PJ版『キングコング』〜徹頭徹尾、"男の子の夢"を描ききった大傑作

我がままを通しぬいたピーター・ジャクソンはスゴイ。

今更でなんだが、この映画は誰がなんと言おうと大傑作だ。
たとえ興行的にはその常識外れの制作費を回収できないまま終わったとしても、それで湯水のようにつぎ込んだ私財を失っても、あれだけ思うがままに作品を作り、そしてその思いに相応しいものを生み出せたのだから、ピーター・ジャクソン監督も本望だろう。

何よりまず、コングがアンを守りつつ三頭のティラノらと格闘する連続アクションなどは、後に幾度となく語られる名場面になるだろう。その素晴らしさはやがて多くの人に理解され、理解しない人の多くにも、その評判から理解した気にさせることだろう。


しかし、この映画のもう一つの凄さは、それが徹頭徹尾、ただひたすらに"男の子の夢"を描いたものなのだということにある。
それは"少年の夢”---大人になっていく過程として通過し、正に夢破れることで"成長"することに大きく比重が裂かれた夢---ではなく、あくまで"男の子の夢"だ。大人が少年の日を振り返って見る、実は大人の視点から眺められている"かつての夢"ではなく、男の子が"男の子"であるがゆえに、正に今その視点で見ている夢だ。
そうした視点を持てなければ、この映画がどんな物語なのか、まるでわけがわからないことだろう。理由がさっぱりわからない疑問だらけ、ヘンだとしか思えないツッコミどころだらけに思えてしまう筈だ。
そにしても、史上最大規模の予算をかけながら、わからなければわからないでいい、ともかくそれを描きたいのだ、という我がままを通し抜いた監督の潔さとクソ度胸には心から頭が下がる。スゲぇや、ピーター・ジャクソン!!

PJ版『キングコング』の十大疑問

その、『キングコング』が"男の子の夢"の物語である、というのはどういうことか。
それは、この映画の中の幾つもの"なぜ"が、「"男の子の夢"とはそういうものだから」ということに尽きるということだ。
つまり、


①なぜ、コングの登場後、原住民は元々島になどいなかったかのように消えてしまうのか。

②なぜ、誰一人として異議を挟むことなく、よく知りもしない女性一人のために、軍隊でもない集団が何の迷いもなくとんでもない危険を犯しに密林へと飛び込んでいくのか(一応、散々悲惨な目にあった後に、他の者の引き立て役として一部逃げ帰る人間を出しているが)。

③なぜ、ほかにもっと楽に捕らえてたっぷり食べられる獲物がありそうにも関わらず、恐竜連中はひたすらに人間を追ってくるのか。

④なぜ、谷に落ちた一行を襲う巨大昆虫どもの襲撃はあんなにも悪趣味に描かれるのか。

⑤なぜ、あれだけ苦労しても一行が行き着けなかったアンの下に、ドリスコルが単独行を決意するとあっさりたどり着き、しかもその過程は描写されないのか。

⑥なぜ、デナムたちは恐竜ではなくコングを捕まえていくのか。

⑦なぜ、捕らえられたコングを船で運ぶ間の物語や、アメリカに運ばれたコングがその公開前に既に呼んだであろう大衝撃が描かれないのか。

⑧なぜ、アンの人物造形だけが、冒頭において時代にあった現実感を強調した描写をもって描かれるのか。

⑨なぜ、アンはコングとドリスコルに対してあんなに態度が違うのか。アンにとってコングとは何だったのか。

⑩なぜ、コングの死に投げかけられる「美女が野獣を殺したのだ」という言葉で作品が締められるのか。



といった"なぜ"の数々である。
以下、一つ一つ説明して行く。……とくに⑨が理解できずにこの映画を観終わった人は、さぞかしこの映画はわけがわからなく思えただろう。

①なぜ、コングの登場後、原住民は元々島になどいなかったかのように消えてしまうのか。

より面白いものが登場すれば、それまでのオハナシなど知ったことではないということだ。
ようするに、原住民などはその夢を見る"男の子"が自分を託したコングが格好よく登場するための前座だ。もう夢を楽しく見るための役割を果たしたのだから、そんな小道具が引っ込んで二度と出てこないのは当然。

②なぜ、誰一人として異議を挟むことなく、よく知りもしない女性一人のために、軍隊でもない集団が何の迷いもなくとんでもない危険を犯しに密林へと飛び込んでいくのか。

彼らは彼らであって彼らでないからだ。
つまり、夢の中の登場人物たちはそれなりの大人だが、彼らを動かす物語の神たる存在はそうではないのだから、彼らは大人の論理ではなく、「冒険とあれば、特にきれいな女の子を助けるための冒険ならばなおさら、飛び込んでいかないわけがない」という"男の子夢"の論理で動く。子供が危ないことに飛び込んでいくとき、我が子を心配する親の心など考えもしないように、彼らがそこで悩む、という発想自体紛れ込む余地はない。

③なぜ、ほかにもっと楽に捕らえてたっぷり食べられる獲物がありそうにも関わらず、恐竜連中はひたすらに人間を追ってくるのか。

恐竜が夢の恐怖を司る、悪のヒーローだからだ。
怪獣が一目散にウルトラマンの守る日本---しかも主に東京---を目指してやって来るように、"男の子"が救出隊の眼で夢を続けるとき、恐竜達が襲い掛かってこないわけがないのである。彼らはそのためにこそ登場させられたのだから。

④なぜ、谷に落ちた一行を襲う巨大昆虫どもの襲撃はあんなにも悪趣味に描かれるのか。

いうまでもない。"男の子の夢"はしばしば大人が目をそむけたくなる悪趣味さ、残酷さを持つ。

⑤なぜ、あれだけ苦労しても一行が行き着けなかったアンの下に、ドリスコルが単独行を決意するとあっさりたどり着き、しかもその過程は描写されないのか。

原住民同様、すでに髑髏島のコングを除いた皆さんのお役目は済んでしまったからだ。
また、これ以上、"男の子"=コングから"憧れの女の子"を奪い取っていく"二枚目野郎"のかっこいい活躍を見ていくことなど"男の子"が望むわけがないのである。
ここで、「そういうことならなぜ、そもそも"二枚目野郎"の活躍の場面があるのか」というのは⑨でまとめて説明する。

⑥なぜ、デナムたちは恐竜ではなくコングを捕まえていくのか。

コングは大猿であり、猿はいろいろな意味で人間に近い。外見でも、知性でも。
コング="男の子"であり("男の子"はときどき、デナムになって"わかっちゃいない大人"と大喧嘩したり、救出隊になって(断じて「ドリスコルになって」ではない)恐竜から逃げたりもするが、この大基本線は変わらない)、この物語はその"男の子"と彼の"憧れの女の子"の物語だ。
コングだからこそそれを描けるのであって、それを恐竜に置き換えてしまえるわけがない。

⑦なぜ、捕らえられたコングを船で運ぶ間の物語や、アメリカに運ばれたコングがその公開前に既に呼んだであろう大衝撃が描かれないのか。

いうまでもないが、"男の子"=コングである。情けないコングの姿など、断じて長く描かれるわけがないだろう。

⑧なぜ、アンの人物造形だけが、冒頭において時代にあった現実感を強調した描写をもって描かれるのか。

"憧れの女の子"というのは、"男の子"よりずっと大人びている。そういうものだ、ということ。

⑨なぜ、アンはコングとドリスコルに対してあんなに態度が違うのか。アンにとってコングとは何だったのか。

"夢見る男の子"は、どんなにおもしろおかしくはしゃいだり、いいところを見せようと頑張っても、"憧れの女の子"を面白がらせ、"いい友達"、"楽しい男の子"、"子供っぽくてかわいい(!)男の子"として好意を持ってはくれても、"女の子"は"男の子"の恋には応えてくれることはない。彼女は結局は、"二枚目野郎"に取られてしまうのだ。

そして、"憧れの女の子"はその時、「"男の子"を捨てた」のだとは思わない。事実、それは「捨てた」のではない。勿論、"女の子"は彼が彼女を好きだったことはよーーーく知っている。彼が"楽しい男の子"、"子供っぽくてかわいい男の子"と思えたのも、多くは何よりもその好意のためだ。

しかし、それにも関わらず、彼は一度だって彼女の恋の対象ではなかった。だから、そもそも与えてもいないものを取り返すということは有り得ないように、"捨てた"という意識など、真実どこにもあるわけがない。それが"憧れの女の子"の残酷さである。


なお、"二枚目野郎"が髑髏島やエンパイアステートビルで、ただただ彼女のために涙ぐましいまでの必死の努力を見せたり、基本的にはともかく"いいやつ"であるのは、"男の子"のプライドのためでもあり、また、それでも"憧れの女の子"の幸せを祈らずにはいられない純情のためだ。
そして、"二枚目野郎"が生死をかけて必死の努力をしている正にその時に、二度が二度とも、"女の子"が"楽しい男の子"に向けられる精一杯(!)の好意をみせ、"男の子"にとって最も幸せな時間が流れているのは、"男の子"から"二枚目野郎"に向けられたせいいっぱいの嫌がらせに他ならない。……「ああ、無情!(レ・ミゼラブル!)」ならぬ、「ああ、純情!」か。

⑩なぜ、コングの死に投げかけられる「美女が野獣を殺したのだ」という言葉で作品が締められるのか。

⑨の解説で明らかにしたように、つまるところ、これは"男の子"が"憧れの女の子"に振られる物語だ。そういう話なんだから、"男の子"としては、最後に一言かっこつけさせてもらわずにはいられない。当たり前だろう。それくらいさせてもらえなければたまらない。

この台詞はオリジナルの『キング・コング』からそのまま引き継がれたものだが、オリジナル版ではアンは正に"美女"、いわゆる典型的な「運命の女(ファム・ファタル)」そのものなのに対し、このピーター・ジャクソン版ではあくまで"憧れの女の子"なのだと思う。


以上。