藤原竜也・市村正親二人芝居「ライフ・イン・ザ・シアター」〜主演二人の持ち味を生かした優れた舞台。


初日は一昨日ということなので、今日観たのは全国公演の三日目ということになるらしい。

大傑作!------とまでは言えないかもしれないけれど、二人の優れた役者の持ち味を活かした優れた劇だった。

藤原竜也は------今までにも幾度となく思ったことだけれど------その喜びの表現が素晴らしいと思える。崇めるように愛している恋人からの色良い返事に(電話の内容は多分そんな感じのものだったのだろう。以後、場面の語れなかった内容は同様にして自分で推測したもの)、浮き立つ心を抑えられないという場面。あそこの、《幸せ》という感情が彼を爆心地にして振りまかれるような表現は、今この時のこの役者にしか出来ないものだと思えた。『ロミオとジュリエット』での、有名な告白のシーンで、「幸せだよぉ!」と叫び転がりまわる演技や、『天保十二年のシェイクスピア』での幾つかの場面でも、よく似た印象を抱かされたことを思い出す。


一方、市村正親は、劇を締めくくる、無人の劇場を前に一人、満場の拍手を花形役者として受ける自分を夢想し、架空のカーテンコールに応える場面。劇の構造上、藤原竜也演じるジョンの見せ場もまた、同じく無人の劇場を前に------こちらは、《これから》《実際に演じる》劇の-------リハーサルを一人で行う場面にあるが、その二つの場面の力比べでは、市村正親演じるロバートに軍配が上がったと思う。


なお、この舞台が劇として、《多少敷居が高い》ものであることは、欠点といえば欠点といえるかもしれない。
つまり、この作品を楽しむには、観客の側が積極的にその世界に入り込んでいく必要がある。

例えば、先ほど言及した無人の舞台を前に《現実に将来迎えるこれから》と、《決して迎えることはないであろう、架空の夢》を演じる二人の見せ場は、その対比の意味を感じ取れないと後者の良さが身に迫らない。また、両方共に、彼らの心の眼が、心の耳が聴いているであろう、架空の観客達の賞賛に満ちた視線とざわめきと観る側も共有しなければ、文字通り《お話にならない》。
また、「お疲れ」「お疲れ様」というお互いの挨拶のニュアンスと、その逆転(してたよな、多分)にも着目する必要があるだろう。
それほど重要なものでないにしても、同様のものは劇の全体に無数に散りばめられており(例えば、序盤で二人が演じる戦争劇における演技の酷さ------特にジョン-------は、実際に演じている役者(藤原竜也)が下手なのではなく、あれは「ひどい劇で悲惨な役をやらざるを得なかった経験」を演じていたのだろう)、とにもかくにも、受身にただ《眺めている》だけだとひたすら置いてけぼりにされてしまう類の劇だといえる。

なお、《誰にでもは楽しめない劇》であるということは、必ずしも《誰にでも楽しめる劇》より優れた劇であるということを意味するわけではないことは勿論だが------実際、藤原竜也主演の劇でも、誰にでも楽しめたであろう、「ロミオとジュリエット」の方が色々な意味で更にいい舞台だったと思う-------これは積極的に観客が舞台に参加していくことを前提にすれば、優れた劇であったといえると思う。


しかし、それならそうと、興行側はそれなりに舞台の性格を事前に匂わせておくのが、せめてもの良心というべきなのではないだろうか。実際、少なくみても観客の1/4くらいは、途中で劇の流れから取り残されてうんざりしてしまっていたように思えた。
また、いくら超人気役者二人と彼らを支える演出等のスタッフに惜しみなく金をかけたとはいえ、特に派手な舞台装置もない二人舞台で9,000円という価格設定もどうかと思う。パンフレット1,500円というぼったくり商売もひどい。
しかも、このパンフレット、《この劇のパンフレット》というより、半分以上は《主演二人のかっこいい写真とエッセイのせてます》という雰囲気。こうなると、前の「近代能楽集」の埼玉でやって1万円にした挙句空席が目立つという大失態ともあわせて、「ふざけるなよ、ホリプロの馬鹿野郎」といいたくなる。
それに、劇の題名に関しても、翻訳の小田島恒志と演出のポール・ミラーに思いっきり皮肉いわれてるんだよな、これは。二人の対談の末尾を思いっきり意訳すると、

ポール「小田島は劇の意図を汲み取って、《日本語でどう自然に表現するか》にこだわってくれるから嬉しいよ。……で、それなのに、なんで題名はコレなのさ」
小田島「そりゃあ、俺だってアホみたいだと思うさ。『劇場人生』とか『劇場暮らし』とか、そういう風にしたかったさ。だけどな------まあ、察してくれよ……」

ってことだろう、あれ。
その良さを味わうのに観客にそれなりの姿勢を要求しながら、題名では悪名高いカタカナ邦題、という一貫性の無さにはうんざりさせられる。
なお、翻訳について一ついえば、パンフレットでも触れていた「天文暦」という言葉を、実に日本的な言葉である(ネタバレのため伏字)「諸行無 常」で代用していたのは確かに面白い工夫だったと思う。翻訳家はきっと、他の部分でも実にいい仕事をしてたんだなぁ、それなのに------と思うと、なおさら腹が立つ。

ただ、繰り返しになるが、劇そのものはいい出来で、愉しい時間を過ごすことが出来た。
つくづく、藤原竜也というのは才能豊かな役者だと思う。
……しかし、この人、いつ観ても上半身裸になる場面があるなぁ。


あと、小ネタとしては、共に『ハムレット』のタイトルロールを演じた経験がある役者の二人芝居の序盤で、市村正親演じる老優が舞台の中のその瞬間が《詩》であるような最高の一瞬を、《胡桃のようだ》と例えてもいたのは面白いところといえそうだ。