「じゃじゃ馬ならし」〜《演技》による世界の反転を描いた作品。


じゃじゃ馬ならし [DVD]

フランコ・ゼッフィレッリ監督で音楽はニーノ・ロータ、そしてエリザベス・テイラーリチャード・バートンという当時のハリウッドを代表する名物カップルが主役を演じた、1967年作のシェイクスピア映画。

まず、初めに書いておきたいのは、この映画の幕切れにおけるカタリーナの言葉を額面通りに受け取ってしまうと、これは筋書きとしてはしょうもない話になってしまうということ。無論、当然過ぎるほど当然の話だが、これがそんな作品だとは到底思えなかった。


あそこでは、ビアンカの------それまで決してみせることのなかった-----剥き出しになった、生々しい屈辱と怒りの感情に注目すべきだろう。それが、カタリーナにとって、どれほど心地よく思えたことか。無論、見事に賭け金をせしめ、パドヴァのご歴々を(実は彼らが感じ取ったよりもなお一層)とことん愚弄しつつ、その尊敬までをも勝ち取ったペトルーシオも大満足だ。
ようするに、あの場面において、愉快な夫婦の利害は見事に一致して、ビアンカをはじめとするパドヴァの貴顕淑女の面々の鼻を明かすべく、この時ばかりは素晴らしい連携を演じてみせたわけだ。そう考えると、映画の幕切れのさらに《後》、外に出て扉を閉じてからの二人のやり取りを想像すると実に愉しくなってしまう。勿論、その場面に全く触れずに、あそこで映画を終わらせるのはまさにそうあるべき、作劇術の必然だろう。


つまるところ、この映画で行われたのは、シェイクスピアの原作における、《演技》による《立場、性格、評判の完全な反転》という基本的なアイディアと、それを彩る生き生きとした滑稽味を、明るい色彩と映像、ニーノ・ロータの音楽に乗せた愉しいコメディとしての映像化だ。
即ち、主要な登場人物のほぼ全てが、《演技》によって、元々その身に備えていたり、世間の評判で塗り固められたりしていた性格や評価をひっくり返していってしまうのが、この劇なのである。


金にしか興味が無いペトルーシオは皆の前で夫婦の愛をうそぶき、実は根っこの性格は少しも変わってなどいないカタリーナは澄まし返って貞節を説く。
本当は姉に劣らぬお転婆のビアンカは《深窓のお嬢様》として世間に通っていて、彼女への求婚者であるルーセンシオとホルテンシオは、身分を偽って家庭教師に扮する。
ルーセンシオの召使はその主人を演じ、通りすがりの旅人をルーセンシオの父と偽った主従は、本当の父親が街を訪れてきてしまったことで愉快なドタバタを巻き起こすことになる。


そして、中心になるペトルーシオとカタリーナの関係に更に焦点を当ててみるならば、お互いのホームグラウンドにおいて、かえって相手が優勢になってしまうという、不思議な逆転現象がたまらなくおかしく思えることだろう。
パドヴァの邸宅での求婚、豪華で盛大である筈だった結婚式、妹の結婚式に招かれての準備での仕立て屋が来訪しての場面、そして再びパドヴァに戻っての披露宴------本来、生まれながらにこうした環境に慣れたカタリーナが、(この映画においては)田舎の落ちぶれた貴族であるペトルーシオの仕掛けたペースに押されきってしまう。
しかし、ただ一場面、(仕立て屋の来訪直前に)ペトルーシオが眠りから目覚めた時においては、今度はペトルーシオの世界である筈の彼の屋敷で、彼の親族・使用人まで見事に従えて、カタリーナが獅子奮迅の活躍で彼女の世界をあっというまに邸宅中に広げて来てしまっていることを発見することになるわけだ。


この一場面とラストの"夫妻の見事な共同作業(!)"からだけでも、、映画の幕切れにおいては勿論、その後も《じゃじゃ馬》がそんなに容易に屈服などせず、お互いにこうした綱引きを繰り返した後、ひょっとすると結構似合いの夫婦になってしまうのではないかと想像できてしまう。それは「男尊女卑万歳!」「夫唱婦随の素晴らしさ」などという馬鹿馬鹿しいメッセージなどとはかけ離れた、実に愉快な未来予想図だ。
そして、その背景には勿論、《人生は舞台であり、人は皆演技をして生きているのだ》という、広く知られたシェイクスピアの人間観がある(『マクベス』、『夏の夜の夢』、『あらし(テンペスト)』の、それぞれの名台詞などに特にそれは現れているとされるし、個人的にもそう思える)。即ち、この映画の構造は、巨匠・ゼッフィレッリの優れたシェイクスピアの理解の深さを示してもいるわけだ。

……まあ、そういうわけなので、フェミニストな皆様も、この作品に対して青筋立てて怒る必要はどこにもないだろうと思う。



ついでに。ゼッフィレッリ版『ロミオとジュリエット』について。


なお、ゼッフィレッリ監督でシェイクスピアの映画化、といえば、誰しも思い浮かべるのは、『ロミオとジュリエット』だろう。
じゃじゃ馬ならし』を遥かに越える出来のニーノ・ロータの楽曲、役と同じように若さに溢れたキャストとした、当時十五歳というオリヴィア・ハッセーのジュリエットと、十七歳のレナード・ホワイティングが演じたロミオの清新さは、確かに名作というのに相応しいと思う。
ただ、今回『じゃじゃ馬ならし』をみて改めて思ったことだが、当時の流行の再現なのかどうかはわからないが、二作品に共通する黄色や橙を多用するコスチュームの配色と、その妙に野暮ったい様式とは、それだけでも何だか滑稽で冗談じみていて、悲劇よりも喜劇に遥かによく似合うように思えてしまう。『ロミオとジュリエット』に喜劇的要素が多分に含まれるとはいっても、主演の二人のいちいち大袈裟な演技ともあいまって、どうしても苦笑混じりで眺めることになってしまう。


むしろ、個人的には、派手にやりたい放題にいじくってみせたようで、実は劇の根本は驚くほど的確に抑え、台詞もいちいち原作に忠実だった、『ムーラン・ルージュ』のバズ・ラーマン監督による、レオナルド・ディカプリオクレア・デーンズ主演の『ロミオ+ジュリエット』の方がよりシリアスな面でも楽しめてしまうし、2006/2/9の日記でも少し触れた、蜷川幸雄演出、藤原竜也&鈴木杏主演の『ロミオとジュリエット』も、主演二人の個性を活かしきって、特にジュリエット像の新しさが興味深い舞台だったとも思う。
ようするに、実はゼッフィレッリの『ロミオとジュリエット』は音楽以外、あまり好みではなかったりする。