バレエ『盤上の敵』

一つの小説を原作として、二人の振付家(上島雪夫、服部有吉)が、それぞれ違ったダンスを演出することが話題となった公演。

とりあえず、ざっと感想を…。
※一度観ただけの記憶で書いているので、かなりいい加減なところがあるかもしれません…。


公式サイトより引用すると、

クラシック・モダン・ジャズ・コンテンポラリーとジャンルを超えた活躍で注目の振付家上島雪夫が、芝居やショーの魅力がダイナミックに融合した演劇的ダンスで、ミステリーの謎を解き明かす。国内外で活躍するトップダンサーが集結し、夢の共演が実現。
西島千博(スターダンサーズ・バレエ団)
遠藤康行(ベルギー シャルロワダンス)
平山素子/藤井美帆(パリオペラ座バレエ団)
森山開次/平野亮一(英国ロイヤルバレエ団)
張縁睿/佐藤洋



本公演で鮮烈デビューを飾る驚異の200度開脚ジャンプを誇る服部有吉が、世界的な振付家ジョン・ノイマイヤー仕込の究極のコンテンポラリーバレエで、スリリングな盤上の心理を表現。ヨーロッパの最高峰、ハンブルクバレエ団の精鋭ダンサーを率いて来日公演。
服部有吉(ドイツ ハンブルクバレエ団)
ヨハン・ステグリ(ドイツ ハンブルクバレエ団)
エレン・ブシェー(ドイツ ハンブルクバレエ団)
ゲイレン・ジョンストン(ドイツ ハンブルクバレエ団)

となります。

公演パンフレットに寄せられた原作者の言葉には、「『盤上の敵』は、圧倒的な「黒い心」と、それに理不尽に傷つけられる「白い心」を描いた寓話」であり、今回の公演には、「音楽とダンスの形を取ることにより、物語の中核にある寓話的部分が見事に立ち上がって来る」こと、「自分の小説を元にして、また別個の、優れた創作が生まれる」ことを期待する、とあります。


実際に観ると、確かに、どちらのダンスも、それぞれ原作からは大きく離れ、物語の筋の上でも人物造形でも、全く別個の作品となっていました。
特に、「白い心」の表現において、その差は際立ったように思えます。


まず、服部演出には「白のクイーン」こと友貴子が、あまりに自己の内面に閉じこもり、自分自身を責める事への演出者の苛立ちが感じられ、《過去や苦痛に打ち克って、未来へ向かう意志を持たなければ》という強い主張があったように思われました。


白のクイーンの飼い犬のエピソードを強調。
クッキー(白のクイーンの愛犬)の死体を忌まわしい過去や悪意への怖れの象徴として、それにすがり、逃げ込んでしまう白のクイーンを、白のキングが未来へと歩き出させようとする構成。


原作との最大の違いは、白のキングの白のクイーンに対するアプローチにあります。
原作では、白のキングは白のクイーンを受け止め、支え、癒そうという柔らかいアプローチを取ります。「第三章 白のキングはしり取りのことを思い出す」が、その好例でしょう(ちなみに、その遣り取りを思わせる場面は、服部・上島どちらのバージョンにもありません)。
一方、服部演出だと白のキングは白のクイーンを励まし、支え、時には叱り、遂には苛立ち、すがりつく白のクイーンを振り払って歩み去って行こうとさえするのです。


また、クッキーが黒のクイーンによって殺された後、間を置かず、すぐに白のキングが駆けつけるのも面白いところ。
服部演出の『盤上の敵』においては、原作において白のクイーンが黒のクイーンに踏みにじられた後過ごした、数年の「しゃべれる人なんて、この世にいないと思っていた」という時間が無いのかもしれません。


その演出の性格を一言で言えば、つまりは、《若い》ということなのではないでしょうか。
潔癖で、未来への信頼と自信に溢れ、我侭で、前を向いて歩こうとしない者に苛立つ。
それは、輝かしい才能を持ち、明らかなハンディキャップ---他の日本人ダンサーと比してもひどく低い身長---を乗り越え若くして成功し、おそらくは痛切な《余儀ないこと》をまだ経験してはいないのであろう、若干二十三歳の演出家兼主演ダンサーの心の姿の、素直な反映なのかもしれません。


なお、その才能は他の場面の描写にも遺憾なく発揮されています。
例えば、黒のクイーンとキングによる白のクイーンの陵辱の場面。
優雅で滑らかなバレエの動きなのに、おぞましい残酷さが見事に伝わってきます。
そして、黒のクイーンが白のクイーンを蹂躙する場面では、確かに白のクイーンが後に語った、「あの子は、自分が何をするか怖かったんじゃないでしょうか」という想いが感じられる。「食ってしまいたい」とまで思うような、《そうせずにはいられない》という衝動。
共に《準備体操》を連想させる、冒頭の黒のクイーンと黒のキングの絡み合いと、愛犬を失い自らを責める白のクイーンを白のキングが支え、いたわるようにして誘う踊り。一方は共にその欲望と衝動をもって何者かを踏みにじるための準備であり、一方は、忌まわしい過去や悪意を乗り越え、未来に眼を向けていくための準備。その対比は鮮やかに観る者の心を捉えます。


そこには確かに、原作とは「また別個の、優れた創作」があったと思います。
即ち、白のキングの人物造形に結晶された、その《未来へと向かう意志》こそ、この演出家にとっての「白い心」なのではないでしょうか。

(■8/17追記)
・・・この「白い心」については、原作の解釈の問題と絡めて、この文章の最後でもう一度触れたいと思います。
服部有吉のもう一つの大きな苛立ち---盤上に並んだ駒は、一方がどこまでも《黒》で、一方でどこまでも《白》、そんなことがあるのか---ということについても、そこで考えることになります。

一方、上島演出は白のクイーン、黒のクイーンという両陣営の最重要人物を、それぞれひどくつまらない、単なる被虐者と虐待者にしてしまっていたように思えました。
必然的に、白のキングはありがちな、《傷ついた恋人を守る"白馬の王子様"》になるし(ご丁寧に、白のダンサーなる従者までいる)、黒のキングも子分を引き連れたヤクザ者に堕ちる。


正直に言って、こちらについては、あまり書きたいことがありません。
白のクイーンに出会うなり、猛烈かつ性急にアタックする白のキングだとか、それにあっさり応じて、あれよあれよという間に白のキングとあっさりベッドにしけこむ白のクイーンだとか、相手を突き飛ばしてばかりいるだけの半端な不良の黒のクイーンだとか(更に、それに対して白のクイーンが今にも殴りかかりそうな、あるいはもっと物騒な決意を固めていそうな眼で睨みつける)……。
原作とはおよそ似ても似つかない彼らが、一体どういう解釈と発想から出てきたのかよくわかりませんし、そうした変更を加えることで、一体どこが面白くなったのかもさっぱりわかりません。


ただ、唯一、「黒のダンサー」の一人、森山開次という人の踊りが素人目にも鮮やかで、その姿を観ている時だけは純粋に楽しめました。
舞台の誰よりも鋭く、激しい動きは、しかし明らかに完全にコントロールされ、抑制されていて。それが、自分でもどうにもならない、身の内から湧き出してくるような、他者の痛みを喰らわないではいられない飢えを現しているように思えました。
何か、この人が出ている他の作品を観てみたくなる、そんなダンス。
この公演を通じて、ダンサーとして一番印象的だったのは、この人でした。



ここで、バレエ『盤上の敵』を離れ、北村薫『盤上の敵』についての、私の考えを少し書きます。

この作品は「圧倒的な「黒い心」と、それに理不尽に傷つけられる「白い心」を描いた寓話」であるのですが、ここで一つ、興味深い点があると思います。

それは、

「これが《我々》と《我々を貶め、生命を奪おうとするもの達》との、二元論的戦いであるとするなら、盤に置かれた黒のクイーンこそ、兵頭三季に外ならない。
 最も恐るべき駒を、いかにして排除するか。---これは、そういう勝負なのだ。」
(ハードカバー版P280)


という考え、末永が自らに言い聞かせたこの考えは、「黒い心」に属するものであるということです。
それは、末永が"あえて"戴いた神話であるから。

「彼女が、なぜ、友貴子を壊そうとするのか。

 部族対立で多くの人々が虐殺される、アフリカの国家では、民族を、優越なるものと生まれながらにして劣等なものとに分ける神話が流布しているという。神が、そうお造りになった。、つまりは、人には殺してもいい側と、殺されても仕方のない側がある---というのだ。

 躍起になって、その《神話》を、もみ消そうとしても困難らしい。人々が、信じたいと希求するからだ。

 三季の内にも、そういう神話があるのだろう。そして、神話を戴けば、《普通》の人間も三季になり得るのだ。」
(ハードカバー版P269) 


《神話》を戴いた人間。それは、『夜の蝉』に収録された、「朧夜の底」の白い顔の人間を突き詰めたものです。
そして、「朧夜の底」の《私》の時とは違い、それはこちらに、自分自身よりも大切な、何をどうしても守らなければならないものに襲いかかってき続けました。
だから、それに対する末永も、《神話》を戴かざるを得ませんでした。チェスの神話。白と黒の二元論。心を殺し、無機的なイメージの中に埋没させる《神話》。
そして、悲壮なのは、「《神話》を抱く」ということの意味を、末永があまりにもよく認識してしまっていること。
それが、この作品の哀しさの最大の要因です。そうするしかなかったということが。

「基本的に、人が喜んでいるところを見るのは気持ちのいいものだろう。その筈だ。そういう絵を、この手で作れて嬉しかった」
(ハードカバー版p43)

と語る末永にとって、その《神話》を戴くのは耐え難いことだった筈です。
しかし、その耐え難い、しかし、やらなければならないことをやれたのは、そしてしてしまった後も生き続けることが出来るのは、友貴子が---白のクイーンがいるから。それが、彼女とこれ以上なく繋がる行為であったから。
だからこそ、友貴子は、その《神話》の盤上に置いて、白のクイーン---最強の駒---であるのです。その駒が存在するからこそ、そのためにこそ、白のキングは戦うことができた。

「裁きが必要なことはある。罰すべきことはある。しかし、相手がどんな人間であろうと、自分にその権利がある、などとは思わない。やるしかなかったのだ。それが、自分の中にも、三季や石割がいることの証明かも知れない。そう思うとたまらない。
 けれども、---友貴子の行為は、どんな神にも許される筈だ。でなければ、神の方が間違っている。それと重なる行為をし、その一点において、---誰にも出来ぬ形で友貴子と繋がった。

 ごまかしであろうと、そう信じよう。---そう信じれば、生きて行くことが出来る。

 見上げると、天はひたすら暗い。

 だが明日になればオリオンが、星も凍るような夜空に、一際、鮮やかに輝くかも知れない。」
(ハードカバー版P296)


では、「白い心」とはなんであるのか。
それをうかがわせるのが、第三部中盤戦・第三章「白のクイーンはしり取りのことを思い出す」です。

相手を順々に崩し、追い詰めていくチェス-----駒は段々と盤上から取り除かれ、冷たい黒と白の升目だけが広がっていく。それは冷たい引き算の世界。

相手の言葉を受け止め、つなぎ、共に繋げてゆくしり取り。言葉は様々なイメージを呼んで、どこまでも広がっていきます。それは、心から心へと交わされるキャッチボール。

「言葉というのは面白い。音の響きが、そのものを頭に浮かばせる。それが、ここでは戦いの道具になっている。」
(ハードカバー版P136)

「これでどうだ、と思う。不思議なことに、壊れ物のようで、触れにくかった友貴子に近づけそうな気がして来た。言葉で、二人は、危うく繋がれている。」
(ハードカバー版P139)


その言葉の連なりを幾つか抜き出してみます。

 


(末永の言葉)

(友貴子の言葉)

「林檎」 「氷」
「栗鼠」 「掏摸」
「陸橋」 「瓜」
リンドバーグ 「栗」
「リュックサック」 「鎖」
 「リスク」 「薬」
「理解」 「いかり(碇、怒り)」
「臨時」 「しおり」

 

「林檎」。生命の象徴。暖かい、輝く色彩。

⇒「氷」は、冷たく、固い。

 「栗鼠」。木の実を運び、カリカリと食べ、その中で新しい木の芽生えを助けたりもする。

⇒「掏摸」。持っているものを、運ばれるものを途中で盗んでしまう。

 「陸橋」。橋は、谷を、溝を越えて岸を繋ぐ。

⇒「瓜」は・・少し下世話な連想だけど、繋がることによって、破れる。そのことは、友貴子の過去の忌わしい出来事とつながります。

 「リンドバーグ」。海を、隔たりを越えて、飛んだ人。

⇒「栗」。刺でいっぱいの殻。簡単には開いてくれない。

 「リュックサック」。旅の必需品。出発のイメージ。

⇒「鎖」。縛るもの。逃がさないもの。束縛。

 「リスク」。危険を乗り越えて、何かを掴み取る。

⇒「薬」。・・・シクトキシン、シクチン。

 「理解」。相手を知ること。近づくこと。

⇒「いかり(碇)」。固く留められ、動けない。

 「臨時」。一時的なもの。やがて、元に戻る・・・。

⇒「しおり」。一度、本を読むことを切るもの。でも、またそれは開かれる・・・。



繋がりたい、続けたいと思いつつ、どうしても逃げてしまう友貴子の心。
それを優しく受け止め、手を差し伸べようとする末永の心。

こうした心の在り方こそが、原作における「白い心」であると、私は思います。

■8/17追記

もしも、原作のテーマに忠実に沿って、身体的表現として象徴的にバレエに翻案するのであれば、白い心を蹂躙する《黒》に対置される《白》は、しり取りの場面をベースにして描かれる他はなかったと思います。


静かに、柔らかく一歩一歩、距離を縮め、凍りついた心を溶かしていく白のキング。
それに応じたい、すがりたいと願いつつ、踏み出せない、心が、体が閉じてしまう、白のクイーン。


その、白のクイーンの苦悶----苦しみとともに、そこには同じく心の奥から湧き出す喜びがある---と、白のキングの優しい忍耐---抑え込まれる苛立ちともどかしさ、しかし、それを遥かに上回る、この世に二つとない宝物をみつめる想い---が二つの身体によって現されたなら、それは、どんなに美しいものになったことでしょうか。


そして、それに続くのは、白のクイーンが白のキングと運転を替わり、車で川原を走る場面。
《嫌だから、逃げたいからこそ、やる》---『スキップ』の真理子に通じる、白のクイーンが本来持っている、強い《意志》。
それは、白のクイーンが、生きるにはあまりにも弱い心しか持たない存在などでは決してないことを示す場面です。


そして、その強さこそが、黒のクイーンが白のクイーンと出会ってしまったとき、渇きと飢えを抑えられない理由。
相手に捉えられ、壊されてしまったのは、白のクイーンだけではありません。黒のクイーンもまた、白のクイーンに出会ったことで、その飢えと渇きは自分でも決して抑えられないものとなってしまった。
兵頭三季は、友貴子に出会ったことによって、黒のクイーンとして孵化した。自らが、黒のクイーンであることを知ってしまった。画家が、求める画題に出会った時、自らが画家であることを知るように。『冬のオペラ』の巫弓彦がある時、自らが《名探偵》であることを知ったように、兵頭三季は自らがそういう存在であることを知ってしまった。


それが、本来の原作における、白のクイーンと黒のクイーンの物語なのだと思うのです。



・・・ですから、服部有吉のもう一つの大きな苛立ち---盤上に並んだ駒は、一方がどこまでも《黒》で、一方でどこまでも《白》、そんなことがあるのか---には、それを初めに見て取ったとき、まずあったのは、「違う!!」という思いでした。
傷つけられ、踏みにじられたものが、相手を完全な悪=《黒》とみなして排除しようとすること、それが《白》なのではない。 
その苛立ちは、対象を見誤っている。


しかし---その苛立ちの結果、おそらくは《そんな二分法は許せない》という想いから生まれたのであろう、服部有吉が舞台の上に創り出した作品は、確かに輝くもの、価値あるもの、美しいものだと思えました。思わされました。


白と黒が入り乱れる中、段々と純白の衣装が汚れていく白のクイーン。
そして、白のキングではなく、汚れた白のクイーンが、黒い双葉を引き抜き、黒のクイーンとキングを殺す。
・・・白のままではいられず、自ら罪を犯す白のクイーン。


白のクイーンに向ける憎しみの中には、確かに憧れが潜む。
一人静かに小さな動物と向き合うときには、決して《黒》などではない貌をみせる。
・・・人の苦しみや痛みを貪り喰らうためだけに生まれた化け物などではない、複雑な屈折を持った一人の《人間》として描かれた黒のクイーン。


そこにあったのは、確かに、本来の原作にも抗して立つだけの力を持った、一つの創作。
そして、それは単なる原作の作者の意図に沿った解釈などより、遥かに価値のある美しいものなのではないか。
その作品を見て数日が立ち、最初に感じた「違う!」という私自身の苛立ちから少し距離を置き、それを一つの創作として改めて思い返す時、次第次第にそんな思いが強くなってきています。