さん喬『品川心中(上・下通し)』〜金蔵をひたすら流されるふわふわした人間として描き、後半も復讐に陰惨な色がつかない独自演出。サゲもオリジナル。


「さん喬を聴く会」は去年から通い続けて五度目になる。寄席のトリでも長講で知られるさん喬師匠だが、この会ではそれに輪をかけてたっぷり演り、かつ、普段は掛けないような噺も出てくるのが嬉しい。


今回は、締めくくりに予告が出ていた『百年目』、そして、中入り前のもう一席は『品川心中』を通しで90分近い熱演(!)。
また、食い付きで出た三増紋之介さんの今まで観たことのないほどの熱演にも驚かされた。
以下、「品川心中」と「百年目」について。
※いい加減な当日の高座の記憶頼りの感想なので、色々と間違いもあるかと思います。なにかあれば、コメント欄ででもご指摘を頂けると助かります。


「品川心中」の後半部分は、陰気でかついいくすぐりも少ないため、あまり演じられることが無い。
そこを演じるにあたっての工夫と方針は、オリジナルのサゲと、それにも関わる金蔵の独自の性格付けだったらしく、変わった味付けが楽しめた。


というのは、さん喬師匠の金蔵がひたすら流されるふわふわした人間で、後半も復讐に陰惨な色がつかない。お染に騙されて心中しかかったように、その報復も本人は一晩明けた次の日は「まぁ、しゃあないか」という気分にになってしまうおめでたさ。
別にしたくもなかった心中とまさに同じように、その報復も勝手に盛り上がってしまった親分に引きずられていくという体たらく。
落ちもその性格に沿った間抜け振りをさらしての軽いものにされた。これはこれで、面白い。


ただ、一つ思ったのは、特に通しでやるなら、海に落ちた金蔵にお染がかける「お上がんなさいよう」は色々な意味で効いてくる言葉だと思う(後で詳述)。これは《今の客には通じない(「お上がんなさいよ」が「登楼(あが)る=女郎屋に入る」に通じる)》ということで流してしまうのではなく、枕で仕込んででも強調すべきところだったのでは。


まず、金蔵の呑気さと、ひたすら周りに流されてしまう性格の描写。

お染に呼ばれ、やれ嬉やと駆けつけての表情。やにさがって蕩けんばかりの風情で、実にいい気なもの。すっかりのぼせてしまう姿が、たれ目気味のこの人の風貌に似合って楽しい。さん喬師匠、この金蔵の一時の幸せを結構たっぷりと演っていく。


さて、そこで持ち出される心中話。ここの「幾ら足りないんだよう。言ってみなよ。二百両か?三百両か?」「四十両ばかりだよ」「えっ…………そいつぁ、無理だ」といったやりとりからの、

「二百両なんかだと初めから手が届くわけが無いんだけど、四十両だとひょっとするとどうにかなりゃしねぇかと思ってびっくりしちまった」
という心理描写がなんとも巧い(この下りもさん喬師匠独自のもの??)


その後、心中のための準備にかかる段からは、金蔵の呑気さ、間の悪さが強調される。
心中のための刃物としては通常匕首(あいくち)を用意するところを、鞘ばかり長くて刀身はドス以下という妙な駄目刀を仕入れてしまう。暇乞いにいった親分の家では肝心の相手は外出中で、おかみさんに言伝を頼むことに)。かつ、長い鞘を最近塗りなおしたへっついにぶつけかけて文句を言われたり、それで外に置いた刀を忘れていってしまったりする。
※ちなみにこのくだり、他の演者では普通、親分本人が出てきているし、匕首を用意していくと思う。得意としている"おかみさん"役を演じたかった?あるいは、ここで生活感漂うおかみさんが出てくるのは、なんだか妙に強調される"へっつい"なども含めて、きちんと日常を生きている親分一家とどこまでもふらふらとした金蔵の対比という構造なのだろうか?

準備を終えて戻ってきた金蔵に、お染は「どうせこれから死ぬんだから」と「今日は勘定を気にせず、じゃんじゃん食べて飲んでおくれ」と勧めさせる。ここで金蔵、食べに食べ、飲みに飲む。「こんなに食ったのは初めてだ」とすっかり満足、膨れ上がった腹を抱えてグーグーと寝入ってしまう。まことに太平楽なもので、「間もなく心中する」という悲哀などどこにもない。
この人物、ひたすら《今》しかない人なのだ。しかも、良いも悪いもただ状況に流されるがまま。さん喬師匠は徹底してそういう人物として、金蔵を描いていたように思う。


そして、いよいよ心中。
ここの場面で、圓生芸談に、

「突きおとした金蔵に声をかけているうちにじれったくなったお染が「早くお上ンなさいよう」という場面がありますが、ここなどは昔ならどっとくる所ですが、もう今では説明されなければわからないでしょう。
 といいますのは、この「お上ンなさいよう」というのは遊女が客を引くときのいわば常套語で、一方が溺れてバタバタもがいているのにそういう甘えた声になっているところがなんともおかしいわけで、遊女の性質をよくあらわしております」
(『圓生古典落語②』集英社文庫・「こぼれ噺(「品川心中」)」p48)
というものがある。
さん喬師匠はここは結構あっさり流したように感じた。サゲの変更でも触れていたように、「今では説明されなければわからない」ことを嫌ったからだろう。ただ、ここはマクラで「説明」してでもしっかりやることに意味があるようにも思う。
というのは、この一節は芸談にある、
①この場での言葉遊びのおかしさ。
②遊女稼業の業の深さ------お金がなんとかなったと聞いた途端、悔しさ寂しさ恥ずかしさによる死の覚悟から、すっかりこれまで通りの生活に戻ってしまっている。
ということも勿論のこと、それに加えて、
③続く展開との絡みでのおかしみ------「品川心中(下)」で、本当にここで掛けられた通り、死んだと思っていた金蔵が「登楼って」来ることになる。皮肉な面白みと、そのときお染が感じた恐怖の一端を担うことにもなるのでは。
④お染の零落ぶり------「お上ンなさいよう」という客引きは、遊女でも格の低い者がやることでは。お染は店で一番人気の板頭(いたがしら)。落ちぶれたとはいえ、実際にそんなことは長らくやったことがない筈。こんな時に思わずそんな言葉が出てしまったのも、かつての人気を失った焦りの一つの現われなのかもしれない。
といったことも考えられれたりもするので。
③は、(下)をやるならば是非考慮して欲しい要素だし、②の冷たさはこのくだりを強調しなくても、話の流れだけで「ひどい女だなぁ」という印象は大きく出てくるけれど、④も同時にフォローすることで、お染の側の事情も聴く側に伝わってこないでもないのではと思う。


ともあれ、噺はまだまだ続く。
さん喬師匠は遠浅の品川の海から這い上がってからの「犬の申し送り」の部分もたっぷりと演り(この強調は後述するサゲの変更の伏線でもある)、その後の親分の家でのドタバタは更にしつこいくらいに語りに語った。中でも、慌ててサイコロを飲み込み、一つ吐き出したところで「まだもう一つ飲み込んでる……」ときて、わっ、と吐き出しながら「今度は半だ!」と叫ぶ男の姿はすこしばかり楽しい。こうした場面での滑稽味の強調も、金蔵の描き方とうまく連動していると思う。


そうしてバタバタとした中、一眠りして次の日。金蔵、すでにもう、昨日のことは昨日のことで、(まぁ、いいか)とでも思っていそうな風情。しかし、話を聞いた親分の方が収まらない。気乗りしなさそうな金蔵をたきつけ、仕返しの計画を練り上げる。そうなればなったで、ここでもまた場に流されて乗り気になっていってしまう金蔵の姿がおかしい。


その後は、手伝いに連れて行った子分が割り当てられた台詞をひどい棒読みをしたりしながら、見事にお染に髪を落とさせ、「せめて手を合わせてやってくれ」といって金蔵を突き落とした桟橋まで連れてくる。そこで仕上げに金蔵に突き落とさせる、という手筈だったのだが、そこで突然、犬が吠えかかる! びっくり仰天した金蔵、そのまままた海に落ちてしまってサゲ。その滑稽な間抜けぶりに、後味の悪さが多少薄れた幕切れになった。


ただ、約一時間半にも及ぶ長講で、客席はやや疲れ気味。その様子をみたさん喬師匠、後になって「普通のサゲの「比丘(びく)にしやがった」というのが今じゃあ伝わらないだろう、ということでサゲを変えてみたりして、通しでやってみたんですがね……。皆さん、お疲れのようで。もうやめとこう」とややくさり気味。
うーん、個人的には、去年のこの会での『柳田格之進』のような超名演では無論なかったけれど、さん喬師匠らしい味が随所に出た悪くない高座だったと思うのだけれど。


以上、『品川心中』について。
『百年目』については、もう少しあとにまとめる……予定。
概要としては、

①寄った大番頭の遊びを仮名手本忠臣蔵の「七段目」の趣向とした工夫の面白み。
②大番頭の苦悩の夜、憔悴から最初の悪夢へすっと入っていく流れの見事さ。
③大旦那の目下の者たちへ《露を下ろす》ことを強調した説教。
④今回のさん喬師匠の高座と較べつつ、圓生の『百年目』について今まで考えてきたこと、今回新たに思ったこと。
等について書いていければ、と思う。