『THE 有頂天ホテル』〜面白いけど、中途半端。《映画》が《映画》であるがゆえに持つべき面白さについて。

品川プリンスシネマのレイトショーで、三谷幸喜THE 有頂天ホテル』を観る。

手際よく複雑な物語を処理する手腕と、しかし、余りにも《映画的でない》フィナーレの処理

作中で明示されている通り、正にいわゆる"グランドホテル形式"の、ドラマ性をちょっと強調した喜劇。
この形式をうまく処理する手腕は勿論、並大抵ではないけれど(実はそれも、あまりに"手際が良過ぎる"。これについては後に詳しく書く)、やはりラストがどう見たって映画の文法ではない。意識して無視しているにしては特にそのメリットが感じられないようにも思う。直せない欠点なのだろうか???

また、「うまく処理はしているものの、最後に一つに大収束は見せないのが残念だ」というのは、余りに無理な要求か。井上ひさしの小説『十二人の手紙』のような構成は、並ぶもの無い喜劇の天才ならではの奇跡で、三谷幸喜はやはりその域には到底及ばないのか、とも思う。ようするに、個々の登場人物が抱えた問題が各自バラバラに解決されてしまっている。また、せっかく「新年を迎える瞬間」という冒頭から強く提示された《時》があるのに、「まさにその時」に終わらせないというのは散漫だと思う。

更に言えば、ラスト近くまでは全く同じで、最後のまとめだけ他の人がやれば、相当マシになったのではないかとも思う。例えば、それまでと同じようにしっかりと画面の中心にその時その時の視点を担う人物を映すのではなく(そうするから話が断片の組み合わせのまま終わってしまう感が強い)、人が迎え、人が迎えられる《ホテル》そのものを描く------端的に言えば視点を少し離した上方を流すようにして、カメラが行き過ぎるうちに手早く各々のドラマのエピローグを描いていけば、まだしも良かったのでは……。
もはや明らかな欠点を補うべく、物語の着地点だけは他の脚本家だか監督だかの助けを借りたほうがいいんじゃないかな、この人。はっきりいって勿体ないと思う。


《各自の物語が交錯する瞬間》の余りに《映画的でない》地味さ、パッとしなさ


なお、「各自バラバラに解決」と書いたあたりが誤解されると嫌なので、一応、念のため書いておくと、一貫したテーマは明確にあって、それが形として繋がってもいる。要するに、「本当のあなたを諦めないで」ということ。香取慎吾の元に戻る三つのアイテム、特に"幸運の人形"の遍歴などは最も象徴的だが、他の全ての主要な登場人物もそのテーマに応じた各々のささやかな解答を得ている。例えば、佐藤浩市篠原涼子の「これ見ると、安心するの。がんばれるの」「ここまで自分を晒せるのは凄いな」といった会話、自分が道化役を演じてしまっていたことを思い知らされた役所広司原田美枝子がかけた言葉などは、明らかに------露骨過ぎるくらいに-------それを示している。


ただ、各々の物語を生きる人物達が《交差する瞬間》があまりに地味で、パッとしない。だから、それは単なる問題解決とストーリー進行のための《接触》に見えてしまい、《交差する瞬間》のインパクトが足りず、ただ共通のテーマで上から紐を垂らして人物達を結び付けているように思えてしまう。だから、「各自バラバラ」だ、ということ。
テーマに斬新さは勿論、深みがあるわけでは決してないので、その地味さは------特にこれが《映画》、それも年末年始の《時》を扱い、その《時》に公開された映画------であることを考えると、それが三谷幸喜の明らかな意図であり、作風であるとはいえ、欠点というほかないと思う。


加えていえば、佐藤浩市が「俺は自分に嘘をつかずに、生きたいように生きてみせるんだ!」という声に「あの女のいったまんまだろうが!」と半畳が入ったり、生瀬勝久がカッコいいまま終われなかったり、アヒルのダバダバが、それぞれの夢が決して天に輝くようなものではないささやかなものであることを象徴していたりするのが、《洒落た》《大人の》コメディという要素なのだとは思うが、その苦みは一方に《交差する瞬間》の華やかさが輝いてこそ味わいが深くなるものではないだろうか。


「役者の一般イメージ通りの持ち味を活かす」に留まる演出の限界


そうした作品全体の《浅さ》は、豪華なキャストにそれぞれ正にその人の一般的なイメージに合った役柄が振り、彼らの持ち味を活かすという三谷幸喜のスタイル------逆に言えば、条件を整えればとことん監督が《自分の世界》を演出できる映画の力をもって、優れた役者に隠されたその意外な一面を引き出すべく《役者に挑戦する》という方針をあえてとらないことと深く関連しているとも思う。
この映画において突出してYOU演ずる売れないシンガーの姿が輝くのは、所詮、他の役者がその役者がごく普通に出せるレベルの力を要求されているのに留まるのに対し(しかし、的確に役者が世間で持つイメージ通りの役を配する手際は素晴らしいとしかいいようがないのは勿論だ)、この役にだけは、特別に深く役者の魅力を惹き出す要求が多少なりともされており、役者もそれによく応えたためだ。
なお、篠原涼子が印象的なのは、それとは全く事情が異なる。それは、ありがちで凡庸な役の振り方にも関わらず、おそらくは生涯に何度も訪れない《時》を今その身に持っている、役者自身の裡にある輝きが滲み出て来ているためだ。あれは決して三谷幸喜の功績ではない。

三谷幸喜が「優れた脚本家ではあるが、優れた映画監督ではない」二つの理由

つまり、三谷幸喜が「優れた脚本家ではあるが、優れた映画監督ではない」といわざるを得な理由は、フィナーレの全く映画的でない処理と共に、より深刻な問題として、彼が映画監督が持つことが出来る大きな権力を振るおうとしないことにある。
役者のイメージをそこなわせずに気持ちよく演技させる柔らかな演出技法と、大上段からテーマを押し付けない控えめなテーマの出し方は、《映画》においては巧さよりも、その限界をより強く感じさせてしまうのだから。それはそのまま、この『THE 有頂天ホテル』を決して映画として傑作とは思えない理由でもある。

なお、「より深刻」というのは、「フィナーレの処理」は単に技法的な問題と、「これは《映画》だ」という多少の割り切りでなんとかなるものであるのに対して、後者の問題は、既にTVの脚本家としては、おそらく日本最高のレベルにある三谷幸喜の最大の武器が、そのまま真に一流の映画監督となるための最大の障害となっているから。
三谷幸喜という人は、果たしてこの壁を越えられるのだろうか。