『マッドマックス:フュリオサ』のディメンタスというキャラクターと「この狂気の世界では「希望など無い」のか?」という問いについて。

目次

1:ディメンタスというキャラクターの何に惹かれるか。特に考えずには居られなかった作中の二箇所の場面について。
2:ディメンタスは「この狂気の世界では「希望など無い」のか?」という問いを突きつけ最終的に「俺に相応しい最期を用意できるか」が解答提示になると宣言する存在。
3:フュリオサの解答と問いの超克≒作品の答え
4:ディメンタスの羽織るマントが白いパラシュートである意味
5:「ファム・ファタル」という概念そのものに批判的である『マッドマックス:フュリオサ』
6:ディメンタスとオクトポスの違い
7:ディメンタスとジャックの相違
8:ディメンタスとイモータン・ジョーの為政者としての格の違いについて
9:ディメンタスはなぜそんなにもフュリオサ=リトルDとジャックの二人を許せなかったのか
10:ディメンタスは何に「飽きた」のか

1:ディメンタスというキャラクターの何に惹かれるか。特に考えずには居られなかった作中の二箇所の場面について。

『マッドマックス:フュリオサ』。
劇場での初見時から一番気になって仕方がなかったのは「ディメンタスというキャラクターは一体どういう人物だったのだろう」ということだった。
フュリオサよりも一層強く、その魅力と謎に強く惹き寄せられずにはいられなかった。

 

彼について考えずに居られなかったのは特に、次の二点。

 

まず一つ目は「ディメンタスは何に「飽きた」のか」。
フュリオサとジャックを捕え、ジャックを曳き廻し犬をけしかけ惨殺し、フュリオサ=リトルDの千切れかけた腕に鎖をかけて吊るし……その狂騒の時間が過ぎていった中、一言だけポツりと漏らした「飽きた」。ディメンタスはここで何に「飽きた」のか。

 

続いて二つ目は「ディメンタスはなぜそんなにもフュリオサ=リトルDとジャックの二人を許せなかったのか」。
やはりフュリオサとジャックを捕えた場面の話なのだけれど。
ディメンタスはなぜ、二人をこんなにも必死に追い、捕え、怒りをぶちまけたのか。
なぜ、そんなにも二人を追いかけずにはいられなかったのか。
なぜ、どうしても二人をそのまま行かせてやれはしなかったのか。
その場面において、ディメンタスは占領したばかりの「弾薬畑」をめちゃくちゃにされたことよりも遥かに強く、二人の在り方をこそ許せないようだった。
ディメンタスはここにおいて、何を許せなかったのか。

 

色々と考えを巡らせた後も、やはりディメンタスというキャラクターに惹かれずにいられない理由はその二点に集約されるようだった。

 

ディメンタスは言ってしまえば、いわゆる「格が高い」とはいえない悪役で。あまりに刹那的でその場その場の思考・計画しかできず、持続性と継続性、そして忍耐と無縁で……だから短期はまだしも、中長期的には何もうまくやっていける訳がない。それはフュリオサと対照させて彼の言動を観ていく時、あまりにも明らかだ。

自分が狂い切ることも部下を狂い切らせることも、良くも悪くも出来ない。そこにおいてイモータン・ジョーとの格の差を最初の邂逅時からどうしようもなく突きつけられた存在でもある。

その癖、空疎な演説で場の空気を掴むことには妙に長け、その言葉や全身から滲み出る奇妙なユーモアと愛嬌で周囲を惹きつける……しかし、フュリオサとジャックが結んだような互いを絶対的に信頼し決して裏切らないような関係性を、誰とも築くことは出来ない。器の小さなデマゴーグで、肥大した自己愛の化け物。

ただ、ディメンタスは自分自身がそうであることを痛いくらいよくわかっていた人間でもあるのだと思う。そこにこそ、彼の面白みも悲哀も魅力もある。そう思う。

 


この感想日記ではディメンタスという悪役の人物像と作中における存在意義について考えたことをまとめ、また、ディメンタスとの対照で浮かび上がるフュリオサの人物造形(逆に言えばフュリオサとの対照で浮かび上がるディメンタスの人物造形)等にも触れつつ、最後に改めて最初に提示したディメンタスについての二つの疑問について書いてみたい。

 

2:ディメンタスは「この狂気の世界では「希望など無い」のか?」という問いを突きつけ最終的に「俺に相応しい最期を用意できるか」が解答提示になると宣言する存在。
3:フュリオサの解答と問いの超克≒作品の答え


作中におけるディメンタスというキャラクターが果たした/果たすべき役割は明確だったかと思う。

ディメンタスはフュリオサに「この狂気の世界では「希望など無い」のか?」という問いを突きつけ、最終的に「俺に相応しい最期を用意できるか」が解答提示になると宣言する存在。
それにフュリオサはどう答え、問いをどう超克してみせたか。
それが作品のテーマの提示ともなれば、いわば作品の出した答えにもなっている。

 

フュリオサはディメンタスに「最期を迎えさせないことを選んだ」上で「彼自身(特に彼の肥大した自我≒男根)を希望の苗床とする」ことにより、問いを超克する答えとし、自身がディメンタスとは違う存在であることを示した。「お前は俺と同じだ!」というディメンタスの渾身の呪詛をはねのけてみせた。

 

「俺に相応しい最期を用意できるか」と要求され「最期を迎えさせないということを選んだ」=「最期を迎えられないという最期を用意した」というのは、イモータン・ジョーに「ウォー・ボーイズたちから一人選べ」と問われディメンタスが「選ばないということを選んだら?」と返し「真実には辿り着けぬ」と返されたやり取りを前振りとしている。
ディメンタスはそれで折れて要求通り選んだのだけれど、フュリオサはディメンタスの要求など拒み、「最期を迎えられないという最期」を用意してやった。
それによって"希望は在る。今ここに"という「真実」に辿り着いてみせた。

 

「この狂気の世界では「希望など無い」のか?」はディメンタスがフュリオサに投げかけた問いであると共に、おそらくは作品が観客に投げかける問いでもある。
"希望は在る。今ここに"。それが「真実」であり、一つの「答え」なのだろうと思う。

 

なお、これに関連して。この作品において世界の希望を象徴する場所として「緑の地」があるわけだけれども。
それについて非常に興味深い話が映画パンフレットのなんと「前田真宏特別インタビュー」の中で触れられている。

「そこからディメンタスの死体を持ち帰って、彼女は宝物だった桃の種を植え、大きな木が実って、小さな「緑の地(グリーン・プレイス)」ができる。地球上には砦(シタデル)の中にしか「緑の地」は残ってないんです。『怒りのデス・ロード』で、実はフュリオサは途中で気づかないうちに「緑の地」を通っているんです。腐った沼地を通るシーンで、一本の木にウォー・タンクをウィンチにかけて引き倒しますよね。あれが「緑の地」の最後の木なんです。それを自分も知らないうちに倒してしまったんですよ」
「------そんなドラマチックな設定があったんですね!」
「映画の中でミラーさんは、なにも触れないところがすごいなと思いました。本来は大事な場面なのに。あのシーンで、「緑の地」は地球上から消え去ったんですけど、実はシタデルの中に一本の木があった。これは「緑の地」の生き残りなんだよっていう」
(※引用終わり)

先に書いた「この狂気の世界では「希望など無い」のか?」という問いに、「彼自身(特に彼の肥大した自我≒男根)を希望の苗床とする」ことで"希望は在る、今ここに"と答えてみせたという話は「緑の地≒世界の希望」を巡る上記の話を踏まえると、よりわかりやすくなるかと思う。

 

またイモータン・ジョーとディメンタスの争いは作中において「荒れ地を巡る40日戦争」と総括されているところ。
いわゆる「荒野の誘惑」もキリストが40日間に渡り荒野に留まりサタンの誘惑を退けたという話なのだけれど。

 

あるいは単なる戦争の勝敗以上に、フュリオサがディメンタスによる誘惑……復讐に溺れることで「お前は俺と同じ」になるを退け、その問いを超克する答えを出して見せたことにこそ、大きな意味があったのかもしれない。


4:ディメンタスの羽織るマントが白いパラシュートである意味

ディメンタスの羽織っている白いマントはパラシュートであり(これは映画本編で幾度も映像の上で描写されていることだし、映画パンフレットでもそう明記されている)。パラシュートとは命を危険に晒す危機からの脱出のための道具だ。
では、それを象徴的に身にまとい続けていたディメンタスは何から「脱出」したかったのか。


それはきっと、この狂気の世界からの「脱出」であり。そしてそれより何より「(フュリオサの「ママと恋人を亡くした痛みと苦しみ」と同じく)大事なものを喪った癒えることも忘れることも出来ない苦しみから「脱出」したかったのだろうと思う。
それはきっと、ディメンタスが背負い縋(すが)り続けた希望だった。

それが例の迷子のウォー・ボーイズとの遭遇から、「仲間を呼び寄せる」という赤い信号弾により髪とゴーグルごとマント=パラシュートも赤く染まってしまう。
狂気の世界の中で「脱出」という白い希望を抱いていたディメンタスは、「希望など無い」狂った世界に染まりその仲間となってしまう。

 

その後、砦(シタデル)攻略戦の無惨な失敗と敗走、詭計によるガスタウン占領、己の中の喪った大事な何かを改めて育み直すように大事に守り育てたフュリオサを……決して手放してはいけないとわかっていた筈のものを引き渡すことになってしまったイモータン・ジョーとの交渉とその妥結を経て。
後に弾薬畑で再びその姿を現した時、ディメンタスの頭髪は再び金髪に戻っているし、赤く染まったマントも白基調に赤が残る色合いとなっていた。

 

そして諸々を経て「荒れ地を巡る40日戦争」がディメンタスの敗北により幕を下ろそうとする時、ディメンタス曰く「凄腕だ。それに深い恨みがあるのだろう」という追跡者(フュリオサ)……賢者(ヒストリーマン)曰く「あれは暗黒の天使。ヨハネの黙示録の第五の騎士」から逃れるため、ディメンタス自身を象徴するチャリオットと共にパラシュートのマントもスメッグに譲り渡してしまう。
そしてそれは追跡者の手に落ち、最後の対峙において白いパラシュートのマントはフュリオサの背を飾っている。


ディメンタスは「俺は今や何者でもない。お前のものだ」と言ってみせたけど、きっと当人が思っていた以上にその通りだった。
なぜなら、その時ディメンタスが背負い縋り続けた希望をも、フュリオサは奪い我が物としていたわけだから。

 

5:「ファム・ファタル」という概念そのものに批判的である『マッドマックス:フュリオサ』

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス「ヒュラスとニンフたち」

「ヒュラスとニンフたち」の絵がファム・ファタルを象徴、ラファエル前派でしばしば赤毛で描かれたファム・ファタル……関わる男を破滅させる存在に赤毛のフュリオサが重ねられるというの、それはそうなんだけど。

 

「その赤毛が地毛でなくディメンタスに染められたものであること」
「フュリオサが自ら髪を切り、剃り落とすこと」
の二点がすごく大事だと思う。

つまり「女性をファム・ファタルに"勝手に仕立て上げてる"のは何者か」という話がまずあり、フュリオサによるそのことへの断固とした拒絶も描かれているのでは、という。

 

いってしまえば『マッドマックス:フュリオサ』はファム・ファタルという概念そのものにめちゃくちゃ批判的と言うか、いわば中指突き立てているところが多分にあると思えるので。


たとえば
「あ、これはファム・ファタル赤毛のフュリオサに関わる男は皆破滅に引きずり込まれる。怖い怖い。でも、一方で彼女たちの視点からみればただ破滅に引き込むというのでなく、それは尊厳を賭けた闘いだと言えるのだろう」
みたいな見方はファム・ファタルという概念はまず受け入れた上での話に見えるので、それはちょっと違うんじゃないかなと思えたりもする。

 

そしてそもそもディメンタスの赤毛もやはり地毛でなく、迷い込んだウォー・ボーイとの出会いの際に信号弾でマントやゴーグルと共に赤に染まったもの。
後に弾薬畑での再会の時には元のくすんだ金髪に戻り、赤毛ではなくなっている。
そうして金髪が赤毛に、白いマントも赤く染まったように。

「赤風のディメンタス」

「偉大なディメンタス。バイク帝国の支配者。ガスタウンの守護者」
「お前たちが俺の心を壊した!俺は闇落ちした、ダークディメンタスだ!」

「今の俺は何者でもない。お前のものだ!」

といったように自己の在り方をその場その場でコロコロと刹那的に替え続けてしまうのがディメンタスという人間。
そうでありつつ、大事なものを喪った悲しみからだけはどうしても逃げられないのがディメンタスという人間でもある。
だからこそ

「お前はママと恋人を失った悲しみからは逃れられない。それはどうしたって取り戻せない。お前は俺と同じだ!復讐に囚われている!」

というディメンタスの全存在を懸けた渾身の呪詛がある。

 

また、フュリオサ=リトルDの髪を赤く染め、自身にとってのファム・ファタルに仕立て上げたのも、いわばフュリオサもリトルD……即ち自分の分身として、同じようにその場その場でコロコロと刹那的に自己の在り方を替え続けてしまう存在にしようとしたのだとも言えるのかもしれない。
そして、フュリオサはそれを断固拒否もした(髪を切り、自らカツラに仕立て上げ、それをトカゲの尻尾切りのように使っての逃走劇)。

 


6:ディメンタスとオクトポスの違い

序盤に十歳のフュリオサが捕らえられ運ばれていくディメンタスの根拠地での空ではためいていた不吉な黒い旗のようなものはディメンタスではなく、オクトポスのもの。
それは世界の狂気への対処として暴力への耽溺そして"いつ死んでもいい覚悟。むしろあっと驚くような曲死にの機会を虎視眈々と狙う心の在りよう”と”戦いと死の美学"に殉ずることを象徴していたのだと思える。


五章立ての構成の中、一つの章を丸々使ってアクション満載で描かれたウォー・タンクを襲撃してきたオクトポス率いるモーティファイアー一派との戦闘においてフュリオサとジャックはただ二人だけ「なんとしても生き残る」意思を持つ二人だから生き残った。
ジャックがフュリオサの目に見出したのはまさにその意思だった。
また作中に現れる数々のマシンの中で最強の暴力の象徴がウォー・タンクであり、15年もの時間を費やし周囲の振るう暴力に流される立場から、その暴力の象徴を整備し操り駆る一員にまでのし上がったフュリオサがジャックと共にその暴力を遺憾なく発揮し、オクトポスの暴力と激突し、打ち破ったという流れでもある。
フュリオサがオクトポスをボミー・ノッカーで文字通り打ち砕いたのはその意思が暴力への耽溺と"いつ死んでもいい覚悟""戦いと死の美学"とに、その意思と暴力をもって打ち勝った象徴と言えるのだと思う。

フュリオサがウォー・タンクという作中最大級の暴力と一体化してみせるのもこの場面であり、いわばフュリオサにとって暴力に対し意思と暴力をもって応じ、打ち破るという"暴力に対する決戦の場"がここだったのだと思う。

 

ただここで「なんとしても生き残る意思」は、ディメンタスも同じく強烈に持ち合わせているもの。

ただし、ディメンタスは刹那的にその時その時を生き延びることに精一杯で、生き残るより大事な価値を見出すことがどうしてもできない。

その虚無こそが、決して癒えず、取り戻されることもない喪失の痛みと共にディメンタスが抱えているものでもあり、フュリオサの前に立ちはだかるものだったのだろう。

 

オクトポス≒暴力を打ち砕いた上でフュリオサはディメンタスのその虚無……一言で言うなら「希望などない」という諦念であり呪いを打ち破って見せる必要があり、それは遥かに厳しい戦いとなった。
ジャックという唯一絶対に信頼できるパートナーであり恋人を失い、自らの片腕も喪失することになった。
フュリオサとの最後の対峙の時もディメンタスが投げかけた「お前は俺と同じ」は「希望などない」という虚無の底なし沼に引き込もうとする呪詛だった。


そしてディメンタスに与えたその最期の在り方とその成果の扱いとは、先に書いた通り、そのままその呪詛の克服を意味している。

 

7:ディメンタスとジャックの相違

ディメンタスとジャックはいろいろと重ねられた上で、その差異こそが重要である一対のキャラクター。


例えば出会いの時、ディメンタスは「緑の地」を狙う奸計として幼いフュリオサを家に届けることを約束した。ジャックは本気でフュリオサをどこであろうと目的の地に自分が届けてやると約束した。


例えば後にディメンタスがジャックとフュリオサを捕えた時に言い放った「希望など無い」は、オクトポスを打ち倒した後少ししてのやり取りの中でジャックがフュリオサに投げつけた言葉でもあった。しかし、ジャックはフュリオサの願いに応えその希望を共に追い、胸に抱くことを選択してみせた。


例えばディメンタスは自分にとって切り離してはいけない相手だと分かっていた筈なのにイモータン・ジョーの求めに応じフュリオサを引き渡してしまった。ジャックは互いに全てを懸けて信頼できる唯一の相手同士だと認識しつつ弾薬畑の任務を機にフュリオサを独りで旅立たせそれを全力で支援し見送ろうとしたけれど思い直し、ディメンタスが言ったように「決して互いを裏切らない二人だけの軍隊」となってみせた。

 

8:ディメンタスとイモータン・ジョーの為政者としての格の違いについて

砦(シタデル)に攻め込んだディメンタスはウォー・ボーイズの自爆特攻をぶちかまされた時、驚愕もすれば、心底うんざりもしたのではないかと思う。
「狂ってる!今やこの世界はこんなおかしい連中ばっかりだ!だからまだしも正気な俺が苦労する。せめて少しは正気な俺が導いてやらないと本当にどうしようもない!」
という感じで。
ディメンタスは良くも悪くもまず自身が狂い切ることができないし、周囲を狂わせきることもできない。
そこに一つ、彼の人間としての魅力も哀しさも弱さもあったりしたようにも思う。


そして、そこにイモータン・ジョーとの為政者としての格の違いもあるのだと示され続けてもいた。

 

ディメンタスは鮮やかな詭計でガスタウンを攻略してみせたけれど、その際にわざわざ「俺のボスはオクトポスだ」と言い放ったモーティファイアー一派の部下たちを囮に使い、その上で必要に迫られ彼らを裏切る形で犠牲にしたことで、彼らの離反を招くことにもなった。
イモータン・ジョーのように部下に自分を信仰させて自爆特攻させ、そうさせればさせていくほど自身への揺るがぬ忠誠を強化していくなどといった狂った真似は、良くも悪くもできない。そこまで狂いきれないし、徹底的かつ計画的にやり抜くことは出来ない。

 

ディメンタスの得意とする扇動は砦での初対峙の際にイモータン・ジョーに完膚なきまでに打ち砕かれ、惨めに命からがら敗走することになり。
同じくやはり得意とする詭計は後の決戦時に(フュリオサの進言もあって)やはりイモータン・ジョーに完膚なきまでに見抜かれ、打ち破られることになった。

 

ディメンタスは彼の下に集った部下を単なる利用すべき対象と見做し、時に使い捨てることもためらわないようではあるけれど。
イモータン・ジョーのように子産み女、母乳生産係とまで徹底して文字通り人間性を蹂躙しきって文字通り道具そのものとしてしまうことまではやはり良くも悪くもできない。

 

ディメンタスは砦(シタデル)攻略を試みた際に演説してみせたように、その場その場の空気を読んで気前よく多くを約束し、煽り、人を惹きつけて見せる優れたデマゴーグだ。しかし、その場の流れに乗るばかりで後先考えない約束は後で実行を求められ、気前良すぎる約束は後に果たせるわけもなく、必然的にディメンタスの統治は破綻する。
ガスタウンの破綻は時間の問題だっただろうし、弾薬畑でジャックと取引した際、ディメンタスも散々な襲撃の中を命からがら逃げ出さなければいけなかった体たらくもつまりはそういうことだろう。
一方でイモータン・ジョーは砦(シタデル)、ガスタウン、弾薬畑の三拠点をしっかり管理された交易で繋ぎ(それこそディメンタスが現れでもしなければ、早々簡単には揺るぎもしなかっただろう)強固な体制を築き上げていたし。
お膝元の砦もウォー・ボーイズ達の絶対の忠誠や『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でみせていた命を繋ぐ水の"計画された気まぐれな施し"等により、絶対者としての支配を広く行き渡らせてみせていた。

 


なお、当たり前過ぎる、言うまでもないことではあるのだけれど。
イモータン・ジョーが為政者としてディメンタスとおよそ格が違う存在であることは、イモータン・ジョーが"善き為政者である"などということを全く意味しない。
それは単に遥かに性質が悪い、より凶悪な暴君であるということを意味しているに過ぎない。

 

どこまでも刹那的なディメンタスよりも、強固で揺るぎない統治を築き上げたイモータン・ジョーは為政者として格上ではあるけれど、それゆえにこそその統治、その秩序を継続することへの妄執に囚われてもいる。
病み衰え崩れ去る寸前の自身の健康を無理に無理を重ねても維持しようと妄執の限りを尽くすし、それが叶わぬなら次善に……とせめて自身の血脈を残し息子(たち)に統治と秩序を継続させていくべく、子産み女に母乳生産担当といった狂気の果ての制度を築き上げ、そこに後にその統治と秩序を揺るがす憤怒と恨みの種を蒔くことにもなった。
ディメンタスが刹那に囚われているように、イモータン・ジョーもまた、病的なまでの現状維持という妄念の囚人に過ぎない。

 

だから、より良い未来、今以上に良い明日を思い描き、目指し、実現させるのだという希望を持たないことにおいて……ディメンタスとイモータン・ジョーにさしたる違いはない。
そこがフュリオサと二人との、最大の違いでもある。

 

9:ディメンタスはなぜそんなにもフュリオサ=リトルDとジャックの二人を許せなかったのか

『マッドマックス:フュリオサ』において、キャラクターたちがその時その時に駆る車やバイク等は、その時その時のそのキャラクターの在り方そのものを象徴している。
フュリオサやディメンタスのその時々の乗機は勿論、例えば次々に乗り物を乗り換え追跡劇を繰り広げるフュリオサの母と乗り物についてもその都度それが言えるし、ディメンタスが率いる無数のバイク軍団のバイクそれぞれが乗り手の在り方を示していたりもする。


その上でディメンタスがその最も強力な乗り物……6輪のモンスタートラック「シックスフット」を駆るのは、フュリオサがその故郷「緑の地」を目指しジャックと共に二人だけの脱走と帰還の旅路に出たのをどこまでも執拗に追跡し、踏み砕いた場面でのこと。
例えば、後にイモータン・ジョーと雌雄を決すべく改めて全軍をもって砦に襲撃を掛ける際にも彼が駆るのは例の戦車(「ディメンタス・チャリオット」)に過ぎず、強大兇悪な「シックスフット」にはだいぶ見劣りしていた。

「シックス・フット」は「弾薬畑」の閉ざされた門を体当たりで無理やりこじ開ける姿や、フュリオサとジャックの乗る(二台のバイクを積んだ)「プリムス・バリアント」を轢き潰した(その名前の象徴する通りの、この世界随一の勇気を轢き潰してみせた)姿に象徴されるように、ディメンタスの抑え難く何者にも止めがたい憤りと怒り……決して許しはしない、許すことなどできないという意思とその強大兇悪な力を示すものだろう。

 

では、ディメンタスは何に対してそんなにも憤怒し、何をこそそんなにも許せなかったのか。


例えばフュリオサとジャックそれに部下たちを前に言い放った、イモータン・ジョーを打ち破り自らの覇権(と皆の理想郷と口先で称するもの)を打ち立てる計画を派手に躓(つまづ)かせたことだろうか。

「弾薬畑を支配したと思ったらその日のうちにお前たちにめちゃくちゃにされた。
 俺は皆の理想郷を作るつもりだったのに。
 その計画もご破産になってしまった。
 お前たちが俺を壊した。
 俺は闇落ちしたダーク・ディメンタスだ。
 もう容赦などできない。慈悲など許されない。
 復讐が必要だ」

これはどうも、そうではないように見える。
ジャックを曳き廻した上で犬をけしかけ惨殺し、フュリオサの千切れかけた腕を選んで吊るさせたのは残虐ではあるけれど。
幼い「リトルD」を前に裏切り者を5台のバイクで引き裂いたり、フュリオサの母を惨殺した時に比べて、せいぜい同程度でこそあれ、ディメンタスの所業として際立って凄惨だったわけでもない。
また周囲の部下たちがその残虐を愉しむ中、ディメンタスはただ独りなにやら憂鬱そうな顔で佇んだ上で唐突に「飽きた」とこぼし、惨劇に幕を下ろそうとしていたようでもあった。
もし上述の怒りと復讐心、見せしめを求める残虐性が「シックス・フット」の姿に象徴される巨大な憤怒の正体なのだとしたら、復讐や見せしめに酔いしれこそすれ、憂鬱そうに佇み「飽きた」などという訳もないように思える。

だからきっと、ディメンタスが許せなかったのはその前の場面、二人を捉えてすぐに言い放った言葉が示していたことだと思う。

「お前ら見ろ!
 決して互いを見捨てない、二人だけの軍隊。
 希望を胸にいったいどこへ?
 馬鹿な!そんなものはない!
 この世界に希望などどこにもない!
 希望など無い!」

ここで一つ面白いのは、ある意味でディメンタスの言う事は正しかったということ。
フュリオサが求める故郷への帰還……故郷=緑の地はこの作品における希望の象徴でもある。
そして、この感想日記の最初の方で「前田真宏特別インタビュー」で触れられている話として書いたように「緑の地」はフュリオサが囚われの身となってから15年の間に滅んでしまっていた。
フュリオサが母との決して破ってはならない約束として、15年間挫けること無く帰還を目指し続けてきた故郷=緑の地=希望は既に潰えていた。
いわば希望は、既にこの世界から無くなってしまっていたのだともいえる。

 

ディメンタスは別にはっきりと「緑の地」の滅亡を知っていたわけではないかもしれないが、この狂気と暴力の世界において、実際に15年前に1度は自身が辿り着く寸前まで行ったように、そのような楽園がいつまでも……15年もの間、そうそう存在し続けられるものではないとは、きっと正しく理解し認識していたのではないかと思う。

そして、もしそうなのだとすれば。
この世界にもう希望など存在しないのだとすれば。
「ディメンタスは二人を勝手にどこへなりとも行かせてやれば良かったのでは?」という疑問が生じてくる。
どうせ虚しく絶望の果てに倒れる旅であるならば、わざわざ強力な「二人だけの軍隊」など相手にしなくてもいい。
勝手に二人だけの旅に出させ、勝手に破滅させておけばいい。


ここにおいて、ようやくこの問いが成立する。
即ち「ディメンタスはなぜそんなにも、フュリオサ=リトルDとジャックの二人を許せなかったのか」。

 

ディメンタスはきっと、フュリオサとジャックが固く希望を胸に抱き続けている、そのこと自体をこそ、許せなかったのだと思う。
二人が……特にフュリオサ=リトルDが心を折るのに十分すぎただろう十数年もの艱難辛苦を経て、なおその時その時を生き抜くだけでない、輝く理想を抱き目指すことができる在り方そのものを妬み怒り憎まずにはいられなかったのだと思う。
それをこそ、どうしても許すことができなかったのだと思う。

 

フュリオサ=リトルDを許せなかったのは「緑の地」に二人が辿り着くのかもしれないこと「ではなかった」のだと思う。
二人は辿り着くことなんて出来ないだろうと本当に思っていた。
でも、それでもなお。
その時その時を生き抜くだけでない、輝く理想を抱き目指すことができるフュリオサ=リトルDとその恋人なのだろう男の在り方そのものを妬み怒り憎まずにはいられなかったのだと思う。
辿り着けるか着けないかは本質的な問題ではない。
目指せてしまうその魂の在り方が眩しすぎて、耐えられなかったのだと思う。

 

そして、それが何故そんなにも許せないのかと言えば。
「ディメンタス」を演じ続ける自分自身がどれだけ「今この時」を生き残ること、ただそれだけに汲々としているか。
持続的・継続的に物事を捉え、考え、忍耐強く計画し機会を待ち努力していくことに無縁であるか、それを為し得ていないか。
ただ「生き残ること」以上の人生の価値を見出だせていないか。
「皆の理想郷を作る」などというお題目を本当はいかに虚しいと感じているか……。
それら全てを悲しいくらいに本当は分かってしまっているからなのだと思う。


フュリオサ=リトルD……小さなディメンタス、自分とよく似た存在……そうである筈だった女の魂の輝きがあまりにも自分と異なる、自分には手の届かないものであることを分かりすぎるくらいに分かってしまう。
だからこそ、どうしても許せなかったのだと思う。

 

10:ディメンタスは何に「飽きた」のか

ジャックは散々に引き回された末にけしかけられた犬に喰われ惨死し、フュリオサ=リトルDは千切れかけた腕で吊るされている。しかし、ジャックの死体を引き回しながらの部下たちの狂騒は終わらない……そんな最中、なにやら独り憂鬱そうに佇んでいたディメンタスは唐突に「飽きた」と口にする。

 

彼は何に「飽きた」のか。

 

きっと「ディメンタスを演じ続けること」……「そうとしか生きられない自分そのもの」に「飽きた」のだと思う。
このたった一言にこそ、ディメンタスのディメンタスらしさがもっとも強く現れていたのではとすら個人的には思えてならない。

 

勿論、それで絶望に沈み動けなくなるのでなく、それを一瞬の気の迷いだと断じ抑え込んで。
以降も「ディメンタス」を演じていったのが彼だったのだと思えるのだけれども。

 


ともあれ。
そんな風に「ディメンタスを演じる自分」の在り方が分かりすぎるほど分かってしまっていた人物だと思うからこそ、ごく個人的にディメンタスという人物について、いろいろと心を寄せたり考えたりせずにはいられない。

この狂気に染まった世界の中で、狂気を演じつつも、どうしても狂い切ってはしまえない男。
しかしどうしたって、希望を胸に抱くことはできない男。
決して癒えず、忘れることのできない痛みに苦しみ続ける男。

この世界に「希望など無い」ことに他の誰よりも苦しみ抜いた男。

 

そして、そんなディメンタスの体(彼は望み、覚悟した「死」を許されず。悲惨極まる形で生きて苦しみぬくことを強制された。それがディメンタスにフュリオサが課した「報い」だった)を苗床にして完全に滅んでしまった筈の「緑の地」がこの世界に僅かに生き残り、きっとそこから広がっても行くのだろうと希望が繋がるというのは……ディメンタスにとって、あまりにも皮肉な仕打ちだったと思えてならない。
しかしあるいは、それもまた、彼にとって本望なのかもしれない。

 


ところで一つ書いておくと。
ディメンタスは亡くした実の子どものことを忘れることがなかったように、義理の娘とした「リトルD」のこともやはり、ずっと忘れることなどなかったし、彼女を目の前にしてそれが誰だか分からないなどということは一切無かっただろうと思う。
例えば最後の対峙、その最後の最後においてようやく、ずっと忘れていたのを急に思い出して「お前の母も、お前の恋人も二度と帰っては来ない」などと言い出したのではないのだと思う。
フュリオサは勿論、フュリオサの母のこともずっと覚えていて、その時まであえてとぼけ通していたのだと思う。
ディメンタスはフュリオサとのそのやり取りの中で「命乞いなどしないような女のことほどよく覚えている」とも口にしていたと思う。
事実、その通りだったのだと思う。