《政治》の面から見たトリノ五輪開会式(2)〜実に「オトナ」なイタリア人。そして、あのオバサンやその同類にはほとほとウンザリ。野暮の骨頂、愚劣の標本。「観念的な、あまりに観念的な」!!


……で、まっとうな政治的センスのあるオトナならその程度のことはちゃんと分かっていて、そういう意味ではイタリアは(英国には遠く及ばないものの)伝統的に世界有数のオトナな国だ。一時期、いろいろあってちょっとオカシクなった末に、「古代ローマの復活だ」などとアホなことをいって少しばかり暴れたこともあったが、すぐに冷静に戻っておとなしくなった。その見事なまでのヘタレっぷりから「今度はイタリア抜きでやろう」という例のジョークも生まれたわけだが、それは実にイタリア人らしい------断じて皮肉ではなく------ある意味優れた国民性の成せる業だったと思う。
現実問題として、歴史を通じて《いつでも勝てる》わけがない以上(その逆ならば、地政学的にともかく不幸な位置にいて、歴史を通じて大概悲惨な目にあってきたという、アジアの某半島国家とか某東欧の小国とかそういうところもあるけれど)、《うまく負ける》ことは大変重要なスキルだ(『シヴィライゼーション』に民族のスキルとして設定して欲しいくらいだ。そのゲームはやったことがないのでよくわからないけど)。戦争の度に毎度毎度とことんまでやりたがるせいで、勝っても負けても悲惨な後遺症に延々と苦しむロシア人とでも比べれば、イタリア人のやり方の素晴らしさは明らかだろう。

そうしたイタリア人だからこそ、《平和の式典》たるオリンピックの開会式でも「気に食わないことこの上ないが、どうしたって逆らうわけにはいかないガキ大将」にはちょっとした皮肉を利かせる程度で抑え、後はとことん芸術的で、明るく楽しさに満ちたショーを作り上げることに集中し、それを実現させてみせたわけだ。まことにもって、実に賢い。でも、ちょっとばかり情けない。だけど、そういうとこもたまらなく好きだぜ、イタ公!!


……念のために「ちょっとした皮肉」とは何のことかいっておくと、あの愉快なゲストのことだ。つまり、口を開けば壊れたレコードの如く「レノン、平和、戦争反対、イマジン!!」とわめくだけで、それでキリスト没後の聖パウロを気取ってでもいるんだろうか、という宗教家じみた前衛芸術家センセイであり、昔、某国のために「実にでっかいキノコ雲が上がる大花火で大火傷」という、史上他に例のない貴重な経験をさせられる破目になった我らが日本の誇る、「観念的な、あまりに観念的な」平和と相互理解の使徒サマであらせられると共に、何よりもまず《ジョン・レノンの妻》であるところの(本人もあれだけそう主張していることだし、それが唯一の存在価値なんだろう)、オノ・ヨーコ女史のことだ。
演出上の意図は実によくわかるが(皮肉として気が利いていて、かつ、当の本人自体はショボすぎて人畜無害であるので、実際上の害もないというのがとーーーーっても便利)、視覚効果の美しさでも、誰もが楽しめる選曲の素晴らしさでも、美的感覚とユーモアを絶妙に混合させた演出の流れも、とにもかくにも実に洗練されてセンスの良かった開会式の中で、あのオバサマ唯一人がどうにも野暮で仕方がなかったのには、心底ウンザリさせられた。