されてみたことがあった。


緑の革命」「HYV(high-yield variety)」「国際稲研究所(IRRI)」「ロックフェラー財団」「ロバート・マルサスの『人口論』」「スウィフトの『アイルランド貧民の児童を有効に用いるための謙虚な提案』」「幾何級数的成長」「レイチェル・カーソンの『沈黙の春』」「ワールドウォッチ研究所とレスター・ブラウン所長と『地球白書』」「ローマ・クラブの『成長の限界』『限界を超えて』」「第二次世界大戦後の医療革命とそのアフリカ・東南アジア等への普及活動」「1945年以降のアフリカ・東南アジアにおける人口成長のグラフ」「1945年以降の全世界におけるGNP比の偏りの変化のグラフ」「世界銀行とその総裁ロバート・マクナマラ」……。

以上の言葉の幾つかに馴染みがあれば大体推測が付くと思うが、ようするに、ハヴィランド・タフの1/100ほどにも合理的な想像力と認識に基づく責任感を持ち合わせず、利得、善意、使命感、科学への盲目的な信仰、何より素敵な進歩史観等々に突き動かされて、今に至るまでめいいっぱい尾を引く、「タフの方舟をス=ウスラムが手に入れたらこうもしただろうか」という行動をやらかした多くの人々が現実にいたのだということを、嫌になるくらい認識させられることになったわけだ。
当時は今よりもなお数段自分が馬鹿だったこともあり------おそらくそれ以上に、あまりにもうんざりしてしまった結果-------《《何か特定の憎むべき悪役》がいてくれた方がまだ救われる》という発想に飛びついた挙句、広瀬隆『赤い楯』等のアホくさい陰謀論にまで随分惹きつけられてしまった。


しかし、その時でさえ、「この事態が利己的だが大概合理的な企業の欲求だけでなく、それに加えて-------ロバート・マクナマラを代表とする------《反省》した多くの人々による様々な《善意》を多く含んだ活動が甚大な効果を及ぼしたことが分かち難く組み合わさったことによる、誰も望まなかった結果」と思うよりは、「ロックフェラーだかロスチャイルドだかの《悪の財閥》が一貫してコントロールしてきた結果」だと思った方が遥かにマシだ、というコメントを強調して付けていた。
《誰のどんな利己的な意図であれ、しっかりと誰かがコントロールしていているのならば、その連中が問題を歪ではあっても完全に破滅的ではない形で解決してくれるだろう》という理屈になるから。


だが、ごくまっとうに考えて、20世紀でも21世紀でも、地球にハヴィランド・タフの遠い親戚筋にあたるような一族だか組織だかは存在しないようだ。
そういうわけで、「天の果実」は実に不愉快な作品だった。何をいいたいかはよーーーくわかるし、慇懃無礼さの度合いはそのまま真剣な怒りの反映だということも想像が付く。
しかし、それだからこそ、ここで絶対的な存在に自身を重ねて憂さを晴らしても仕方が無いと思わされる。辛うじて解決が努力目標として想定できる事柄を嘲弄するのはこだわりなく愉しめても、まずもって、相当様々な要因を都合よく解釈してもおよそ解決不可能な問題を空想の上で叩き放題に叩くのは、読むほうもかえって鬱屈してきてしまう。


無論、そんな精神状態で読んだ訳者あとがきのはしゃぎっぷりへの感想も最悪だった。
そんなに無条件に愉しいか、この話?


ああ、巻頭作「タフ再臨」の次のくだりなんかは、全くの他人事なので何の遠慮も引っかかりもなく笑えたんだけどね。
長い引用------特に後半はくどい描写だが、そのくどくどしさそれ自体にも溢れ出さんばかりの悪意が込められているので、省略するのは憚られた。

風光明媚をもって知られる観光惑星、聖クリストファーの騎士たちは、大型の空飛ぶ蜥蜴がはびこった結果、星系外からの客足が遠のいてしまい、その対策に頭を抱えていた。騎士達が(ひとつには惑星に与えた損害の大きさから、ひとつには想像力の欠如から)ドラゴンと呼ぶ生物への対抗策としてタフが提供したのは、ジョージだった。ジョージは無毛の猿で、なによりもドラゴンの卵を好む。ジョージのあげた目ざましい成果に気をよくした騎士たちは、代償として、やはり宇宙船を差し出した。この船は卵によく似ていた。それも、石と木で出来た卵だ。船内には、ドラゴンのなめし皮を張ったパッドの部厚いシートがならび、百本ものきらびやかな真鍮のレバーが林立し、ビュースクリーンのあるべき場所にはステンドグラスのモザイクがはめてあるほか、上等な羽目板ばりの壁には、華やかな騎士道の世界を描いた手織りの豪華なタペストリーが何枚もかけてあった。もちろん、宇宙船としてはなんの用もなさない。ビュースクリーンにはなにも映らないし、真鍮のレバーにはなんの働きもなく、生命維持装置には生命を維持する能力が無い。それでもタフは対価としてこの”宇宙船”を受け取った。



……ああ、そうか。作者が生まれ育ち、今も住み続ける国では、この描写が背景とするものも十分、現在進行形で耐え難く、およそどう楽観的に見積もっても解決し難い対象なのか。そういうことなら、ラストであれだけネチネチとやるのも《あそこだけ特別》というわけでもないのか。……文化だなぁ、まったく。
もしもイギリス人の作家が同様の構想で作品を書くのなら、これよりは大分スマートに作品を作っただろうな。