萩尾望都×三浦雅士「出生の秘密をめぐって」


出生の秘密

この組み合わせを見た瞬間、もう、何がどうあろうと予定を空けて聴きに行こうと思った。
抽選に当たった時はどれだけ嬉しかったことか。とんでもない組み合わせだ。


なんせ、まず、萩尾望都といえば、あの超名作『銀の三角』を生み、『ポーの一族』『半神』『トーマの心臓』、光瀬龍原作『百億の昼千億の夜』といった歴史的な名作の作者でもあり、(黄金期のミュージカル映画などを観るようになると、ますますその漲り溢れるような躍動感が分かってくる)『この娘売ります!』といった作品まで手掛けた、少女マンガにおける手塚治虫(個人的にも、それくらい称えられて当然だと思う)ともいわれる人。

そして、一方の三浦雅士は、何よりもまず、あの『青春の終焉』の書き手であり、『メランコリーの水脈』『私という現象』『主体の変容』、そして『出生の秘密』など、刺激に溢れた評論集を著した人物であり-------自分にとって、現役の文芸評論の大家として、北村薫丸谷才一に次いで興味を引かれる評論家だ。
なんというか、『ライムライト』のチャップリンバスター・キートン、『ジーグフェルド・フォーリーズ』のフレッド・アステアジーン・ケリーのような------などというと色々とギャップが大きすぎるが(対談者同士の属する世界の違いという点でも全く違う)、とにもかくにも、凄い組み合わせだ。漫画家&文芸評論家(もしくは文芸評論も手掛ける作家)で自分にとってこれに匹敵する以上のタッグとなると、高野文子×北村薫坂田靖子×丸谷才一わかつきめぐみ×川上弘美椎名高志×井上ひさしといったレベルでしか思いつかない(最初の一組はともかくとして、それ以外はかなり無茶な組み合わせだが、どれも出来るものならば、是非聴いてみたい)。


そして、いざ蓋を開けてみると、予想と期待と全く異なるものではあったが、それはもう、実に興味深い時間が過ごすことが出来た。
……ただ、まさかあんな展開が見られるとは思わなかった。なんだかはしゃいで暴走しがちな三浦雅士と、冷静にそれに応じながら、穏やかに、しかし、時に眼を見張るくらい鮮やかなツッコミを入れて冷静に対談を取り仕切る萩尾望都という流れには、ただもう、びっくりだ。
それは二重の意味での驚きで、まず、萩尾望都については、ものすごーーーーく頭のいい人なのだろうとは当然に思ってはいても、あそこまで対談も巧い人だとは思ってもみなかった。そして、登場時の品の良い落ち着いた風情はまさにイメージ通りだった三浦雅士が、まるで二十代の青年かと思うくらい(と、二十代の自分がいうのも変ではあるが)、自分の話に自分で巻き込まれて盛り上がっていってしまう話し振りをみせるとは、想定どころかかけらも想像すらできなかった。


なお、今回のトークセッションについては、萩尾望都が連載エッセイを載せている、webマガジン「ポプラビーチ」で写真も交えてその模様がアップされるということなので、ずるい話だけど労力の節約のため、話の流れはそれが出た後でそれに補足するような形でまとめようと思う。ただ、まずは聴いたその日のうちにということで、「ちょっとちょっと、三浦先生」とでもいうべき感想を少し。


まずは、印象に残った一つのやりとりから。
三浦雅士から話題を振った、「鏡に映る像はなぜ左右だけが反対で上下も反対にはならないのか」という問い掛けに対する、萩尾望都の「そちらの方が人の感覚に近く、違和感が少ないから」という答えは、その場で考えてみた、というより、そうした話題についての知識が十分にあることの証左だと思えた。

※参考

「鏡像はなぜ左右だけ逆なのか」
http://www.nagaitosiya.com/a/mirror.html

萩尾望都の返答の後で三浦雅士が人間の体の非対称性と、人の意識や知性、文化の発展にまでを絡めた話をしばらく続けたが、あの返答がすぐに出てきたことから考えると、実は萩尾先生、そうした議論は既によく知っていたんじゃないかとも思わされた。
そして、そこだけでなく、全般的に科学絡みの話題については、三浦雅士より萩尾望都の方が、遥かに冷静に接した上での考えを持っていたように見えた。
・・・・・・というか、三浦雅士は多分、いい加減な科学もどきや、まったく慎重さを欠いた科学の《応用》と称するものに------それらについてあまり詳しいわけでもない、自分の眼からみても-------あまりに弱すぎるのではないだろうか。
立花隆のその面でのトンデモ振りや、ポスト・モダンと称する人々が自論に引っ張ってくる《科学》の杜撰さはつとに有名で、松岡正剛なんかもその面に関しては(実のところ、あの人はそれ以外の面でもどうにも胡散くさいと思えてしまうのだけれど)明らかにひどいと思うが、そうした面々より遥かに優れた文芸に関する教養とセンスを持っていると思われる三浦先生も、この点に関しては五十歩百歩にみえる。萩尾先生にたまに切り返されるたびに話が苦しくなってしまっていたのは、正直言ってちょっと笑えてしまった。例えば、次のようなやり取り。

三浦「そう、実はね、人間の性格って、殆ど全て、遺伝で決まってしまうようなんですよ」
萩尾「へぇ、そうなんですか。本当に?」
三浦「ええ、学問的な趨勢として、どんどんそういう意見が強くなってきているみたいです」
萩尾「うーん、それじゃあ、(このセッションの最初のほう数十分、夏目漱石の生い立ちと作品との関連について話してきましたけど)漱石がひがみっぽいのも、捨て子や養子とかいう事情なんかよりも、遺伝だってことになるんですか?」
三浦「ああ、えぇとですね、うん、それは……」


つまるところ、三浦先生はそれぞれ自身と随分と重なり、共感するところが大きい、村上春樹芥川龍之介夏目漱石中島敦三島由紀夫あたりの評論では無類の鋭さと鮮やかさを見せる一方で、それらの作家を通じて直面せざるを得なかった自分の弱点に絡みでは、正直言ってどうかと思う一面を見せてしまうのだと思う。
例えば、村上龍などに妙に弱いのは、バレエやダンスといった身体表現の世界に異常なくらいのめり込む姿勢などとも深く繋がっていそうだ。また、ポスト・モダンがどうこうとか、遺伝子がどうこうとかいう、およそ畑違いのところにおぼつかない足取りで踏み込んだ末に、何だか書く本人の気持ちだけ高揚した力の無い文章------『出生の秘密』でも、ポスト・モダン絡みのところはおよそ三浦先生らしくない、二流、三流の評論になってしまっている------を書いてしまうのは、つまるところ、芥川や三島がはまったような呪縛から何とか逃れたいという切実な欲求からの逃避なのだと思う。


……しかし、こうして「畑違いのとこにいい加減に踏み込むこと」の無様さなんてことを書くと、それが実に見事にそのまま自分に跳ね返って来るのはどうしたものだろう。このまま続けるとものすごい自己嫌悪に潰されかねないので、とりあえずここらへんで止めておくことにする。
あれ……萩尾先生の父娘関係や姉妹関係の話とか、もっとずっと前向きに面白いことを中心に書こうと思ってトークセッションの間に色々メモしてたのに、なんでこんな文章になったんだろう。。。
それと、この日のトークだけみれば、正直言って馬鹿みたい(!)だったけど、「三浦雅士という人は本当に凄い文芸評論家なのだ」ということも、念のためにひと言いっておきたい。『青春の終焉』ただ一冊を読むだけでも、誰だってその偉さが分かる筈だ。もしも、あれだけ優れた評論集が一冊でも書けるならば、それだけでもう、間違いなく、人として生まれて来た価値があるといえる。それくらい刺激的で、鋭い洞察に溢れた作品だ。